先週から騒然とした日々が繰り返されたが、ようやく落ち着いてきた。今日は月末の電気・通信費や、事務用消耗品の現金支払いをするので、行き着けのセブンイレブンに自転車で向かった。半そででは冷え冷えしすぎるほどで、そのため、陽射しもまさに柔らかい初秋であった。裏町をゆっくり自転車を漕いで進んで行く。すると、この辺りには、和美アパートとか、タフタアパートといった大きな看板を壁につけた賃貸住宅が点在するのに気付かされた。この黒一色でなんの飾りもない看板の字も、そのアパートの風情も、今日の秋の気配にじつにふさわしかった。モルタル壁に溜まる陽射し、樹木のないむき出しの地面、余計なものがないことが、一種の貧しさを漂わせて、このモノの足りなさが心を満たすのである。
アパートをつつみこんだ20坪くらいの昭和40年代の建売住宅や市営住宅が、いっそう過ぎ去った時間への郷愁を掻きたてる。この風景の核となっているアパートは今日のぼくの心を満たしてくれる。なら、それは、ぼくにとってアートである。さしあたり、この裏町の住宅街でのアート作品のほかに必要はないし、他のアート作品とくらべて、これが非アートであり無意味なる建築物だと排除するのが、妥当であり、理性的判断だとは思えない。これでいいじゃないか、アートはこれで済むのではないかと、思ってもいいじゃないのかと思いだした。
現実には、現代日本美術、つまり杉本博司、草間弥生や、村上隆や奈良美智など日本人アーティストの作品が億単位で取引されるという国際美術市場の様子などを吉井仁美や村上隆の図書で読んでいくと、どうもアートは、完全に資本主義世界の売買に取り込まれて、もはや超資産家の自己顕示と投資の対象となっており、一流のアートは、その消費資本主義の流れのなかで命を息吹かせているというグローバル世界での現実を、否でも納得させられる。おそらく、それも現代アートの存在の仕方であろうが、ぼくにっとは、そういうアートは、そういうアート、ぼくにはぼくのアートがあればいいと、つくづく思えるのであった。今、現に目前で見ている和美アパートが、ぼくに生きるよろこびを与えてくれるからである。
思えば先週は、瀬戸内海国際美術展を観て廻ったEの話を聞き、そのあまりにも大掛かりというより、島から島をフェリーで回り,宿をとり、相当にきつい、かこくな回航を経ながら、アートをみてまわる国際展に数万人の来観者が押し寄せていたというから、おどろきであった。そこまでやって、アートはなんであったのか、自転車で隣近所をまわるだけでは、ダメなのかとも思えなかったのだ。というようなことで、満足しているとだんだん、あの山の中の池、先々週、自転車であの池の実感をとらえるべく訪ねてみたが、あまりに暑くて途中で引返したのだが、あの池のように閉鎖的に淀んでしまうということになるかもしれない。だからといって、バーゼルの国際美術展に行けばなんとかなるものでもあるまいと思う。
いよいよ秋の到来ではないか。食欲はあるし、心は平穏であるし、戦争もない飢餓もない、さしあたりすることもない、ぼくはこの状況をいくら神(いるとして)に感謝しても感謝しきれない。ただ、今日一日のこの平穏をあなたに感謝しよう。
後はなってみてから感謝できるかどうか判断しよう。秋の午前の出来事であった。
アパートをつつみこんだ20坪くらいの昭和40年代の建売住宅や市営住宅が、いっそう過ぎ去った時間への郷愁を掻きたてる。この風景の核となっているアパートは今日のぼくの心を満たしてくれる。なら、それは、ぼくにとってアートである。さしあたり、この裏町の住宅街でのアート作品のほかに必要はないし、他のアート作品とくらべて、これが非アートであり無意味なる建築物だと排除するのが、妥当であり、理性的判断だとは思えない。これでいいじゃないか、アートはこれで済むのではないかと、思ってもいいじゃないのかと思いだした。
現実には、現代日本美術、つまり杉本博司、草間弥生や、村上隆や奈良美智など日本人アーティストの作品が億単位で取引されるという国際美術市場の様子などを吉井仁美や村上隆の図書で読んでいくと、どうもアートは、完全に資本主義世界の売買に取り込まれて、もはや超資産家の自己顕示と投資の対象となっており、一流のアートは、その消費資本主義の流れのなかで命を息吹かせているというグローバル世界での現実を、否でも納得させられる。おそらく、それも現代アートの存在の仕方であろうが、ぼくにっとは、そういうアートは、そういうアート、ぼくにはぼくのアートがあればいいと、つくづく思えるのであった。今、現に目前で見ている和美アパートが、ぼくに生きるよろこびを与えてくれるからである。
思えば先週は、瀬戸内海国際美術展を観て廻ったEの話を聞き、そのあまりにも大掛かりというより、島から島をフェリーで回り,宿をとり、相当にきつい、かこくな回航を経ながら、アートをみてまわる国際展に数万人の来観者が押し寄せていたというから、おどろきであった。そこまでやって、アートはなんであったのか、自転車で隣近所をまわるだけでは、ダメなのかとも思えなかったのだ。というようなことで、満足しているとだんだん、あの山の中の池、先々週、自転車であの池の実感をとらえるべく訪ねてみたが、あまりに暑くて途中で引返したのだが、あの池のように閉鎖的に淀んでしまうということになるかもしれない。だからといって、バーゼルの国際美術展に行けばなんとかなるものでもあるまいと思う。
いよいよ秋の到来ではないか。食欲はあるし、心は平穏であるし、戦争もない飢餓もない、さしあたりすることもない、ぼくはこの状況をいくら神(いるとして)に感謝しても感謝しきれない。ただ、今日一日のこの平穏をあなたに感謝しよう。
後はなってみてから感謝できるかどうか判断しよう。秋の午前の出来事であった。