酒タバコ肥満撲滅委員会

市民マラソンを楽しみながら、酒とタバコと肥満は嫌いだ、と呟く日常をうだうだと。

戦死した伯父の足跡を辿る・・・・軍歴証明書が届きました

2022-11-26 12:33:20 | Weblog
この記事の続編です。

戦死した伯父の軍歴証明書がようやく届きました。
8月に請求してから3ヶ月かかりました。
費用は請求されず、配達記録郵便で届きました。
(申請時の戸籍謄本などは返却されました)

内容は戦没状況が描かれた回答書と、履歴原票、功績調査票、死没者調査票、戦没原簿、戦没者名簿の写しでした。

情報的には軍隊内での履歴(階級、管轄、入院記録)、入隊時の職業、あとは戸籍に書かれている戦死時の状況程度でしたので、まあ想像した程度の淡々とした内容でした。
しかし、いくつもの発見がありました。

伯父は私が生まれる遥か前の昭和19年に21歳で戦死しています。
私が知っていることは、祖母の家の仏壇の横にある遺影と、海軍で沈没して戦死したことぐらいでした。
信濃に乗っていたと聞きましたが、正直なところ遺族感情で大きな船で亡くなったと思いたい気持ちがあるだろうから、本当に信濃かどうかは疑っていました。
今回、そのあたりがはっきりしました。


伯父は海軍に入隊し、4等兵(新兵)を経て1等兵になり、昭和19年11月に上等兵になった月に戦死、戦死によって一階級特進して兵長になりました。
(正確には主計兵だったので主計兵長と呼ぶそうです)

主計兵とは聞きなれない言葉でしたが、調べてみたら経理事務・軍需品・被服・兵糧・調理を担当する兵士だそうです。
入隊前に飲食関係の仕事をしていたようなので(履歴原票で知った)、それで主計兵になったのかもしれません。

二階級特進という言葉をよく聞きますが、平時に殉職した場合などはそうなるようですが、戦時中の戦死は特進なしだったり一階級特進が多かったようです。
(特攻隊は二階級特進だったようです)

伯父はチフスで入院していたこともわかりました。
チフスは食中毒の一種ですが、おそらく当時の衛生状態がよくなかったのでしょう。
幸い伯父は横須賀にいたので入院できましたが、これが戦地だったらどうなっていたことか。

伯父は親戚の話通り、航空母艦 信濃の乗組員でした。
これも縁なので、空母信濃について調べてみました。

旧帝国海軍は大和型戦艦と呼ばれる超大型戦艦を4艦作り、それが有名な戦艦大和と戦艦武蔵、そして3艦目が空母信濃です。
信濃は当時の戦況から途中で戦艦から空母に設計変更されました。
(戦艦は自ら戦う船、空母は海上空港のようなもので、戦うのは主に飛び立った飛行機)
そして4艦目は建造途中で中止になり日の目を見なかったそうです。

信濃が竣工(一応)した時には東京が空襲されるほど戦況は悪化していました。
進水式でミスにより損傷し、そもそも工事が残っている未完成状態のまま、空襲での沈没を避け広島県の呉で残工事を行うべく回航しました。
しかし東京大空襲の援護のために東京湾付近にいたアメリカの潜水艦に見つかり、魚雷を4発受けて沈没、昭和19年11月29日でした。

歴史に「もし」は禁句ですが、もし信濃が呉で完成していたとしても、すでに日本軍には艦載する飛行機もパイロットも少なく、載せる飛行機がなければ空母は威力を発揮できません。
沈没しなかったとしても、信濃が戦況を大きく変えることはなかったのでしょう。

信濃には水密区間といって浸水や火災が起きてもハッチを閉めれば被害を局所化できる設計になっていましたが、未完成でハッチを閉められない状態でした。
乗員の訓練も不十分で、魚雷を受けてから約7時間後に潮岬の東南東沖に沈没しました。
水深が7000m前後と深いためにいまだに探索はなされておらず、沈没位置も推定です。

生存者1080名、戦死者791名。
総員退艦発令から約20分後に沈没したそうですが、伯父はこの時間に逃げ出せなかったのでしょうか。
艦が大きく傾き逃げ出せなかったのか、海上に逃げられたけど護衛艦に救出されなかったのか、あるいは沈没以前に艦内の爆発で犠牲になったのか。
(敵潜水艦は爆発音を6回聞いているので、なんらかの爆発があったと思われる)

昭和41年に広島県の呉海軍墓地・長迫公園に「軍艦信濃戦没者之墓」と刻まれた慰霊碑が建立され、昭和53年には海上自衛隊輸送艦あつみの艦上で現地洋上慰霊祭が開かれて、当時の生存者のうち32名と遺族89名が参列したそうです。


伯父の人生に戻ります。

伯父は2人の弟がいて、その一人が私の父です。
父は私が幼い頃に病死しており、もし伯父が存命であれば私の人生も変わっていたと思います。
もう一人の叔父の人生も変わっていたでしょうし、戦死の数年後に配偶者を亡くした祖母(伯父の母)の人生も変わったはずです。
一番人生が狂ったのが戦死した伯父、わずか22年間の人生、やりたいことはたくさんあったはずです。


私の身内では唯一の戦死者がこの伯父です。
これまで縁の薄い伯父でしたが、たまたま知った軍歴証明書を機に叔父の人生の一部を知ることができました。
軍歴証明書を知ったのが敗戦の月である8月、そして資料が届いたのが命日の直前でした。
まもなく11月29日、伯父の命日です。
78年前を偲んで合掌しようと思います。
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