市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ジャーナリズム再興

2007-07-28 | Weblog
 タイトルは、7月25日朝日新聞の第一面に主筆船橋洋一氏によって6段抜きで掲載されたコラムのタイトルである。これを読んでぼくは腰が抜けるほど驚いた。

 新聞といっても朝日新聞であることがつよく意識されているのだが、主筆曰く
「朝日新聞のジャーナリスト精神とは何か。」といい、それはなんと<「権力監視」にあくまで食らいつく記者根性であろと思っている。>という。「権力を握るのが誰だろが」その「暴力装置」から「人々」を守るというのである。

 権力とは、国家権力の安部政権などのようによわりめたたりめのわかりやすいモノばかりでなく、想像力や洞察力を総動員しなければ測りしれない権力、じつはこのほうが恐ろしい。これを監視する能力が今の朝日新聞、いや新聞メディアにあるとは信じがたい、いやわかりやす権力だけでも「監視」などしてきたのか。だから
タイトルに「再興」の2字があるわけだろう。

 ぼくは新聞ジャーナリズムは様様の権力と折り合いをつけながらなんとか、新聞の味を保っていくしかない宿命を負っていると思う。つまりハンバーグに似ている。純粋宮崎和牛でハンバーグを製造しても経済的に無意味なのである。質のわるい肉をまぜるしかないのではないか。新聞まさにハンバーグであろう。

 朝日新聞は「質の高い新聞」として評価を受けてきたという。それは「読者の質の高さ」に負うところがあったという。つまり平たくいうと頭のいい人が朝日新聞をよんでいるという自画自賛が見える。しかし、ほんとうに頭のいい人ほど朝日新聞はもちろん新聞など読まないのだ。眺めはするだろうが。これをわすれていないだろうか。
 
 今は、新聞の情報機能などあてにする必要がなくなったのだ。この事実をもっと
科学的に冷静にかんがえぬかぎり、ジャーナリズム再興などありえないし、ジャーナリズムは内部崩壊していくことだろうと思う。この危機に気づかない、これは驚愕すべき事実である。
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山崎正和 この人の未来論 5 その意識閾 

2007-07-18 | Weblog
 つまり都市のサービスとして、医療や介護とレストランや商店街のサービスを同列にしたり、美術館や劇場を都市ほど高度と決めたり、教育をサービスの範疇としたりで、都市的高度サービスの概念も、客観的なものではない。

 人々への都市の移動が、都市のサービスを求めて今もこれからもつづくという見方も、厳密ではない。60年代から70年にかけて、民族移動といえるほど都市への集中は、人がサービスを求めてというより、都市での重工業、鉄鋼、自動車産業などの工業生産の戦後復興によって村を捨てて都市へと生活の場を移さざるをえなかったためであろう。今も、地方では食えない、満足な就職口が少ないからである。楽しみを求めていえば、いえぬことではないが、そんな個人のぜいたくな欲望よりも
社会制度やその変化の要因が決定的であろう。個人が都市サービスをもとめて1000万都市に集まることはかんがえられない。あるとすれば強制移住しかない。

 このような一見社会学的にみえる言葉も、その概念はあいまいである。これらの
言葉は、社会論というよりも山崎氏の戯曲作家にもとづいた文学論といえる。田舎対都市のサービスをめぐる対比の仕方は社会学的というより、1949年,同じ戯曲作者木下順二の作品「夕鶴」の村対都の対比である。村には純朴のほかは何も無い、だから都の楽しみを求めて、よひょうはツウを捨てる。それなら作品が傑作であるか、愚作であるかで、真価が問われる。それにしても未来都市論を語るには、その発想の根は古い。

 しかし、未来都市論となると、現実に関わってくる。とくに政府関係の審議委員として活動するとなると、その言説は影響力がある。しかし、その内容は個人の文学ワールドにすぎないのだ。

 しかも、文学は人個人、個人の生き方に深く関わる啓示を与えてくれる力があるのだが、この都市集中という未来論では、もはや個人は、個としては扱われていない。数量として、計測される要素として巨大な高層マンションに収容されるものとして表現される。この意識閾にあるものは今の国家意識に通じて、ナショナリズムを感じざるを得ない、個人よりももっと価値あるものに自己を埋没せよという。

 
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山崎正和 この人の未来論 4

2007-07-14 | Weblog
7月14日午前10時45分、1キロほど東の海岸線も4車線のバイパス沿線の野も霧がかかったように風雨で霞んでいる。台風14号が接近中だ。

 夕べ、テレビで東国原知事をタレントが訪問して、宮崎県の料理や物産、観光スポットを案内してもらうというTBS提供の1時間番組があった。もう一回あって3回の番組という。就任以来知事の宣伝で、すでにマンゴーや地鶏など評判を高めたが、テレビの案内で、今日もまた都城和牛、佐渡原のピーマン、にら、大根と野菜が目を引く。おりしも、ミート・ホープの事件、ねずみやネコの肉を混ぜた豚万、禁止農薬づけの中国野菜との背景で、その宮崎食材はかがやく。その食材による独特の料理を提供するレストランとシーンはつづく。

 山崎氏は、地方は「テレビと地方商店街だけの楽しみ」というが、風土がもたらした人々のライフスタイル、その豊かさと多様性は意識に上ってない。だからこそ日本全土を超巨大都市・東京都と、10の1000万都市で人々が生活できるような集中をすすめて、高度なサービスを効率的、均質に提供できる社会を実現するという未来都市が合理的と考えることができるのであろう。

 この発想の問題点は、まず都市とは、氏にとってはパソコンのCPUのようまもので、合理的計算能力が最高であればあるほど進んだ都市とするように思える。人それぞれの暮らしなどは視野に入らない。あるプログラムだけが問題になる。サービスだとか、省エネルギーだとか、安全、教育、芸術・文化などのプログラムである。その完璧化には、不必要なものは排除される。たとえば、低層住宅、街路の多く、非能率な商店街や交通などなどである。

 しかし、都市とは、何万年、何千年、何百年の人の営みが生んできた環境であり、それは生態系だとみたほうが理解がつく。路地でもわいざつな市場でも、歓楽街を彷徨するのんだくれにも都市の活気や楽しみを保持できる役割がある。そんな要素をまったく排除して都市は北朝鮮などの都市しか思いだせない。

 つまり人間の個々の活動をまったくを考察しないとう都市集中論が問題意識ではないだろうか。それは病態と呼べるものではないか。
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山崎正和 この人の未来論 3

2007-07-12 | Weblog
 先生はおっしゃる、地方都市では、テレビと地方商店街しか楽しみは望めない。人は楽しみや高度なサービスを求めて飢餓感が高まると。まさか、テレビだけが楽しみで、商店街を歩くのが楽しいなどという住民は、もう居ませんね。なんか、街の楽しみというと、デパートで食時して、街を家族で散歩する。これは昭和30年代頃の楽しみ方でしょう。そんな人間はもういませんね。

 さて、大都市にある高度サービスは、地方には無いという仮定で、論はすすむわけであるが、この高度サービスとは具体的にはなんなのだろう。どうも質がいい、
程度が高いということのようです。銀座の老舗レストランの料理は、田舎にはないと、でもそれはたいしたことではないのだ。たとえば、共同の野良仕事での昼食にでるにぎりごはんに山菜の料理にかわって銀座の有名レストランのフランス料理をもってきても満足はできない。料理は、その生活と関わっているわけで、質や程度を比較しても意味はないのである。

 東京では世界的な有名な音楽家のコンサートもひんぱんに聞けるだろう。田舎ではその機会は少ない。しかし、それで生きていくことが困ることもないし、貧しくもない。ほかにも生を充実できる楽しみはいくらでもあるからである。

 大都市に集中してある高度サービスが、地方に流れて、味がだんだん薄くなり、なかには到達できないものもある、で地方はたまらない飢餓感がいやます、という仮定は、ほとんど根拠がない。

 ぼくが毎日送っているギャラリーは、街の中心まで自転車で8分で行ける。反対に8分走ると、白砂のつづく海岸に着く。50分で日南海岸青島に着く。西へ一時間半で九州山脈の麓を走れる。また、自動車であれば1時間内でいたるところに快適な温泉があり、200円から500円くらいで楽しめる。マンションは、河畔に建つものでも東京六本木のワンルームマンションより安い。ぼくの息子などは昼休みは2時間あるので、自動車で毎日のようにサーフィンをしている。病院の病室もホテルなみで、だれでもいつめも入院できる。これら豊かなサービスは東京では望めない。

 ということであれば、東京の人口を50分して、全国に小都市をつくるという発想も成り立つわけであろう。しかし、こんなばかなことはだれも言わない。おなじように1000万都市の建設も、論理的根拠はないわけだ。ではその思いはなんなのだろうか。なぜこういうことを思いつくのだろうか。 
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山崎正和 この人の未来論 3

2007-07-12 | Weblog
 先生はおっしゃる、地方都市では、テレビと地方商店街しか楽しみは望めない。人は楽しみや高度なサービスを求めて飢餓感が高まると。まさか、テレビだけが楽しみで、商店街を歩くのが楽しいなどという住民は、もう居ませんね。なんか、街の楽しみというと、デパートで食時して、街を家族で散歩する。これは昭和30年代頃の楽しみ方でしょう。そんな人間はもういませんね。

 さて、大都市にある高度サービスは、地方には無いという仮定で、論はすすむわけであるが、この高度サービスとは具体的にはなんなのだろう。どうも質がいい、
程度が高いということのようです。銀座の老舗レストランの料理は、田舎にはないと、でもそれはたいしたことではないのだ。たとえば、共同の野良仕事での昼食にでるにぎりごはんに山菜の料理にかわって銀座の有名レストランのフランス料理をもってきても満足はできない。料理は、その生活と関わっているわけで、質や程度を比較しても意味はないのである。

 東京では世界的な有名な音楽家のコンサートもひんぱんに聞けるだろう。田舎ではその機会は少ない。しかし、それで生きていくことが困ることもないし、貧しくもない。ほかにも生を充実できる楽しみはいくらでもあるからである。

 大都市に集中してある高度サービスが、地方に流れて、味がだんだん薄くなり、なかには到達できないものもある、で地方はたまらない飢餓感がいやます、という仮定は、ほとんど根拠がない。

 ぼくが毎日送っているギャラリーは、街の中心まで自転車で8分で行ける。反対に8分走ると、白砂のつづく海岸に着く。50分で日南海岸青島に着く。西へ一時間半で九州山脈の麓を走れる。また、自動車であれば1時間内でいたるところに快適な温泉があり、200円から500円くらいで楽しめる。マンションは、河畔に建つものでも東京六本木のワンルームマンションより安い。ぼくの息子などは昼休みは2時間あるので、自動車で毎日のようにサーフィンをしている。病院の病室もホテルなみで、だれでもいつめも入院できる。これら豊かなサービスは東京では望めない。

 ということであれば、東京の人口を50分して、全国に小都市をつくるという発想も成り立つわけであろう。しかし、こんなばかなことはだれも言わない。おなじように1000万都市の建設も、論理的根拠はないわけだ。ではその思いはなんなのだろうか。なぜこういうことを思いつくのだろうか。 
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山崎正和 この人の未来論 2

2007-07-11 | Weblog
 日本の住民全体を東京都と10の1000万都市に暮らすような未来都市で、対人サービスは行き届くという発想について、山崎氏は意識閾がおかしいと批判した。いや
この数字はひゆで、いちいち言葉の揚げ足を取るなと思われるかもしれない。

 いやこれは揚げ足とりではない。大都市化がすすみ、都市に人は住み暮らすというのなら、田舎に残ったやつはどうなのかということだ。だったら、サービスは低下する。それでもいいという自己責任を負うか、都市にも移住できぬ負け犬でいいのかとなる。だったら、人はみな、東京都か、1000万都市のどこかに移住することがベストとなる。最終的には、日本には東京都と10の1000万都市しかないという
SFも顔負けの未来社会へ向かうことしかないとなろう。
 
 この発想の結論のおかしさは、この論をくみ上げる事実の認識、つまり仮定がまちがっており、したがって、その組上げは噴飯ものの破天荒な小説的風景になるのである。

 山崎氏のコラムは、コムスンとNOVAの不正事業から、思いついたようだ。
この2社は、限られた人で、早急に全国展開を図ったサービスの無理だというのだ。1人が受け持つ広さは決まっているともいう。その点は当たり前の話だ。しかし問題は、人対広さの問題にしてしまうところにまず認識の誤りがある。

 この2企業は、英語塾という教育と、もっと生き死にの深刻な介護を、てっとうてつび、金もうけの手段としたことである。この企業のあり方と、これを放置してだませれて不正請求に応じた行政にこそ問題の核心がある。とくにコムスンはすざまじい、介護ヘルパーを重労働低賃金に追い込み、行政に不正請求をして、介護者もヘルパーも食い物でしかなかった。広さで手が回らぬという認識は浅薄だ。

 たしかに、地方で小児科病院もない、産婦人科もない,介護ヘルバーもみつからないとなると、死活に関わることだ。だから、必須のサービスである。しかし山崎氏はこれを普遍してつづける。地方では、大都市のように大学も病院も、劇場や博物館も、ホテルや料理店、商店街など「高度のサービス」は、望めない、テレビと地域商店街しかないでは、飢餓感が増すというのだ。

 ライフラインと消費生活サービスを区別もなく大都市サービスとくくり、地方には芸術文化もないという。この発想の根底にある事実誤認は、大都市ほど高度のサービスがあり、地方ほど薄くなり、質も低下するという根源的な認識の誤りが見えてくる。以下次回に。そうなるとどうなる、これは傑作なブラックユーモア・!!


 いやいやいや、この認識はとんでもなく可笑しい。以下は次回に。
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山崎正和 この人の未来論

2007-07-09 | Weblog
 知識人の思い込みは、ときにはなんだこれえ、と思わず口あんぐりと言葉を失う感じの言説にぶっつかることがときにはある。7月2日朝日新聞の月曜コラム「都市集中」の山崎正和氏の論である。

 この論の大意はこうなのであう。田舎に住んで、大都市並の対人サービスを望んでも不可能であり、物資の輸送、過疎地の教育施設などのように環境への付加と非効率は環境破壊にもなる。サービスと地域分散は矛盾する。だから、今は、人は都市へと集中する。
 
 これは文明上の課題であり、二つの対処方がある。一つは生活水準を大幅に下げて大増税をしてふるさとに当てる。(だれがこんなことをするものか!!)もう一つは「都市集中」というのだ。

 山崎論によると、まず東京の人口を現在の2倍にして、他に10ヶ所ほどの1千万都市を設けるというのである。その未来都市の建築は高層建築にし、間は公園、緑地にして電気バスとモノレールにし、自動車の乗り入れは禁止する。これはモルモットの行動実験場を連想させないか。現在の東京都の一部はこうなりつつある。

 この都市集中論は、理屈ではまとまっているが、よく考えるとどこか現実感がない。こんな日本になったとすると、九州には福岡かどこかに一千万都市が建設されると(どうやって建設するのだろう!)九州全域無人の荒野となる。中国地方も東北も同じことだ。東京と10都市で日本人はみな他に生存しなくなる。

 このような都市へ未来論は、ぼくには論よりも不思議な一個人の意識閾の問題にしか思えないのだが、山崎氏は、知識人で政府の審議委員としても活動されているだけに不安だ。パイロットが、じつは意識障害だったとしたら、怖い、恐ろしい。
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夕べの音楽会

2007-07-07 | Weblog
 夕べ大雨の中を県立劇場のイベントホールでの音楽会に行った。ぼくの行くお茶喫茶店のスタッフがソプラノを歌うというし、チケットがあまり売れてないというので一枚購入していた。
 
 出演者は宮崎女子短期大学音楽科の卒業生で、コンクールで金賞・銀賞、大賞を取った履歴もなく、卒業後は、学校の講師やカワイ音楽教室で教師をしている女性たちの集まりである。演奏家として生活しているプロではなさそうだ。つまりアマチュア劇団の活動に似ている。実は、ぼくはこういう上演は嫌いではない。むしろ芸術だどうだと、高い料金でだまされるコンサートよりも安心感がある。下手ならそれでよし、なにより磨いてみたくなる石も発見できるときもあるからだ。

 今夜もピアノ連弾の日高由希子、長崎真由子のハンガリー舞曲が楽しめた。二人でピアノを遊んでいるような気楽さと、その技術の高さに驚いた。技術の高さと思わす言ったが、あれだけ弾けるのは驚きなのだ。先日聞いた、音楽教授のダイナミックで澄んだ響きと遜色ない音色を楽しめた。また、声楽の鬼塚由美、彼女はそう
上手いとはいえないが、歌はイタリア語に聞こえた。たいがいのソプラノが外国語とも日本語ともわからぬのとくらべれば、勉強のあとが感じられた。これがすがすがしく、魅力があった。

 ドリマートン(電子オルガン)の富永由紀も楽しめた。映画音楽なみの雰囲気が出せるのだが、「千の風になって」は後ろの席で1人の女性がたまらず、歌詞をくちずさみつづけていた。ギターの愛川義夫とあいまって感動を盛り上げた。

 楽しい一時間であった。思うと、金賞、大賞というリボンを下げた菓子が店先によく並んでいるが、その賞をみて菓子を買うことも無いし、喰うときにその賞を思うこともない。音楽もときにはお菓子と食べる気持ちが大切ではないのか。

 それにしても入りは少なかった。100名くらいか。出演者は8名に及ぶ。例によって県・市教育委員会、新聞各社、テレビ各社と13の名称が並んでいる。もともと芸術の批評能力などないものたちを並べても実は滑稽。公演を依頼する暇があったら,チケットでも一枚一枚、テウリするのに情熱を注ぐべきであったろう。ここが田舎くさい。権威に弱い。権威は自分でつくるくらいの自信を持ってはどう。
 
 夕べの音楽界はこのように楽しく終わり、終わってみると雨が上がっていた。




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宮崎映画祭と戦争映画

2007-07-06 | Weblog
 映画の大きな主題として、恋愛とおなじくらい戦争はつきものだ。こんかいの
戦争映画「麦の穂をゆらす風」もこのようなわけで登場したはずだ。しかい、今回はおおいに違った。この選択はすばらしい。

 戦争は娯楽でもコンピューターゲームでもない、快楽ではない。極限の不安、恐怖、苦痛の連続であることを、ひさしぶりに映画で再認識させられた。重い、苦しい、不快だ、そんな感情、生理的苦痛に追い込まれながら最後まで、身じろぎもできなかった映画だった。タイトルの叙情的な感じとは、まったく正反対の極限の非情なる世界であった。なんでこのようなタイトルをつけたのだろうか。

 1920年代のアイルランドのイングランド軍への市民抵抗闘争を描いた映画だ。
市民が虐殺されるシーン、拷問、襲撃と、その現実感がドキュメントタッチで
描かれていくが、空恐ろしい感情につつまれるのは、見ていて、実際はこれ以上の
暴力が、拷問、逮捕、侵略、破壊,殺戮としてあると、心身に感じさせられることだ。人はかくも狂気のハイテンションになっていくという実感である。

 ようやく終わって時計をみたら2時間くらいだった。3時間以上もあったように思えたのだ。
 
 ぼくはただちに思い出したのは、ロベルト・ロッセリーニの1950年公開の「無防備都市」であった。ローマ市民のナチへの地下抵抗活動を描いた作品だ。主人公がガスバーナーで顔を焼かれる拷問に耐え虐殺されるシーンは今もわすれられない。そのイタリアンネオドキュメントの傑作といわれた作品だ。もう一つは伊とアルジェリアの1967年の共同作品「アルジェの戦い」これはアルジェ市民のフランス軍への抵抗運を描いた。現地の素人を使ったドキュメントタッチの映画であった。この3作みごとに共通している。ただ、後者には、人間いかに正義に生きるべきか感動的メッセージがあった。しかし、「麦・・」には、そんなものはない。虫けらのように人は死ぬという現実だけがこれでもかと描かれる。

 考えてみると、この半世紀の間に、戦争映画は、ハリウッド娯楽作品として電子ゲームのようになってきたのだ。そして、とつぜん、このアイルランド映画が今、ドキュメントタッチで、描かれたこと、これは不安であり、恐ろしい。

 今、未来を閉ざされた若者のの多くが、戦争をして閉塞したこの日本を刷新すればいいとうような意識を抱いているという。戦争は彼にとって、いつの間にかゲームとなっていたのだ。そう仮定できるのだ。
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カルメン故郷へ帰る その予言 

2007-07-03 | Weblog
 この木の下順二の喜劇は、村を出て集団就職した女の子が、ストリップを芸術と信じたという奇抜なアイデアがセイコウしただけの映画だったのか。純情なすこし頭の弱い女の子と村を笑い飛ばしたような映画で終わるのだろうか。ここのところがよくわからないのだ。

 この映画は芸術への風刺という見方もあるようだが、これはうがちすぎ、どこにも芸術を風刺する視点はないから、むしろ芸術への信頼はすこしもゆらいでいないようにみえる。うさぎおいしあの山 こぶなつりしこの川のふるさとの「うつくしさ」に本当の芸術がかさなることを暗示して故郷賛歌の歌が流れる。

 この主題をどうこうと言う前に、映画の舞台の故郷はあっという間に日本全国から蒸発、コンビニの町となった。教養はだれも信じなくなった。この映画はこの現実の変貌をなによりも生き生きと記録して残した。この時の流れの後で主題を捉えると、木下順二の思いはわからないが、文化とか芸術とかがどうというより実利が人を支配するということを思う。芸術とかなんとかよりも人は欲望と本音で走る、という現実を見せられるのだ。

 すでに戦後6年にして、現実主義の女性は元気があった。彼女らが世界を変えていくはずだった。その気配をすでに正確に捉えている。しかし、純情な村も美しい村も、本音と欲望と経済効率の資本主義社会の前で崩壊し、支配されていく。そのリアリズムが、すでに予言されている。
 
 笑っている観客は、実は自分の姿を笑っているのではないか。まだ笑っていられる分はしわせかもしれない。

 木下順二の作品は、見方を変えると、鶴や24の瞳の純粋さより、そこを踏み台にした人間や社会の方にこそ主題があったのかもしれない。あるいは予感があったのかもしれない。今こそ、だれしも「美しい日本」の影の部分こそ、批評家の目がそそがれねばならないと思うのだ。

  
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