主人公というものへの先入観[草稿]

2009-04-06 14:25:45 | レビュー系
前にも少し述べたように、もやしもんなどの主人公に関する評価孝之が「ヘタレ」と評価される要因はある程度繋がっていると私は考えている。ゆえに元々は同じ記事の中で言及する予定だったが、あまりに長くなるため分割したという事情がある。ここでは、その原型がどのようなものであったかをとりあえず示しておこうと思う。なお、前半部分は「主人公は個性的であるべきか」の記事とほぼ同じである。



「主人公が個性的であることは、必ずプラスの効果を生むのか?」
そのように問いかければ、肯定する人はあまり多くないように思われる。しかしそれは、踏み込んで聞かれているがゆえに断言できないだけであって、あまり意識していないというのが本当のところではないだろうか。


もやしもん~キャラの魅力と人物配置~」では、主人公沢木の影が薄いと評価した上で、それがかえって個性的な脇役を際立たせるとともに、彼らの様々な立ち位置を読者に選択しやすいようにし、結果として様々な人が話を楽しむことを可能にしていると述べた(もちろん、主人公が個性的だからと言ってそのあり方を必ず受け入れなければならないわけではないが)。


わざわざそのようなことを書いたのは、欄外に掲載されている読者コメントで、沢木の影の薄さというものがどうも批判的に受け取られている印象を持ったからである。なるほど以上のような効果を理解した上で主人公の描き方に関する問題点を指摘するというのならわかるが、「ただ何となく」おかしいと感じるのなら、むしろその違和感の根源を辿ってみた方がよいのではないだろうか(作品は自己を映す鏡)。


このような先入観の問題は、何も沢木に限ったことではない。例えば前掲の「もやしもん~」では人物配置の話(理論的部分)とキャラの嗜好(感覚的部分)を並列させているが、これは理論と感覚が分離して存在するかのような認識、あるいはそのような書き方への批判を込めているのである(「二元論的作品理解の危険性」)。


ところで、このような主人公への先入観の表出がもやしもんだけに止まることは当然なく、ここで扱ってきた作品でも「終末の過ごし方」の主人公やひぐらしの前原圭一への批判を例として挙げることができる。その原因としてはアルマゲドン的振舞を自明のものとするバイアスなどが考えられるが、その結果として主人公の環境要因を分析する能力が欠如するといったことが生じているわけだ。なお、念のため断っておくが、私は「同情できる=分析能力がある」などと言っているのではない。ベタな埋没と分析能力を同一視する愚は避けるべきである…


話を戻そう。
思うに、君が望む永遠の鳴海孝之に対する「ヘタレ」という評価(「君が望むサバイバーズ・ギルト」他)は、主人公というものへの先入観


「孝之は本当に『ヘタレ』か?」と問うのは不毛だが、

それでも主人公というものへの先入観を評価の要因として考慮しておくことは無駄ではないだろう。なお、私はこの先入観に加え一回的、つまりは反復不可能な生が伴う制約[選ぶ快楽から選ぶ苦痛へ]というものを理解する能力が低下しており、かつそのこと自体に気付いていない可能性を考えているのだが、この推測が正しければ、鳴海孝之(主人公)に対する「ヘタレ」という評価は、単に好き嫌いの問題を超えるもの、キャラ的人間関係、シミュラークルに満たされた世界といった環境を強く反映した認識の表れと言えよう。

主人公の評価と「選べない」苛立ち」で書いた「小説のようなゲーム」、「ゲームのような小説」という説明がよりよく理解されるだろう。


記号や暗号の解読ゴッコも結構だが、それしかできないのは残念な話だねえ。

まるで「ヘタレ」という評価が誤であること前提で話が進んでいる。その違和感は正しい。だから「孝之の苦悩を理解するために」といった記事や各シナリオの意味を書き、それもわかってねーで何が「感情移入」じゃボケ!まずその「感情移入」の虚構性を考えろや!という話を最初の方はしていたわけ。まあ罵倒してりゃあそのうち気付くかと。でもそれは北風を吹きつける行為だと考えるようになった。いくら描かれているのなんのと事実、真理を語っても、「でもそう感じるし」と実感信仰に閉じこもられたら意味ないわな。ほたっといて、そのように受容される原因を分析したほうが実りがある。っつーわけで「苛立ちと選べない理由」(受容分析)が出てくるわけですよと。


「究極」の二股ゲーム。「鬱ゲー」「泣きゲー」というパターナリズムに落とし込まずにはいられない認識の構造。


ひぐらし礼のメッセージ[賽殺し編の意図ネタバレ注意]とも結びつく興味深い問題だと考えている

「ヘタレ」という印象を掘り下げる意味。

そしてこのような見地に立つからこそ、当然のように「感情移入」とか言ってるのはあんぽんたんだなと思うわけ。東浩紀が言ったシミュラークル(cf.「白紙の主人公」)への(アイロニカルな)感情移入を考えたとき、細かく状況や感情が規定された、別の言い方をすればオリジナリティーのある(それは個性的ということではない)鳴海孝之が感情移入できない対象として認識されるのは当たり前すぎて興ざめするくらいだ。もしかして「感情移入」なんかねーよ!って言うより、最初からこういう話をしといた方がよかったんか?


さらに言えば、もやしもんの記事で行った理論と感覚の並列は次のような問いかけへと繋がる。すなわち、孝之に対する「ヘタレ」という評価は、そもそも何を言おうとしているのか?と。人物描写が下手だということ?人物配置でミスをしているということ?それとも単にムカツク奴ということ?少なくとも私が見てきた限りでは大半が最後のカテゴリーに入りそうだが、そうなると、ムカツク奴という評価は褒め言葉になる場合があることに注意したい。例えば勧善懲悪の物語においては、いかに悪役を憎たらしい者として描くかが重要だ。ゆえに、悪役を罵るような評価をした場合は、むしろ物語(の人物配置、演出)を褒めていることになるわけである。さてここで、「主人公にそのような感情を抱かせるのはまずいだろう」という反論が出てくると予想される。そこから「感情移入」の問題などへと接続していくわけだが、このようにして評価というものは深化していくのである。


さて最後に。
このように、感覚の前提となっているものを相対化することを嫌い、自分の今の感覚を大事にしたいという人がいるかもしれない。しかし、そのような相対化を行って幅を広げれば、より多くの作品を、より多様な形で楽しめるのではないだろうか。とするならば、感覚を重視するにしても、いやそうであればこそ、楽しみの幅を広げるための前提の相対化は十分に意味があると思うのである。
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