作品に対する「説明不足」という評価について

2007-05-20 23:51:52 | レビュー系
こないだ灰羽白書を見たという話をしたが、その後『灰羽脚本集』も全部読み終わったので、一応の区切りとして書いておこうと思う。ただし今回は、作品などに対する「説明不足」という評価について考え、次で灰羽連盟と「説明不足」について考えることにする。


まず「説明不足」について。以前、説明不足と無駄のなさの時にも述べたが、小説やゲームのレビューなどにおいては「説明不足」の語が使われているのをよく見かける。「説明不足」とは、要するに作中の設定や出来事にもっと説明を入れろ」という要望(文句?)なのだろうが、この「説明不足」という語が無批判に使われすぎていると私は思う。


説明というのは多ければ多いほどいいというものではない。その分量を間違えれば、冗長になったり作者が強調したい内容がぼやけたりしてしまうのである。例えばドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では、「罪と罰」のように事件の少し前から話が始まるのではなく、彼らの生い立ちという根源的なレベルから解き始められている。著者自身による序文から以上の構成が意図的なのは明らかであるが、このように表現したいこと、伝えたいことによって構成・説明の量が大きく変わるという基本的な事実を確認しておく必要がある(その表現意図と表現方法が適切であるかという点に関してはもちろん重要な批評の対象である)。


とすれば、説明について評価する際にはその分量が適切かをよく考えなければならない。しかし昨今ではその視点が忘れられがちであり、「物語を理解したり物語を表現するための適切な説明」がなされているかではなく、「自分が(設定などについて)知りたいことが説明」されているか否かという観点で「説明不足」の語を濫用しているように思える。


それを回避するにはどうすればいいのだろうか?簡単な方法としては、自分が「説明不足」と思う部分が詳しく作中で説明されていたらどうなるかを考えてみることだ。説明が挿入されることによって物語のバランスが悪くならないか?物語のテーマがぼやけはしないか?…要するに、説明によって物語は果たしてよりよくなるかを思考実験をしてみればよい。例えば夏目漱石の「こころ」において、Kの心情の推移や自殺の理由を明示することは果たして得策だろうか?もし説明を入れれば、「こころ」の持つ人間の闇の表現(それこそ漱石の書きたかったものである)は迫力と不気味さを失ってしまうことは間違いない(説明する意味を完全否定するつもりはないが、少なくとも全く別の作品になることは確かだ)。Kの真意は何だったのか?説明がない以上我々はそれを推測せざるをえないのだが、その際におそらく様々な見解が出るだろう。その過程と結果こそは主人公の苦悩の追体験であり、かつ我々が日常の人間関係で味わっていることである。これを通して、我々は人間の心の闇を再認識する。このような「こころ」の表現意図と効果を知ってもなお、Kの真意などを説明すべきと考えるか?またそれはなぜか?そこまで追求して始めて、「説明不足」かどうかを論じることができると思うのである。


我々は情報過多の時代におり、(その真偽はともかく)情報を与えられるのに慣れてしまっている。だがら物語における説明もそれと同じように考えてしまうが、作品とは無駄を削ったり表現方法を統一させたりした結果に生まれる結晶なのであり、そうでなければ単なる「垂れ流し」に過ぎない(この点、限られた時間で話すスピーチの構成をどのように練っているかを考えるとわかりやすい)。我々は、何を説明するのか、何を削るのか、そして説明しないことの意味をも考える必要があるのではないだろうか。



なお、私が言っているのは「行間を読む」という行為とは違うことを強調しておく。
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