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加納城跡(岐阜県岐阜市加納丸の内 )~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 05:37:04 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納城跡

岐阜県岐阜市加納丸の内

関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。そして、都市名は関ヶ原合戦前の「岐阜」から「加納」に改名され、岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。Wikipediaより

この後に見えるのは加納城本丸北面の石垣です。岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。石垣の角の部分は「算木積さんぎずみ」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めています。これほど良好に近世初頭の石垣が現存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。平成16年3月 岐阜市教育委員会

▲ 本丸跡は公園となっていて園児たちが走り回っておりました。

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