創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

411.公明党議員(井下田栄一、古城将夫)が創価学会婦人部熟女と熱烈キス

2017年06月14日 19時32分15秒 | 公明党
公明党議員が創価学会婦人部熟女と熱烈キス写真 | 文春オンライン

本文の転載は問い合わせ中です。

以上

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

餃子の王将店主「心意気や」金ない学生に「皿洗い30分」で腹一杯のタダメシ。

2017年06月12日 00時06分36秒 | その他
店主「心意気や」めし代のない学生「皿洗い30分」でタダ…餃子の王将出町店の35年 - 弁護士ドットコム

「めし代のない人 お腹いっぱい ただで食べさせてあげます。但し食後30分間お皿洗いをしていただきます。18歳以上の学生さんに限定」

こんな張り紙を玄関先に掲げて、多くの若者に親しまれてきた店が、京都市上京区の学生街にある。「餃子の王将」出町店だ。店主の井上定博さん(67)は「皿洗いした学生の中には、弁護士になった人もおんねんで」と目を細める。

井上さんは23歳のころ「餃子の王将」で働きだし、いくつかの直営店の店長をつとめた後、フランチャイズの「出町店」をオープンさせた。直営店の店長時代と合わせて35年間、「皿洗い30分」で定食をタダにしてきた。店の全盛期には1日8人が皿洗いを申し出ていたが、最近では多くて1日3人ほどだという。

店の近くには、京都大学や同志社大学があり、客のほとんども学生だ。「ほんまは、『皿洗いさせて』と言うた根性に免じて、(皿を洗わなくても)タダでいいと思うとる。衣食住で『食』が一番大事や。金がなくても腹は減る。学生は勉強してえらい人になったらええ」(井上さん)

●「オレもめし代のない時代があったんや」

「若いころ、オレも散々苦労した。めし代のない時代があったんや」。井上さんは20歳で結婚し、すぐに子どもができた。必死になって働いたが、その日の食事に困ることがあった。あるとき、年配の知人から「晩めしを一緒に食べへんか?」と誘われたことがあるという。井上さんはこのことが今でも忘れられない。

「名前も顔も覚えとるわ。自分の子どものように、ようかわいがってくれた。水炊きとか焼肉を食べさせてもろた。もうこの世におらんから、直接、恩返しできへん。せやけど、幸いにも、こういう商売しとるわけやから、今の若い子らに食べさせることになるわな」

この店の特別なところは、「皿洗い」だけではない。余った唐揚げをその場にいる客全員にタダで提供することもあるのだ。井上さんは「サービスちゃうで。心意気や、心意気」と笑う。そんな店は新聞やテレビで取り上げられたり、漫画『取締役 島耕作』(弘兼憲史)のあるエピソードのモデルにもなった。

井上さんは、皿洗いをしたことがない学生たちからも親しまれている。「卒業してからも一升瓶ぶらさげてやって来るやつもおれば、医者になったやつは『おっさん、金に困ったらタダでみたる』と言うてくれる」という。だが、「そんなに感謝はいらん」と話す。

「世の中、自分の子どもさえよかったらいい、他人の子どもはどうでもいいという人が多い。せやけど、他人の子どもも大事にするんや。そうすると、自分の子どもに『徳』が返ってくると信じてる。そうやって、世の中がよくなっていったらええやん」


(弁護士ドットコムニュース)

-----------------------------------
 戸田城聖と御書全集編さんした人々や編年体を作成した池田大作と本部職員は、「何もかも自分たちさえ良ければ、それでいい」と考えた身勝手な詐欺師だと思います。
日蓮正宗の坊さんも、似たような人々だと思います。

 正宗は金取って、正本堂を壊すし説得せず破門にするし、創価は改ざん本尊ばらまくし、創価と正宗で戦争をしているわけですから、呆れます。

 戸田、池田、学会本部職員や正宗の坊さん達に、一体どんな自己犠牲があったのでしょうか?
世間の人がやりたがらない慈善の行為や事業をしたのでしょうか?
私の経験では、搾取しかありませんでした。

以上
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

410.昭和定本の事理供養御書(白米一俵御書)現代日本語訳

2017年06月01日 00時03分20秒 | 日蓮系遺文
1.注意事項

 本記事は本文でも画像でも全てにおいて引用、転載を一切、禁止します。

本記事はリンクのみ許可します。
ツイッター、フェイスブック、他ツールからでも、本記事に飛べば許可します。

2.昭和定本の事理供養御書(白米一俵御書) 現代日本語訳
(c) 2003日蓮宗
--------------------------
白米一俵・毛芋一俵・河海苔一篭を、御使の人に託してわざわざ送り届けて頂き、たしかに受領した。

人間には二つの財物が必要である。一つには衣類であり、二つには食物である。経文には「生きているものは食物によって存在することができるのである」という。この経文の意味は、すべて生あるものは衣類と食物とによって、世に住むことができるということである。たとえば魚は水中に住んでいて、水を宝とする。木は地の上に生えていて、土地を財としているのと同じである。すなわち人間は食物によって生きているのであり、食物を第一の財としているのである。

(事の供養と理の供養)

命というものはすべての財宝の中の第一に大切な財物である。あまねく三千世界の中において身命にあたいするものはないと説かれているが、まことに三千大千世界のすべての財物をもってしても命にかえることは、とても出来ないことである。

(中略)

帰命とはわが命を仏に奉ることである。わが身にはそれぞれの分に応じて妻子や使用人、土地や資金等を持っている人もいるし、また持っていない人々もいる。しかしこうした財産を持っている人でも持っていない人であっても、命という財宝に過ぎた財宝はない。したがって昔の聖人・賢人といわれる人々は、自分の命を仏に奉って、その功徳で仏になったのである。

(中略)

すなわち雪山童子という人は、わが身を鬼神に与えて尊い教えの八字をならった。薬王菩薩はわが臂を焼いて燈明として法華経に供養された。日本でも聖徳太子は、自分の手で皮をはいで法華経を書き、天智天皇は第四指の薬指を焚いて釈迦仏に供養なされた。これらのことは聖人や賢人の行なったことであるので、われら凡夫にとっては不可能なことである。

ただし仏になるためには凡夫は「志ざし」という文字を心得て、それで仏になることができるのである。それでは志ざしということは何かというと、詳しく考えてみるに観心の法門のことである。さらに観心とはどういうことかというと、たとえば一枚しか着ていない着物を、必要とあらば法華経にさしあげることであって、これが、身の皮をはぐということと同じである。また食べる物がない飢えた時に、これを手放してしまうと今日の命をつなぐことができなくなってしまうというとき、そのただ一つしかない食物を仏に供養することであり、これが身命を仏に差し上げるということであって、こうした実践方法のことである。

このことは薬王菩薩が臂を焼き、雪山童子が身を鬼神に捧げたことにも劣らぬ功徳であるので、聖人の命を惜しまぬ供養は事(仏法を実践すること)の供養であり、凡夫の志ざしの供養は理(仏の教えに従う)の供養といえる。摩訶止観の第七に説かれている観心の檀波羅蜜(布施)という法門がこれである。真実の道は世間における事実の法理と共通するものである。

(世法即仏法)
(中略)

法華経以前の諸経では「心から万法(すべてのもの)が生じてくる。たとえば心は大地のようなものであって、そこに生えている草木は万法のようなものである」という。法華経はそうではなく、「心がすなわち大地であり、大地はただちに草木である」というのである。また諸経では「心の澄むのは月のごとく、心の清らかなことは花のごとくである」というが、法華経ではそうではなく、「月こそ心であり、花こそ心である」という法門なのである。

このことから考えてみると、送っていただいた白米はただの白米ではなく、すなわち命である。

日蓮は美食を好まぬ者であるので(世俗の栄華を望まない身の上なので)力が及ばないため、こうして山林に交わり生活しているが、しかしながら凡夫の身であるので、冬の寒さも耐えがたく、夏の暑さも防ぎがたい状態でいる。食糧も乏しい状態である。昔、万里の遠くへ旅した人がほんのわずかの食だけで苦労したとのこと、また中国の子思と孔子が百日の間に九回だけ食事をし、あとは食べる物に耐えたというが、今はそれよりも耐えがたい状態である。

ここ身延山における読経の声も絶えてしまいそうであり、心を見つめ、悟りを得るための修行もおろそかになりがちである。そうしたおりにこのたびのご供養をいただいたことは、ただ事とも思えない。きっと教主釈尊のおすすめによるものか、あるいはまた過去の世からの御縁が熟して、このようになったのか、とても手紙で書き表わすことのできるものではない深いわけがあるからであろう。恐れながら謹んで申し上げる。
--------------------------

3.昭和定本の日本語訳を考察。

 以下の「美食ををさめぬ人」の箇所がどちらの遺文に続くかで各遺文集で異なっています。
393-7.閻浮提中御書 白米一俵御書 御書全集(昭和29年再版)誤記 その7 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

すなわち命なり。美食ををさめぬ人なれば力をよはず山林にまじわり候ぬ。

この件に関しては昭和定本などの日蓮宗の学説を支持します。
米田さんの「平成新修 日蓮聖人遺文集」や「日蓮聖人全集」も昭和定本と同じでした。

(1)事理供養御書(白米一俵御書)

 日本語訳の流れから自然なのは事理供養御書(白米一俵御書)。
美食ををさめぬ人〜最後まで御供養への感謝が書かれている。
事理供養御書の冒頭に白米とある。
思子孔(ししこう)は中国の子思と孔子の伝説。師子吼ではない。
但し日蓮が書いた思子孔伝説は現代の学説から史実と異なる可能性が高いと思われる。

(2)師子王御書(閻浮提中御書)

 師子王御書(閻浮提中御書)に付加すると日本語訳の流れから不自然。
師子王御書は法難や迫害に対する「愚痴」の遺文なので、最後に突然、御供養への感謝は不自然。
師子王御書冒頭に白米と書かれてない。
思子孔を師子吼と間違えた可能性。この箇所も師子吼だと日本語訳が意味不明になる。
文中にいくつか「師子」とあるため、思子孔を師子吼と間違えたか?

創価の御書全集では平成になってから遺文が移動しているので、しっかりとした理由があるかもしれない。理由は不明。
師子王御書(閻浮提中御書)に移動した何らかの理由が大石寺にあるはずの和紙ではないか?理由は不明。
事理供養御書も師子王御書も大石寺の遺文なので2つを見た大石寺僧侶が言及している可能性がある。未確認。

4.まとめ

 図書館で確認したところ、平成校定(初版)、平成新編(五版)は師子王御書(閻浮提中御書)側に付加する学説です。
編さん時に遺文の日本語訳のチェックを行っていないと思われます。
昭和定本の学説が正しいとすると、正宗版も学会版も平成に入ってから誤記が入ったことになります。(昭和新定も平成校定と同じ。)
よって、大石寺系の教団が間違えているかどうかは確定していませんが、確定すれば自分の寺にある遺文を間違えたことになり、滑稽という他ありません。
ロクに読んでもいなければ理解もしていないのでしょう。ホント不真面目ですよね。
大石寺系の坊さんが全員無能とはいいませんが、こういう人たちに私は信徒除名されたんですね。

日蓮正宗は師子王御書に続く学説と昭和定本の事理供養御書に続く学説をそれぞれ説明する事ができるのでしょうか?
誤記だった場合でも、この件に限っては正宗が謝罪する必要はないと思いますが、最低一度は交換するとか正誤表を無料で送付するくらいは必要でしょう。

創価版は問題が多すぎて論外で、謝罪と賠償が必要なのは言うまでもありません。
今後、一般の人が買う御遺文集は正宗の平成新編になってしまうのでしょうか?残念です。

日蓮宗系の遺文集では昭和二〇年代三〇年代から当たり前の学説だったと思うので、日蓮宗僧俗の皆さんからすれば、この記事は何を今更ですよね。

つい最近の過去記事で法華経を一度でいいから日本語訳で読経や勤行してみて欲しいと書きましたが、
日蓮遺文についても日本語訳のあるものは一度は日本語訳で読んでは如何ですか?
創価などの正宗系教団の人にとって妄想や思い込みが解けていいんじゃないでしょうか?
これで「仏法と申すは勝負をさきとし」についても”仏法は勝負”という誤訳する人がいなくなって欲しいと思います。

以上
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

409.昭和定本の師子王御書(閻浮提中御書)現代日本語訳

2017年05月31日 00時20分55秒 | 日蓮系遺文
1.注意事項

 本記事は本文でも画像でも全てにおいて引用、転載を一切、禁止します。

本記事はリンクのみ許可します。
ツイッター、フェイスブック、他ツールからでも、本記事に飛べば許可します。

2.昭和定本の師子王御書(閻浮提中御書) 現代日本語訳
(c) 2003日蓮宗
--------------------------
どうか私の弟子らは、堂々たる獅子王の子として、軽率に騒ぎまわる群猿のような連中に笑われないようにしてください。過去永遠の昔から、私のように身命を呼(と)して強敵の罪科を暴き出す獅子王はいなかったでしょう。現世における国王の弾圧は酷(きび)しい、まして来世での閻魔王の拷問はもっと凄(すま)まじいに違いありません。日本国の弾圧は水攻めのようなものです。濡れるのを嫌ってはいけません。閻魔庁の拷問は火攻めのようなものです。裸で飛び込む覚悟を持たなければなりません。大般涅槃経(だいはつねはんぎよう)の文の心は「仏法を信じて人生の苦悩から解脱しようとする人が、いささか怠慢になっているのを覚醒させるために、仏が疫病(えきびよう)をお与えになるのであるが、これは激励のためであり、勧誡のためである」というのです。正しく受けとめて、覚悟をあらたにしなければいけません。

私は凡夫です。何事も見抜く天眼通があるわけではないので一枚の紙さえも見通すことができません。いつの世の出来事でも知る宿命智(しゆくみようち)があるわけでもないので過去・現在・未来のいずれのこともわかりません。しかし、この経文のように。私は肉眼ではあるけれども天眼・宿命□□日本国に仏法が伝来してから七百余年の間の流布状況、仏教教団の八宗・十宗の邪正、中国やインドの仏教論書を著わした人や仏法を説いた人の優劣、八万巻・十二種の仏教経典の内容などをだいたい考察し、わが国が衰滅するであろうことを予知・予告しましたが、それが当たっているようです。これはみな法華経の偉大なお力によるものです。それなのに国主は、人を陥れようとする連中の悪口に迷わされて私たちを弾圧するので、まあこれも凡夫の仕業だから誤りがあってもやむをえないと思われて、当方としてはべつに主張を曲げるつもりはなかったのですが、たびたび迫害に及び(後欠)
--------------------------

以上
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

408.学者の方々は創価の教学構築、御書や解説本作成に協力しないで欲しい

2017年05月30日 00時11分48秒 | 日蓮系遺文
宮田幸一さん、小林正博さん、前川健一さんなどの創価系の学者の方々に向けての記事だったのですが別の大きな問題が判明したので、一部分とし簡単に書きます。

●創価系の学者の方々にお願いしたいこと。

 創価系や創価大学系の学者の方々が創価学会員であるかどうか私は知りません。
宮田さんの声だけはYou Tubeで聞いて知っていますが、それだけです。
他の各々の方々の年齢や顔、経歴や家族構成などもしりません。
宮田さん、小林さん、前川さんの研究テーマが日蓮遺文関連だと考えて推測のもとに書いています。

結論から先に書くと、学者の方々は創価学会の教学構築と御書作成、解説本作成に可能な限り協力しないで欲しいです。
御書の盗用または剽窃について学会本部が公式に謝罪と賠償(御書交換など)を表明してから協力して欲しいです。
もう、改訂作業かあるいは教学構築と御書作成、解説本作成を「命令され」協力し始めているのかもしれませんが。
謝罪がないままだと、論文や本を読んで末端の創価学会員が余計、妄想し、つけあがるだけです。(創価はすごい、池田先生はすごい、日蓮はすごい)

有能な学者であるからこそ、私は学者の方々には創価学会を退会して欲しいと思います。
それは無理かもしれません。

 創価大学職員や東洋哲学研究所も退職して欲しいです。
やはり無理でしょうね。
日蓮系や天台法華などに私が転職先を紹介できれば良いのですが、私は全くの無力です。

●命令されていませんか?

 定年退職したら、以下の様な本を参考に社会への警鐘として体験を記録した本を出して欲しいです。
「オウムと私 林郁夫」

読めばわかりますが、有能なスキルと心のスキルは別問題だと私は考えています。
林郁夫は有能だったでしょうし、今でも有能でしょう。同じテストをしたら私は負けるでしょう。
彼自身の信仰体験の欲求と師匠である麻原との人間関係等々の彼のエゴを優先し、他人を劣後(後回し)にした結果が数々のオウム事件です。
高い医学のスキルを持ちながら、医学を悪用したのは言うまでもありません。

研究者は研究だけに没頭し、学会員、退会者、関係者間のトラブルは無視したいのかもしれません。
「自分さえ(自分の研究さえ)良ければ、他はどうなってもいい」という論理は法華経から出てくるのでしょうか?出てこないですよね。

オウムも創価も命令で動かされていることが多いのが重大なポイントです。
創価学会では仏意仏勅(ぶついぶっちょく)とよくいいます。勅とは勅命です。命令です。
オウムと創価の違いは人を殺したか、殺してないかだけであって、同じ命令です。学者からみたら盗用剽窃は裁判で判決が出なくても犯罪扱いではないですか?

御書全集の盗用または剽窃は、戸田城聖が指揮命令したに違いありません。

●盗用または剽窃にどこまで言及できるのでしょうか?

 日本宗教学会の宮田さんの発表がなされてから、どうなるか注目していました。
学会本部も軽率に早期にダメ出しをしましたね。あれは取り下げる命令だったのではないですか?
宮田さんを可哀想だとも思いますが、創価で飯を食っているから自業自得だとも思えます。

過去に原発事故では原発関連の学者に対し、御用学者という批判もありました。
マスコミに対しての批判の中に「報道しない自由」という社会的批判があります。

例えば、小林さんの論文を見ると創価にとって都合の悪いと思われる指摘がなされています。
しかしながら盗用と剽窃にまでは踏み込んでいません。
今後、創価のパクリ本の盗用と剽窃にまで、言及できるのでしょうか?出来ないのでは?
仮に言及したとしても1ページだけとか、オブラートに包まれて末端のオバちゃん創価学会員が十二分に反省出来るような文章になるのでしょうか?
学会本部からクレームが来て書き換えか取り下げを要求されるのではないでしょうか?

今年1月になる以前から私は学会系学者の方々を不愉快に思っていました。
それでも御書の盗用または剽窃が発覚しなければ、実名を上げてまで批判記事を書くことはなかったでしょう。
1月なかば以降、多くの問題点を見つけ、多くのことを考えましたが、霊艮閣版や昭和定本の批評をしている場合ではないと思います。

再度書きますが、学者の方々は創価学会の教学構築と御書作成、解説本作成に絶対に協力しないで欲しいです。

浅見定雄さん「“何を信じているか”ではなく“何をしているか”で判断する」

論文や出版は自由ですが、今後、どのような内容になるのか厳しく見られると思います。
御書の盗用または剽窃が発覚した以上、日蓮遺文に関係するとしても、保身ために創価寄りではなく、もっと一般民衆、一般社会寄りに関係を持って下さい。

 他には細かなことですが、創価に悪用されないよう、今後の論文や書籍の文章や構成に可能な限りガードをかけて欲しいです。
創価学会は会長の出版物でも平気で改ざんするので無駄かもしれませんが、何もしないよりマシでしょう。
宮田さんの発表があさってあたりに創価に突然採用されても驚きませんし、あまり興味はありません。カルトとして部分的に悪用され続けるだけだと思うからです。カルトとして捉えて考察するなら部分的に興味は持ってます。
数百年後か数十年後に金庫に金がなくなり、本部職員が折伏を初めたら、ようやく変わり初めるでしょう。

以上
コメント
この記事をはてなブックマークに追加