市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎映画祭(2011年度第17回)今夜終り

2011-07-09 | 映画
  今日土曜日7月9日、宮崎映画祭は、宮崎キネマ館から、宮崎市民プラザ内のオルブライトホールに移して終わる。クロージング作品は行定勲監督の「今度は愛妻家」で、監督と脚本家伊藤ちひろ、カメラの福本淳のトークショーも開かれる。

 おそらく今夜は見に行くだろうが、いつものようにトークショーには出席できない。ぼくにとっては退屈だし、無意味だろうと思うからである。さらに、ゲストを3人も招く金があるなら、なぜ上映作品選出に投資しないのかという提案を今年もまたしたく思うからである。

 今年の映画祭は、例年にもまして、テーマを前面に押し出すという実行委員会の意図を強く感じたのであった。昔の名作、二十四の瞳、羅生門、スペースカーボウーイは、おなじみの映画祭らしいお祭り作品であり、これを除く新作12本が上映され、その中の、キック・アス(2010 イギリス・アメリカ作品)ヒーローショー(2010 日本) 天安門の恋人たち(2006 中国)スプリング・ふィーバー(2009 中国)の4本が成人指定映画である。キック・アスとヒーロー・ショーが、過剰な暴力シーンにより指定、ロウ・イエ監督の2作品は性表現で成人指定とされている。興味があるのは、2010年の作品が暴力表現で指定になっていることである。およそ、上映作品のお祭り部分を除くと、40パーセントが成人指定作品となっているとは、きわめて特徴のある構成ではないかといえよう。すくなくとも、観客からこどもは省かれてもかまわないということななる。

 なぜ、実行委員会は、こどもは除くという視点を擁いたのであろうか。さらに半数近くを成人指定にされたほどの過剰の暴力と性の表現する作品を映画祭の構成に組み込んだのだろうか。その意識はどんな動機から生じているのだろうか。これを解明しなければならないと思う。もちろん、これは実行委員会に聞いてみれば、わかるというものではない。彼ら自らが、そういう選択を選んだ2011年という文化状況が、興味を引く。かれは、今日にどのような自覚を持ったのか、それを考えてみたいのだ。

 それと同時に、宮崎映画祭とはなんなのだろうかという問いも、発して自分で回答を見出す衝動にも駈られる。映画祭となにかという問いに答えをみつけるには、一つは映画のコンテンツとはなにかということを説かねばならない。二つ目は、映画祭に参加する観客とは何かと知ることである。この観客は、映画に日頃から知的関心をもつ層と、これには、オタクから知識人といわれる人種がふくまれる。あと、大衆という言葉でくくるしかない一般人がいる。ここで、きわめて大事な点は、映画は、他のどんなアートよりもオタク、知識人、一般大衆をことごとくひきつけまきこんでくるメディアであるということである。

 そこで、またややこしい問題がある。オタク、知識人、一般大衆と、どの層が映画のコンテンツを正当に評価できるのかということである。いっぱんには、オタクや映画評論家が映画を一番知る能力があるというように思われている。なぜなら大衆には、映画の情報に疎く、さらにこれらを論理的に分析する論理も使えず、ことば希薄という見方で、劣位の層と見られている。

 しかし、この見方に一般大衆とひとくくりにされる「にんげん」の実態のディープさを知らない、考えたこともない、それこそ通俗論に囚われた知識人のひとりよがりにすぎないのだ。いわゆる知識人の言語は、大衆文化がときおりのぞかせる深海のような深さにくらべると、浅く、しかも単純明快でしかなく、わかりやすくて、論理で処理しやすい。だから、観客が知識人やオタクだけなら、映画祭の作品構成など、単純きわまるもので埋めればことが終わるのである。だが、一般大衆というこのディープな存在に思いを馳せると、映画のコンテンツは、想像以上に、多種多様、動的であり、その解釈は、オタクや知識人の明快なわかりきった浅い言語ではとらえられなくなるという事態になっていくのである。このことは、ものすごく大事だ。これらに一つの視点をえて、ようやく映画祭とはなんであるかが、少しわかってくるのではなかろうかと思う。

 映画祭は今夜で終わろうとしている。今、ぼくが直面ささせられえいるのは、この問題である。
 

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