市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

映画ハンナ・ハーレント&初詣

2014-01-29 | 映画
  正月も残り二日になってしまった。元旦の一つ葉稲荷神社の初詣の参拝人は、200メートルのトンネルをなす赤い鳥居の先端まで並んでいた。寒風の中をアリの進むように拝殿へむかっている。ばかばかしくなって、ぼくはすぐに自動車に一人帰って閉じこもった。次男一家と妻が帰ってくるまで待つことにした。ここ何十年、こんな初詣の群集は見たことは無かった。なにを祈っているのだろうか、祈るものはあるのか、今年もいよいよ明けた。群集はやっぱり愚鈍なのか、日本人は景気にだまされているのか、そう思いながら一人で自動車にとじこもって、家族を待った。

 やがて1月18日、待っていた映画アンナ・ハーレントの封切りを、宮崎キネマ館で観ることが出来た。土曜日午後2時、十数人のシニアと中年者男女が暗がりのあちこちの椅子に座って開演をまっていた。一人だけ、映画好きの知人(中年女性)を目で挨拶できたのみであった。昨年10月の岩波ホールでの公開は、二日間は連日満員、1200余の観客が詰め掛けたという。東京都と比べて、今日の観客は少なすぎるのか、宮崎市ではこれが当然なのか、おそらく後者であろう。たまたまぼくは、数年まえから、このドイツのユダヤ人女性哲学者のことは全体主義の批判に関する本で知っていた。ナチの支配する国家で、哲学を持ってこれほど闘えるという行動に驚異を感じさせられ、そしてその美貌に魅せられもしていたので、映画は、待ち遠しかったのだ。映画「アンナ・ハーレント」は、彼女に関する本を知らなかったら、タイトルだけでは、食指をそそられたかどうかは、わからない。それに、宮崎市では、彼女の本「全体主義の起源」も「人間の条件」も「暴力について」その他も、宮崎市立図書館には収集されてない。その伝記もない。もちろん県立図書館のほうもないし、宮崎大学、宮崎公立大学にも電子カタログを「アンナ・ハーレント」で、横断検索をかけても、0であった。このような事実からしても、一般大衆の記憶に存在しているともかんがえられないわけである。東京都と比較してみると1200対10の無知度となる。大衆もまた愚鈍の域に放置されたままであるからともいえる。ただ宮崎市「蔦屋書店」の一番奥の哲学思想の書架には彼女の「全体主義の起源」とその伝記、入門書などがある。無知はここで開ける。むろん日ごろからやる気があれば、せめて書架をみてまわるだけ好奇心をもつ「超人」であれかしと思うもので、あればである。蔦屋では来店者に何時間でも自由に本や雑誌を読めるように、あちこちに豪華なソファーやコーヒーの飲めるテーブル席を提供している。読ませてもらえる。ここのところ置き場と廃棄に苦慮しているので、本を買えないが、助けてもらっている。同店の文化活動に謝して、あえてこの事実を記した。

 さて、映画は美貌の哲学者の若き日のハイデッガーとの不倫や、愛やそしてナチズムという暴力との戦いを、愚鈍の否定に命を燃やす女性哲学者の胸をとどろかせる物語ではなく、もはや、亡命先アメリカ(1940年)で、ついに戦後を迎えた哲学者の晩年の一事件だけを主題にしているものであった。彼女の生涯からすれば、ほんの一事件で収束するはずのものであったが、そうならなかった。1960年イスラエルのモサドが逮捕したアイヒマン裁判に関わった挿話だけが描かれていた。恋もなければ、副主題もなく、物語もない。ユダヤ人600万人をアイシュビッツに収容、その虐殺を命じたとう極悪非道の元ナチ将校を、絞首刑に掛け、ユダヤ人の恨みを払えれば済む裁判であったわけで、そのためにこそ、ナチに命がけで抵抗しつづけたハーレントの裁判傍聴の意味があったわけだ。それで、この事件はおわるはずであった。その常識的ユダヤ民衆の期待を彼女は、覆してしまったのだ。彼女は、その裁判記録をニューヨーカー誌に知己、親友に止められるのを振り切って投稿してしまったのだ。内容はアイヒマンはただの凡人、役人だったと指摘した。上からの命令どおり、何も考えず、忠実に仕事をするだけであったと言ったのだ。イスラエル国家が、裁判で裁くものは、アイヒマンという普通の凡人ではないはず述べた。そればかりか、戦時中のユダヤ人グループにもユダヤ人虐殺に関わるものがあったと、思考停止した凡人こそ、最高の悪をなすと、哲学的逆説で、裁判を否定したのだ。これを読んでユダヤ人社会からばかりでなくアメリカ社会からも「国家の裏切り者、ナチの糞」「600万の亡霊がお前をかならず殺す」などど悪罵があびせられだした。

 映画の後半は、アパートの隣人からも、イスラエルの親族や恋人からも非難をうけながら、追い詰められていく彼女の人生が描かれていく。大学の退職を迫られるなかで、彼女は最後の授業を予測して、講義をするが、そこにこの映画の見せ場がある。その講義の迫真力が観客を圧倒し、かつ納得させる。なにも思考しないものこそ、インポッスブル・ツー・シンク、思考不能こそ、最大の悪を生むと学生や聴講者に哲学者としての思考を展開していくのだ。伝記によると、彼女は、裁判はイスラエルだけでなく、国際的な法廷で裁くべきと思っていたという。またイスラエル国家建設運動のユダア人運動にも否定的になっていて、アラブ・イスラエル連合のクニのアイデアを抱いていたという。だが 60年当時、親族、身内を強制収用所で殺された600万人の遺族たちが、アイヒマンの行動は、聞きようによっては、ただ馬鹿であったということでは納得させられるものではなかったろう。アンナ・ハーレントは、彼女の哲学的思考を常識にぶっつけたわけである。ただ、彼女は哲学を臆することなく、日常思考にぶっつけたのだ。インポシブル・ツー・シンク、思考不能これこそ最大の悪だという真実を臆することなくぶっつけたということ、ここのところで、映画は、まさに彼女の人生を見事に描ききっていた。それにもまして、ヒロインの女性の現実感がすばらしかった。おそらくアンナハーレントその人も俳優バルバラ・スコヴァによって再現されたと、ぼくは満喫できたのだった。

 現在、この哲学的思考もぼくらはよほど周知のことになってきている。愛国の実態も軍国主義も思考不能や思考不要を土台としていることを知らされてきている。北朝鮮の国家の基礎もこの思考不能を強制された人民大衆であり、これを虐殺する人間を要請し、そんな国家に命をささげる思考不能の使徒を建築基礎としているのであり、今週では、オーム真理教の死刑囚たちの、優しい平凡な普通の青年たちのわれに返った姿が露わにしめされている。ああ、そのわかものたちの父兄は、思考不能によって師弟をオーム真理教にうばわれたのだという物語を知っている。そういう状況で、この映画は、かなりの反響を全国的に起こしているようである。今週月曜日、毎日新聞のオピニンコラム「風知草」で山田孝男記者が「思考停止から抜け出せ」を投稿していた。このところ、メディアや新聞を媒体して現れるエッセイストやコラミストで、ぼくが読んでなっとくさせられるただ一人の言論人だが、例の原発廃止の問題について、深く考える視点をアンナ・ハーレント映画への感想とともに書いていた。これを読んで刺激されて、ようやく、ぼくも映画感想をと書けそうになったわけだ。ただぼくの場合は、もう一つ哲学的キーワードを付け加えておきたい。

 彼女は、この裁判記録の内容で大学同僚3人の教授からも詰問されるのだが、「あなたはユダヤ人を愛しているのか」と問われる。その問いに、彼女は、「私が愛しているのは友人だ」と答えたシーンがある。この言葉は思考停止と同様に、イやそれ以上に新鮮で衝撃的であった。ユダヤ国家とかユダヤ人とかではなく、具体的な友人だと言い切ったのだ。国家とか国民とか、そんな抽象名詞もまえに、生きて、つかめて、抱きしめられる人が、愛の対象になるのだ。つまり、これは人間という実態を愛するということであろう。これが人間の生きているという現実である。これも哲学の思考であり、哲学は何の役にも立たぬ観念のデズニーランドといわれがちだが、じつは国家とか国民とかいうことこそ、実態のない観念であり、都合のいい消費財でしかないことを、みごとに一言で示したシーンが深く印象に残ったのであった。つまり大事なことは、思考をするということになるのだがいっせいにこのことがうすめられようとしている2014年のスタートで、その反逆が大衆に生じることを祈願しているばかりだ。これがぼくの初詣である。

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