主人公は個性的であるべきか~もやしもんの事例より~

2009-03-28 20:46:13 | 本関係
もし「主人公が個性的であることは、必ずプラスの効果を生むのか?」と問われれば、肯定する人は少ないように思われる。しかしそれは、踏み込んで聞かれているがゆえに断言できないだけであって、普段はあまり意識していないというのが本当のところではないだろうか。


もやしもん~キャラの魅力と人物配置~」では、主人公(沢木)の影が薄いと評価した上で、それがかえって個性的な脇役たちを際立たせるとともに、彼らの様々な立ち位置を読者に選択しやすいようにし、結果として様々な人が作品を楽しむことが可能になっている、と述べた(もちろん、主人公が個性的だからと言ってそのあり方を必ず受け入れなければならないわけではないが)。


わざわざそのようなことを書いたのは、欄外に掲載されている読者コメントで、沢木の影の薄さが批判的に受け取られている印象を持ったからである。なるほど以上のような効果を理解した上でなお、主人公の描き方に関する問題点を指摘するというのならまだわかる。しかしながら、必要性や必然性を考えることも無く、ただ活躍していない、影が薄いといったことを述べているのだとすれば、それは問題があるだろう(そもそも「影が薄い=マイナス」という図式が成立するのか、ということも含めてだ)。とはいえ、今述べたことを理解してもらえたとしても、影が薄いことに対する違和感が消えるわけではあるまい。だから私はこのように言いたいと思う。すなわち、主人公の影が薄いのを「ただ何となく」おかしいと感じたのであれば、むしろ「なぜそのように感じるのか?」という問題意識をもって違和感の根源を辿る方が得るところは大きいように思われる、と(作品は自己を映す鏡)。そこから、そもそも「影が薄い=マイナス」という図式が成立するのかといったこと、またそうでないとすれば、いかなる原因によってそのようなバイアスが成立したのか、といった問いが生まれてくると思われる(念のため言っておくが、私は「影が薄い=プラス」などと主張しているのでは無論ない[cf.カルタグラへの批判などを参照])。


このような先入観は、何も主人公に限ったことではなく、キャラの評価方法そのものにも及んでいる。それはつまり、「二元論的作品理解の危険性」という記事でも触れた二分法的理解に他ならないが、前掲の「もやしもん~」で人物配置の話(理論的部分)とキャラへの嗜好(感覚的部分)を並列させているのは、そのような認識、あるいはそのような書き方(評価方法)への批判を込めてのことである。


また、これは当然のことだが、先入観の影響はもやしもんだけに止まらない。例えばここで扱ってきた作品だけでも、「終末の過ごし方」の主人公やひぐらしの前原圭一への批判などを挙げることができる。同一化の対象になりうる主人公には(例えばアルマゲドンのような)英雄的振舞を期待しがちになるといった原因が考えられるが、結果として、主人公の環境要因を分析した上で評価するという行為が等閑視されてしまっているのではないだろうか(ところで、このような分析能力はベタな埋没(=感情移入など)と混同されがちであるように思うが、それについてはいずれ君が望む永遠をサバイバーズ・ギルトという観点から見た記事で触れることにしたい)。


以上のような事柄を念頭におくと、「君が望む永遠」の主人公に対する評価は非常に興味深い…というわけでこの問題を続けて論じるつもりだったが、分量が膨大になるため次の記事で改めて書くことにしたい。


最後に。
このように、感覚の前提となっているものを相対化することを嫌い、自分の今の感覚を大事にしたいという人がいるかもしれない。しかし、上で述べたような相対化を行って幅を広げれば、より多くの作品を、より多様な形で楽しめるのではないだろうか。とするならば、感覚を重視するにしても、いやそうであればこそ、楽しみの幅を広げるために、前提の相対化は十分に意味があると思うのである。
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