市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第16回宮崎映画祭 これ以後、愛は発見可能か

2010-07-31 | 映画
 
 カフェー化された住宅、家の中でもお互いの連絡は携帯電話という生活環境は、メディアが与えてきた消費のキャッチコピーに疑問もなく従っていった結果である。その生活空間を実現したのは、自分という主体があったからではない。主体的思考を失った自己が他人を認識できるわけがないのだ。妻もまた夫を顧みていなかったのだ。それが自覚できない。つまり空虚となった人生が、かれらを追い詰めていったのだ。

 かれらには灯台がない。つまり自分を越える価値基準がない。はげたかの鷲津にも龍馬伝の龍馬にも、自分を越える、自分を生かしてくれる価値観があり、その価値観を抑圧するものとして、現実社会があった。それと、いかに戦うかが、つまりいかに現実を価値観に沿って改革するかに生き甲斐と、義務感を持ちえた。それが正義であり愛であった。しかしスウイートリトルライズの主人公には、戦い、改変すべき現実があたえられていない、いや奪われている。しかもそのことが、強制や抑圧からではなく、逆になんでもありの自由、ありあまったモノに囲まれた環境から発生している。鷲津や龍馬の苦悩は、愛を奪う敵への戦いのためであり、その戦いで自己を高められた。しかし、この夫の苦悩は、戦う相手がない、みつからない。それでいて苦悩、つまり空虚感だけが、ありつづけるという苦悩であるわけだ。灯台守の生活条件とはなり得ない生活であり、これこそ、2010年の現在であり、灯台守の生活に還ることは不可能なのである。

 だから不倫をやってみても、21世紀の空虚感が埋められるわけではなかったといえば、実も蓋もまたないわけであるが、こういう現在生活のふと開いた裂け目のような瞬間、その叙情的風景としてみれば、この不倫ワールドの甘さと穏やかさも捨てたものではないのだ。あの二人が、不倫をなんとか収め、相手に気付かれずに、夕べのマンション外壁にある螺旋階段でハグするシーンが心地よい。かれらは、しっかりと抱き合ってはいない。お互いの腕で相手のひじのあたりを触って、体は密着してなく、お互いの相手への想い、つまり愛は交流していくというエンディングだ。これがハリウッド映画であったら、べたべたキッス、キッスの雨嵐で、それゆえに空しく嘘にみえよう。しかし、この触ったか触らぬ距離感がいい。あなたは、わたしにとって大切、だから守りたい、だから嘘をつくのと、これこそ、仏陀の説いた東洋的英知「嘘は方便」の姿であるわけだ。(笑)

 しかし、この映画でいちばん人間らしく魅力を受けたのは、夫の不倫相手を演じた池脇千鶴の後輩であった。ワンピースがふくれるほどの肥った、7頭身の芋のような若さが、雑誌のモデルのようなスレンダーな妻、中谷美紀との違いは役柄といえ、気の毒なほどだ。しかし、ぼくはつきあうなら躊躇なく、この後輩を選ぶ。それほどの今を生き生きと生きている魅力があるからである。なにを考えているかわからぬ先輩の視線をあびながら、このレストランは、都内で一番美味しいとしゃべり、相手を沸かそうとする。海水欲で、短い足を惜しげもなく水着姿でさらして、はしゃぐ、その生活は、自分の愛を生かすために、生活環境を、選び取り、編集し、演出していく。この生活感覚に二人の夫婦が見失ったエネルギーがあるのだ。おもしろい、元気を与えられる。こういう女性が、たしかにまた出現しているのも現在であろう。

 モノより心の豊かさをと、言われだしたは、石油ショックの後、70年代半ばからであった。そして安定成長と80年代がつづき、なんと安定どころか、低金利の金が溢れかえり、土地バルブで、経済ははじけとんだ。そして90年代の不況、2000年代になって、心の豊かさどころか、中学生でさへ、将来は安定できる職業として公務員になりたいというモノの時代になっている。こころの豊かさへの志向はどうなったのか。その志向は確かにあったし、今もありえてはいるとおもわれる。その心の豊かさは、モノを離れるのではなくて、高度消費社会の欲望の飛翔感や、技術革新の絶え間ない成果によって、満たされていたのだ。パソコン、デジカメ、携帯、テレビ、ハイブリッド車と果てしない欲望を満たしうる製品が心を満たしてきた。スーパーからコンビニへ、メガショッピングモールによる郊外の開発、格安海外旅行、高速道の低料金化、学校の遊園地化などなどとである。

 2010年、0年代の10年が終わる。世界のグローバル化と情報化はだれでも、日常生活の中で実感できる時代となってきた。日本は、技術革新と消費の高度化なしには、生き延びられぬ現実に直面している。これからも息つくひまもなく、経済は技術革新と高度消費化が必須となってこよう。つまり「心の豊かさ」はこれまで以上にモノによって埋められていくはずだ。その結果が、生活のカフェ化でなくなにを生むのか、この回答が愛の問題となるのではないだろうか。では愛するとはなんだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第16回宮崎映画祭 愛することの不可能

2010-07-30 | 映画
 1995年初恋を主題にした「Love Letter」と、2010年作の「スイート・リトルライズ」までに、15年の歳月が流れている。初恋を失った順子が、もし結婚して家庭を築くことができたら、スイート・リトルライズの新婚三年目に入った夫婦のようになる可能性はかなり大きいと思うと、面白い。まちがっても、かれらが「喜びも悲しみも幾歳月」(1965年作木下順二,佐田啓二・田中絹代主演)の灯台守夫婦のような人生はおくれない。これだけは確信をもって言いうる。また映画の主人公を演じた大森南朋(おおもり・なお)は、それだからこそ、この不倫映画の主人公として誰よりも適役として、存在感を発揮したのである。

 大森南朋は、ぼくが日曜のゴールデンタイムに見入っているNHK大河ドラマ「龍馬伝」で武市半平太を演じてきた。先々週に切腹をさせられて死んだので、この後は登場しないのかもしれない。このドラマの前には2007年冬のNHK連続土曜テレビドラマ「はげたか」で、米国投資ファンド会社の日本支社長の辣腕ファンドマネージャー鷲津政彦を演じた。バブル崩壊で打撃を受けた日本企業を踏み殺すような取引条件で、つぎつぎに買収していく行為のため「はげたか」と呼ばれる。それを非難されると「お金を稼ぐことがいけない事でしょうか」と冷然と口にする。この返答の反論しようもない明快さ、どこかで質問者にざまーみろと感じさせるクールな鷲津の人間像に、ぞくぞくする快感を覚えたものであった。それはかれによる日本の現実批判でもあったからだ。かれは、かれなりの正義感が内面を押しとどめられていた。それを殺しながら、出てくる言葉でもあるからだ。しかし、しだいに、その正義感は、表面に現れてきて、最後には米国本社の命令を無視して大空電気の買収を強行、会社とそのその職人的技術者たちを救う。冷酷無常のファンドマネジャーに、しだいしだいに正義感、人間愛というのが、にじみ出てくることが快感であったのだ。それは、攘夷のテロを弟子たちに命令しながらも、ついに人間愛に屈して、藩主と妥協にいたる正義感のあり方とも同様であった。この疎外というよりもっと、もっと激しい内面の葛藤、その屈折をみごに表現する大森南朋の表現がきわめて説得力があった。その内面の奥の闇のような感じは、この映画の夫役でも十分に漂っていた。だが、なにゆえにかれは、葛藤する内面をかかえこんでいるのだろうか、きわめて分かりにくい。だから魅力もあるのだ。

 この映画は、結婚して3年目の夫婦が、お互いに不倫してしまう。しかし俗に言われる「3年目の浮気」というようなそんな軽いものでないというモードで、えんえんと二人の生活が描かれる。あげくのはてに、夫も妻も浮気の相手と決別して、もとの日常に戻るまでの物語だ。それは、キャッチコピーによると、「人は守りたいものに嘘をつくの。あるいは守ろうとするものに。」という妻のことばで要約され、主題となる。一見意味深のコピー文言は、ありていに言えば「嘘も方便」という実もふたもない世間知に還元できるのであるが、そうとはならない、嘘も方便で納まるような世間知などではなく、とにかく内面の波立ちであるのだと言わんばかりだ。この心象を大森南朋は演じているし、監督もその内面表示に力点を置いている。しかし、なぜ嘘も方便という露骨な用語が似つかわしくなく「人は守りたいものに嘘をつくの」という思わせぶりなキャッチコピーが適切なのか。それはこの映画の基底にあるものが、まさに現実ではなくムードという虚構的現実の舞台であるからだ。

 珍しく、この映画は昭和レトロの下町を舞台とせずに、中間所得者層が暮らしている住宅街で、瀟洒な白を基調としたマンション風住宅に囲まれ、二人の部屋のベランダからこの無国籍な住居群が風景となって眺められる。妻の趣味なのか、寝室はローソクの灯りをともし、朝起きると消すようになっている。ねじ巻きの柱時計とか、レトロな品物があちこちに置かれている。朝食には大きな白い皿にトーストやらバターやらがちょっぴり置かれたムード食である。コーヒーはサイフォン式で入られる。妻はテディベアの製作者で、これもレトロ作品だ。住宅はおそらく妻の好みによって、完璧なほどレトロ調カフェにされているのだ。夫はここから、IT関連会社に出勤していく。帰宅すると、自分の部屋に入り、液晶大型スクリーンのパソコンゲームとそのサラウンド大音響に包まれて時間を過ごす。夫と妻の連絡は、携帯電話が使用されている。ごく自然にまったく当たり前にである。

 前回、ぼくはパソコンメールやインターネットがどの街にいようが、アメリカに暮らしていようが、距離感なく瞬時に連絡可能のショックを書いたが、隣室の夫とワシントンの知人との連絡がまったく同レベルであるとは、あらためて衝撃的な事実なのだと思えるのであった。隣室もアメリカ首都も距離感は消滅してしまうのだ。カフェと化してしまった夫婦の住居からは、生活のもつ実感ではなく、虚構というムード的生活が主体を動かしているのだ。しかし、夫も妻もそれに気づくことができない。なぜか。かれらは消費社会というブロイラー、もしくは飼育農場の主体的存在である牛や豚や鶏の生活を強いられているからである。その動物たちとおなじように運命を知りえないのである。飼育動物には餌が、人にはムードが与え、られつづけられる。

 以下次回へつづく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第16宮崎映画祭 愛の展開

2010-07-28 | 映画
1995年作岩井俊二監督「Love Letter」は、いつの時代に製作されてもおかしくない失われた恋の追憶が主題である。

 タイトルのLove Letterは、便箋にペンで書き、封筒に入れ宛名と自分の住所を書き、切手を貼って、近くの郵便ポストに投函し、やがて恋人から返信が自宅あてに届くという一連の作業をつづけられることである。ヒロイン博子は、恋人であった藤井樹を登山の遭難死で失っていたが、あるとき、かれの母親からみせられた中学卒業名簿をみて、異郷に住んでいたかれの住所宛に「お元気ですか。私は元気です」という手紙を投函した。忘れがたい追憶を癒すためであった。ところが、藤井樹の名前で返事がとどいた。同姓同名の女性が、居たのだ。しかも彼女と樹は、同級生であった。ここから、二人は、藤井樹についての思い出を手紙に託して交換をはじめる。純にとっては恋人、樹にっとは、同じクラスで同姓同名ということで、クラスメートからやっかみ半分のからかいの的となり、反発をぶっつけあう仲であった。しかも二人は、図書委員として図書館の仕事もしていた。彼は、読書好きで、本の裏表紙に貼付されている貸し票には、藤井樹の署名が新刊に片端から記されていた。二人は手紙の交換で、生前の樹の見知らぬ面を知ることになる。交換は、同級生であった二人の卒業式の最後の別れの日のことで終わったのだが、その日のこととは、かれが最後に図書室から借り出した本を、彼女の祖父の葬儀に朝にとどけて、いつものように、だまって本をさしだし、そもまま門を去っていったことであった。彼女は、卒業して数年後に母校の図書館司書として勤務しだした。図書委員たちは、書棚の本のほとんどに藤井樹の貸し出し記録があるのと、彼女を比べて、かっての二人の仲をおもしろおかしく推察して、彼女をからかっていた。それを否定する彼女であったが、ついにある日、図書委員の生徒たちは、図書「失われた時」の貸し出し票藤井樹の裏に彼女の克明な似顔絵が描かれているのを発見、彼女に知らせたのだ。この小説こそ、かれが別れの朝に自宅で手渡した本であった。彼女はこれを自分の胸中にだけとどめた。

「Love Letter」は、青春の甘くせつない恋の抒情詩として納得のできる内容であろう。二人の時代は、中学卒業が1984年、それから高校・大学時代を加えて、1989から1990年ごろのお話である。あるシーンでパソコンが出てきて、変な形のパソコンと思ったが、あ、ワープロだったかと気づき、88.9年ごろはまだワープロしかなかったなと、思い出すのだった。あの当時、キャノンのワープロを37万円で購入したことをも懐かしく思い出す。もちろんパソコン通信もほとんど無かった。それからようやくパソコンを購入したのは1990年であった。

 そして製作年1995年はどんな年であったが。この冬の1月阪神大震災が起こった。3月オーム真理教によるサリン事件が起きた。91年のバルブ崩壊後の不況が、構造不況の状態となり、この大災害と事件を目のあたりにしてようやく、人々も戦後の豊かな日本の崩壊にきづきはじめだした年であった。宮崎市では、第一回映画祭が開催され、ライブをやっていた一部のわかものたちは、完全宮崎主義というタウン誌を発刊、あらたな文化運動をやっていた。翌年は宮崎国際音楽祭の第一回が開催された。しかし今思うとどの運動も、文化状況が深層崩壊を起こした現実に気づきも立脚もできない状況であった。そして、宮崎市では、パソコンもパソコン通信もまだまだ一部のものにしか使用も利用もされていなかったのである。

 時代は変わった。しかし、パソコンと電子メールの普及は、宮崎市ではまだまだであった。ようやくパソコンが普及しだしたのはウインドウズ98、いやエクスプロラーの2000年代に入ってからであろう。この映画が封切られた1995年は、まだワープロのやっと日常化された時代であったのだと、今あらためておもいだせるのであった。便箋に万年筆もしくはボールペンで文を描き、宛名書きした封筒に入れて、切手を貼って近所の赤いポストに投函して、手紙を送るというのは、ノスタルジーに満ちた慣わしになってしまったのだ。ラブレーターが成立するにはまずこの習慣が要る。今は電子メールで一瞬にして、どこにいても世界中どこででも連絡可能である。先日、ぼくは14年ぶりに知人に、ある情報を知りたくて連絡した。インターネットで、知人の名前を検索すると、現在の勤務先と彼女の会社用のメールアドレスも入手できた。すぐに返事が来た。そこには懐かしいとか、思い出とかの情緒的な要素は完全になかった。彼女はもはや通信記号でしかなかった。

 さらにもひとりの知人はアメリカのバージニア大学の農学部教授として勤務していたが、ここもクリックで、また姪のひとりはジャカルタで、もう一人はノースダコダにいた。その環境はどうなのかも、インターネットの映像はクリック数回で伝えてくる。さて、映画では、手紙の最後の交換を終わったあと、ボーイフレンドと、恋人が遭難した山にでかけ、その山頂にいるとおもわれる樹の霊に呼びかけて、自分の新しい人生をスタートさせようとした。博子にとっては、樹の暮らした小樽も、東北の山も遠い異郷として想像できたのだ。時間も場所も手のとどかぬものとして存在していた。しかし現在、そのような実感はない。均質なのっぺらぼうの無機的時間と空間がまずあるわけだ。このような情緒的な現実は喪失し、うばわれた時空間にあるわけである。

 さて、失われたものをもっと映画にそってかんがえてみると、失ったものは、恋人にとどまらず、陰影と幅をもった時空にとどまらず、かってあった日本でもあったといえる。もはや、豊かな日本ではなくなった。がんばれば明るい未来が期待できる社会もなくなった。社会を変えるという価値観も機能しなくなった。自分の暮らしてきたこれまでの日常が、崩壊したのだ。この崩壊からどう立ち上がりなにをなすべきかが、じつは個人の生き方として切実な問題として問われてくることになる。

 この映画の最後で、博子が叫んだのは、新しい再生の叫びではなかった。ボーフレンドも博子の決意を山頂を前にして得られなかった。博子にもだれにも、まだなにをすべきかがわからなかったのだ。ただ、恋人が死んだことだけが理解できるようになったと思われる。かってあったの日本の崩壊が、またこの映画でも語られているとおもえるのだが、いかがであろうか。いや、時代の文化は、避けがたく映画表現に、かぎらず芸術には影響を与え、それをどこかにとどめている。この影響のない芸術表現、そんなものは、ほとんどの宮崎市のアートとおなじく暮らしにとっては、雑音に過ぎない。観るに値しない駄作ではある。今年の映画祭は、この意味ではかってないほど、興味をひくのであった。ではおなじ恋情でも、2010年の今日はどう表現されているのであったか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第16回宮崎映画祭 愛の不在と過剰 2

2010-07-22 | 映画
 その後のユウは、この盗撮技術を習いたいという仲間ガ現れ、かれらと、日夜その訓練に励む日々を送ることになる。その技術というのが、隠れてスカートの下を撮るというのではなく、狙った女性のまえで逆立ちや逆回転、キックや顛倒などの高度な運動でシャッターチャンスをつかむのだ。この技に魅せられたジャンキーたちが、弟子入りしたということで、倒錯的性とは無関係のスポーツとして、かれらは修練に日夜、励むことになる。

 そんなある日、弟子たちと盗撮のエロ度を競り合い、負けたために女装して街を歩き女性を口説くペナルティを負うはめになって、仲間と街をあるいていると、街角で男たちを相手に空手やキックボクシングで戦闘をする女子高生に驚嘆し、自分も喧嘩にくわわり、男たちを二人でなぐりたおしてしまう。そのとき、ユウはその女子高生ヨーコにマリアを重ねる。二人はこの瞬間、強烈な絆を感じ恋い慕うようになる。しかし、ユウが男であるとはヨーコにはわからず、二人の間は携帯で連絡するしかない日々がつづく。ところが、転校したヨーコが、同じクラスメイトとしてユウの教室に入ってくる。だが、ユウの自分への視線は、ヨーコにとっては嫌悪感でしかなかった。彼女は、性的虐待を義父から受けたトラウマがあり、ユウの目つきは、その記憶を思い出させずにはいなかった。こうして、初めからユウは、ヨーコにことごとくはねつけられていく。

 ところが、ヨーコの義母は、ユウの父を破戒させた女であり、ふたたび父の元にもどり、今度は結婚してしまう。そこでヨーコは、妹になってしまい、恋情を告白することが不可能に近くなってくる。さらに、結婚したため教会を破門され、前からかれの一家をゼロ教団に拉致したいと狙っていた教団によって、ユウの下着盗撮の写真を学校にばらまかれ、かれを真人間にしたいと、父と義母、ヨーコ三人だけで、ゼロ教団に入門する。そこで仲間たちが、ヨーコを教団からさらい出し監禁し、ユウに教団脱退の説得をつづけさせるが、不眠不休で連日続けるも洗脳は解けず、そのうちに居場所を教団に発見され、ゼロ教会幹部はユウの去勢をヨーコに強いるが、彼女が出来ないでいるのを助けるため、ユウもその場でゼロ教会に入門してしまう。

 兄・妹となり、ゼロ教団の信者とされ、ヨーコは、十重二十重のバリアの向こうへ遠ざかり続けていく。洗脳は最終レベルに進もうとしていく。ここを越えたらもうヨーコはこちらに戻れない限界になっていった。ついにかれが最後にとった手段は、教団本部の壮大なビルの最終レベル洗脳会場にダイナマイトを設置し、日本刀を手にして、会場に乗り込み教団幹部を惨殺することだった。幸い教団の悪がテレビメディアの報道で周知されていて、教団の壊滅は民衆の喝采を浴び、ユウの家族も無事、日常にもどれたのであるが、ユウは精神異常者として監禁され、そのまま記憶をうしなっしまう。この激闘のさなかのヨーコは、ユウを絞殺しようとするのだが、なぜか、一気に殺せない感情に襲われし遂げられなかった。あの一瞬に見せたユウのヨーコへの無抵抗や、教団から自分を救い出そうとするさまざまの愛の行為が、記憶によみがってくる。そして、遂にユウこそ、自分の恋する女さそりであったと気付くことになる。それに確信が抱けたヨーコは、ユウを精神病院が助け出す決意に到達できたのだ。歓喜して、かれに面会に行くが、こんどは、ユウが彼女を認識できなくなっていた。しかし、ユウは、ヨーコに頑強に抵抗しまくり、彼女は、かけつけた職員らに取り押さえられ、警官に引き渡された。彼女を乗せたパートカーが今や精神病院の門を出ようとした瞬間、ユウは,記憶がよみがえりヨーコを思い出す。そのまま走り出てパートカを追う。それに気づいたヨーコは、運転手を制圧し、停車する、追いついてユウは、パートカーの窓を叩き割って、二人はついに出会えるという結末まで、一気に展開していくわけである。

 あえてストーリーを紹介してみたが、これだけを見ると、きわめて単純な、願望達成型の戦闘物語、この手の映画はハリウッド映画に満ち溢れている。4時間もの長時間作品でありながら一分も退屈させないのは、あるときは、クエンティン・タランティーノを、あるときは「卒業」を、そして「真夜中のカーボーイ」を「ダイハード」をとエンターティメントのルールを満たしつつけるからである。しかし、これらの映画とは文脈が違う。つまり、ヒロインユウの行動は、かれの生きる世界という制度のどれとも繋がってないことだ。帰っていく家族もない。帰属できる組織もない。国家も、宗教も教育もない。隣近所のコミュニティもない。つながる世界がないから、世界のためという成果や目的もないのである。さらに、もう一つ、願望達成の情念をもちながら、どこまでも草食系のままの男なのだ。英雄でもテロリストでもない。無欲と淡白と、イノセントな自己放棄だけがある。執念や妄執、それが発動させる「がんばる」をかんじさせない。バイオレンスと、その淡白さの対比をみごとに演じる若い俳優は、かぎりなく魅力をぼくに注いだ。ここには、願望達成型のヒーローはいないのだ。「愛のむきだし」はこの特異なユウのキャラクターと、その行動を提示する。

 すべての制度が役立たずとなり、未来に希望がない。1995年新世紀エヴァンゲリオンの日本の変化から、解体が深くなった、まさに2010年の現代日本である。だからこそ、生きるためには、くよくよ考えるよりも行動しなければなにもはじまらない。それは、がんばるとか、消費の欲望を最終的に満たす達成感の追求ではない。マリアを探すということである。ユウはマリアを、世間から崩落した少女ヨーコに見出したが、世界からずり落ちているからこそ、消費の対象となっていないのだ。その意味では、ヨーコでなくても、なんでもいいのだ。それが消費行動的欲望の対象にならないならば、たとえば犬のチップでもいいし、庭の花でも海岸でも野の道でも街角でもいいのだ。これらすべて、目的とか達成とかの欲望の「いけにえ」にしないかぎり、マリアとなって存在できるのだ。愛というのをむき出しにしてしまえば、これしかない。このマリアを核にして雨、雪と結晶が成長していく。このことを強烈に認識させだしたのが、かれの行動である。この行動こそ、崩壊し、未来を喪失した日本社会の未来を可能にすると、(愛」は象徴している。1995年、その年とはなんだったのか、これを映画祭上映作品「Love Letter」で、知ることができる。以下。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第16回宮崎映画祭 愛の不在と過剰

2010-07-20 | 映画
 今年の宮崎映画祭は、これまでにない特色をもっていた。まず日本映画が上映14作品中、10編を占めた。そして、上映前作品の10編は、「愛」をテーマにしていることである。「愛のむきだし」[Love letter」「スイートリトルライズ」「ずっとあなたを愛している」などの愛まみれのタイトルに違和感さへ覚えたほどである。これほどまでに愛が提示されるのは、なぜなのか。なにが生じたのか、ここに異様な関心を惹かれたのである。おそらく、背後にあるのは今日、日常に愛が豊かではなく、愛が枯渇しているからであろう。他方、大衆レベルにおいて、NHKドラマ「げげげの女房」は夫婦愛を毎朝に放映、高視聴率(20%超2000万人以上の視聴者)を獲得し、また日曜夜のゴールデンタイムには大河ドラマ「龍馬伝」をもって、国家愛、郷土愛を情熱のかぎりで叫ぶ、龍馬の青春を描きだしている。ぼくも毎朝、げげげに現(うつつ)を忘れ、日曜日の夜は龍馬伝で高揚している。かくして今を虹色に染め上げる詐欺師(プロデューサー)の語る物語に抵抗できないカタルシスをもらうのである。

 映画祭の愛をテーマにした映画は、どうであったか、愛の不在と愛の氾濫という奇妙な並存を示している現在と、どう関係しているのか、8本の作品を見たが、見終わってみると、ぼくはこの視点だけを中心に見てしまったと思う。ただ、最初に言ってしまえば、どの作品も映画のレベルは高く、そしてエンターテイメントとして無類に楽しめた。とくに園 子温(ソノ シオン)監督の「愛のむきだし」と、三木 聡監督の「亀は意外と早く泳ぐ」おなじく「インスタント沼」は、これまでぼくが抱いていた日本映画はおもしろくない、うっとうしい、自慰、文芸かぶれの愚劣作品という負の印象を、今回はおどろいたことに吹き飛ばしてくれた。だんだんぼくは思うようにはなってきてはいたのだ。日本映画はおもしろくなってきていると、まさにソノ予想にこたえてくれたのである。4時間という超大作、露骨なタイトル「愛のむきだし」は初めから中途退席をかんがえて会場に入ったところ一分たりとも目をはなせない、おもしろさに驚嘆させられたのであった。

 この「愛のむきだし」は、破天荒の愛の物語としてはちゃめちゃに面白い。経験なクリスチャンの家庭に育つユウは幼児のときに、母と死別、母が予言したマリアのような女性とめぐりあい、その愛をうるまでの運命の出会と終着の物語である。映画はきわめて、コミック・アニメに似た表現であり、さらにパソコン・ゲームの戦闘シーンを思わせ、実写映画でありながら虚構性の飛翔感があった。そのようなことで、ただちに連想させられたのは、「新世紀エヴァンゲリオン」であった。そこで、エヴァとむきだしを併置してみると、思いがけない平行線としてならべられるのが分かった。
 
 エヴァの主人公シンジもむきだしのユウも幼くして母と死別している。シンジの父碇ゲンドウは、使途という巨大生命体から地球防衛をする防衛基地の司令官であり、ユウの父はキリスト教会の神父である。ゲンドウの軍事施設もエヴァンゲリオンといい、アダム再生計画とか、人類補完計画という、怪奇な宗教的な雰囲気を漂わせている。その点ではゲンドウも神父だ。シンジは、レイ、アスカ、ミサトという女性戦士たちに愛を注がれるが、ユウには戦闘美少女のヒロイン、ヨーコと、ゼロ教団幹部の武闘派女性がいるが、無視か嘲笑の的である。シンジの父は、不倫の末、この相手を自殺に追い込む、ユウの父は、神父でありながら信者の執拗な誘惑に抵抗できなくなって同棲を始める。シンジは父の命令する戦争に懐疑的で、エヴァンゲリオンの操縦を可能な限り拒否する。ユウは父の命令、一日にかならず一つ以上の罪を告白せよという要請を貫きとおす。シンジは、父にも、3人の女性の愛にもこたえられず、重傷を負ったミサトトの裸の胸をみて、マスターベーションに終わる。ユウは、ヨーコとついに結ばれ、かれのマリア探しは満たされる。エヴァは暗く、むきだしは明るい。両作品は、なにかも反対に出来ているのである。これは偶然であったのか、あるいは意図的であったのか、それは、調べてみるとわかることであろうが、どっちてあったとしても、ぼくにはたいした意味はない。このまさに反対であるということ、この対照性こそ、考える出発点になったのだ。

 ぼくがなによりも関心が引かれるのは、シンジとユウの意識の対象性である。シンジは他人との関係で傷つかないように深入りできない。戦いながら、戦うことを懐疑せざるをえない。従って内向的であり、行動よりも引きこもりによって社会と対峙せざるをえない。ユウは、他人との位置関係を考えることができない。おそろしく無垢な態度で他を容認する。それはドンキホーテ的な自己幻想によるものではなく、どこか柴犬やシーズ犬が人に示す無垢な愛情表現を想像させる。さらにシンジの暮らしているのは、日本を襲う使徒の攻撃する新東京市という首都ではなく、「NERV」という軍事施設のある都市で、食う心配もなく平常安全に生活している。それにくらべてユウは、荒廃した消費都市に住み、毎日が生き死にに関係する現実に直面せざるをえない。なにもせずに引っ込んでいることはゆるされない。この生活環境の違いが、二人の意識と行動を規定していることに、ぼくらは気づかされるのである。これでもうわかったことと思うが、1997年「新世紀エヴァンゲリオン」の時代とくらべて、「愛のむきだし」の2008年の今日は、もはや「引き込める」余裕は無くなってきているということである。 
 
 どちらかというと、シンジと同じ草食系の若者ユウが戦闘家になるという前半の展開は、着想の奇抜さと言い、今日性といい、息をのむほどおもしろく、かつ暗示的である。物語は、母を失ったユウが、神父である父親と寂しいながら穏やかな神父館での生活からはじまるのだが、ある日、教会に入信した女性の出現で崩壊する。父が彼女の誘惑に抵抗できなくなって、彼女と同棲を始めるのだ。しかし、3ヶ月後に彼女は失踪する。この日から父は、ユウに毎日、かならず罪を告白せよと強要しだした。しかし、ユウには、自分が犯せる罪が発見できない。盗みをするには、ものには満ち足りて、欲しいものがない。女性には燃えないので性的罪も犯せない。告白する罪が嘘っぽいと、父は怒り狂って、かれを攻め立てるという日々が繰り返されていく。そんなとき、突然、かれは天啓によって若い女性たちのスカートの中を盗撮する行為を実践し、この写真を持って、神父の父に本日の罪として差し出した。仰天した父は、誘惑に屈した自分へのあてつけと激怒して、かれを殴りつけるのであった。しかし、ユウは、父がはじめて自分の罪を認めてくれたと歓喜するのである。これを契機として、毎日、真の罪として下着デジカメ写真が父にさしだされる。怒り狂えば狂うほど、父は、息子を安心させ喜ばせることになるという矛盾に気づかされ、ついに告白の強要をやめて、そのまま憑きが落ちたようにもとの慈愛の父に戻ってしまう。

 しかし、逃げていた女が義理の娘をつれて、父のもとに戻ってくることで、ふたたび父とユウの生活は狂いだして、ユウはふたたび行動に駆り立てられることになる。

 この無限につつく行為、これが愛なのである、といいたいのか、物語は、執拗に限界状態までにユウを追い込んでいく。今日の愛とはなんなのか、、かくして驚くべき愛の真実がむきだしにされていく。以下続行。

 
 

  

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欲望と電子書籍

2010-07-13 | 文化一般
  サッカーも選挙も終わった。ドイツの水族館の蛸が、ドイツチームの勝敗を予言し、かつ優勝戦も予言、すべてを的中させた。ドイツがスペインに負けるという予言どおりになったとき、ドイツのテレビ視聴者は、怒って、蛸をゆでて寿司にせよと、水族館に抗議をしたという。だったら、はじめから予言などに関心を持つべきではないと思うのだが、蛸のパウル君はいかにドイツ大衆の欲望を満たすかと期待されていたのだ。かれはそんな大衆の期待などは無視して、行為しただけであり、その純真さがいい。こんどの選挙運動のあれやこれやと、各候補の演説を聞いていると、そこにあるのは、ただ本人の欲望のみがある、日本が良くなるとか、庶民の生活が安定するとか、経済が強くなるとか、そんなことは、かれにとっては、本当は、どうでもいい予言にすぎず、さしあたり自分が当選するという欲望のみが行動をかりたてているとしか思えない。だから期待すべきではない。ぼくにはさしあたり関係ない。今は現況を自分の力でますは生きていくしかないのである。欲望は予言よりはるかに強しであり、リアルである。

 昨日の電子書籍化の続きに入ろう。まず、宮崎県立図書館の書庫内の本は、90パーセントは、何年に一度しか読まれない。いや、ほとんどの本は何十年も読まれずに保存されているという状態であろう。それは本の貸し出しカードを見てみるとわかる。その本が直近でいつ貸し出されたかをチェックすればいい。そして、何べん貸し出しされているかもわかる。その死蔵に近い蔵書を電子化してしまえば、外部記憶装置の技術的進歩で、おそらく携帯機器に納まってしまう。理論的には1立方センチの記憶素子に2万年分の新聞を保存できるということもいわれている。近い将来、電子書籍化によって、県立図書館の蔵書がポケットの記憶装置に電子化されているということの、メリットというのは、どうかんがえても否定できないわけだ。それは空想でも幻想でもなく、技術的に解決できる。すでにアメリカの議会図書館全蔵書の電子化が進められているのだ。

 それでも本は、本の価値がある。読書は本でしか満たされぬ。あの手触り、匂い、デザイン、そして生活の中にあることの文化と、本の価値が電子化書籍と対比される。だから電子化は無用というのか。そうではなくなりつつある。そこが問題である。電子化も仕方がないというメディアの変化を容認せざるをえない状況になってきたのだ。このためか、電子書籍は、可能なかぎり紙の本に類似した形態・感触をとどめながら実現されている。

 精神科医でかつ思想・文化評論家である斉藤環は、今や、電子書籍化への期待を先日、毎日新聞紙上に発表していた。そのとき、本に対する人の記憶は、情報記憶と触感記憶があると(ちょっと表現は違ったかも)いう。本の記憶でこの触感記憶は忘れがたいので本は今後も残っていくというのだ。そういう記憶に関係してか、電子書籍は、できるだけ本の感触に似せてある。しかし、この紙の書籍と類似した電子書籍は、ほんとうに人の電子書籍への欲望に答えているとは思えないのだ。

 ディスプレイのページを、指でまくりながら読んでいくというのが、本の感触と似ているとは思えない。ページはまくれないのだ。本のようにさっとめくったり、ぱらぱらとめくったり、その感触はありえない。ページをめくって、必要なページにいっしゅんに行けるのは、ディスプレイの表示を指で一枚一枚めくっていては不可能であろう。

 電子化された本は、パソコンのファイルとしてPDFファイル(Portable DocumentForm)の特質を備えているのが、まず必要である。どのページにも傍線が引け、必要箇所の指定コピーができ、これら保存されたコピーのワード検索ができることが、指でページをめくるよりもっと基本である。電子書籍はコンピュータファイルとして、紙とは異質のメディアになったのであり、その特色を最大に発揮するのが、もっとも合理的であるし、利用者の欲望を充足できる。

 1985年ごろ、ぼくはワープロを使い始めたのだが、しばらくすると原稿用紙が画面にでるものがあって、そこに原稿を書くというのがあったが、なんの役にも立つものでなくて忘れられた。はじめはワープロで原稿が書けるものかと思っていたがだんだん慣れてきてやがて、1990年にパソコンのソフト一太郎に移ったころは、もはやワープロ無しには原稿も手紙も年賀状も書けなくなった。つまり感触記憶は完全に消滅してしまい、ワープロが肉体化されていった。電子書籍も人の欲望に沿っていくかがり、完全に馴染んでいってしまうはずである。

 本を電子書籍でしか読まなくなった社会は、近未来に実現するはずである。電子書籍が日常化するのは、数年以内であろうと思う。そのような世界、街から本屋や公民館図書室や、図書館やが影が薄くなり、新聞社も生滅してしまった社会を想像する。それでも人は生きていかねばならない、そんな時代であろうかと思う。それは、情報の過剰で狂ったような世界の出現になるはずだし、情報の制御や利用の方法もまた進歩する社会であろう。孫の時代の文明社会とは、ある意味ではおもしろい世界なのかもしれない。孫に必要なのは情報をどう管理するかであろう。そういう時代は時代で孫の世代はうまく情報を操作していくのであろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不用品処理への展開 電子書籍化へ

2010-07-10 | 文化一般
  どうやら電子書籍化の実現が加速されてきた。予測以上の短時間のうちに電子書籍はわれわれの日常にありふれたものになるのではないか。携帯電話のように。

 一刻も早く、電子書籍の実現を熱望するのは、ぼくの部屋は自宅でも、このギャラリーでも、本の置き場がなくなってきているのだ。数年内にあと、500冊くらい買いたいと思うが、1冊購入のたびに確保不可能感が強まる。つぎにダンボールに押し込んだまま、5年以上も放置している本を、資源ゴミに出せないままでいる。息子たちにその処分をまかせるしかない状態がある。自宅からの蔵書の消滅をどうするかを、図ってしか購入をすすめることができない。そして、ぼくは本をあらゆる場所で読みたい。最近は、喫茶店でレストランでサイクリングの目的地で、電車、航空機、温泉、病院で、ありとあらゆる場所がTPOとしての読書環境となりうるのた。そのときのためにいつも本を数冊携帯しているのだが、文庫本にして3冊くらいが限界である。文庫本でないハードカバー本こそ読みたいものもあるが、この携帯は1冊が限界である。まして雑誌となると、ほとんど不可能に近い。一冊でも携帯不便な大きさ、冊子形式であるからである。

 本は保存、廃棄、管理でじつは、きわめて不便な物品であるのだ。なぜ本を物体として認識できないのであろうか。電子書籍化へのエッセイなどを目にすることが多くなったが、本はゴミであるという、あるいはゴミになるという発想がないのが、不思議なくらいである。

 ゲーテ(1749-1832)は図書館の書庫は「本の墓場である」と言った。今から200年以上も前であるなら本は貴重品そのものであったろうが、そんな時代でも書庫に収められた本はミイラとして認識されている。今、宮崎県立図書館の書庫は、ほぼ満杯50万冊くらいの蔵書が保存されているに違いない。その蔵書の管理がどれほど人と経費がかかるものであるかを、想像してみよう。巨大は収蔵庫の建設費、その償却費、電気代、空調費などがまずいる。じつはそれだけでなく、図書館の蔵書は絶えず増加しているので、有限の空間のなかにどう無限の図書をもっとも合理的に収納するかの問題がたえず発生し、管理の問題となる。おそらく、県立図書館は、電子目録を備えた現在でも、書架の配列は、開架書架も書庫内書架も日進十進分類の4桁の分類番号の順番に並べられていよう。そこで、なにかの要因で、たとえば4204(物理学理論)が急増したとすると、その部分を確保するために、以下の番号の本をすべてずらしてならべねばならないということになる。県立図書館がまだ県庁舎まえに会った(1990年以前)は、毎月一日を休みにして、全館員が書架の並べ替えの作業をやっていたという。とくに1990年にちかづくにつれて満杯になった書庫内図書に移動は急務となり図書の配置換えは、過激を極めていった。実は、本を購入順番に並べれば、増加する分は、末尾になるので少なくとも分類番号で「ずらす」必要はなくなる。本は、コンピュータ目録で探せる。そのための電子目録であるはずだが・・。

 これは図書館の蔵書管理を分かりやすく簡単に書いてみたのだが、その他、逐次刊行物といわれる新聞、雑誌などの管理などもある。これらの蔵書の保存、管理に多大な労力が使われ、その大半は単純労働であるために、その労働が図書館の仕事として認識されるにつれて、図書館の専門性は希薄されていく。今の宮崎県立図書館について、前松方知事は、新聞に自伝を連載して、自慢の文化行政だと自負していたが、それは見かけの建物だけである。現在も貸本屋の状態を脱出できないのは、こうした本の災いが解決されていない現実にも関係がある。図書館司書の専門性というのは、書庫の管理でなく情報/本の収集と提供と、情報の編集/発信である。現実は、巨大倉庫の単純労働と貸本作業だけになっている。そんな場所に移動したくないという本庁、教育委員会の事務職員が、移動させられくるからである。ここで本はゴミでしかないのであるから、ゴミ処理にはその程度のスタッフ配置でよかろうと考えられしまうらしい。

 ぼくは、1968年に英国の公共図書館に調査のため実習勤務したことがあった。その日々、ヨークシャー州ウエストライディング・カウンティライブラリーの本館では、開架室の書架を担当司書がまわって、トーマイ袋みたいなおおきな麻袋に、目の前の開架書架から、本を一冊づつ引く抜いて、その場でばりばりと表紙を破り、本を引き裂き、袋に放り込んでいるのだった。あるとき、かれと並んでその作業をしながら、もったいないとつぶやいたところ、かれは、この書架の場所にどれほどの建設費がかかっているのか、考えてみたまえ、読まれもせぬ本をならべて、書架を殺すよりも本を殺してほうが、ましなのだよと答えれられ、その合理主義の価値観の違いに瞠目させられたことがあった。

 さらに1994年ごろ、東京都の貿易品倉庫を見学してまわっていたとき、体育館の何倍もあるよな倉庫が十棟も並んでいる広大な場所に来た。ぼくはその倉庫を覗きこむと、そこにあったのは、直径が5メートル近くに見えた巨大な紙のロールであった。それが50メートルもある奥へ伸び、横に何十列と置かれていたのだ。ロール紙の巨大倉庫であった。次の倉庫も、次の倉庫も、次も紙ロールが収納されていた。あのときぼくをつつみこんだのは、いいようのない怒りと絶望感であった。これほどの紙のためにどれほどの森林が破壊されたのであろうかという思いだった。そして、これがわが国の新聞紙になっていくのかということ、その趨勢は止め様が無いという絶望感に沈み込んだのだ。帰りの自転車は重苦しく世田谷の五本木まで、快楽気分を喪失してペダルを漕ぎつづけた。紙、紙、紙、その文化がどれほどわれわれを豊かにしたのかと。

 本の電子化は、この紙の消費を押さえこむことが可能なわけである。本という物質による労力を解決してくれるわけである。

 ここで、ぼくは本が残るか、残らないかということには、ほとんど関心がない。ただ電子書籍だけに関心がまずはある。図書館や紙資源について述べたことは、電子書籍が進んだとき、克服できる経済効果についてのべたまでである。そうなって欲しい願望はあるので、それには、電子書籍の実用化を願わざるを得ないわけであう。そのためには電子書籍はどのような特性をもつべきかを、論理的に推定しなければならない。これには、センチメンタルjは視点を排除するということがまずは必要である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮崎市 今日は晴れ

2010-07-05 | 生き方
 
 夕べは 午前一時過ぎからチップが落ち着かず、明け方までに午前1時半、午前3時15分と外へ連れ出したが、排便するでなく、帰ると隣の部屋に行ったり、風呂場に入ったり、廊下から外をうかがい続けたりと、ぼくも寝つかれずに、そのまま朝になった。前日からつづいた嘔吐やら、皮膚炎のかゆみも納まっておらず、さすがに今朝は食欲喪失、ぐったり横たわっていた。10分間ほど(犬の1分は人の6分)、マッサージしてやると、気持ちよさそうに横たわっていた。それからクリニックには出勤が遅れると受付に電話して、そのまま9時前に青木病院へ。皮膚薬、かゆみ止め、嘔吐おさえの注射をしてもらって、ようやく元気そうになり、そのまま出勤した。ほんと、節子はなぜか神経痛が納まらず、これでぼくが歩けなくなったらチップはどうなるんだ、これから容易な問題ではなくなってくる予感がする。
 
 7月2日映画祭(第16回)が始まり、日曜日夜8時からポーランド映画を観た。暗すぎる。あんな北欧の風土、石倉のようなところが住居で石灰質の混じってどろどろとして荒地のひろがる街はずれが、暗さをいっそう募らせる、映画と実際の風物は、ちがうかもしれないが1968年のころのぼくの記憶では、北欧の暗さは底知れぬものを感じてはいた・・それに比べて日本の風土は楽なもんだと、ぼくは思ってしまうのだが、今週九州、宮崎県は、宮崎市街を除いて洪水災禍が、テレビで繰り返し報じられているのに、そう思う。

 今日は月曜、今朝は抜けるような晴れだ。この晴れ感は6月12土曜日以来の雨、曇りの連続のとぎれた隙間であるのかもしれないが、爽快感は気分を引き立ててくれる。蒸し暑さもまだ感じないですむ。

 先週、木曜日の夕方だった、そのときはチップは元気で、夕方早くに散歩に連れ出して、我が家の前に近づいたとき、班員のAさんに出会った。あれ、今日は早いですなと声をかけると、
「やっと、終わりました、口蹄疫」というので、かれの時事の挨拶に共感した。かれは燃えないゴミの運搬を市の仕事でやっているダンプのドライバーだと知っていたので、どうやら感染が納まるようだという、市民に流れてきだした安堵感の挨拶かと思った。ところがそうではなかった。口蹄疫の実際作業のことだった。おもわず、驚愕してしまった。わが12世帯班、80歳以上の世帯主が4世帯(女3人男1人 みなシングル世帯)来年はそこにさらに2世帯がくわわる。この超高齢世帯の班のなかに口蹄疫の仕事に関わった世帯があったとは、想像もできなかった。思えば彼だけは50歳台で、一番若い所帯主であり、4人のこどもがいた。アパート住まいであったが、こどもたちはそれぞれ独立して世帯を別にしていった。

 「殺処分をやりました。いや、処分された牛や豚の運搬です。そう、ほらそこら辺で、処分されるんですよ。」と、かれは前のアパートの角、20メートル先の地点を指差して
話をつづけだした。 「殺処分と肉用に搬出されるとは、まったく違うんですよ。それは苦しみが違う、吼え、泣き叫び、目は血走り、もがきながら死ぬんですからね」
 「まこちそら、そこのアパートの角くらいのところで、処分されるのを見ながらダンプの運転席で待っているんです。処分は電気ショック、注射、ガスなどですが、みんな鼻や口から血を流したり吹き出して死んでいる。それにみんな目を開いている、今でも生き返ってくるのかと思うくらい、はっきり目を開けているんです。それをリフトで救い上げてダンプに積んで運ぶのです。」
 「毎日やったんですか」
 「2ヶ月間、毎日です。やっと終わりました、やっと、」
 かれの真っ黒く日焼けした顔は、元気そうであり、ほっとして、かれに心からご苦労さんでしたねと言うばかりであった。

 ぼくの家からあるいて3分のアパートの2階にかれは奥さんとこども一人で暮らす世帯員だった。わが班内に口蹄疫の実際に関わった仕事をしている人がいたとは、想像を超えた現実であった。そして今朝は晴れであった。そしておもわず、ぼくは書いた。気分は今朝は爽快感があると、これが人間の本質なのか、想像力などあってないようなものに過ぎないと、だが、それだから救われているのかもしれないが、人の実存としてゆるされるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする