市街・野 収蔵庫編

 市街・野25キロ平方で、この空間を、感性を主に、ときにサーチの結果を論理にして書いてきています。

弱者の灯台

2012-02-04 | 社会
 先日、新聞を資源ごみに出そうとしていた家内が、台所の隅から「松田さんがでてるよ」と声をあげた。映画をつくるんだってと、一枚の新聞を手渡すので、見てみると、1月1日の元旦号で封も切らずにほっといた70ページあまりの一枚で、社会面、その左上段の大きな囲み記事に写真入りであった。宮崎日日新聞1月1日付けの社会面であった。

 松田俊彦君が、近く障害者のドキュメント映画に取り組むことが語られていた。かれは高校生のころクラブ活動で8ミリ映画を製作していた。その後、20歳のときに統合失調症を発症して大学を中退し、向精神薬を服用しながら、社会生活を過ごしてきている。ただし、統合失調症という病気のために、社会的不利という弱者の長い人生を骨身に染みて体験している現実が、かれを映画にふたたび駆り立てることになったのだろうと、ぼくは思う。かれとは95年から98年まで共に宮崎映画祭で実行委員の活動もやったし、喫茶ウイングの常連となったりしてきたが、ここ3年ほどは疎遠になっていたので、この記事には心温まるものがあった。

 ただし、この記事のもっと深い衝撃は、松田君とぼくとの交遊の思い出ではなかったのだ。あのゴミ処理をしようとした元旦新聞の社会面トップに、この記事が掲載されたということである。新聞が新年のスタートに、この弱者の存在を前面に押し出したという事実が、ぼくをおどろかしたのだ。捨てようとした新聞に目を射るようにして、それがあったということである。日常生活を繰り返しているかぎり、松田君の存在はゴミにしかわれわれの感性には訴えない。どうでもいい人が、隣にいるばかりなのだ。働き口も無い、朝もおきられない。禁煙もできない。仕事をしてもながつづきしない。言うこともくるくる変化する。交際の間合いがわからない。そして、そばにいれば気にはなるが、話をするのはちょっとというゴミ化へと捨ててしまうのである。かれは、見た目では、健常者とはほとんど変わらない。だが、仕事がつづかないのも、意志が弱いのも、好きなことしか関心が集中できないのも、内面に巣くっている病気のためなのである。肉体的障害なら、すぐに他人からみとめられるけれども、内心の誤差は、なかなか他人から認識出来ないし、また認識もできないのだ。そして、松田君はこの消費生活謳歌の時代では、役に立たぬゴミとなる。そのゴミを宮崎日日新聞は、今年のスタート地点で大衆の目を引く位置に開催しているのだ。

しかし、こういう人生は、たいがいの人が背負っているものである。いわゆる普通の人は、こんな寒い朝、早起きして会社にいそいそと行ける気分はないのだ。ただ、義務として歯車として、我慢の仕事についているだけであろう。その限り、安い給料と、使い捨て自由の明日無き生活をも強いられる。これが普通なのである。松田君は自身の病気で、それを象徴しているのにすぎない。弱者の存在の灯台でもあるのだと、いえよう。われわれは、その明りでわれわれ自身を知りうるのだ。



 だから、この記事は単なる思い付きとは思えない。その囲み記事には、読者を共感させる現実感があるとしたためである。つまり、ゴミとしか思えなかった存在に、普遍性があることを示したのだ。つまり1パーセントでない99パーセントのわれわれという立場、弱者としての共通点の主張である。他の新聞社の当日の社会面はどうだったのだろうか。毎日新聞も捨てたので今ではわからなくなったが、おそらく、宮日紙は、特出していたのではなかろうか。

 夕べだったか、NHKのニュースで、ユニクロの社員採用で、衣服を変え、常識を変え世界を変える人を、今後は世界中から採用していくと社長がしゃべりまくった。こんな人間は日本人では希薄であろうから、世界中から採用せざるをえないであろう。また、こいいう人間でなくては、世界を相手の企業戦略の立案も営業も可能性はないというのだ。まさにその通りであろうかと思いながらも、どこか可笑しい。これは日本人は要らないということでもある。ますます、企業正社員の枠が狭まるときに、拍車をかけて先頭を切るという企業に、他社はどう対処していくのだろうか。ユニクロの成功は、他社も追随させざるをえなくなるだろう。弱い日本人は、捨てられる。これは日本人の否定であり、国家の否定ではなかろうか。批判であるべきを、否定にもっていくところに、企業の私利追求の危機感を思わせる話であった。この流れは一般に理解しやすいし、やがて「常識を変える」常識として定着していくだろう。

 視点を変えてみれば、思考停止のような発想でしかないものが、大メディアを席捲していくような気配を感じてならない昨年度であったが、今年もその潮流は変わらないように思う。強者こそ、海の灯台の明りとなる時代の闇に、片隅の平凡な弱者に光を当てた新聞社会面が、気持ちをゆすってくれた。これは、意味深い。
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2012年 正月消失

2012-02-01 | 日常
  
 新年の1月があっと終わった。今年の元旦は、宮崎駅前の東西に700メートルの大通りがメインストリート橘通りと交わる十字路交差点、そのまわりに並ぶ山形屋、ボンベルタ、カリーノのデパートを核にした周辺の市街地を歩き回る気分を失っていた。出て行ってもおもしろくないからである。正月の雰囲気は、ここ5年くらいの間で根こそぎ消えていってしまったからだ。5年前に山形屋に隣接したところに黒木製茶のお茶の喫茶店があった。元旦3日は、ウエイトレスも和装で、文字通りお茶を運んでくれた。琴の音の流れる室内には、まさに元旦があった。急須のお茶もお湯も、後は自分でお茶を点てて味わえる。このお茶喫茶は、無料であった。正月だけでなく、いつでも無料!!なのだ。お茶は販売されていたが、購入を勧められることもない。

 ぼくは、一年ほどよく通ったのだが、有料にすべきだと、いやして欲しいと、頼んだが有料にはならなかった。2年ほどして、ウエイトレスのサービスは無くなって、自分でお茶を点ててということになり、ここでかなりお茶のいれかたを習うことができたのだが、2回目の元旦を迎えたころ、閉店になってしまった。無料であろうと、有料であろうと、閉店はたぶんさけられなかったろう。なにしろ来客は信じられないほどすくなかったからだ。黒木製茶は、こことは別にもう一店、同じ喫茶店を船塚町方面に開店していた。e-Chafeという店名でChafe カフェを茶フェにしたのであろう。吹き抜けの2階で、ビュッフェの版画や具体美術の武谷武判の鉛筆の抽象ドローイングが掲げられていた。室内は、水を打ったように静寂で、装飾も無駄なくきまっていた。外からみるとなんでもない建物だが、室内は外観の平凡さとは想像もできない非凡な凝りようであった。お茶といっしょに添えられたお菓子が、店から発注して作らせたものとかであり、こだわりが感じられた。300円であった。土曜の午後は、もはやぼくの定石となった座席で、本読みに通った。ここも5年ほど前に閉店してしまった。お茶にこだわる意識が、大衆に及ばなかったのだ。このようなこだわりの店は、自分で探し出すほか、なかなか目に付かないのだろう。
 
 喫茶店といえば、コーヒーだけを専門とする喫茶店で、薄暗い室内にクラシックが流れて止まないというような昔風の喫茶店は、絶滅危惧種であろうが、まだ生きつづけている店もひっそりと市街のあちこちと、生息している。ほどんど息を潜めたような凍りついた姿がいい。ふと、思い出して5年ぶりに大淀の宮交シティ・ダイエーデパートの北の路地横町にある喫茶店「if」を訪ねてみた。もう無いと思ってきてみたら、なんと現在もちゃんとまだ店があった。5年前とおなじように、手を伸ばせばとどくような低い軒と、本日開店中とそっけない標識、傾いたドア、そのほかはすべて蔦に覆われてしまった黒塗りの店が、闇から目を光らすようにして開店していた。

 この喫茶店は、映画ifに感動したオーナーによって名づけられた。彼女は銀行員だった職を辞して始めたという。映画は60年代末に封切られた青春映画で、英国のパブリックスクールに反逆する生徒たちの話で、60年代の学校反乱などと軌を同じにしていた。銀行員から喫茶店へと転進した彼女にも時代の風がかんじられたのだろう。あれから半世紀ちかく、彼女はこだわりを貫いてきているわけだ。室内は、落書きでうめつされていて、聞くと、近くの南高校生などの溜まり場でもあったという。政治、反体制、ヒッピー、アングラの時代でもあったのだ。政治と革命の夢、こうした時代を抜けて、今もつづいているのだ。こういう店が残っているというのも街の深みであり、面白さではないかと思われる。まだ健在であったのかと、寒空がふと暖かくかんじられたのではあった。

 さて、このifの路地をそのまま北へすすみ南宮崎駅前の椰子の植えられたとおりを向かうへ渡り、数年前にあった宮崎交通本社ビルの角の道路をさらに200メートルほど行くと、戦前から稼動していた竹工場の跡があった。岐部竹工場である。平屋の一区画におよぶ木造建築でガラス越に内部の製造機械が、大型の車輪やベルトや梁や、なにか舞台装置のように見えた。建物の昭和初期の建築の手触り感のある玄関、板壁、街灯、ガラス窓と見飽きぬのであった。しかし、去年の早い時期についに壊されて、あとは白い売り地になっていた。ここに隣接していた稲荷神社もむき出しとなり、裸で昼間に放り出されたようで、味気の無い小さなお堂に変わってしまった。たしかに商売ではなんの役にも立たなくなった工場であったが、この廃墟の工場の存在が、太田3丁目の町をどれほど豊かなにしていたかは、なくなってしまって初めて分るのだ。こうしてまた一つ街は、浅くなった。

 街の均質化、平板化は、ここ20年以上も都市問題として問題化されてきている平凡きわまる常識の主題なのだが、わが宮崎市は、世界の諸都市でも例をみない自転車駐輪監視員を何十年と巡回させて、規制をしてきた。ようやく監視員は消えたのだが、消えたのは、監視員のまえに通行人であった。こうして、客も消え、店も消え、正月も消えていった。そのことは、都市問題の専門家としてますはやらねば課題であるのだが、行政依頼人としてなんの批判力も行動もうしなった都市専門家が、津村市政の「シンガポール幻想」に取り付かれてしまっていた。批判をやらないあんな連中が都市問題の主体とは、空恐ろしい話ではないか。そんな私は今年も、元旦の分厚い新聞を読む気も無く放り投げてしまったのであった。
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2011年クリスマス 商業復興の実現は

2011-12-26 | 日常
 
 去年のクリスマスも寒が強かったが、今年は寒に加えて寒風が通りに吹きこんでいた。昼過ぎに、若草通りのアートギャラリーIRO-SORA・ティールームに行った。がらんとした飾り気の無い事務室のような喫茶店だったが、音響はよく、ほとんど余計なものがないという室内がよかった。初めてだったので、左にカウンターがあってコーヒーミルやカップが並んでいる棚があるのも気付かぬほどだった。街角の個人経営のギャラリー、真空管アンプによるレコードLPクラシックを聴くにまさにぴったしの環境であった。ここで、2年ぶりにあったNさんのハイドンの解説を聞いた。かれにとって生活とは、音楽を聞くことであった。まさに音楽に自分の生活を投げ込んだ。ある意味では、音楽がかれの人生を狂わした。そんなかれのレコード解説は身に染みる。その言葉には、一言の自己顕示もないからである。

 クリスマスのイルミネーションは、今年は、真っ暗闇の中でいっそうの孤立感があって、光が凍り付いているようであった。中心市街では、駅前商店街の150メートルほどの歩道に、銀色と青色の並木のようなイルミネーションが、目を引いた。青と銀色の光が闇をいっそう深めており、誰一人通行者の歩いていない商店街を照らしていた。

 翌日、日曜のクリスマス、午後3時ごろ、青井岳温泉から帰ったばかりで、妻は急に、イオンに買い物に行きたい、そこで今日まで有効の「宮崎市全市連合歳末大売りだし抽選券本券」を6枚と、補助権13枚を手渡した。それも30分間ほどあちこち探し回った挙句で、いらいら待っているぼくにだ。曰く、抽選器を早く回すと当たり玉がでてこないので、ゆっくり、ゆっくり回すようにしてという。わかったと返事もふっきらぼうに、いそいで券をバッグに押し込むや、風の街へ自転車を漕ぎ出したのだ。山形屋本館、東新館の間の通路には、券の引き換えに行列が20メートルほど2列になって並んでいるのだった。諦めてすぐに別の会場とあったボンベルタ4階に向かった。しかし、そこには、だれもいなかったし、抽選場も無かった。一階のインフォメーションに行くと、だれもいず、まっていると、70歳くらいのおばあちゃんが途方に暮れた顔で、抽選場はどこにあるのでしょうかと、聞いてきた。
 「ここじゃダメですな、赤球駐車場がもう一箇所のようなので、そっちの方がいいでしょう。」と答え、ぼくもそっちに向かうことにした。また自転車を駐車場からとってきて、150メートルほど先の駐車場に向かった。そこに着てみると、ここはおじさんが2人車を誘導しているばかり、抽選場はどこですかと聞くと、ここじゃないというので、赤球駐車場と書いてありますがと言うと、
 
 「それは第二駐車場ですが、間違って来なさる人がいますよ」
 「第二駐車上はどこなんですか」
 「ボンベルタの裏手です」
 「ええ、また、ボンベルタか」と引き返そうとすると
 「第二駐車上は午後7時からですがな」
 「え、抽選は、午後6時までとなってるんですが、どうなってるんですかっ」
 「いやあ、私どもはわからんですが、ボンベルタの裏のポケットパークで抽選
  してますが」
 
 そこで、ようやく、ボンベルタ会場は、裏玄関出口のコートに変わったのを知ったのだ。通路は4階でなくて、この道路であった。しかし、ここも20メートルほどの行列が出来ていた。ロシアじゃあるまいし、並ぶ気も失せたので、そのままこの先に裏口のあるタリーズに入って、行列をやり過ごそうとした。すでに時刻は4時20分をまわっていた。読書に集中できずに、5時半にでて、こんどは寒風を避けられる山形屋に向かうと、なんと行列はまえよりも長くなっていた。テントもまわりは、ちり紙や、駄菓子や洗剤が山となっていて、なんやら人々はその近くのテーブルで懸命にやっている。やっているのは、抽選券と替えてもらった券を、貨幣でこすっているのだった。がらがら回すのでなくて、擦るのだ。時間がかかるはずだ。またもや、ボンベルタ裏に引返すと、ここも行列は長くのびていた。最後尾に並んで待つしかなかった。本を立ち読みするにも当たりは暗くなってきた。出鱈目すぎる、主催者どもめ。なにが宮崎市地域商業復興支援事業実行委員会だと、むかついてきているとプラカードを掲げて歩いてきたおあばちゃんが、明日の午後4時まで抽選しますので、お帰りくださいというのであった。列の最後までやったらどうですかと詰め寄る人もいた。くじは、午後6時半までに本部にととけることになっていますので、ダメですというのであった。
 
 こうして、日曜日の午後2時半から6時までの時間が、消し飛んでしまった。「地域商業復興」というイベント企画を、本気で実行委員会は、検討したのだろうか。かのテレビでさへ、地域商業の活性化イベントで面白いもの、成功したものを折りにふれて紹介しているのだが、1人でも実行委員は視聴したことがあるのだろうか。この冬、クリスマスの日になぜ福引しか思いつかなかったのだろう。券のデザインを改めて見ると、見事なまでにありきたり、よくもここまで工夫もなく、ただゴジック体と明朝体の活字が並べただけである。左下に花の平凡な丸いデザインがあって「笑顔を咲かせよう」と囲んである。笑顔なんて、咲くはずが無い。

 福引であろと、創意が必要だ。福引というありきたりの手段で年末商戦を乗り切ろうとするなら、それはそれでいい。地域商業復興支援などと宣言するからには実行委員会は、それだけの構想と実現性を天下に問うべきであろう。結局は、他人、つまりお客である市民に甘えているにすぎないのだ。2011年、甘えの福引商戦終わるのクリスマスであったと記録するしかない。
 
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2011年クリスマスイブ 快楽 大衆情報

2011-12-24 | 日常
 
 ここ数年のクリスマスイブのぼくにとっての快楽は、イルミネーションの電飾を「見て廻る」ことが、主たる部分である。今夜は、去年よりももっと冷えそうだ。市街地の住宅や、閉ざされた小さな商店、なんらかの理由で、町内の一区画だけが電飾を家庭ごとに光らせている通り、果てしない暗がり、いきなり犬が吠え掛かる路地に光るクリスマスツリーとか、一時間ほどの寒がりの中で出会えるクリスマスイルミネーションである。その侘しさ、孤立感、それでいて生活観と、絆を求める暖かい呼び声を感じることで、クリスマスを楽しめることが出来るのだ。

 このクリニックの駐車場入り口の電光看板の足元に、ゴミが捨てられていた。ネルのような灰色のズボン下一枚に、ベッドの端の鉄製の支柱、それとペットボトルやアルミ缶、プラスティックの破片とボトルとチリ紙、雑誌の破れなどが詰められたビニール袋は汚れて、内臓の塊が透けて見えるようだった。おそらくどこかの入院生活者を想像させる廃棄物である。おそらくこの人物は、ひどく孤立した、ひとりぼっちの寂しい男であろう。女性ならこういうことはしないだろうと思う。自分のつけていた下着などは捨てられないであろうと思う。こんな孤立の状況を想像すると、人はほんとうに孤立に強くなり自信を深めなければならないと思う。その力によって、必要な人間力をももつことができるからである。それによってのみ、孤立感を自分からなくせるからである。クリスマスイブは、孤立感を実感させる夜でもある。

 快楽とは、自分から作り上げる快楽でこそだ。つまり自分だけで楽しめることをいかに発見し、創作するかが、現実に対応する方法でる。だれもそれは教えない。いや、快楽は外にしかないとしか示唆しない。この商品を買えば、この料理をクリスマスの夜に楽しめば、快楽は訪れるとテレビは、本放送の部分全体を使って説きまくっているではないか。今夜の黄金時間帯の番組は、そうなるだろうと予測出来るように思う。

 酷寒の朝、アナウンサーが、ラジオで叫んでいた。今日は一日冷えますので、お出かけは「出来る限り」(デキルカギリ)「厚着」をしてください!と。耳にしたとたんぼくは吹き出した。厚着で団子のように膨れ上がった男のイメージで、笑えたのだ。出来る限りの厚着とは、具体的にどんなことなのかと、考えてみると、その具体的な行動はなんなのだろう。何枚、重ね着をすればいいのか、どんなものを重ねるのか、下着、シャツ、セーターにジャンバーかアノラックか、いやダウンかダウンも薄手かあるいは登山用のか、出来る限りであれば、登山用かと、どうだろう、出来る限りの厚着とは具体的な意味はないのである。出来る限りの薄着なら意味は明確である。ではアナウンサーは「出来るだけ厚着をして」と言いたかったのだろう。なら、大半の女性たちは、この寒さでも出来るだけ薄着をして、着膨れにならないようにとうのは本心ではないだろうか。アナウンサーが出来るだけ厚着してというのは、余計なおせっかいとなる。

 アナウンサーの発言は、ではなにを伝えたかったのだろうか。それは酷寒という大衆情報を伝えたかったのだ。その情報を誇張して、否応でも情報に反応させ意識を捉えることである。誇張と浸透(洗脳)というマスメディアの特性を身をもって実践していく習慣がついてしまっているのだ。それが、現実とは関係のない状況説明を生んでいく。日常用語、まったく普通の当たり前の呼びかけのなかにそれが忍び込んでいるのだ。そのことはアナウンサー自身が、職務をつくしている間は、自分の言葉の可笑しさを自覚できない。

 さて、もうすぐ昼休みになる。ぼくも委員に名を連ねている『レコード音楽愛好会』主催の「街角コンサート」を午後一時半から聞きに行く。真空管アンプでレコードのクリスマス関連の曲である。およそ2時間半の内容であるが、多分一時間ほどしか参加できないであろう。その後喫茶店でコーヒーのみながら本を読み、それから温泉に行き、夜のクリスマス・イブ電飾を見て廻る。風邪を引くかもしれないが、風邪というのは立ち向かえば避けられるかもしれない。この危険も快楽だ。
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2011年 年末のご挨拶

2011-12-21 | 日常
  フェイスブックの処理が頭にひっかかっている。なんとか有効にしなければ、
もう一度活用ブックを読み直してみることから、始めよう。いや、そのこと自体が
嫌気を誘うのだから、どうしようもない感じ。

 来年はマルクスとビデオ製作になろう。マルクスにはしだいにはまり込んでいく。なぜか、その目標はあいまい、結実にも、つまり何かを生める可能性にも、至らぬだろうけれども、否応無くその重力に引き込まれていく。これまでにない不思議な経験だ。

 年末まで、あと10日になった。いろいろと面倒なことが積み重なっていく。数通の書簡返筆、贈り物の探索、お歳暮の手配、ブログとフェイスブックをどうするか、なかんづくフェイスブックだ。お友達という関係がぼくには不向きであることが、なぜスタートできづかなかったのか。同窓会に出席することもなかったし、退職した図書館の同僚のことなど思いだすことはないし、33年間の同じ職場で、話し会えた希少な友達にも恵まれたが、5名のなかで、生きているのは、もはや、ぼくのほかは、一名になってしまっているのである。さらに ここ数年、だんだん友達を必要としなくなてきた。ただ、志をかさねられる知性の持ち主との出会い、これが欲しい。それは、白昼夢かもしれないのだが、ぼくにとって、今や友達とは、過去の関係からではなく、今この瞬間からの出会いだ。小惑星がどこかの惑星と衝突すうようなドラマであるが、死ぬまでないのかもしれない。それでもいいとは思う。それほど長く生きているわけでもないのだから。5年まえに航行をしだしたヨット航海にも慣れてきた。操縦にも船室にも、時間の配分にも、気分転換にもである。この文化資本は、貨幣よりはるかに勝るのだが、ただ情報の出入になにかが足りない。もうすこし、工夫がいる。つまり情報の現実感、生きるという現実に実感を与えてくれる情報の出入である。

 来年のビデオとマルクスであるが、なぜ嵌るのか、どちらも世界を見て、編集する作業だからである。ぼくは、大学を出て、文部省の図書館職員養成所を経て、図書館の司書となった。幸いクラスメイトの中で1人だけ公共図書館に織をえたのだが、1957年であった。以来、33年間の司書業務のうちに23年ほどは、レファレンス部門の仕事を専門職としてやってきた。だから、頭のなかには書架の蔵書がいつもあった。ぼくのカウンターのすぐ後ろから書架は7層に渡って構成されていた。分類番号が打たれて、丁度、そこは3000(社会科学)から始まっていた。そこにマルクス・エンゲルス全集があったのだ。誰が、こんな本をよむのだろうかと思っていた。ぼくの記憶にあるかぎり、33年間、いちども貸し出しされたことはなかったと思う。もちろん、ぼくも関心はなかった。そしてあの図書館司書をスタートした年から54年目に、その全集により聖家族、哲学の貧困、ドイツ・イデオロギー、書簡集、経済学批判、パリ手稿・経済哲学、もちろん資本論第一巻と読み進め、今から必要な内容巻数を検索しだした。今頃、マルクス・エンゲルス全集を図書館司書に検索を依頼して、購入か貸し出しを決めている。まさか、こんなことになるとは、人生とはじつに不思議だ、いや生きているとは、予想もつかない。これが生きている面白さかもしれない。いや意味かも。べつに他人さまにとっては、なんの意味でもないことではある。生きるとは、かんがえようによれば、ゲームと快楽であると、ぼくはこのごろ思うようになった。もちろん、このゲームは死によって中断される。この瞬間にゲームも快楽の人生も、アインシュタインの論理のとどかぬ領域になる。ぼくを呪縛してきたゲームと快楽、ぼくの存在も、なんの意味もなくなる。死は完璧に生きた存在意味を消滅させてくれるのだ。ただ死ぬことだけに直面させられ、その不可解のほかに何も無い、これがいい。こんなすばらしい贈り物はないではないか。僕はそう思う。

 ここに一言、こんな死んでしまえというような文章をかいてしまったか、病気しているわけではないので、読者はご放念して欲しい。今すぐ死が迫ってないから(だだきづかないだけかも)こんなことを言えるのかも。ということ。そんなことじゃ罰があたるかもね。もし当たれば、その瞬間はご報告いたす所存ゆえ、報告あり次第、大いに楽しんでいただけるような内容のものを生み出したいものだ。今から構想をしている次第。以上、2011年度末ののご挨拶をもうしあげます。
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テント劇「ただちに犬 バイタルサイン」と「こどもたち」

2011-11-21 | 演劇
今年5月に宮崎県都城でのバイタルサインをみて、全国巡演を経た後、ふたたび宮崎市での公演が実現された。これまでどおり、ぼくは、チケット売りに廻ることになったが、なかなかチケットを売るのが困難であった。ああ、また同じものかという気分を感じられたのだ。違うのだということを具体的にはっきりさせることがきわめて難しかった。なにしろ、ストリーも、表現も、主題も違いを納得させられるように言葉にできなかったのだ。その代わりに初めてテント芝居を観てみようという人にも出会えて、そういう人たちの一部からは面白がられてチケットは売れていった。

 「どくんご」テント劇の初めての人は、同じものでなくて大感激であった。物珍しさで、なにがあるのかという期待は、裏切られること無く興奮の渦に巻き込まれていったのだ。なかでも、まだ20代そこそこの保育士という女性の物語にぼくは胸を突かれていた。まだ午後6時ごろ、彼女はいきなりテントの入り口に自動車で近寄り、停車した。あわてて、他の場所に駐車してもらったのだが、芸術劇場でチラシを取って、来ることにしたという。「いいセンスですね、うれしいです」というと「同僚にみせると、みんな引くんですよ」との答えにうなづけた。さらに面白かったのは、「このチラシを家にもってかえったら、母が気づいて、どくんご、これ観たことがあるというんですよ」という。それなら、宮崎駅前で15年ほどまえにやった「トカワピークエンダワピー」か、翌年の専売公社跡地で台風の夜に初日をヤッタ「ノンノット ポケット ゴーゴー」だったと思われた。そのときに、今の娘の年頃であった女性の観客は、母となり、彼女の娘もまた偶然、このテント劇に迷い込んできたのだ。母親は一度もテント劇のことは話もしなかったという。終わって彼女も大満足であった。帰って母とどんな話になるのだろうか。はやぶさの子は、はやぶさになったのかと思うのであった。

 将来役者になるといいだして、母親を心配させた小学校4年生の百ちゃんは、今回で3度目の観劇で、今年はデジカメで165枚撮影していたそうだ。帰ると早速、芝居のシーンと、台詞を再演しているという。なにしろチケットを小学校に持参、友達や(一枚も売れなかった)や先生にも売り、買ってもらえたというのだ。シナリオを書き、役者をつのり、舞台装置をつくり、演出をやって、学級会で発表したというから、一歩間違えば天才、一歩すすめば問題児、にされかねない現代学校教育の谷間に芽をだした百合の花であるようだ。

 こどもに好評なのは、全国各地での公演記録や感想を調べるとはっきしする。これをみた子どもたちが「ただちに犬」ごっこをしだすというのがよく報告されている。ドラの音がジャーンで、「お前が犯人ダー」と1人が名指すと、全員が凍りつくシーンなどである。これをえんえんと繰り返しながら、楽しんでいくのだ。抑圧された日常が、犯人はだれというリフレインで、しだいに解消されていく。たしかに「ただちに犬」のなかには、説教じみた社会教育的な、自己反省や道徳や批判の言葉はない、総じて教育とか教養とかを説くものはない。たとえば、今回のバイタルサインでは犬の縫いぐるみに暗闇健太の女が片手に扇をかざしながら、「ね、飛び込んでごらんなさいよ」と、同じ言葉を繰り返していく場面がある。台詞これだけである。「飛び込む」という決断の怖さと勇気が、だんだん観客に伝わってくるのだ、その表現はきわめて洗練されて高度である。この一行の言葉の重さが、こどもにも伝わっていくのだ。一見、そのばかばかしいシーンは、人間とはなにかを具体的に示して、まさに教育的であるわけだ。今回は親子劇場の役員さんたちや、小学校児童のお母さんがたも何人か見えていた。一見でたらめで放埓にみえる、いや常識では、計られぬはちゃめちゃのやりたいほうだいのテント劇に、クールな内容があることを、直感的に感じられ、観ることが出来たのではなかったかと思うのだ。秋の「課題図書」とただちに「犬」こどもにとっては、犬のほうが必要である。

 40代の若い奥さんと小学生の女の子の二人連れが、ぼくの前に座っていたが、なんと奥さんは、劇の間中、笑いで、上半身を折り、こらえられなくて、ボトルの水を自分だけで飲み下し、合間に笑いの衝動に揺すられるのか、助けてえーと、娘にしなだれかかる。まるで、こどもよりもこどもとなる意識状態に、こちらも仰天させられ、かつ、こっちも笑いが止まらなくなった。押さえた積もりだったが、ぼくの笑いも突出していたと、後での実行委員たちの話であった。

 テントにこのように観客を沸かす波動が沸いていく。それはなんでだろう。この分析を求めて客観的な批評もあちこちで書かれてきている。読んでみると、それはそれぞれに違うのだ。三角という人もおれば、四画という人もいる、いや立体であるとか、球体であるとか、黄色とか赤とか、それそれの批評人が、自分の形を説いている。テント劇「ただちに犬 バイタルサイン」のグラフは、批評人それぞれのモニターに光るグラフの通りである。芝居の実態は、一つでなくそれそれのグラフに移っている。まさにロラン・バルトの主張したとおり、作品は作者に無く、それを手にしたものが、これを材料にして織り出した織布に移行するということを実証している如しだ。

 テント劇という大地と同等の空間が、観客を巻き込んでいく、観客もまた主役になっていくのだ。笑いという主役に。ステージから、社会教育的餌さを与えられ、やがて食鳥や食肉に育成されるのと違う次元の芸術空間の体験を味わうことが、可能になる。そのような可能性を発揮するテント劇という試みはもっと多くの劇団で試みられるべきなのだが、これはやろうとしても、やれない。かってのテント劇の勇であった劇団黒テントも、テント劇の巡業、再演を試みてきたが、全国巡演はほとんど不可能になってきている。テント劇をやろうとすれば、この資本主義の世界に金を持たずに、豊かな生活をしていくような技術と強いそして柔軟な志が必要であろう。ぼくが知るかぎり、どくんごは1987年ごろから代表に伊能、その妻五月、団員、暗闇健太、みほ、今は休演しているが時折旬、今年帰って来た空葉景朗を中心メンバーとして持続してきた。

 かれらの生そのものの不可思議さが、魅力的なのだ。これほどの批判的な意志をもちながら、劇は重苦しくなく、軽さがある。音楽は、どこかノスタルジーのあるアニメの音楽であり、大声で叫びながら、通常の台詞を遠ざける。しかし、それは一歩まちがえば、転落しかねない、綱渡りのようなものである。もし、観客が身を引けば、なんともばかばかしい虚ろなものしか見つからないからだ。しかし、観客を引かせないところにかれらの表現の鍛錬と力量があるのを感じさせられる。全国巡演の間に、都城市で観たときより、シーンは余計なものが省かれて純度が増していた。あのときの健太と五月は脇役のように影が薄かったが、今回は、やはり大きな存在感があり、内容を深めていた。こんな経過をしらないと、全体の表現の高さは感知できないかもしれない。観客に媚びず、それでいて唯我独尊にならず、おふざけの笑いをふりまきながら、実は一歩ひいているという表現方は、なかなか見えてこないであろう。このようないわゆる誠実さのような生き方が、ブロイラーから観客を解放する。こどもが、本能的に解放を直感するのは、この要素である。

 「ただちに犬」シリーズ、ビター編、バイタルサイン編と完結した。演出の伊能も、やるだけの表現はしたといっていた。また、あたらしい企画での芝居が出来るのが期待できよう。

 最後に一言、これからもやっぱり批評は、必要であろう。とくに批判する批評がこれからは必要だ。仲間という意識が観客に芽生えてきているので、批判意識が消えてしまう。しかし、これは危険である。同じ空間で、仲間となって固まると、ひろがりも客観性も喪失していく、自分たちだけが世界の中心になっていく。地方において芸術活動するときの大きな陥穽は、これであった。ただ、どくんごは、全国巡演において、この危険からかなり救われているように思う。それと、金をもたなくても生きていけるという全国に賛同者のネットワークも出来てきている。このことが、またわれわれに開放感と勇気を与えてくれるのである。人生は楽しめると、また未来のこどもたちに柔軟な人生模様への希望を与えると・・
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有料道路とは何、その指示言語の身勝手さ、出鱈目さ!! 解ったことは

2011-11-03 | Weblog
 翌日、ホテルで不眠の一夜を明かして、40年ぶりに坊津へみなを案内したが一変してしまって、記憶の断片するそこで見出すことは不可能であった。それに鄙びた博物館は、「南さつま市坊津歴史資料センター輝津館」となり、威圧されるような巨大な建物となっていた。40年前の木造平屋のどこか荒物屋風の家屋に空海の親筆や、おどろおどろした密貿易の一品がならべられていた親密さはなくなっていた。その博物館は、峠道の傍らにあり、ここから湾を隔てて坊津の町がみえた。今は、ただあたりを睥睨する歴史資料センターというこのデザインのビルには金がかかったろうという感慨だけがあった。

 坊津から枕崎を経て、半島の海岸道路を開聞岳のある指宿へ向けて走るのだがあの風光明媚、茶畑が広がる柔らかな風景は、まったく消滅していた。いや、こんな風景は果たしてあったのかどうかさへ、わからなくなった。あれは夢の風景ではなかったのか。畑は掘り返されて、店舗や工場や、マンション、老人ホームスポーツ施設が点々とならび、道の両脇は潅木が連なって、海の風景も見えなくなっていた。ただ、交通道を指宿へ向かってひた走る気分しかなかった。この中で開聞岳だけが、見上げるようにそそり立っているのだけが記憶のままで、あの夏、小学校5年と1年のこどもをつれて、いきなり、この山に登ってしまったのを思い出す。よく登山気分になったものだ。それほど自然は感動的であったのだろうか。2家族を、ぼくの40年前の記憶だけを信じて案内してしまい、申し訳なかったという気分だったが、話は、はずんでいった。いよいよ帰りは、頴娃からスカイラインに入り、無事に鹿児島インターに着くかどうかを試してみることにした。鹿児島にはいったら、ぼくは加治木から隼人道路に入るので、ここでお別れとうことを告げ、加治木で合図してさっとわかれようということになった。

 それぞれに帰途は遠いので、かなりのスピードで、スカイラインを走り抜けていく。やっぱり川辺出口もあった、かなりの高所であった。道路は思っていたのと違って狭く曲がりくねり、たんに天空にある道路なのででスカイラインと名づけたのか、当時はこれでも一般道路よりは広く舗装も滑らかだったのだろうと思われた。あっという間に鹿児島インターについた。今回は620円の頴娃からの料金を支払った。ところが続いて、スカイライン出口で310円硬貨を投げ込んで、鹿児島有料道路に入ったのだ。この310円はいったい何、疑問は残ったまま。

 熊本へ向かって走る友人たちの車を見ながら、加治木インターで、どんな風に別れの挨拶の合図を送ろうかと、考えながら走っていくうちに姶良を過ぎ、加治木の見慣れた家内の郷の風景が流れ出した。そのまますーと隼人道路のほうに入るので、フラッシャーが、よく見えるようにしなければと、距離を詰めていくと、なんと、隼人道路への指示がどこにも見えないのだ。どんどん出口は近づいてくるのに、無い。あ、かすかに右に出口と札のようなものが見える。しかし、自動的に繋がるのはどここか、だって、スーと入ったのだから、あるはず、そのとき、左上に『宮崎道』と下がっていたので、ほっとして、左の走行路線に移動したのであった。先日ここから帰ったという家内に聞くと、この走行線だというのだった。友人からフラッシャーが送られだした。ぼくも挨拶のフラシャーをしているのだが、出口が見つからない。別れようとしたが別れ道がないのだった!!

 「おい、ここは違うんじゃないか」「ここなのよ」
 「なら、出口はどこなんか」「そんなものは知るもんですか」
 「知らぬ?出られんのか、ほんとに」「走っていれば自然に出られるのよ」
 「おい!溝辺とある、これは違うわ」「私もこのまえ迷ったので、料金所の人に聞いたらこのまま 走っていれば自然に末吉に着くか らと、絶対、間違いないわ」とあくまでここで間違いないと言うのであった。

 と、左側に鹿児島空港が広がりだした。「これは、飛行場じゃないか、この道が隼人道路につくはずはないじゃないか。これは間違いだ!」「だったら、降りたらいいじゃない」「今更降りられるか、何で自分がそんなに正しいと言い張ったのだ。我執女」「我執はあんたでしょうが、自分が正しいと思ったら、わたしに聞くことはなかったでしょうか、自分で判断していけばよかったのよ」「そうしようと思ったら、おまえがここだここだとわめくから、こんな目にあったんだろが」「うそ、そのときは、もうひっかえせぬところにきていた、自分がまちがっていたんよ、それを人のせいにする、卑怯者」と、応酬が飛び交う間に宮崎まで98キロの標識が大きく目に入った。帰りは青井岳温泉に入って午後6時ごろ帰宅と話し合っていたのだ。代わりに100キロも迂回せねばならない。「温泉は止め、高速料金もお前が払え」というなり、お互いに口も聞かなくなり、夕べの不眠の疲れもどっと出てきて、気が遠くなりそうな気分で運転を持続していったのだ。

 翌朝、疲れも取れて、なぜ、こんな間違いをしたのかと、地図や道路情報を調べだすと、たちまち理由は、高速道とか有料道とかいう概念というか、常識がまったく役に立たぬということが分った。常識で走るかぎり、間違うのだと理解できたのであった。その常識とは、なんなのだろうか。自分だけが、そんな常識に埋没しているのかどうかも検討しなければならないので、何人かの人にも質問もしてみた。

 まず、何人かの知人や職員に福岡へ車で走るとき、道路は何を使うというと、みな高速で走るという。その正確な名前はときくと、有料道路といってみたり、九州自動車道路といったものが5人中1名であった。では、宮崎市から、えびのまでの道路はなんていうのかと聞くと、誰も知らなかった。「宮崎自動車道路」というと、おどろいていた。そんなら清武町から西都市に行ける有料道路の名前はときくと東九州自動車道路とは、だれも答えられなかった。次に末吉から隼人道路にできた道路も東九州自動車道路だと言うと、驚くのだった。
  
 九州自動車道路に対抗できる東九州自動車道路というわけだよね。夢の断片があちこちにあるのを、まとめて東九州自動車道路といってるわけで、納得であった。じゃあ、南九州自動車道路はどこにあると聞くと誰もしらなかった。それは鹿児島から市来へはしる海岸へ向かう道路だ。南九州といえば、宮崎だけではないのだな。それなら西日本高速道路とはどこでしょう。へえ、どこか福岡、門司などなどみな考えだすのだが、これは、いわゆる高速道路名ではなくて、九州や山口やの九州自動車道路や東九州自動車道路などを指す「名称」なんだよ。では「福岡高速道路」「北九州高速道路」はどうですか。これは「道路」そのもので、都市の中を車だけが走れる高速有料道路なのだという。さらに、数年まえに延岡市郊外から、日向市へ走れる道路は高速道なみの道路だが、一般道路で延岡ー日向道とだけ記載した地図もある。実際は東九州自動車道の構成部分で、延岡-日向間で、延岡-延岡南間が延岡道路(無料)延岡南-門川間が延岡南道路(有料)、門川-日向間が東九州道(有料)となっている。こんなふうに調べていくとだんだん覚えられなくなってくる。それになんか虚しい。遠い世界の出来事に思えだしてくる。どんどん道路はあちこちに高速道、有料道なみの道路ができだしてきているのだ。こんなことを、改めて知ったのである。

 これを知ってないと、「宮崎道」といっしゅんに見て、常識に従って宮崎につながる東九州道へ入れると誤解してしまうわけである。

 ネーミングには、道路の機能と種別が、厳密にふくまれてはいないのだ。だれかが、高速道路と有料道路はどこが違いますかと質問した例があった。かれは宮崎道とかは有料道路ではないとかん違いしていたようである。東九州道路という道路は高速道路であるとも勘違いしていた。九州道と違って、この道路は高速道ではないのだ。新しく出来た末吉から隼人道路を経て、九州道路につながる東九州道は、制限スピードは70キロで、出口の隼人道路は一般道路であるから60キロである。入ってはしっているかぎり、そんな区別はわからない。どういう理由で東九州道路の制限速度は、九州道の80キロとは違うのか。まだ、未完で将来の成長をまっているのだからといえば、九州道と同じレベルの名前をつけるのは理論的にも法的にもまちがってないか。犬の肉を牛肉として売り買いするのと、同じではないのかと、思うのだ。また、道路というのと、道だけ、高速道というのと高速という場合は、その道路は違う場合がある。しかし、地図にも案内図にも九州道路は九州道と記されいるのがある。しかしなんで九州高速有料道路といわないのだろうか。今、九州道と「自動車道路」というべきをつづめて書いたが、これは、厳密に言うと間違いかも、延岡南道路というと、有料バイパス道路であったのだ。高速道と言っても高速自動車道とは、意味がことなってくる。しかし通常の話ことばで話せば、九州道が一番分りやすくなる。いちいち宮崎自動車道路といわないわけだ。しかし、場合によっては自動車をつけると、つけないで変わるときもあるのである。

 こうして、分ったのは、「道路」という機能的な都市インフラが、単純明快な機能、高速とか有料とか、バイパスとかでまとめられなくなっているという現実である。だんだん気分や情緒で、道路をネーミングするしかなくなっているのではないかと思えることだ。あえて言葉を使用しないで、国道のように10とか220とかで表現すれば、簡単明瞭ではないのかと思う。たとえばM1なら、ロンドンからエディンバラへ至る高速道路というようにだ。国道10号というように。ただ高速道路は、なんか国道とは一段上の道路という意識が働いているのだろう。ハード尊重、モノを神格化する意識があるのかもしれない。単に戦艦、軍艦と位置づけられずに戦艦大和と命名して、別格に神格化していく意識は生きている。道路と切って捨ててアルファベットABCと数字1,2、3の組み合わせで表現するには恐れ多いと戦後の高速道路を畏敬する精神のためかもしれないと思うのだ。
 
 家内はもっと、自動車道路について、勉強すべきだったのだとぼくをたしなめる。そうかもしれない、と、今はそうするしかないと反省しきりでもある。身勝手とか出鱈目とかは言い過ぎたか。ただ、しかし、道路が、あちこち、こまごまときれぎれに地方の事情に応じて建設されつづけられ、バベルの塔のようにまとまらぬようになった。そのために言葉によるネーミングが、不可能になってきている現実を、あらためて知ることになった。機能、均質化が必然的に多様性を帯びて、言葉でまとめられなくなった。バベルの塔の出現であろうか。なんかがたしかに、間違っているのかもしれない。そのなにかとはなんだろうか。もっと厳密に調べてみたい。
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有料道路とは何、その指示言語の身勝手さ、出鱈目さ!!

2011-11-01 | Weblog
 
 坊津 枕崎、開聞岳への3家族ツアーは、ホテル・移動については経験したこともないほどのさんさんの旅であった。不快というより、苦痛を舐める経路であった。もはや旅の楽しさは、友達家族に会えたよろこびだけであり、それなら、こんな観光を目的とせずに、ただ、ひたすら快適な温泉旅行に限定すべきであったろう。美味しい食事をして、ホテルの広い温泉を楽しむという贅沢なゆったりした日程を、組むべきであった。

 この旅の予想もしなかった不快と苦痛は、高速道によって与えられた。さて、物語は先週の雨の土曜日(10月29日朝)から始まった。長崎県雲仙市および熊本県合志市に暮らす友人夫妻二家族と、一年ぶりの再会で、南薩摩観光を計画して、まずは同日11時半ごろに、川辺町道の駅やすらぎの郷で、合流することになった。そういうことで、かなりの距離を無事に間に合えるようにと、今回は高速道で宮崎ー都城インター間を走り、ここから10号線に降りて末吉で、新しく出来た有料道路に入れば、そのまま高速道路の加治木インターチェンジに自動的に入れて、鹿児島インターへ、そのまま指宿スカイラインとなり、その川辺インターで降り、約10分で「道の駅川辺やすらぎの郷」で合流できるようにした。高速道路の時間と一般道の距離をチェックして、2時間30分で余裕を持って到着できるとも分った。われながら、周到なる経路のチェックを終えたのだ。

 無事に加治木インタにスムーズに流れ込み、そのまま一気に鹿児島インターへとひた走ったのだ。まちがいなく予定時間どおり鹿児島インターを出て、指宿スカイライン入り口に着いた。そこで310円というコインを機械に投げ込むと、バーが開いて、スカイラインに入れた。ちょっと変だと思うのだが、310円という前金でなら、どこで降りても同じ料金なのかと、ふと思ったのだが、そもまま走っていくと、なんといつの間にか、一般道路に出ているのであった。家内に出口が無かったのに、この一般道路は可笑しい!というと、可笑しくはないわよ、指示通りに走ってるのだから、川辺への出口があるのよと断定した。

 しかし、なんで、こんな一般道路がスカイラインかよと、言い争って走るうりに、家内が突然、今、川辺方向は右と表示があったというので、そんなもんは出口じゃないじゃないかと言い合いしているうちに、どうも、走っている道路は、まちがいなく一般道路としか思えなくなりだして、引返して、川辺への道路標識まで行き、そこから右折することにした。しかし引返したが、その標識板はなく、ほんとにそんな道路標識を見たのか錯覚じゃないのかと鋭く問うと、見たわよ、でもないじゃないか、みたものはみたのよ、確かこの道路よと言うので、とりあえず、こんどは左折したのだ。左折すると、ガソリンスタンドが直ぐにあったので、そこに立ち寄って、川辺町の道の駅を聞いた。すると、この坂を上って、越えると、道の駅はありますと言われた。ついでにスカイラインはどちらでしょかと聞くと、今しがた右に走り出ていたはずのスカイラインは、右の4キロほど先といわれた。右に出たのになぜまた右にあるのかと、また不安がぶりかえした。するとこの道路は、道の駅に到着できるのかどうか、はるかな、回り道になるかもと、おもえだしたのだ。
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 坂道を登っていくと、濃い霧につつまれ、方向もわからなくなりだしてきた。落ち合う時間をみると、すでに11時25分になっていた。そこで、家内に、長崎からの友人に電話してもらった。すると彼はすでに到着していた。挨拶を繰り返す家内に、そんなことよりもこの225で着けるのかどうか聞いてと、せかせると、やっと225で大丈夫だといわれたと言うのだ。しかし、時間は、だが、時間を聞くにはこの位置はどこか言わねばならないと知った。聞いても無駄だったのだ。しかし、峠を降りると、霧も晴れなんとすぐに「やすらぎの郷」が、道路沿いあり、駐車場に車がいっぱいとまっていた。ほっと安心すると、家内が、ここには違うと言い出した。どうしてと聞くと、道の駅と看板にない、ここは違うよと言い出した。言われてみると、そうかもしれないと道の駅にしてはおおきすぎる。また電話すると、友人が、なんと近くから電話する姿が見えた。ここが目的地『川辺道の駅やすらぎの郷』であった。どの案内者、旅の雑誌にも、道の駅川辺やすらぎの郷と詳記されていたのだ。道の駅が無いとは、たしかに家内の主張するとおり違うと思われてもし方が無いはずだ。そのいい加減さは不愉快であった。

 つづけて、すぐに熊本県からの友人夫妻も到着した。さて、ランチの席での話しであった。スカイラインが一般道に変わってしまって大慌てになったと話題に提供すると、長崎からの友人もであった。かれはカーナビも装着し、旅なれて全国の道路事情にも詳しいのに、スカイラインの表示通りに出たのにと言うのであった。話はつぎに、スカイライン入り口の料金310円に及んだ。あの310円がそうだったのだろうと、一般道路に出るので、入るときに料金とったのだろうとお互いに納得できたのであった。と、熊本県からの友人が、ぼくたちは、出口で250円とられましたよ、なんでというのであった。かれらも深い霧でヘッドライトを照らしながら峠を降りてきたというのであった。これもまた不可解、どうしてかれらだけ250円の料金を取られる出口にでくわしたのだと。おそらくスカイラインをそのまま走り、川辺町出口から出たのだ。こちらが、まちがって中途で一般道路に出てしまったのだ。地図では、スカイラインには川辺出口とたしかにある。とするなら、あの310円は、なんの料金だったのか。だれもはっきりしないのだ。

 帰りは、このスカイラインを終点頴娃(頴娃)から入って確かめてみようということになって、その話は終わったのだが、帰りには全員で、スカイラインの終点から入っていった。このことで、こんどは、ぼくは、予想もしなかった、とんでもない目にあうことになったのだ。
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がんばっど!宮崎 なんのために?

2011-10-29 | 社会
 先週土曜日(10月22日)の夜午後7時ごろだったが、どーん、どーんという音が海岸のほうから上がり始めた。どうやら花火の打ち上げのようだった。なかなか止まないので、窓をしめ、カーテンを引いて、音を遮断した。たまたま、その時間、ぼくは本を読んでおり、ある一節に目を引きつけられていた:「社会を幸福にし、国民を窮乏状態のなかでもなを満足させるためには、大多数が無知かつ貧困でありつづけることが必要である」とあった。なんという明快さであることか。

 去年から「がんばっど」「がんばっど」のポスターがあちこちに張り出されだした。、県民総がんばるという気合を感じて生きる意志表示を、確認し合うポスターである。このがんばるの具体的目標とは、なんなのか、スボーツ選手なら勝つことであり、事業家なら利益をあげることであり、アーティストなら作品製作である。だが、宮崎市民一般のがんばる目標は、なんなのだろう。それは、市民一人一人がそれぞれにがんばろうという精神運動に還元されてしまうのである。県民総出の精神運動の中身はとなると、それが示されている文書は、お目にかかったことが無い。あったら、ぜひ教示してもらいたいものだ。

 がんばっどというのは、困難や苦しみに負けないで、乗り越えるという気合であるように思う。では、あんたの困難や苦しみはなんですかとなると、宮崎県でいちばん共通な問題は、おおくの人々にとって、働き口がないということだ。とくに高学歴を履修した新学卒の大多数は、公務員なみの給与や労働条件の企業がないということだ。それはつまり、学卒でありながら、貧乏生活をつづけていくしかないということである。将来年金も68歳以上になりそうな気配で、がんばっても未来もないという暗い状況にもなりだした。そういう状況でも満足できるには、どうすべきか。

 じつは、この方法の具体例を、この一説は示唆しているのだ。「無知かつ貧困でありつづけること」が必要だと。貧困より無知でありつづけることが満足へいたる道であるという。無知であれば、願望も限定されより少ないもので満足するからとも言う。しかし、それはまだものの無い江戸時代の大衆に当てはまるが、うまれてときから過剰なものをあたえつづけられた世代にとっては、あまり影響はないであろう。ここで考えられる「無知」は、考える力、つまり批判、判断、行動、知的活動の停止した状態のことであろう。ものを考えないで現状に甘んじていられれば、満足感はあたえられやすかろう。ブロイラーの鶏のようにである。

 なにもかんがえない大多数の貧乏人がいる限り、面倒は仕事は、低賃金で、仕事をかれらに押し付け、というよりそれでも仕事にありつけるだけで幸福になれる貧困者に、低賃金と、テレビ娯楽を与えつつければ、かれらはかれらなりに満足していける。その労働にささえられて、公務員なみの宮崎の所得者は、安楽に生活を楽しめる。もちろん地主層などは、天下の春であろう。そのためには、なによりも絶え間なく貧困者を無知にしつづけておくことであろうと思う。その最大の手段にテレビや新聞、雑誌などの巨大メディアがある。そこを、無知への縦横無尽の蜘蛛の巣にしておくこと。もちろん露骨ではなく、目に見えがたい蜘蛛の巣をはることである。それを見抜く能力がありうるかどうか。貧困者に、それが問題だ。

 貧困は受けねばならない。これはまちがいない未来への手段である。しかし、「無知」のほうは、絶対に受けてはならない。この無知克服、これこそが、宮崎「がんばっど」のきわめて戦略的目標であり、緊急にして具体的課題であろうかと、思う。しかし、そのことはまったく見えない。ただ花火が空中に散るだけである。
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宮崎市の秋 ぼくの見る夢

2011-10-24 | 日常
 日曜日は、朝起きると日本晴れになっていた。かんかんと照りつける陽射しを受けてままチャリで街の路地を走っていると、今季節が秋であると、あらためて感じるのだ。曇や小雨では秋の感じはない。春でもない、冬でも夏でもない雨と曇天の日でしかなかった。日曜も今日の月曜も日が照って、秋を感じる。秋の陽射し、秋の風、その遠い音である。こんな感じは、今よりもまだ八月の終りから九月の上旬の夏に重なっている日々のほうが、もっと深い秋の兆しを感じさせられるのである。

 それに秋は街をあてどもなく自転車で彷徨するのがいい。突然、初めて来たような通りにぶっつかることがある。9月3日台風一過の晴れの日に、現れた路地もそうだった。去年取り壊しになった喫茶店「アラジン」の正面から北へまっすぐに延びている道路が700メートル先で幹線道路と交差するのだが、その先の小さな道路に入った記憶が無かったのだ。たいがい、この幹線道路を左へ曲がって貞蔵道路に出ていくのが習慣だったのだ。なぜ、この小さな路地風の道路に入らなかったのかが、不思議なくらいであった。秋風はこんな道の存在さへも気づかせてくれるようだ。

 さて、秋をこれほど口にしたのも、いささか文学染みて気恥ずかしいが、実は感性を語っているわけではない。夏に秋が重なる季節感は、普通ならだれでも感じていることであろう。なぜ感じるのか、それは感性ではなく、この地で住み暮らしてきた記憶に基づくものである。無意識ではあるが、秋の到来はなんどもなんども夏のうちに重なっていた、陽射し、音、気配が記憶されてきていたせいなのである。つまり、宮崎市に暮らして来たからである。あるいは日本人だからである。

 もう一つ、これほど長く暮らし、さまざまの記憶が残っているはずの市街について、いまだに初めて通る道路や横丁や路地裏や住宅地があるとは、これもまた驚きである。いや、これを言うなら、我が家と通り一つを隔てた通りさへも、なんと何十年も歩いてなかったこともあるのだ。そう、たしかにぶらぶら街路を歩く癖を持たぬ人、たとえば家の家内など、結婚して以来、近所のあの道、この道も通ったこともないのを知っている。もちろん、そういう必要がないからである。普通の住民はそうであろうと思う。こういうことを言い出したのは、哲学者の広松渉のいう認識についての言葉である。「われわれの知覚的視界に直接的に与えられている世界は、極めて極限されており、往々にして居室の一隅に限られている。」という認識論の一節である。かれはつづけて述べるのだが、われわれは、直接的知覚でなく「情報」を通じて世界を知っておりそれは単に知識として知っているだけでなく、それに対して憤慨したり、思わす立ち上がったり、現場に居ると同様な行動をとるという。つまり情報によって伝達される世界は物的な世界と同じ実在性をもっていると断じているのだ。これから、論は精緻な認識の構造、言語の意味についての論にはいっていく(世界の共同主観的存在構造)もっともここまで読み解けるほど哲学的な思考は、ぼくにはないのだが、ただ、自分が知っているということの99パーセントは情報によって知っているのだということは、実に良く分る。

 自分が直接に知っているといってふんぞり返っていても、自分の力というものは、育っている土地の制約を受けているし、その土地、日本を知っているつもりが、その本体は情報を通じて知っているのだ。これも、土地の風土の制約以上の影響を受けているのだ。とくに後者については、自分が裸の王様常態であることをおもわされる。意識はテレビと広告で形成されているのではなかろうかと、考えたほうがいいのでないか、すくなくとも裸体を隠す布切れ、よければ衣服を、読書という行為で見つけ出せるかもしれないと思うのである。読書の秋である。

 このごろ夢をときたま見る。街の記憶なのだが、たいがい消滅してしまった過去の街角であったり、郊外の集落であったりする、しかし、この街が本当に実在した街であるのか、いつか夢で体験して街なのかが、はっきりしない。その街にもう一度行きたくてたまらなくなって目が覚める。だが、その街が実際の街が夢の街だったがわからない。それがはげしいストレスを起こす。ぼくの見る夢はいつもストレスでしかない。通常の夢と反対である。
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2011年どくんご実行委員会に顔をだす

2011-10-18 | 宮崎市の文化
 夕べ、どくんご実行委員会を、山崎街道のジョイフルに訪れた。先日の勧誘に返事は一通ももどってこなかったということで、委員長を引き受けた山崎以下3名(1名欠席)にぼくがアドバイザーとして参加、4名だけの実行委員会であった。

 チケットが売れない。予想通り、目標の半分くらいだ。これ以上は無理のようである。実行委員長は、さすがに20枚近くを売っていけそうである。無理でも何でも、目標は達成させねばならないと、内心思うのであったが、これは無理強いであってはならない。なんとかなるだろうということにして、久しぶりに会った一夜を、近況報告やら、これからの話やらと、和気藹々の時間が流れだした。

 昨日だったが、街角で滅多に会えなくなった知人とぱったり出会い、いつも病状を言うのが恒常の女性であったが、そのときばかりは、彼女がいつになく健康に見えたので、うれしくなった。どくんごを薦めると、あの芝居は、ね、ね、ファンの集まりでしょ!ちょっと私には不向きなんよねえと、思いがけない返事であった。昔はあんたもそうとうはずれもんだったじゃないかと、瞬間、思ったが、このまえさ、昔の店の仲間が集まってくれたのよ、みんな元気、かれも相変わらず、もてるの、ほんとおもしろい男、ほんともてるんだから。と、話がでだしたので、そんな池のなかの鯉やなまずやが、群れあってわいわいいうのもファン団子だろうがと、あああ、これだな、ぼくが人間を断つことにしたのはなあと、思うのであった。

 それにしても、こちらも5年くらい太平洋一人ぼっちを擬した「ヨット生活」だし、チケット販促の大きな障害を僕自身が引き起こしているのだ。俺のせいか、時代の変化のせいか、どくんご芝居という商品のせいか、どうなんだろう、こんな話も4人で結構楽しめたのだ。

 これまで見てきた「どくんご芝居」のあれこれを話題していくと、共通の話題作としては、1995年宮崎駅西口正面の上演「トカワピー・クエンダワピー」が一番古いものだった。いきなり丸刈り頭の女性二人が男を縄で空中に吊るしていたぶるというサディスティックな開幕に観客は寒気と嫌悪と好奇心で魅了されたのだ。テントの裾を巻き上げると、駅の正面を大声を発して走る怪優「時折旬」のわけのわからぬ演技で、通行人が目をむく始末、テント内は輪をかけて音楽と踊りのアナキーなシーンが、爆発的な笑いとなって湧き上がり、退屈な日常性をぶちやぶっいった。それに当時、宮崎駅も改築中で、その廃墟の雰囲気も良かった。まさにスワヒリ語とかのトカワピー・クエンダワピー(どこから来て、どこへ行く)であった。これは、宮崎市の都市変化への問いかけにも解釈できたのであった。90年代は日本が大きく変化させられる時代でもあった。テント芝居どくんごは、そういう時代状況を本能的に身体全体で表現できる斬新さをテントを通してやることが出来た。もちろんテント芝居は、すでに終わったという時代の流れはあったが、その本質に尚こだわりを保持して、それを納得させられて楽しかった。

 1998年には「ノン・ノットポケット・ゴー・ゴー」という幽霊船の話に引き継がれ、乗船者は「死」を切望しながら死ねないゾンビ有閑貴族を囲むゾンビたちの航海の話であった。これは嵐の夜と翌晩の二日、専売工場跡地での上演であったが、舞台は船上のように揺れるという仕掛けであった。死ぬことのほうが生きることより希望であるという逆方向の生命感に開眼させられるのであった。これが1998年であった。90年代はうしなわれた10年でもあり日本は、経済大国から脱落していった。どくんごは時代、時代の空気をたしかに担ってきたと、ぼくは思う。そんな話を交わした夜だった。

 僕自身の追憶にはしかしそれ以前が重い・1985年、宮崎市一ツ瀬病院構内での「パブリックな怪物」これはある精神病院を破壊せんとした患者の物語であったが、その一ツ瀬病院というのは、なんと芝居ではなく現実の精神病院であり、観客のおおくがその患者であった。かれらの哄笑と共感の拍手が今も耳に残っている。そして、1990年には、同じ構内デ「サクラガサイタ」が上演された。これは最大の登場人物であったし、仕掛けも大掛かりであった。皮肉にも、この年から「サクラ」とでもいうべき日本の経済が没落の徒についたのである。そしてこれは今ももっとリアルにつづいている。

 こういう話をぼくは、昔を思い出しながらしたのだが、どくんごは、仲間だけのファンの集まりではないのを、言いたかったのだ。話が終わってトカワピー・クエンダワピーのころの観客名簿があったので、開いてみせると、そのびっしりと4ページのA4の用紙に並んだ名前・住所の一覧を見て三木ちゃんは涙をうかべながら、感無類のようであった。時代はどうなるんだろうか。この名簿のような観客の復活はありうるのだろうか。

 そこはもうかんがえないことにして、とにかくチケット目標達成だけはやりたいと思って、会場を後にした。
 
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生きかた

2011-10-14 | 日常
  前回、若者の内向き志向というタイトルで、かれらをボロクソに批判したコラムを書いたが、本心はそうではなくて、その批判はむしろ中高年の市街・野人こそ、その批判の対象であるのだ。かれらに希望はないが、若者には希望があるからだ。だからこそ、言わせてもらいたいのであった。

 その後、かれらの未来に対するトンでもない仕打ちが、政府で懸案されているのを朝のNHKテレビで知った。その例の年金問題で、支給開始を68歳からにするという試案である。

 68歳!。君たち、その年齢まで、公務員をやっていける、サービス残業を課しつづける会社に、68歳まで働き続けられる。その気の遠くなるような未来まで、働かなければ、遊んで暮らせる日は来ないとは。今の高齢者をささえつづける君たちの番は、よろよろにおいさらばえて後に訪れるのだ。そんな未来しかないようなのが、今の若者である。それをしたのは、ぼくら高年者であるならば、若者を高所から批判するなどとは、盗人猛々しいとは、まさにこのことであろう。

 当日、同じテレビで、小説家の五木寛之の講演についての番組に気づいた。その中で高齢者の健康保持について、彼自身の体験をもとに紹介されたシーンもあった。手足の末端やをぼきぼきと押したり曲げたりとか、岩塩を折に触れて舐めるとか、体をストレッチするとか健康法が語られる。それは図解入りの本にもなっていた。健康であることは、だれしも関心が深いし、そうありたいと望むものであろう。しかし、なんのために健康を保持しなければならぬのか、ここが一番ぼくにとっては切実な問題なのだが、そこが伝わってこなかった。かれは人はただ生きているだけで素晴らしいと言うのだ。なぜならこの生きがたい社会を生きている、そのことだけでも大変なことなのだ、だから生きている人を賞賛するというような、表現で、いわゆる名もない庶民の生き方を肯定し、賞賛した。それは彼自身の人々へのエールであったのだろう。それはどこか、救いを説く牧師を想像させたのであった。

 しかし、この説話の揚げ足をとるならば、この世界でただ生きているだけでほめられるべきならば、犬や猫のほうがよっぽど素晴らしい存在であるともいえる。環境に優しく、地球を破壊せず自分のために大量虐殺という手段をとらない、ただ健やかに、つつましく生き続けて不満を語らないではないか。そういう言い方にならざるをえないのは、若者の生き方を思うからである。ただ生きているだけでは、人生は無意味ではないのか。
 
 これから若者がただ生きているだけでは、68歳までほんとうに、現在の職場で人間らしく、自分の成長を図りながら生きていけるのかと、自問してみればいい。こんな社会では、ほとんど生きている意味さへ無意味なのが自覚されるのではないだろうか。また、情報が巨大メディアで流され、日ごろから、自主的判断が阻害されやすい生活を送っていると、ブロイラーでの給餌を受けている環境に置かれていることも自覚できなくなる。

 だからこそ、ぼくは言いたいのだ。内向き志向だけではダメだと。68歳まで、年金が出ないというのなら、まず、ここでやらねばならないことは、生きるためだけの労働量をいかに減らすかということだ。つまり可能な限り仕事はするなということだ。そうするためには、頭蓋骨の内側に治まっている「脳」をもっともっと意識して使用するよう訓練すべきであろう。ブロイラー環境からどう脱出するかが、緊急の訓練である。その具体例をどうと説明もできるが、さしあたり、書店に行って、書架の本を、一度全冊自分の目で覗いてみるだけでも、かなりの示唆をえられるはずだ。
 
 またやるべきは、3人の仲間を作る方法がある。3人の内、2人が生活費を稼ぐ仕事につき、1人は、自由な時間で好きなことをやれる余裕を与えられる。かれが、この仲間のアンテナであり、情報を送受信を担当し、社会と結びつく。有効な情報と行動を担う。これによってより有利な仕事をつづけられる可能性を見つけることもできるし、なにより生きている刺激や目標、つまり生き甲斐を活性化できよう。仕事をつづけるということは、仕事しならが十分な自己啓発の自由時間が必須だ。これを1人でやるのが、きわめて困難な時代であるなら、3人でやることにすれば実現できよう。またグループであるということで、「脳」は頭蓋骨の空間で眠り続けないで揺さぶられ、活性化する。そうすれば世界は色づき、面白くなる。この役割は、適宜、交替していき、時間をかけてそれぞれが、日常を脱却していくのだ。

 68歳まで、より人間らしく、面白く、生きていけるべく、工夫しなければ、なんのために生きているのか、希望も夢も無い日々になるという現実が、目の前に迫ってきている。若者よ自覚して欲しい。
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内向き志向

2011-10-12 | 社会
 今年もテント劇団「どくんご」の宮崎市公演がやれることになった。ぼくは実行委員を降りたが、というのもいつまでも年寄りが顔を出しているのでなく、若い世代の実行委員会を希望しての退会であった。ところが、実行委員への勧誘案内の往復葉書を実行委員会で送ったが、今もって誰一人返信がないという。。これも時代の風なのかもしれない。若者の行動は、わけのわからぬことには、踏み込まない。未知なるものへの関心がない。余計なことはしたくない。ひたすら内にこもっていくようである。

 自動車にも乗らないというし、本も読まない。飲み会もしない。外出も友達に会うのも面倒だという。外国に留学しない。まるで、人間嫌いになったのか。あるいは超高齢者の生理的要求に似てきて、だんだん活動を身の回りだけにして、心地良い日向ぼっこに安住できるのを快楽としているようだ。、そのくせ、何万人と集合するライブや花火や、フェスティバルには、大挙して押しかけていく。まるで、昆虫や魚の巨大群である。

 こういう若者がいたるところで育っていくと、政府はなにをやるにしてもやりやすいのではなかろうか。

 ぼくの家の近所は、新しい道路が去年開通して、かっての農道は自動車道になった。4車線は十分にあるのだが、中央分離帯と、歩道面の安全帯とで、正味は2車線である。かなりの交通量になっているが、この分離帯と安全帯をうまく利用すれば、自動車の途切れ目を縫って安全に横断できるのだ。ぼくは犬を散歩させながらも、これをやっている。ところが、高校生や中学生が、自転車でたった一人、この横断をするのに躊躇なく、ボタンを押して、シグナルを赤にするものが多い、このたびに自動車が、行列をなし、排気ガスを吐き出しながら、数分間も停車せざるをえなくなるのだ。このエネルギーと時間の無駄を考えもしなくてロボットのようにボタンを押すのだ。こんな行動は世界でも北朝鮮人民くらいならするかもしれない。いや、北朝鮮人民に失礼かも。とにかく状況を自分の脳で判断できないように育ってきた高校生や中学生を毎朝みせつけられると、犬のほうがよっぽど自主的な行動をすると思ってしまうのである。

 こういう長年の始末が、この内向き志向の若者を育て上げたのではなかろうかと思う。

 もうすこし、自分たちの脳で判断できるためにも、どくんごのような小さな劇団の上演を応援していきたいと思うのだ。冒険と行動を刺激されるようなテント劇への招待を試みるのだ。ブロイラーや畜舎のなかに固定されて死ぬまで配合飼料を与えられ続けられる人生を、自ら進んで招いているような最近の内向き志向の若者の行動をみると感じざるをえないのだ。いや、若者だけでは、もちろんないのだけれど、若者だからこそ、そうであって欲しくないと、この秋、思わされるのだ。
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台風12号一過 晴れた市街・野

2011-09-03 | 宮崎市の文化
今朝、6時半にチップを散歩に連れ出した。ところが、赤江大橋への優雅な取り付け道路まで、また反対へ去年できたセブンイレブンの先まで、おおよそ700メートルの商店、住宅の並んだ市街が、快晴の空に眺められた。道路も、その両側にゆったりと並んでいる家屋、住宅、スパーや医院、美容院、居酒屋、コンビニ、保育園と、会社事務所と、ゴミ一つも感じられず、台風一過の青空の下、涼風に吹かれながら広がっていた。

 1994年、9月インドから帰った朝に感じたとおりであった。どこもかしこも、洗剤で洗い流し、洗ったあとを、ワックスをもって磨いたように感じられたのだ。その市街は、どこもかしこもであった。インドのベナレスやニューデリーの溝が溢れ、糞が溢れ、穴ぼこから汚水が溢れ、商店になった巨大で多層のテントは100年余もの塵埃でコンクリートのようになり、その商店街らしき通りで、どこを見ようと清潔でピカピカのものは存在しなかった。その輝く道路や建物は、驚異的でさへあった。あのとき宮崎市街をみて、すぐに思ったのは、選択され、磨かれる、その管理費は、生活のどの部分に課せられているのかという思いであった。それはインドとは桁違いの物価であり、税金や規制や規則であるはずと認識できた。その道路磨きの分担は、目に見えないが、心身からエネルギーを知らぬまに奪っているのではないかとも思えたのだ。その道路には、人影一つも見えなかった。それは今朝も同じであった。

 昨日(2011年9月2日)のNHK朝の連続小説「おひさま」で貧困家庭のため幼少で奉公に出された陽子の友達が、結婚して自分の店を開くと故郷にかえってくる再会の話であった。心温まる再会であり、良かったと心が和むのだった。彼女は店はいつでもだれにでも開かれている、こんなやりがいのある仕事はないと言うのだ。陽子も嫁入り先の蕎麦店を生涯の仕事と選んでいるので、この店はだれにでも開かれているという言葉のすばらしさに感動するのであった。これもいいシーンであった。ほんとに店はそうありたい、そして店で名も無く貧しく、美しく生涯を働きの場として選択できるのならば、こんな楽しい、充実した、人生はないであろうと感涙したのだった。

 しかし、しかし、店はだれにでも開かれているが、「だれも店に来ない」という現実が、より現実なのである。ぼくも次男とカフェ・雑貨店(これこそ、彼女が奉公に出されて帰ってきた安曇野に開こうとした店である)を開いて3年間で、1000万円を消費して、閉店した。経営が悪かったといえはそれまでであるが、個人の努力・経営ではどうにもならない、市街地の無人化という現況があったのだ。ここが「あさいち」の不思議な主張なのである。作者はとういう現実感や提案で、このドラマを書きつづけられたのだろうかということである。いや、そういうケチなぼくの解釈が可笑しいのかもしれない。感動すれば、それでいいじゃないかと、すこし素直になれと、ほんとこのアサイチは止められない楽しさを、毎朝与えてくれてもいるのだから・・。

 そこで、またインド映画を思い出した。インドの市街は、汚れているばかりでなく極貧者に溢れかえっていた。滞在中、ホテルを一歩でて市街を歩き出すと、その極貧者にびっしりまといつかれて、それらを振りほどくのに努力が要った。そればかりでなくて、ホテルのドアはうまく閉まらず、シャワーは水しかでない、テレビはかすんでよく見えなかった。街のテントの並んだ市場では、こんなボールペンなど捨ててしまうようなペンが数本ならんでいたりする。雨が一時間も降れば、道路は浸水してとうとうと下水のようにガンジス河岸に流れ込んでくる。タクシーの多くはワイパーも取れたままのものもあった。こんな暮らしの毎日で映画館に入ったのだ。ほとんどがミュージカルで、映画の中では、家は豪華、テレビも冷蔵庫も新品で、道路は舗装道路で、新車が走り、家族はファッションでつつまれ、豊かなる生活を謳歌する。映画館は一等席から三等席まであり、極貧者もスクリーンすぐ下のシートでわいわいとうれしげに映画の単純なミュージカルを楽しんでいるようだった。こんな人をバカにしたような映画を見て、腹が立たないのだろうかというのが、ぼくには、おどろきであったのだ。

 今、ぼくは毎朝、NHKの朝ドラを見るために午前8時までに例のイングリッシュブレイクファストの朝食を作り終え、それを入れたてのコーヒーとともに居間の42インチデジタルテレビの前に並べ、食べながら楽しんでいるのだ。腹は立たない。インドの極貧者たちも、そうだったのだと、今は思いだしている。幸いインドが、世界一の経済大国に成長する確率は、中国を抜くと予想されている。映画は現実になる。日本も「あさいち」が、現実になる要素があるのかもしれない。そこをどう嗅ぎ付けるかが、問題であろうか。作者の意図はそこにあるのかどうか、これから見えてこよう。
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映画祭とは、ぼくにとって何なのか。

2011-08-30 | 映画
今年の宮崎市映画祭(第17回)を見てきて、結論として思ったことをここで書いてみよう。

 見世物小屋のような映画祭を試みてはどうだろうかということだ。

 見世物小屋の展示物は、大衆本位である。かれらに何かを教えようとはしない。なんといっても広報ではない。社会教育でもない。大衆は安い料金で、小屋に入る。学んだり考えたり、世のために有益な行動を知るために入るのではない。面白そうであるから入るのである。入ると、目の飛び出るような風変わりなものが並んでいる。

 こちらの暮らす世が常識の世とすれば、小屋の中は、この世とは別の世界である。少しの金を払って、この世の憂さを解消できる仕掛けが、見世物小屋の本領である。こういう内容の映画祭を仕掛ける。

 ではどうすれば、こういう仕掛けが出来るのであろうか。それには、最初に見世物小屋を邪魔する要素を省いてしまうことであろう。学ぶ、考えるを強制する社会教育の要素を排除するしかない。社会教育的な大衆メディアとして、身近な県広報、市広報、その他、民間組織やボランティアやさまさまの広報などを、綴じて回される回覧板がある。これくらい面白くないメディアはない。こんな情報を隅から隅まで読み通すようには、よほどの暇と忍耐力がいる。映画祭を一歩間違うと、回覧版的な押し付けの教育になりがちである。全国的に映画祭のテーマを見ていくと、この社会教育的な臭さが気になるのである。

 大衆教育という視点をはずそうというのが、見世物小屋になれるスタート地点である。小屋に並べられたもののフリークな力に任せなければならない。そのような力のある見世物は、いわゆる啓蒙的や、社会倫理を梃子にした教育的視点など意味をなさない。映画作品について言えば、監督の履歴、とくに受賞履歴とか、その監督の過去の業績とかは参考にしない。まずは、作品そのものが、問題なのである。それは美味いお菓子を食って、その作者を考えないことと同じであろう。作品がどこでグランプリを受賞したとか、意味はない。お菓子を口にするとき、全国大会の金賞受賞というのが、食う味を決定するのでない。映画作品とそれを見るもの関係しか意味はない。どれほど美味いかとせつめいしようが、美味さが受賞されようがしまいが、食ってみて判断するのは食う人でしかない。、市場映画というのは、消費を目的とする無数の受賞作品が、製作されつづけられているわけで、受賞を選択基準にしていると、多くの作品を見落とすことになる。

 見世物小屋は非日常へ観客を誘導する。映画館もまさにそうである。スクリーンのほかは、真っ暗というのが原則である。それは日常世界と断絶させる手段である。こうして、スクリーンに展開するシーンは、バーチャル・リアリティとなる。バーチャル・リアリティとは、仮想現実という日本語に訳されるが、仮想とはありもしない現実という意味になる。しかし、バーチャルとは虚像のという意味と、実質上の、事実上のという意味がある。これは興味のるところで、もし実質上のという意味だとすれば、映画シーンは、実質場の現実を観客に提供していることになる。つまり、見飽きた日常の現実よりも、もっと本当の現実をみていることになる。まさに別世界に入ることが可能なのである。もともと映画は、見世物小屋であるのだ。

 見世物小屋を楽しむには、作者など意識に登らない。その展示物、人やモノだけが
問題なのだ。そこで思いだすのだが、映画館の映画は、途中から映画館へ入って終わりまで見て、最初に帰って、その途中まで見たらおしまいという風に見てきた。これは夕べ、知友の藤井貴利彦君と映画の話をしたとき、かれが昔の映画館の話となって思い出したことであった。どこから見ても映画を楽しめた。まさに見世物だ。途中で出入り自由という映画でも、見るに耐えるのが、映画であったのだ。今もそうであろうが、いつの間にか本を読むように教育的になってしまった。いや書物でもどこからよんでも良いと主張したのは夏目漱石であった。現在でも本は、どこからでも読むのがいいという読書姿勢はありうるし、それがベターであることも多いのだ。このように映画への接触は自由な面もある。絵画や彫刻などの芸術作品を、どの位置から見るように決められないのと同じように、どう見ようが見るものの自由であるという視点をもつべきであろう

 とにかく映画祭で、実行委員会は映画を選択しなければならない。とにかく観客を
楽しませる映画を選ばねばならないのだが、それは、この世にはありえないような映画を選ぶという破天荒な視点で選んで見てはどうだろうか。その視点は「勘」とでもいうべきもので、これに頼って、後は観客との勝負するしかない。これで、観客が来なかったら、その勝負は、選んだほうが負けということになろうが、それでもいいのではないか。この勝負で、選ぶ勘が鍛えられ高まっていくはずだ。

 映画祭のパンフレットを見ただけで、わくわくする見世物小屋の雰囲気、ありえない大胆な品揃え、非日常のわくわくする妖気、怪奇、愚劣さなどを充溢させた映画祭を出現させてはどうだろう。このことが、画一化され、テレビ化されて、自由な判断力、アート享受力を疎外されつつある人々を活性化できる映画祭の祭りたる所以になるのではなかろうか。
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