basic questions about Japanese irreligion

2012-10-19 18:48:25 | 宗教分析

日本人の7割が「無宗教」と答える特異性の説明→アメリカ的物質至上主義が原因では?

ならばなぜ、当のアメリカはキリスト教の一派である福音派だけで三割もいる、という具合に大きく違うのか?先日触れた「アメリカ」の多様性(ex.西海岸とバイブルベルト)の問題もあるにせよ、その差異はどこから生まれるのか?

 

○キリスト教(より大きく言えばセム的一神教)の浸透した世界と東アジアの差異があるのではないか?

二項対立的に論じることがそもそも可能なのか?なるほど確かに、日本ではキリスト教徒は1%程度しか存在しない。しかしながら、韓国は30%がキリスト教徒と言われているし、また台湾にも少なからぬ数のキリスト教徒がいる模様。とするなら、上記の説明は全く成り立たない。逆に政府の宗教政策であるとか、民衆(という言葉は極めて曖昧だが)のキリスト教観は考察の余地あり。たとえば初期の明治政府はキリスト教を邪教として喧伝し、列強から顰蹙を買って取り下げた、という経緯がある(当然、そこには江戸時代からの連続性を考慮に入れる必要がある)。これについても、「抑圧する体制側」といった硬直した視点ではなく、それが教団にどのような影響を与えたのか、また教団がどのように利用したのか、といった相互関係を意識する必要がある(たとえば創価学会)。

 

○多神教、排除と包摂、宗教的帰属意識

多神教としては世界最大の信徒を擁するヒンドゥー教を見てみると、日本人の「無宗教」に関する思いつきの多くは霧散するのではないだろうか。例えばその多様性、他宗教の包摂性、そして宗教的帰属意識・・・もちろんイスラームとの軋轢(cf.パキスタン)を連想する人もいようが、それはイギリス植民地時代の「分割統治」的政策も背景にあり、単純に宗教的特徴の問題に帰することはできない。さて、これらの事実は、「ではなぜ類似の特徴を持つ日本はそうならなかったのか?」という問いを生み出さずにはおかない。たとえば日本は八百万の神を信じているのであって、特定の宗教を信仰するのは馴染まないと言う人もいるが、ヒンドゥー教の事例を見る限り、そのような発想は短絡的であるし、また神道がなぜ宗教的帰属意識と結びつかないのか、ということの説明にも全くなっていない。別言すれば、「日本人古来の信仰」などと言われる神道にスポットを当てるにしても、その特異性を喧伝し、それを日本人の「無宗教」に結びつけるのは不可能である、ということだ。

それならむしろ、いわゆる「国家神道」を中心に据えてその頂点に天皇を置く構造(=天皇を媒介とした国民の統一)を意図したけれども、神政一致では近代国家として体裁が悪いということで憲法上「無宗教」と規定された・・・というような政策上の特異性とその民衆の帰属意識への影響を見ていく方がよほど実りがあろう。たとえば「無宗教」と規定された時すでに生きていた人々はそれを諸外国に対するポーズ(=ネタ)として受け取ったが、その規定がすでに確立した中を生きた後続世代はベタにそのような認識(カテゴライズ)を持っていたのではないか?という具合に。

また、先の問題に戻るが、韓国は果たしてどうなのか?という疑問も出てくる。そう言えば、「日本人のファジーさは主語が省略されるなど日本語のファジーさによく象徴されている」といった意見に対し、『朝鮮語のすすめ』という本は、朝鮮語でも同じ特徴が見受けられるが、韓国人はストレートに物を言うという趣旨のことが書いてあり、非常に印象深かった記憶がある。このような視点は、具体的な事例を通じて閉鎖的な自意識(島国根性)がいかに誤った結論を導き出すのかを示してくれているのである。

 

○日本(人)は、「宗教アレルギー」というより「一神教フォビア」ではないか?

これは同僚のSくん、Wくんと「成ル」で飲んだ時にWくんが提起した意見。彼は非常におもしろい人で、モルモン教の英語教育と布教をかねた集まりにも出入りしているとのこと(その他、彼の父は「モルモン教の家族重視の考え方は現代社会に必要なものだ」と言っているらしい)。彼自身は信徒ではなく、その信仰の有り様をフィールドワーク的に観察したい、という意図のようだが、原始キリスト教ではむしろ共同体否定的な側面が強かったことも理解しているなど、ナチュラル(?)にメタ視点に立てている珍しい存在。

この見解は、「なぜ神道や習合仏教が宗教的帰属意識と結びつかないのか?」という疑問の答えには全くならないものの、興味深いものではある。たとえば私は「かつての日本でキリシタンや一向宗が広がった理由をどのように捉えるか?」と問うた(戦国時代という文脈の特異性はあるのか否か。要は、その後の寺請制度なども含め、歴史的経過の中でのパラダイムシフトの可能性を考えたい)。彼の答えは、「果たして一神教として理解していたのか?→マリア観音など」、「キリシタン大名が戦略的に改宗を選んだという側面は?」というもの。確かにそのとおりだろう。後者は東南アジアの商人たちがイスラームに改宗していったことなども連想させる。しかし前者についてはやや引っかかりがある。たとえばゲルマン人は、偶像を使ったキリスト教布教を元にどんどん改宗していったわけだが、これはどう捉えるのか(そういやクローヴィスくんは戦略的にアタナシウス派へ改宗したんだっけ)?彼らは、始めから、一神教のエートスを正確に理解していたのであろうか?そうでなかったとすれば、キリシタンとの差異は一体どこに見いだせるのか?といった具合に。またキリスト教が土着の信仰や祭りを時に弾圧しながらも変化させつつ取り入れていったことも思い出される。なお、一向宗(浄土真宗)については、阿弥陀仏以外を拝まない(=集合仏教の枠にはまらない)宗派として時に「一神教的」と称せられることもあるが、これも地域性がある。というのは、「篤信地帯」と呼ばれる地域では神棚もないし明治初期の廃仏毀釈に抵抗したりということがあったが、他の地域では別にそういう特徴的なことも起こっていない、という具合に(その逆も然りで、阿満利麿の「日本人はなぜ『無宗教』なのか」に書いてある話だったと思うが、廃仏毀釈が熱心に行われた地域では、現在でも仏が拝まれていないのだという)。まあ同じ信徒であっても信仰の篤さに違いがあるのはむしろ当たり前すぎるくらい当たり前であって、それで驚くのがむしろ「宗教アレルギー」たる所以、という部分はあるのだが・・・ちなみに、戦前の天皇崇拝を連想する人がいるかもしれないが、あれは天皇が「大御心」によって様々なものを包摂する(=母性的?)という発想なので、一神教的とは必ずしも言い難い。まあもっとも、「だから余計なことを考えるのは唐心だ」といって作為的なものを否定する排除するベクトルがそこに存在していたのも無視できないが(代表的なのが日本原理社であり、またその中心である蓑田胸喜)。

日本のあり方は「ガラパゴス的」と称され、確かにそれは重要な視点だとは思うが、そもそも外来の宗教なり文化なりが入ってきた時、そのままの形で受容されることが稀なのだ。

 

○日本人の宗教観の変化や、政府の宗教政策と民衆の宗教意識の関連は?

管見の限りで、日本の宗教史という時、江戸時代以降の仏教などについては見るべきところがないとでも言うかのように、切り捨てられていることが多い。それは宗教史が「思想史」として語られていることに起因する限界であるように思える。つまり、扱われるのは内面(極論すれば一部の人間の思想)に終始し、たとえば時の政府の政策が民衆の意識にどのような影響を与えたのか?といった視点が欠落している(『現代日本の宗教社会学』のような例外もあるが)。たとえば、(江戸時代に檀家制度が施行された以上)統計的な数と宗教的帰属意識を同一視はできないが、「文学作品に見る宗教観、宗教的帰属意識とその変遷」といったテーマを立ち上げることは十分可能であるように思える(そう言えば、かつて立教大学に「文学作品に見る当時の結婚観」というテーマを研究している知り合いがいたな・・・)。たとえば、「イワン・デニーソヴィチの一日」を見て当時のソ連の宗教観・宗教状況を窺い知る、というように(そこでは、共産主義の影響とソ連崩壊後のロシア正教を中心とする宗教の復興といった視点、またそれと日本との異同も扱われるべきだろう)。

結論から言えば、「日本の宗教」あるいは「日本人の宗教意識」なるものが本当にそれほどサステナブルなものとして語りうるのか?という疑いを私は持っている。もちろん、時代ごとに全く異なり個々人で完全にバラバラ、などといった正反対の見方が正しいというわけでは全くないが(ちなみに、今まで挙げてきた疑問は全て、「比較を経ない思いつきに理屈付をし、『日本人古来の性質』として正当化する」という行為がいかに容易に行いうるかを示す意図もある→cf.「useful words」)。さっきの「八百万の神」のようなものは特徴とは言えないのか?と考える人がいるかもしれないが、たとえば、全く異なる分野ではあるけれども、『戦前の少年犯罪』という労作を見ると、たった数十年前のイメージでさえ、いかに虚構で塗り固められたものにすぎないかということ、そしてまた過去がいかに忘却され、今日の問題が「現代社会の病理」として強調・特殊化されるかを理解できるだろう。

時代性・地域性、様々な形で顕れた宗教観、体制側の施策と宗教教団・宗教観の関係性・・・そのような視点を前提化した研究が数多く現れることが待たれる。

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3 コメント

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Unknown (今日は真面目なあたいしおみー)
2012-10-19 19:45:08
僕の主観では、日本人の多くは無神論者(atheist)ではなく不可知論者(agnostic)なのだと思っている。
墓前、仏前で合掌するものが自信満々で死後の世界を否定するなどちゃんちゃらおかしい。

また、日本人は占いを信じる人が多い。
占い(占星術など)も神や精霊を信じているからこそのもの。

宗教については長くなるのでまた直に会ったときに話そうぜ。

そんなあたいさいきょう。
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Unknown (ヒゲマニア)
2012-10-20 02:19:43
コメントありがとう。

で、返信の方だけど・・・

>墓前、仏前で~

言っていることは全くもってその通りだと思う。が、なんというかそれが矛盾するとさえ意識してないんじゃないかな。たとえば手を合わせている人に「その人は今どういう状態にいるの?天国?地獄?人間の形をしているの?いないの?」と聞いても、困惑するだけで答えられない人が大半で、答える人についても聞かれて初めて解答の内容を考える、という体なのではないかと(少なくとも昔の俺はそう)。

これはクリスマスやら初詣をイベント化しちゃっているがゆえにその混在を特に気にしない、というのとも繋がると思う。要するに語り得ない世界については判断を保留する、的なレベルまで意識化してないんじゃないかな。

だから非常に曖昧で扱うのが難しいとも言えるんだけど、逆にその無識さゆえに明確な境界線を引こうとするセクト的なものに拒絶反応を示しやすい、という推論はできるかなと(融通無下の包摂と排除が同居する所以?)。

またそれゆえに、日本人の「無宗教」を世俗化が徹底した先の、すなわち脱呪術化を経た「先進的な」ものであるかのように捉えるのは誤りで、言葉を選ばず言えば単に無知で耐性がないだけ(苦笑)これもあえて単純化して言うけど、オウムが広がった背景にもそれがあるし、先の震災の時にドジョウの絵が売れたとかいうのも同じでしょう。

それだってドジョウが地震を起こしてるとか鎮めてくれるとか信じてる訳じゃなくて、要は何かこれで良いことが起こればいいな、悪いことが起きなきゃいいなという程度のものじゃないかしらん(この年に生まれた子はヤバいでっせと言われたら、まあ別に今年産まんでもええし来年でいっか~、つって出産数がた落ちしたのも同じ背景かと)。

でも実はそういう心がけレベルだったりするからこそ、不合理と認識されつつも変えられないと感じられる「空気」と同じで、いつまでも温存し続けて日本を前近代社会たらしめているのではないか、と俺は批判的に見ているんだけどね。

うーむ、どうもこの話題は長くなるな。今さらだけど、もっと突っ込んだ話を直でしたいもんやね( ̄~ ̄)
返信する
hierarchy (noga)
2012-11-08 01:13:36
日本は、天皇を中心とする神の国です。

日本人には日本語があり、日本語には階称 (言葉づかい) がある。
「上とみるか、下とみるか」の判断により序列関係 (義理) を作る。
義理が廃ればこの世は闇と考えられている。

日本人は、礼儀正しい。
日本人の礼儀は、序列作法である。
序列なきところには、礼儀なし。

日本人の社会は、序列社会である。
社会の構成員は、神々と下々に分かれている。
天皇は、序列最高位の人である。

天皇の御前では、全ての国民は「わし」でもなく、「わたし」でもなく、「わたくし」である。
価値観を揃えることで、日本人は一体感を得ている。安心感を得ている。
日本語の無い社会では日本人は価値観に迷いを生じ、心身ともに疲れ果てる。

序列社会では、序列判断とその作法により、人を遇する。
礼儀作法により、人々は向上心を掻き立てられている。
学校でも生徒に「身を立て、名をあげ、やよ励め」と歌わせている。

日本人の社会は、向上心により活気を得ている。
その原動力は、序列競争である。そのための試験地獄もある。
序列人間を作るのが、日本人教育の目的である。

教科の内容は、雑学ていどのものでよい。
日本人の学校は、格差を検出するための道具立てである。
だから、日本人は、序列人間となるために日本の学校で修業しなくてはならない。
四年間、大学で遊ぶことも、また序列作りに必要なことである。
生涯の協力も序列協力でなされるからである。

意思薄弱と他力本願を伴う幼児症に罹っていて、序列の外には出られない。
英国も日本も島国であるが、島国根性になるのは日本人だけである。

移民をすれば、序列社会を出なければならない。
外国では、序列判断も序列協力も成り立たず、日本人は本来の力を発揮できない。
それで、さまよえる日系人となり、精神的な不安定さにさいなまれる。

日系人は、移民先で勢力を拡大することもなく、祖国に帰って国の柱となることもない。
我が国の天皇制は、日本人に心の安らぎを与え、仕事に励ましを与える世俗の上下観である。
我々の過去を語ることもなく、行き着く先を示すこともない。

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