以下は前章の続きである。
自著のタイトル『蘇武の賦』はソ連抑留11年の境涯を、前漢の武帝の時代の名臣、蘇武の運命に重ねたものである。
蘇武は使者として匈奴に派遣されたが、捕われて抑留され、穴蔵に放置されるなど虐待されたが節を曲げず、19年後に帰還した忠臣である。
三友一男軍曹は731部隊ではなく第100部隊の所属だった。
第100部隊は正式には関東軍軍馬防疫廠といい、軍馬にかかわる防疫と鼻疽菌などの研究を目的としていた。
三友はコムソモリスクに抑留され、シベリア「民主運動」にかかわるうちやがて積極的なアクチーヴ(活動家)となって各地にオルグに行くまでになっていた。
アクチーヴは、日本ではなくソ連を「わが祖国」と呼んでいたから、ソ連から見れば三友は好都合な人物であったことは間違いない。
『細菌戦の罪』によると、三友は昭和23年10月、MVDから取調べに呼び出される。
取調べの過程で三友は、100部隊での細菌の培養が鼻疽菌の研究ではなく、細菌戦のためだと供述させようとしていることに気づく。
食事などの待遇はよかったというが、アクチーヴとして親ソ的な三友は別に強要せずとも取調べに協力するのだから当たり前だろう。それでも取調官から「今まで供述した通り法廷で陳述する様再三念を押された」というから、MVDは公開法廷で供述を翻されるのを恐れていたのだ。
他の被告と証人も、同様に「法廷で自白を翻すな」と強い圧力を受けただろう。
親ソ派の三友でもモスクワの国立政治図書出版所から(バロフスク裁判の公判記録として出版された『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ、元日本軍軍人ノ事件二関スル公判書類』1950年)について次のように批判的に述べている。
《残念なことにこの記録は、一定の意図の下に、勝者が敗者を裁いた記録ともいうべきものであって、731部隊に関してはいざしらず、事100部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い》
だからこそ自著に100部隊のありのままを書き残しておくことにしたというのだ。
勝者が敗者を裁いた、とは正鵠を得ている。
この稿続く。