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関宿~旧東海道を歩く(14回目)

2011-08-09 15:26:30 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<亀山宿~水口宿
2011年7月30日 14回目

関宿

関宿:東海道五十三次の47番目の宿場 三重県亀山市

東の追分から西の追分へ歩きました。

東の追分
関が歴史に登場するのは 7世紀に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが由来となっています。
慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は 東海道五十三次で47番目の宿場となり、 られました。古文書によると天保14年(1843)には家数632、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次ぎの宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロ)と刻まれています。

 

坂下宿方向を撮影

坂下宿方向を撮影

亀山宿方向を撮影

亀山宿方向を撮影

亀山宿方向を撮影

坂下宿方向を撮影

 

▲浅原家▼


 同家は、屋号を江戸屋と称し、米屋、材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったところからそれ以前の建築年代と察せられる。関町教育委員会

 

 

 

 

▲橋爪家▼

同家は代々橋爪一郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大阪のこうの池家と並び称せられる豪商であった。江戸末期は芸妓の置家として栄えた。街道に面して手摺付の二階妻入り建てであるがこれは明治期の改造で、もとは平入の屋根であった。関町教育委員会

 

 

▲石垣家 辰巳屋▼

初代石垣の杢平(享和二年、一八〇三年生)が朝明郡保々村より来る。二代目杢平は肥料商を始め、後に米穀の販売等を手掛けて明治二四年に当屋敷を建てた。現在中庭には当時の米擂石牛繋石敷石等が利用されている。五代目敏夫は戦後ここで昭和末年まで医業を営んだ。

 

高札場

 

 

▲白玉屋▼

 

白玉屋 三宅家
菓子補、こしあんを澱粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子を『志ら玉』と名付けて、関の戸と並んで人気があった。二階は手摺の付いた中二階がある。関教育委員会

 

奥の大屋根は地蔵院

亀山宿方向を撮影

 

地蔵院

地蔵院 本堂

 地蔵院 鐘楼

 

田中家

田中家は代々庄右衛門を名乗った。六代庄右衛門は亀甫と号し、京都へ遊学し、有名文化人と親交があった。それ等の人たちは田中家を指して関宿田中徳操家と呼んだ。同家は嘉永年間の建築といわれ、表戸はくぐり戸付大戸で典型的な素封家の構えである。

 

田中屋 

 

 

 

 

南禅寺 井口家

南禅寺 井口家
井口家は、屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理を名物とする料亭であった。当時西追分は宿屋が建ち並び旅人がひきもきらず賑わったという。同家は文久の頃の建物といわれ、道路に面して連子格子、塗ごめの中二階があり、料亭の面影をよく残している。教育委員会

 

西の追分

慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は 東海道五十三次で47番目の宿場となり、 られました。古文書によると天保14年(1843)には家数632、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ西の追分は大和街道の分岐点のあたり、東海道、京都方への次の宿は坂ノ下宿で、鈴鹿峠を越えて京都までは19里半(78km)あります。また大和街道は加太(かぶと)越えしてから伊賀から奈良に至ります。

 

      

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