街道ウォーク<旧中山道<加納宿(岐阜駅)~関ヶ原駅
2013年4月20日 19回目
赤坂宿御使者場跡と赤坂港跡
岐阜県大垣市赤坂町
▲赤坂宿御使者場跡
大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来ていた場所
▲赤坂港跡
中山道は江戸と京を結ぶ重要な道で、往古は多くの旅人でにぎわいました。ここ赤坂の宿が宿場に指定される以前は、隣接した青墓が東山道の宿駅として利用され「傀儡(くぐつ)」(遊女)の宿場として特に有名でしたが、赤坂に杭瀬川の渡し場があって、青墓の宿からこの渡し場までの距離が離れていたため旅人の利便性を考え、渡舟を待つ旅人のため赤坂に宿ができました。そのため青墓の宿場が衰退して、赤坂の宿駅がにぎわいました。杭瀬川は昔は揖斐川の本流だったが、享禄3年(1530)の大洪水で水路が大きく変わって支流になってしまい、河幅も細くなりました。しかし赤坂の上流の標高9百メートルの池田山から自然の湧水を集めて豊富な水量を有し、また港としての機能を十分に果し、物資の搬入や搬出はこの港が重要な役割を果たして来ました。一時は三百隻の舟がもやっていたと言われています。このように、にぎわっていた港も大正八年八月、美濃赤坂線の開通にともない、合わせて昭和十三年に下流に水門が建設され、船の航行が困難となって赤坂港も廃絶しました。ともあれ渡し場から発展した宿駅、そして港もその役目を終わり今は跡だけが歴史を伝えています。大垣市赤坂商工会ホームページより
▲杭瀬川の蛍のイメージか?
▼赤坂港
赤坂湊跡に建つ洋風建築の赤坂港会館は、明治8年(1875年)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所でした。現在の建物は復元されたもので、内部は資料館となっています。赤坂湊跡はかつては水運で賑わい、500艘もの船が往来する川湊でした。しかし、美濃赤坂線の開通に伴い、合わせて下流に水門が建設されたことにより船の航行が困難となり廃絶しました。現在は親水公園として整備されています。大垣市ホームページより
☆cosmophantom
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