市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

白内障手術 裸眼1.5の視力

2012-12-01 | 日常
目の前が見えさへすれば、それが出来ないから、ここ20年近く、いらいらしてきて、なんとかしのいできたのだ。それもだんだん出来なくなり、たどり着いたのが白内障の手術だったのだ。それが、一夜にして、裸眼1.5の視力(右目)となったのだ。乱視も矯正されたので、焦点のあった写真を見るようにみえだした。夜の赤江大橋から川上の小戸之橋、ここからさらに800メートル先に大淀大橋が、そこから600メートルはなれて橘橋が架かっている。その橋それぞれを走る自動車のヘッドライトの流れを見ることができだしたのだ。2キロ先の橘橋の上のライトは、なにか薄い針の先端よりも細かい点がときどきちらちらすると思えただけで、自動車のライトかどうかは、判断できなかった。そこで掌中型のニコンの双眼鏡で覗いてみた。光はまったく見えなかった。そんな弱い光点は、レンズが集光できなかったのだ。だが肉眼で、毎晩、眺めているうちに、今ではそれが橋上の往来する自動車のヘッドライトだとわかるようになってきた。1.2キロさきの小戸之橋までは、橋の姿は見えるが、橘橋は見えない。光点は、空中をゆっくりと移動するミクロな細菌か血球かのように幻想的に見えて、見飽きない。双眼鏡でも捉えられない光点を、目が捉えているという肉眼の能力に驚くのである。

 これまで、街路に溢れる看板は、デザインでしかなかった。だが、今は文字の情報であり、看板を代表する店名とか、販売品のほかに、店や物品の特色や電話番号、ときには番号に振られたカタカナ、町名などなど、看板には、懸命の工夫で各種の情報が集約・配置されているのを、あらためて知ることができるのであった。それが、何十枚、何百枚と、市街を自転車で走ると目の前につぎつぎと現れ流れていく。この商業の営みの真剣さ、切実さ、哀しさに胸を撃たれるのだ。これらにすべて、平方メートル当たりの看板税を書けている宮崎市の安易きわまる徴税に、あらためて怒りを感じるのだ。いや、これを黙って諦めている宮崎人のふがいなさ、人の良さを思わざるをえないのだ。取るべき税金はもっとほかにあるだろうが、いや、そんな姑息は手段で、宮崎市の商業を閉塞させる手段よりも、ほかにいくらでも手段があるだろうにと、思うのである。これが裸眼1.5が感じさせた認識の一つでもあった。

 先週日曜日に、ひさしぶりにサイクリングで国富町まで大淀川堤防沿いに走っていった。この日はサングラスをかけての走行だった。数百メートル先の樹木の葉の一枚一枚が確認できるほど、はっきりした映像が広がり続いていくのだ。それまででも、走って見える風光は楽しめたのであったが、いつも涙目になるので、なんども涙を拭う必要があった。これがまったく無くなって、走っている間中、何時間でも遠景も近景も注視つづけることが可能となった。5キロ先ほどの家屋や電柱を捉えて、あと15分で到達できるなとかを、計れるので走行がより快適になってきたのだ。

 毎日、このように見飽きぬ風景に溺れている日常がつづきだしたのだが、これが70年前の少年時代に眺めていた風景なのかと思うと、俺は子どものときにこんな風景をみていたのかと感動するのだが、もちろん、そのときの自分にとって、目に映る風景など、まったく自明のことで、これがどうなのと、自覚などしているわけではなかった。比較できるものが生じて、おどろきがうまれたのだ。なんといっても、この感覚は、天が与えてくれた、予想もしなかった贈り物であると思わざるをえないのだ。これは金銭や権力とは、関係ない果実でもあろう。

 ただしかし、この視力とは、瞳に埋め込まれたレンズに拠って、ぼくにうまれてきた視力1.5なのである。つまりこの部分が人工なのである。つまり半人造人間になったのではないか、アンドロイドである。自分自身を出来損ないの人間と生涯をとおして感じつづけてきた自分にとって、この人造人間化はまた愉快なことであり、人生への復讐心を満足させてくれるのでもあると、いうと大げさかもしれないが、この感じはたしかにあるのだ。島田雅彦はあまり好きな作家ではないが、「僕は模造人間」という小説を書いているが、自分をいうことからどこまでも逃れたいという思い上がった文学を今思い出した。それよりも現代美術の山口晃(やまぐちあきら)の画「富世おばか合戦 おばか軍本陣図」を思い出す。それは戦国時代の武者行列だが、それをみると、なかには腕が機関銃になっていたり足が単車になっていたりと、現代の武器となったアンドロイドになった武者がかくされているのである。つまり、昔の武者が現代と融合している。この快感が楽しい。あるいは、小沢剛(おざわつよし)の人と物を合体させた日本画である尾形光琳のリメイク、あるいは加藤泉の人と動物の合体人物の連作、あるいは幼児と自分を融合させた奈良美智(ならよしとも)などなど現代美術作品のあれこれを、つぎつぎに思い出してきた。人は人から、自分から逃れたいと、たくさんの人が願っているのかもしれないのかと思うのであった。

 そして恐るべきなのは、瞳でさへ、手術によって交換すれば、別の世界がみえるほど、変わるのだとすれば、脳の構造も白内障的故障は、かならず生じているはずと思えるのだ。それを取り替えたとしたら、自分の意識というものは、それまでとは一変する。どこまで白濁した意識で見なれていた世界をそのまま現実として認識してだけという体験の甘さに、どれほど「愉快な」ショックをうけるのだろうかと思うのだ。80歳になって、まだ自分が天下の政治家だと思っている石原慎太郎などの脳みそは、どうなんだろうかと思うのだ。多分、かれはもうすぐ、脳の白内障を自覚せざるをえなくなるのではないだろうか。それいぜんに肉体はミイラ化、意識はツンドラ化、これが人生なのを自覚できるのが、超高齢なのである。ただ、天はこの段階の人生でも贈り物を忘れていないのだ。これをもらえるかどうかが、いちばん生きている意味ではないのだろうか。今は毎日、この新視力に心を奪われている。やがて、日常になってしまう感覚を書き留めておきたいと、記した。
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