市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

秋の午前の出来事

2010-09-25 | 日常
  先週から騒然とした日々が繰り返されたが、ようやく落ち着いてきた。今日は月末の電気・通信費や、事務用消耗品の現金支払いをするので、行き着けのセブンイレブンに自転車で向かった。半そででは冷え冷えしすぎるほどで、そのため、陽射しもまさに柔らかい初秋であった。裏町をゆっくり自転車を漕いで進んで行く。すると、この辺りには、和美アパートとか、タフタアパートといった大きな看板を壁につけた賃貸住宅が点在するのに気付かされた。この黒一色でなんの飾りもない看板の字も、そのアパートの風情も、今日の秋の気配にじつにふさわしかった。モルタル壁に溜まる陽射し、樹木のないむき出しの地面、余計なものがないことが、一種の貧しさを漂わせて、このモノの足りなさが心を満たすのである。

 アパートをつつみこんだ20坪くらいの昭和40年代の建売住宅や市営住宅が、いっそう過ぎ去った時間への郷愁を掻きたてる。この風景の核となっているアパートは今日のぼくの心を満たしてくれる。なら、それは、ぼくにとってアートである。さしあたり、この裏町の住宅街でのアート作品のほかに必要はないし、他のアート作品とくらべて、これが非アートであり無意味なる建築物だと排除するのが、妥当であり、理性的判断だとは思えない。これでいいじゃないか、アートはこれで済むのではないかと、思ってもいいじゃないのかと思いだした。

 現実には、現代日本美術、つまり杉本博司、草間弥生や、村上隆や奈良美智など日本人アーティストの作品が億単位で取引されるという国際美術市場の様子などを吉井仁美や村上隆の図書で読んでいくと、どうもアートは、完全に資本主義世界の売買に取り込まれて、もはや超資産家の自己顕示と投資の対象となっており、一流のアートは、その消費資本主義の流れのなかで命を息吹かせているというグローバル世界での現実を、否でも納得させられる。おそらく、それも現代アートの存在の仕方であろうが、ぼくにっとは、そういうアートは、そういうアート、ぼくにはぼくのアートがあればいいと、つくづく思えるのであった。今、現に目前で見ている和美アパートが、ぼくに生きるよろこびを与えてくれるからである。

 思えば先週は、瀬戸内海国際美術展を観て廻ったEの話を聞き、そのあまりにも大掛かりというより、島から島をフェリーで回り,宿をとり、相当にきつい、かこくな回航を経ながら、アートをみてまわる国際展に数万人の来観者が押し寄せていたというから、おどろきであった。そこまでやって、アートはなんであったのか、自転車で隣近所をまわるだけでは、ダメなのかとも思えなかったのだ。というようなことで、満足しているとだんだん、あの山の中の池、先々週、自転車であの池の実感をとらえるべく訪ねてみたが、あまりに暑くて途中で引返したのだが、あの池のように閉鎖的に淀んでしまうということになるかもしれない。だからといって、バーゼルの国際美術展に行けばなんとかなるものでもあるまいと思う。

 いよいよ秋の到来ではないか。食欲はあるし、心は平穏であるし、戦争もない飢餓もない、さしあたりすることもない、ぼくはこの状況をいくら神(いるとして)に感謝しても感謝しきれない。ただ、今日一日のこの平穏をあなたに感謝しよう。
後はなってみてから感謝できるかどうか判断しよう。秋の午前の出来事であった。


  
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祭り えれこっちゃ

2010-09-16 | 宮崎市の文化
 
 土曜日の午後から急激に気温が上がり、直射日光が皮膚に焼付くようだ。35℃を越える残暑を逃れがたい。カフェに立ち寄り、溜まっている便りの返事を書いていった。万年筆で宛名から本文までぜんぶ書いたのは20年ぶりであった。ワープロやパソコンのソフトで書くばかりであったが、まだ漢字を覚えていて書けるのがふしぎであった。半時間ほどして、通りに出て、土曜日の今日から宮崎市の祭り「えれこっちゃ・みやざき」が始まったのに気付いた。午後3時過ぎ、人ごみに巻き込まれては大変と橘通りを横に外れて自転車で帰っていると、お好み焼きの店「しぇ・こぱん」の店主青木さんにあった。かれも自転車でなんとなく、疲れた顔に汗を浮かべていて、これから橘通りで、豚汁どんぶりを配るのだというのだ。今すぐに通行する人々にどんぶりを無料で配るという役目を飲食店組合から仰せつかってやらねばならないというのだ。太陽は高く、猛暑のなかに埃が舞い上がっている、なぜ熱いどんぶり汁を配るのかと聞くが、今しか時間がないということであった。

 日曜日の午前6時に起床、そのとき、ああ、えれこっちゃみやざきの祭りは今日もだったのだと思い出すのであった。昨日の夜はあまりの静かさで、街が祭りであることなど、すっかり忘れていたのに。夕方5時過ぎ、街の中を歩き回りたいとけだるさを押して、いつものように橘通りに向かった。予想通り、橘通りは、一丁目から3丁目まで、スピーカーの大音響でテクノのダンス音楽が沸き立ち、ステージが丁目ごとに設けられ、すべてが混じり一大轟音となり、アナウンサーの甲高い叫びが飛び散っていた。まさにこれが祭りであると、喧騒が群集を圧していた。

 翌日の宮崎日日新聞には、市民を熱狂にまきこんだとして、えれこっちゃみやざきの成功が華々しく報じられていた。

 しかし、どんな熱狂に巻き込まれて、市民は何を「えれこっちゃ・みやざき」から生きるエネルギーとして得られたのかということは、報道では書いてなかった。ここのところが、しりたいのだが、どうなんなのだろうか。

 そこで、かんがえるのだけど、「えれこっちゃ・みやざき」という意味はどういう意味なのだろうかと、あらためてかんがえてみた。これは「えれこっちゃ」の踊りと歌も出来ていた。このダンス音楽にあわせて、元気いっぱいにステージでダンスをするチームも多かった。えれこっちゃというのは、「たいへんだ」という宮崎弁なのだ。じゃあ、なにが大変なんだというと、そこがはっきりしない。ダンスが大好きな、しぇ・こぱんの青木さん(奥さん)に、意味を問うと、そうね、そうらそうらダンスだよ、おどろうよ、おどろうや、大変な日だよーと言う感じじゃないかしらというのだ。これはいい解釈だな、具体的な意味というより気分、げんなりした日常から、ぱっと眼を覚ます、そんな祭りへのお誘い、そのわいわいの高揚のなかで、元気をもらい、明日へとつなげるということなのだろうといえるのではないか。「わっしょい、わっしょい」や、「さのよい、よい」「ありゃさ、こりゃさ」などの合いの手であろう。

 つまり橘通りで、ダンサーも観衆もぜんぶで、えれこっちゃ、えれこっちゃと盛り上がり、盛り上がり、クライマックスへと飛翔していく、この興奮の果てにわれわれは、弾けてげんなりした日常から覚醒し、明日へと歩みだせるということか。
新聞の市民が熱狂した一大イベントと報じたのはこのことだったのだろう。しかしそれなら、そうにはならなかったのではないかと、ぼくは言ってみたいのだ。

 土曜日の初日には、出演する踊り手チームは、えれこっちゃのダンスで数百人が行進をしていく。聞くと、その行進の間、デパート山形屋内は、客で溢れていたというのだ。、つまり残暑の暑さで、そのまま通りで行進を見ていることを止めて店内に非難してきたというのだ。もちろん、買い物するのでなく、終わったらそのまま出ていったという。また、無料で配った午後3時のどんぶりは、ただでも貰い手が少なくあまってしまったという。ぼくは行進は、見なかったがステージでの踊りを見ようと歩いていると、人は閑散だが、轟音で喉が渇いて、ふとみると、給水所とステージ脇にあるので、ちかづくと、これは出演者用で一般の方は利用できませんとあった。いや、アナウンサーがダンスの始まりに給水所は出演者のもので、一般の方は利用しないでくださいと金切り声を上げて注意していた。宮崎アートセンターの玄関にはロビーが街路に面してもうけられているのだが、そこには緑色のはっぴ姿の役員がテーブルをならべてずらりと座っていた。一般は、ちゅうたろうどんの看板の下で、つくねんとして通りを見ていた。

 このように一般は、踊り手チームをひたすら見るだけであった。しかし、踊り手は、素人がばたばたしている程度にすぎず、観るにたえられるものではなかった。それでもかれらの存在価値があるとするならば、えれこっちゃ、えれこっちゃと全体、このときは、市民全体となって盛り上がっていく要因のであるから、つまりすべてが祭りという一大イベントで役割はみな同じなのを、背負うからである。給水所は一般は飲めませんという発想は、これをやった主催はすでにここで間違っている。

 ただ、ちょっと心が和んだのは、露天の屋台が、今年は並び、そこの飲み物がさかんに買われていた風景であった。この祭りで商売ができることを、よろこべたのだ。しかし、橘通りの商店はシャッターを閉じてひっそりと沈んでいた。また、現在は廃墟となった一丁目の大成銀天街の横丁、2丁目の青空市場前の横丁、シャッター通りとなった3丁目の若草商店街と、これら空漠として、それでいて舗装道路だけは仕上げられている通りで、轟音によらないしっとりとした露天市場の再現などもかんがえられるのではなかったか。

 えれこっちゃ・えれこっちゃと三会場のステージは、春のみやざき国際音楽祭の一日だけのイベントステージと、まったく同じ仕掛けであった。なぜ、クラシックとえれこっちゃダンス音楽のステージが同じもので、両者ともこれでよしとするのか、おかしな話だ。かくして、民衆つまり市民はどこにとどまっているのか、ほんとにメディアが報道したように宮崎市民が熱狂してもりあがったのか。ま、こんなことを言うのは野暮かも、轟音だけでも、わいわいと熱気が舞い上がっただけでいいよと。そのときふと思い出した江戸末期、庶民が群集となって伊勢神宮にお参りした習慣だ。群集は「えじゃないか、えじゃないか、えじゃないか」と踊りながら歩いていったというのだ。えじゃないかとえれこっちゃは似ているが、まったく違う。前者は民衆が生きているのだ。後者には民衆の存在は疎外されているのだ。
 

 
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宮崎市9月のマチエネ

2010-09-08 | 宮崎市の文化
 今年の8月は、連日のように積乱雲の涌き上がる光景を楽しめた。日本列島には
太平洋高気圧がどっかりと腰を据えつづけた。日本中、37℃、38℃という猛暑につまれる恐るべき異常気象だというが、宮崎市は、せいぜい33℃くらいの暑い日があったくらいで、例年より低温気味の夏がつづいている。今朝などは明け方驟雨があり肌寒いくらいであった。8月29日の日曜日はサイクリングに行ったのだが、気温は終日29℃であった。南方海上で熱せられた大気が、宮崎市上空に入ったときに、
冷やされて、連日、積乱雲のみごとな発生となっているのだろう。つまり、宮崎市街で大気は冷やし、低気圧は含んだ水蒸気を結露させ、上昇気流をはっせいさせとエネルギー交換が起きている。空一面の積乱雲の活力は、心をときめかせる。

 昨日の日曜日(9月5日)ひさしぶりに、ぼくは橘通りという中心市街地をぶらぶらと歩き回ってみた。この2週間前に街中でイベントがあり、シャッター通りに露天市が開かれ、音楽ライブや太鼓や、演舞なども行われた。人々は、その市のまわりに集まり、流れていた。群集による雲とたとえてみることもできよう。しかし、その雲は、翌日は消え、発生しなかった。理由は簡単である。群集/積乱雲を発生させるエネルギーが存在していないからである。これは人工雨か人工雪の一日だけの人為的なエネルギー発生装置によるものだからである。市街にエネルギーを発生させる自然が失われて何十年経ったのだろうか。

 戦後30年代までにぎわいをきわめた大成銀天蓋(戦後最初のアーケード設置)も
青空市場(戦後最初の集約型市場)も道路整備・環境整備という美化(シンガポール幻想)が推進されたが、エネルギーは発生しなかった。今は、アーケードも取り除かれ、青空市場の多くの店も閉じてしまし、炎暑だけが、空しく通りを燃えさせている。

 ぼくは、なおどんどんあちこちの路地や横丁を飢えたように廻っていくと、いやでも空き店舗が眼に入ってくる。そんな店舗に、思い出のある店も多々あるのだ。その記憶、かってのぼくの人生が、えんりょえしゃくなく抹殺されたのを感じざるをえないのである。その中で「くろき製茶」の空き店舗があった。ここはお茶を普及させるためオーナーのくろき製茶社長が、無料でお茶をだしている喫茶店であったのだ。無料じゃ来にくいと店長になんども提言したのだが、がんとして無料をつづけていた。だが、やがて有料に変わり、やっと落ち着いてこられるようになったが、お茶の展示場を拡大して、残りのスペースで、ふたたび、無料サービスとなった。他方、くろき製茶は、霧島町にもうひとつ販売店がり、2階を有料のカフェとし[Eーちゃふぇ」と言っていた。200円くらいでいいお茶が楽しめた。それにこの室内のインテリアは、すばらしいセンスの空間であった。吹き抜けの2階で、オーディオ装置も高価であり、音楽が流れ、ビュッフェの実物版画やモダンアートの版画もかかっていた。しかし、ここもいつのまにか、閉鎖されてしまった。ほんとうに贅沢な空間であったのだが、人が歩かぬ街では、やっていけなかったのだ。

 これが国際音楽祭の、また街中ステージ(T-ステージ、高千穂通り路上)23億以上の建設費をかけた橘通りの宮崎市アートセンターのある市街なのかと、胸をかきむしられる思いを抑えながら、近くの路地に入っていった。すると一匹の白い猫が建物の隙間から、ぼくをのぞいているので、ちっちっと舌を鳴らして呼ぶと、のこのこと寄ってきた。そこで背中をなぜてやるとごろんと横になってしまった。飼い猫にしては薄汚れているが、ちかくにすてられたのかもしれない。街を捨てるように。すると知人のピザ店の店主がひょいと路地に出てきた。近所で餌づけして飼っているということだった。この猫はとんでもない変な猫なんですよというのだ。どこが変なのか、よくわからないが、ぼくにっとてはいい猫だった。日曜だというのに猫一匹がいるだけとは、なさけないなあと話すと、そうです、どうなるんだろうと、かれも不安げであった。イベントや祭りで人が集まっても、客がくるわけもないんですという。そうだと、思う。太鼓たたいて人が来て店をいっぱいにしてくれることなんか想像もできないよねと相槌をうつしかなかった。街にエネルギーを沸かすにはどうすればいいのか、わからない。分かる方法はあるはずだが、今は街起こしに金を浪費するよりも使わぬほうが大切かと、話をつづけたsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/9a/03dce6afd486008b1fbb48028c4755b4.jpg" border="0">
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朝食料理と意識

2010-09-04 | 生き方
 夏休みも終わり、孫たちはまた学校が始まった。ぼくのチップの散歩は、年中無休、土、日もない、休み無くなんでもつづけるということは、ときにあきあきして疲労もたまり、ストレスにもなる。一週間に一度の休息というのが必要かと思ってみたりするのだが、休みのないという身体的行動は、じつは当たり前のことだと気付かされる。たとえば、食事をするということ、これは止められない。止められないということは、この場合料理をするということに直結している。家事の多くは、この止められないという仕事なのである。これは至極、残酷なことになっているのだ。渡部昇一という学者がいるが、かれは男子で知的生活を送らんとするならば、ぜったいに厨房に入っても立ってもならぬと、その「知的生活の方法」という文庫本のなかで宣言している。で、かれは結婚しているわけで、妻に、女性だけが厨房仕事をすべきであると断言しているのだ。、まさにNHKの評判朝のドラマ「げげげの女房」である。それはともかく、このように朝飯を食うということなども、定期的に止めるということは、ほとんど不可能なことなのだ。思ってみるとそうなんだと気付かされる。

 またまたチップの散歩で、小学校に通う近所のこどもたちといっしょに歩く日がもどってきた。そんなときに、ぼくはなんどが、こどもたちに今朝はなにを食べたと聞いてみることがあった。たいがいなこどもが、パンだというのだ。パンのほかにはというと、パンだけと、あっさり答える。味噌汁はと聞いても、ほとんど味噌汁のある朝ご飯などはないようであった。おそらく若い母親たちも共稼ぎなどで、ゆっくり朝食を作っている暇などないのであろうか。

 自動販売機のまえに乗用車を停車させて、コーヒーの缶を出す若い女性たちのどことなく疲労感をにじませる中腰の姿は、毎度の情景であった。このコーヒーで疲れを鎮めて出勤するのであろう。かなりのこども、若者たちが、朝飯抜きのような状態で、長い一日を迎えることになっているようだ。こんなことを見てきているうちに、朝飯を作ってみようという気持ちを起こして、それをスタートさせて、その日がいつだったか記憶も薄れたが、すくなくともまる3年は経っている。家内がときどき割り込んできたほかは、毎日、日曜だろうと料理してきていた。今はそれは空気を吸うような自動的な行動であり、きっかり45分以内で料理を終えている。

 こんな料理なら、そうとう忙しい人でもやれるのではないか、ということで、紹介してみる。この朝食料理の核は、この3年間、同じ野菜炒めで、変化しないということである。3年といわず半年も同じ料理をつくれば、ほとんど頭をつかうことはなくなる。それに料理は自動反応のようになってしまう。それでいて、単純労働ではないということが、特異点であろう。一回、一回、やってみる技がある。これでしか美味い料理はできない。この技のバリエーションは、3年やっても尽きなくて、飽きが来ないというわけである。

 ではレシピを説明しよう。主婦が見たら笑い出すようなものだが、それでもまちがいなくブレックファストにはなってきた。サラダ油やオリーブ油、にんにく、椎茸、その他の茸類、ピーマン、しし唐,人参、ジャガイモ、ベーコン。おろし大根、目玉焼き、切り餅。こーひー(コーヒー豆からコーヒーを淹れる)トースト。ジュース(りんご、ばなな、人参、アロエなど)が基本。それに野菜は、折に触れて、ときどきかぼちゃやなすなどを加える。ピーマンとしし唐というのは、じつは花壇のはしに4本植えているのだ。これだけで、5月下旬から11月まで毎日のように収穫がつづくのだ。生で齧っても甘みがあって食えるほど美味しい実なのだ。ヨーグルトやチーズをくわえるときもある。牛乳は蛋白源として飲む。フライパンと電子レンジと、トースターとを適宜なときに発動させて、すべてが出来上がり終点時間は同じになるようにする。そんなわけで、おろし大根は野菜炒めの合間にやる。

 野菜は最初に冷蔵庫から出し、裁断してすぐに冷蔵庫に戻す。にんにくは薄皮ははがずに。ピーマンは縦割りしただけで、なかの種もしろい果肉もそのまま焼く。ベーコンとにんにくを裁断したら、包丁は洗って収納する。コーヒーは、野菜炒めのあと、目玉焼きをしている間に豆をカッターにかけ、淹れるのだが、全体の時間は5分くらいで終わる。湯は料理のあいまに沸かしておく。この出し入れはパソコンのキーを押して、必要な言葉を入力するのと同じだ。

 パンは始めはホットサンドを作ったり製パン機で自家製のパンをつくったりしたが食パンがフランスパンという単純なものが一番、ただし、コンビニのパンや大量生産の安かろうパンは役に立たない。いいパンを足で探しておく。コーヒー豆も豆が生命線、これもずいぶん探したが今は東京の喫茶店のものを通信販売で定期購入している。そう、3年も同じ料理をやっていると、ジャガイモにしろ大根にしろピンからキリまであるのがわかってくる。うまいジャガイ、うまい大根を探し出して、これを食うときの快感は、すばらしい。餅はに新潟産の切り餅を一切れ、この餅はコーヒーとじつによく合うのだ。これはたいがいの人がへえと驚くんだが、味の微妙さでコーヒーと餅は調和するのだ。

 料理の手順というのも経験で、ここもあすこもと改善点を見出してこれる。そして速くなるし、さらには、料理をした痕跡さへとどめぬシンクと食卓周りで、料理は終わるのだ。あとの皿洗いも5分で乾燥機内に収められる。午前6時半起床、寝床や部屋のかんたんな片付け、チップの散歩、仏壇の灯明や水お供え、チップの食事、ゴミだしとやることがあるが、すべてやれる。今思い出すと、朝食をつくるということは、ぼくにとって快楽でありつづけている。家内は夕食をつくるが、義務感を払拭できないでいる。アソビでやるのと義務でやるのは気分が違うのだ。じつは、この3年間でかなり努力を要したのは、料理ではなくて6時半に起床するという習慣であった。なにしろ50年間、午前8時ごろにしか起床しなかったのだから、これを改めるのが、おおきな苦労であったが、今では、日曜になろうと、午前一時に就寝しようと、午前6時半までに起床しないと、かえって体調が悪い。このように習慣というのも変えることができる。人の身体的行動は、実に単純である。意識こそが最大の難関ではないのだろうか。あの渡部昇一は、この40年間、意識を変えることができずに老いを迎えたようである。知性とはなんなのだろうか。まずは朝食を十分食って一日を迎える習慣から見えてくるもの、これは体験してみる価値はあると、ぼくは若い奥さんや女性たちに進言してみたい。




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