文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

即座に世界最高の学者の一人である古田博司氏の見事な朝鮮半島(中国も)=古代の専制国家論を想起した…彼らは分業が出来ない…

2018年12月19日 11時36分26秒 | 日記

以下は、2011-06-15に、私が生きる確率25%と宣告された大病を患って7ヵ月の入院生活を送っていた病室から発信した章である。

私が小倉千加子氏を当代きっての人と認めている事は既述の通り。

文中黒字化と*は私。
「お代は見てのお帰りに」 小倉千加子
田中角栄が生きていれば、今年93歳になる。大正7年5月4日生まれの田中角栄は平成5年、75歳で静かにこの世を去っている。
今から思えば早すぎる死である。しかも、脳梗塞を患って9年近くも言語を失ったままの無念の死であった。昭和49年の田中退陣から30年以上の歳月が過ぎた今、田中角栄が出した「退陣声明」の一節を思い出す。
「わが国の前途に思いをめぐらすとき、私は一夜、沛然として大地を打つ豪雨に、心耳を澄ます」「沛然」は雨が激しく降る様子を指す。田中角栄は雨の音を聴くのが好きだったという。この時、角栄56歳。
54歳で当時戦後最年少の総理になったが、「文藝春秋」に掲載された二つの金脈批判記事がきっかけとなって、激しい田中弾劾の世論が巻き起こった。角栄はニュージーランド、オーストラリア、ビルマを歴訪する。
毎日新聞の田中番記者であった馬弓良彦氏は「田中政権の命脈は尽きた。帰国後に決断するだろう」と、若手記者に退陣決定のニュアンスを伝えている。
「心耳を澄ます」の中の「心」は、金権批判と国政混乱の責任をとって辞任を決めた田中を「惜しい人物だ……」と語った安岡正篤氏が添削して入れている。
「心耳を澄ます」とは平常心が存すること、つまり辞任に当たっても心にゆとりがあることを示したものである。
総理には心にゆとりがあってほしいと願うのは、「人間性に問題がある」と言われる総理(*民主党政権の菅直人の事である)を目下戴いているからではない。
総理であろうと社長であろうと野球の監督であろうと、人は心にゆとりがない上司を尊敬できない仕組みになっているからである。
馬弓氏は『戦場の田中角栄』(毎日ワンズ)の中で田中角栄の子ども時代を紹介している。
新潟師範学校を出て西山町の二田尋常小学校に赴任し、4年の田中角栄を受け持った金井先生はお寺に下宿していた。西山町付近はマツタケを産する。
ある日、金井先生が昼休みの雑談で、「マツタケを実家に送ってやりたいなあ」と呟いた。
「昼休みが終わって授業がはじまろうとしたとき、角栄級長が教員室にやってきた。なんとミカン箱二つに溢れそうになっているマツタケの山を級友とともに持ちこんできたのである。
角栄級長は昼休みにクラス全員を集めて、『先生は親孝行だ。マツタケを実家に送りたいと言っているのでみんなで手分けして集めようではないか』と提案したという。
たちまち五十人の生徒が裏山へ分け入ってマツタケの山が築かれたというわけだ。
ビックリした金井先生が、『いや、集めてくれたのはありがたいが、なんとしても多すぎる。どうやって家に送ったらいいかわからないよ』と言うと、角栄級長は憤然とした。
『何を言うんだ先生、どうしても全部送ってください。家で使えなければ近所、隣りに分けるだろうに』
一本とられた金井先生は、角栄少年の言う通りにマツタケを全部送った。その後、休暇で実家に帰った金井先生は驚いた。
確かにマツタケは家ではとても食べ切れなかったのだが、角栄が予想した通りに『隣り近所や知人におすそ分けをして大喜びされた』と先生の両親が言ったのである。
『負うた子に教えられた心境でしたね』」
角栄は小学4年で「分配」の意味を知っていた。
その心にはゆとりと情と実があり、「委員」の名を分配することとはまったく異なるものである。
*私は、この章を読んで、即座に世界最高の学者の一人である古田博司氏の見事な朝鮮半島(中国も)=古代の専制国家論を想起した…彼らは分業が出来ない…


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