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【合戦解説】安祥合戦〜小豆坂の戦い〜 松平 vs 織田 〜 三河国をひとつに纏めあげた 松平家当主 松平清康の突然の死に 三河の国衆や地侍らに動揺と狼狽が襲った 〜

2024-04-13 06:55:28 | 織田信長

【合戦解説】安祥合戦〜小豆坂の戦い〜 松平 vs 織田 〜 三河国をひとつに纏めあげた 松平家当主 松平清康の突然の死に 三河の国衆や地侍らに動揺と狼狽が襲った 〜

時は戦国時代 中期

大永3年(1523) 西三河 安祥の地に拠点を置く 松平宗家当主 松平信忠は 度重なる悪政により失脚させられ、信忠の嫡子 清康が 12歳の若さで家督を継承し 当主に就いた。 誰もが清康の器量を心配したが しかし 生まれ持つ才覚はすぐにも開花した。 就任 翌年の大永4年(1524) 宗家と対立する大草松平家の松平昌安を武力で屈服させると、距離を置いていた 各地の一族が次々に 清康に従いはじめた。 清康は 岡崎の地に城を築き新たな拠点とすると、三河国主の座を大望と定め 駿河 遠江の今川氏親死去を契機に 東三河侵攻を開始。 今川の援軍が期待できない状況に 東三河の国衆らは 次々に松平の軍門へ降り、唯一抵抗を続けた 熊谷正直の宇利城攻めでは 清康の叔父 松平親盛を失うも力攻めで落城させ 三河平定を成した。

その躍進の傍ら 隣国 尾張国では 守護 斯波氏の衰退に伴い 守護代の清洲織田家内で争いの火種が生じる。 きっかけは 清洲織田家 三奉行のひとつ 勝幡城主 織田信秀の台頭であった。 津島湊での交易で得た財力に 信秀の生まれ持つ器量が加わり兵力では主家である 清洲織田家を凌駕する国衆に成長していたのだ。 それを妬む 奉行衆 小田井織田家 当主 織田寛故は 密かに松平清康と通じ、信秀が 美濃の遠征で尾張を留守にする間に 松平勢とともに尾張を征圧し 己が守護の座につく下剋上を画策した。 松平清康は 織田寛故の要請に応じ挙兵。 信秀の弟 織田信光の守る 守山城を最初の攻略地と定め 城攻めを仕掛けるも、その陣中で 家臣 阿部正豊によって殺害されてしまう大事件が起きてしまう。 かねてより 松平宗家の座を欲していた 清康の叔父 松平信定の手により 清康の嫡子 竹千代が討たれることを危惧した阿部定吉は 岡崎城から竹千代を連れ出すと 縁者を便り三河を出奔。 竹千代を逃した松平信定であったが 我こそが当主であると訴え 混乱する一族を束ねるべく立ち上がった。 一方 攻められた織田信秀は 松平への仕返しの前に、まずは同族の切り崩しが先であると捉え 策を練り始める…

 


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