日本人の「無宗教」:仏教形骸化に関する覚書

2013-11-30 17:54:59 | 宗教分析

先日、元部下の結婚式に出席した。また二年半前には、部下の親族の葬式に出席した。
前者で読み上げられる聖書の内容は、現代語訳されていることもあって列席しているほとんどの人が理解できる。しかし一方、後者で読み上げられるお経の内容はほとんど(あるいは全員が)理解できないものである。

 

思えばそれは、とても不思議なことではないか?日本に伝来してからの月日は仏教の方がキリスト教より1000年ほど古いというのに、また葬式が仏式で行われるようになって長い年月が経つというのに、そこで読み上げられるのは、現代日本語ではなく古式ゆかしい漢文で、列席している人間たちはその内容が全くと言っていいほどわからない状態なのだから(まあそれを言ったら神道の祝詞も似たようなものだが)。現状に到った背景はともかくとしても、それが形式化・形骸化をもらたし、宗教的帰属意識の希薄化へとつながったのではないかと考えられる(なお、仏教の形式化・形骸化については、後述する寺請制度や檀家制度もあって、一向一揆や島原の乱を経た江戸初期が契機であると考えている)。

 

そのような事情を考慮すれば、「カトリックとプロテスタントの違いも知らない」どころか、そもそも仏教の宗派、すなわち浄土宗や浄土真宗、いやそれどころか天台宗と日蓮宗の違いといったものさえ意識されないのは当然であるように思える。むしろ(日常の)一体どこで、私たちはその教えを知る機会があるのか、と思う人も多いだろう。そのような状況なわけだから、そもそも何が「仏教」なのかすらよくわかっていないという状況が起こっても全く不思議ではない。その点について日本の習合的宗教意識を指摘する人もいるだろうが、それ以上に実は今述べた(経典や祝詞の)特徴が大きく影響しているのではないか?そう考えてくると、次に「神道」とは何か?という疑問が生じてくるだろうが、その時に体系的な教え・枠組みを知るものがない、ということに気付く(まあ今日では市販の概説本やネットの情報などは溢れているが)。もちろん、そのような視点自体が啓典宗教的なものであって、そもそも神道にはそぐわないものであるが、結果としてその教えはもちろんのこと、理解の体系性は担保されない。これを先の仏教の事情と絡めて考えれば、両者がそもそもどのようなものであるか理解されることもなく、ゆえにその境界線が曖昧なまま宗教意識を形作ることも何ら不思議ではないように思える(これに加えて明治時代の大日本帝国憲法による神道の無宗教化であるとか、帰属意識に関わらない氏子登録システムなども「無宗教」問題に関わりがあるように思うが、それはまた別の機会に)。

 

話を戻すと、それゆえに、仏教に対する理解とそれへの宗教的帰属意識が時代が下るごとに急速に形骸化するのは当然であるように思える。というのは、(後日別途触れる予定だが)それへの帰属意識が個人的なものではなく「家の宗教」であるという傾向を持つわけだが、それはつまり「背景はよくわからないが習慣としてやる儀式」として感得せられているということ(=風景)であり、たとえば旧来の「イエ」の解体に伴って仏教からの距離も離れ、帰属意識が薄れていくのは必然的なことではないだろうか(加えて、そのような変化の一つとして地方から都市への出稼ぎがあるわけだが、そのようにして根無し草的な人々の拠り所として創価学会が急速に発展していったという側面も見逃せない)。

 

日本のみ、あるいは仏教のみで考えるとイメージが湧きにくいので、たとえば先に比較して取り上げたキリスト教を考えてみよう。中世ヨーロッパにおいて、聖書の表記はラテン語(ウルガタ)が基本であった。ゆえに、それを読める人間は少なく(ただでさえ識字率は低かったが、ましてラテン語はなおさらだった)、教会という媒介を通じて人は聖書の内容に触れていた。しかし周知のように、16世紀からの宗教改革で教会を仲介しない信仰のあり方が模索されたため、ドイツ語を始めとした自分たちの日常使用している諸言語に翻訳されることになったのであった(なお、このことによってザクセンの方言が今で言うところのドイツ全体に広まっていき、それが一つの「ドイツ」という共同体の範囲を規定することに寄与した。ウィーン体制に対抗するドイツの1817年のブルシェンシャフト運動が、ルター300年周年にヴァルトブルクの森での集会にて高揚したのは、これを背景としている)。言い換えれば、宗教改革と聖書の翻訳は、宗教の世俗化に貢献したと言うことができる(仏教との比較で言えば、選択の自由が生まれた時にその身近さが重要になった?)。

 

日本でも、明治に言文一致運動というものは存在したが、そこに仏教がどの程度コミットしたのであろうか?あるいは、当時は漢文が今よりも読めたので和訳の必要性が薄かったのではないか?と言う向きがあるかもしれないが、それはあくまで高等教育を受けた人間の話であって、漢文の文法知識を持ちある程度すらすら読める人間がどの程度いたのか大いに疑問である。しかもその中で、特殊な用語を散りばめた仏典にいたっては、どれほどの人間が読解できたのか甚だ疑問と言わざるをえない。やはり、仏教が漢文のままであったことは、それへの宗教的帰属意識の減退に大きく関わっていたのではないか?あるいは、江戸時代の檀家制度と寺請制度で進行していた仏教の形骸化の、促進とは言わないまでも歯止めにならなかった主要因の一つにはなったのではないだろうか?

 

とはいえ、次のような疑問が提示されよう。すなわち、「聖書がラテン語で一般の民衆が読めなかった時代、人々はキリスト教を信仰していなかったのであろうか?」と。すると答えは否であって、それならば、漢文を仮に(現代)日本語訳して流通させたとしても、それが仏教徒を増やす十分条件とはならない(ならなかった)だろう」と。なるほど確かに「経典が読める=信仰する」などという単純な図式は論外だが、先のキリスト今日の場合に関しては、前述のような教会という媒介の存在、そして(イスラーム世界と比べれば明らかな)異教に対する排外的環境(cf.ユダヤ人の扱い)によりそもそも他の選択肢が存在しなかったという環境を指摘すれば、仏教の件とは同じに扱えないだろう。とはいえ、今述べたイスラームのクルアーンと現地語訳および内容把握、そして宗教帰属意識の事情を考えると、やはりもう少し繊細な吟味が必要であろうとは思う。

  

ところで、仏教の側はなぜ経典を訳さなかったのだろうか?すぐに考えつくのは以下の4つである。

1.カトリックの例にあるように、翻訳しないことで特権的範囲への囲い込みを行った

2.専従念仏という鎌倉以降の民衆仏教の形態がそれを不要とした

3.念仏の音楽的側面の重視(音響効果のある教会での讃美歌に似た効果)

4.怠慢

これはやや主題とずれるものの、専従念仏の問題は信徒のニーズ・姿勢にも大きく関係する事項なので、特に考察の必要があるだろう。今2つだけ言っておくならば、

(a)このことが、たとえアラビア語が読めなくとも(その内容が日常生活の規律・振る舞いと深く関わるために)クルアーンの内容を知らねばならないイスラームとの差異を生み出した可能性がある(日本の仏教が戒律を取り払った後、もっと言えばそれを取り払ったことで民衆に広まっていったことに注意を喚起したい→細かい内容や戒律を知る必要がなかった)

(b)最初は信仰心が伴っていたかもしれないが、時代を経るごとに極めて儀式化・形骸化しやすい

という点は留意すべきと思われる。 

 

最後に。
経典の現地語訳及び内容把握が宗教的帰属意識にどれほど影響を与えるものかは、他国の状況比較が必須である。それゆえ、今後は上座部仏教の広まったスリランカ、タイ、ミャンマー、そして大乗仏教の広まったインドネシア、中国、韓国などの状況を確認していていきたいと思う。

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