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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

なんの意味ありや

2010-08-21 | 宮崎市の文化
 夕べ、トナミを預けられて、次男の嫁に頼まれてイオンのなかのシネマコンプレックスに「トイ・ストーリー3」(3D吹替)を見に連れて行った。予想したようにつまらない映画だった。内容がアメリカ主義の正義の物語で,友情大切と資源ゴミなどの環境問題を味付けながら、マックドナルドのジャンクフードのように標準化されて、うまくもまずくもない、そんな味であった。その味で我慢できないわけではなかったが、これが3Dになっていたことで、味も濃くされ、胃にもたれるのであった。

 立体にスクリーンが見えるということに、なんの面白みも発見もないのだ。トイ・ストーリーというこどものおもちゃが、活躍するという話であるが、立体に見えるから話が面白くなるのではなくて、人形たちの内面が伝わってくるから、つまり葛藤あり情熱あり、正義あり、悪ありで、ここが大事なのだ、こんな内面が立体化とは何の関係もないのであった。たとえば、宮崎駿をアニメを3Dにして立体化して意味なしと想像してみればいい。かえってイメージを制限されて、現実感が希薄になってしまうはずであろう。人形の動きと立体化だけに全力がそそがれ、内容は希薄であったのである。

 トナミも見終わって憮然として表情であった。おもしろいともよかったとも言わず、じいちゃんトイレ行ってくるからとそそくさとトイレに行ってしまった。アメリカの大衆レベルの低さを、このような映画をみるとひどいものだと、思う。ジャンクフードに慣らされてビッグマックなしには生きられなくなるのと同じことかもしれない。幸い、この手の話はさすがに日本人には感情移入できないほど、ばかばかしいのが幸いしている。小学生さへばかばかしく思えるのだ。さすが、日本マンガ・アニメで鍛えられたほどの鑑識眼ができていたわけだ。

 しかし、幸運にもしのぶちゃんが大阪の大学から帰省中の娘とイオンで食事中なのに遭遇できた。それから一緒のテーブルで歓談できた。彼女が前夫と離婚したころ、娘はまだ5才くらいで、夏になると、よく彼女たちと温泉プールに一緒に遊びに行って、抱きかかえて幼女を空中に放り出し、ざぶーんを水に投げ込んで遊んだ。なぜかこれをおおよろこびで、せがまれて何度もやっていた。今は身長1メート63センチとなり、スラリとした女性になってしまった。あの頃に記憶はあるのと聞くと、あるある水の落ちたとき、だきあげられてほうりだされたとき、んな体感として残っている、おもしろかったあと言うのだった。そうか、そうかもしれんなと思うのであった。先週、彼女は、天草の本渡のイルカワールトでイルカと泳ぐ、乗るの遊びを楽しんできたというから、この記憶もすこしは影響しているかもしれないとうれしくなった。

 宮崎市の高校を卒業、大阪で大学3年生になた彼女は、大阪の男性は、女に飢えてるという感じなのよというのがおもしろかった。とにかく一人でいると、すぐに寄ってきて、お茶どう、どこに遊びに行こう、あるいは、どんどん話かけてくる。どうして、そんなにゆっくりと話すのかとよく言われる。彼女の話す口調はこどものときから、ゆっくり、なにか力が抜けたような、主題が霧のなかにあるような話し方をする。それがクールで魅力的なのだが、大阪でアルバイトの面接を受けると、この話ぶりのせいかなんどもなんども振り落とされたという。しかし、行動,性格とも独立・不羈で、これは幼児のころからそうだった。芯が強い。頭も切れる。その彼女が、大阪の男の果敢さを性に飢えていると言うのを聞いて、そんなら宮崎市の男性はと即座に聞き返した。まず話かけてこない、なんとかデイトとなっても、どこに行くのかきめられない。大阪では、ものも言わずにこちらを引きずっていくのに。そして、こちらがトイレに行ってるまに勘定をすましている。宮崎の男性は、勘定となったら、カウンターの前でくねくねとして、ほんとに弱くなってしまう。優柔ふんだん、まあ、おとなしい、飢えてないのだろうというのだった。

 そこで、思いだしたのは、本多勝一のドキュメント「ニューギニア高地人」だった。1960年代の調査だと思うが、ワニ族というのと、ダニ族という村が同じ場所に隣接して住んでいる。ワニ族は自分たちの畑を自慢して、その畑の下に広がっているダニ族の畑をくさすのが報告されている。ワニのものは、草ぼうぼうであり、ダニものは、棒一本で工作しとは思えないほど、見事な直線のかんがい用溝で仕切られている。その対比におどろかされたがだんだんわかってきたのは、ダニ族は、一人一人の自己主張がきわめて強く、他人のことより俺が中心ですべてが決まっていく。ワニ族は、他人や仲間がなにより大事、人を気遣って、なにごとも集団の和できめられ、自己主張をほとんどしないという性格がわかってきたというのだ。

 これを読んだとき、日向人とアメリカ人の違いに笑ったのだがこんな対照的な民族が、同じ場所で出現しているのにおどろかされた。ただ、使用する言語は、英語と日本語ほど違うというのである。この例を思い出して、彼女に言ったのだが、宮崎人のけだるさ、消極性、自己主張の弱さは、宮崎の風土とは何の関係もないのだと思ったほうがいいかも。ぼくは昔からそう思っていた。宮崎南方風土論などとは、まったくナンセンスだよね。だから、これは何千年あるいは何万年の遺伝子の結果かもしれない。宮崎の男性を変えるというようなことは期待しても不可能であるかもね。そういう民族にはそれなりの対応を工夫するしかないかも。と、じつは、今や将来の彼氏との付き合いのヒントを話した。

 シノブちゃんも彼女も、ワニ族とダニ族が同じ場所で先祖代々暮らしてきてなぜ、大阪人と日向人ほど違う人間になっているのか不思議だねえと相槌を打っていた。おそらくは、それはかれらの使用している言語とも関係あるのかもしれないなとは、思うのであったが、これは謎である。ということは、同じヒュウガ人でもぼくの様な間もいるし、満州から引き上げてきたという典型的な日向人、関東から住み込んでいる日向人、いろいろと例外はかなりある。その辺で、おもしろい人間を探し出すことを、彼女にアドバイスできたつもりの再会であったが・・・。




 
 




 

 

 

 

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