君が望む永遠~「ヘタレ」に関する受容分析へ~

2009-03-30 21:01:17 | 君が望む永遠
このブログにおいては、「君が望む永遠」(以下「君望」)の鳴海孝之(主人公)に対する「ヘタレ」という評価について何度となく述べてきた。もっと言えば、そのような評価への批判こそが君望のレビューを書き始めた主要因であり、またレビュー全体に通底する特徴とさえ言えるだろう。 


そこにおいて私は、孝之の行動を縛る文脈がどのようなものであるか、つまり孝之が選べない要因について論じてきた。具体的には、その選択が人の死を招きかねないこと、三年前の負い目、第一章において培われたものなどを指摘しつつ、それがしっかりと描かれていること、つまり推測や深読みの必要はなく、単に心理描写や発言をちゃんと読めば理解できるようになっていると述べた。別の言い方をすれば、私は作品の分析を通して「ヘタレ」なる評価の非妥当性を証明しようとしたのであった。


とはいえ、(「君が望むサバイバーズ・ギルト」他)でも書いたが、このような戦略は全くのところ失敗であったと思う。その理由はいくつかあるが、私自身が「ヘタレ」だとか「感情移入できない」といった評価のあまりの浅薄さにひどく苛立っていたこと、そして「ヘタレ」という評価が理論ではなく感覚に拠ったものである(具体性が無い)ことなどが挙げられる。前者の要因のため私の記事は説得と言うよりは嘲笑の様相を強くすることが少なからずあったし、また後者の要因ゆえ「ヘタレ」の非妥当性を論じたところで大して効果が無かった(あるいは逆効果でさえあった)と今では考えている。よってこれからは、説得ではなく「なぜヘタレと評価されるのか?」という受容分析の視点で書こうと考えているという次第だ(なお、ここに到る経緯は「レビュー回顧」という形でより詳しく述べる予定)。


さて、受容分析に入る前にいくつかの補足をしておきたい。そこにおいては、「なぜヘタレと評価されてしまうのか」という私の否定的な認識を前提としているように見えるかもしれないが、「サブキャラシナリオの害悪」でも述べたように、作品の側に全く原因がないと考えているわけではないし、また私自身、孝之が何度と無く決心を鈍らせたり時には覆しさえしていることや、別れたはずの水月に対して独占欲を剥き出しにする様などを見て苛立ったことは何度もある。


しかしそれでも、50ほどの関連記事で一貫して述べてきたことだが、孝之が選択を躊躇い、場合によっては選べなくなってしまう必然性が本編中で明示されていることを考慮した時、「ヘタレ」と評価するにあたって環境要因の分析や物語における意味(人物配置といった必然性の有無)などへの配慮が、特に他のゲームに対しては理論的な読みを展開しているサイトにおいてでさえ、全くと言っていいほどなされていないのは異常だと思うわけである(もっとも、私が見たレビューがせいぜい20~30という事情も考慮しなければならないが)。


「ヘタレ」という評価がなされる要因を考察するのは、以上のような認識に基づいている。それを理解していただいた上で、次回からの記事を読んでもらえればと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 久々の休みで嵐山へ | トップ | 君が望む永遠~孝之が「ヘタ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

君が望む永遠」カテゴリの最新記事