EKKEN♂

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しつこく「批判すること」に関すること

2005-02-19 | WEBにまつわる話
 このブログは、「批判」という単語で検索をかけてきて辿り付いた人が多いのです。
 先日トラックバック頂いたD Slenderさんの記事、でも、私には「今」がある: Webでの批判の際の心構えについて思ったことなど。
 
 何度か書いてきたように、自分がやりたいのが、「批判」なのか「悪口」なのかはハッキリさせるべきだし、もし悪口に重点をおきたいのなら、自分のキーボードを叩く手を止めて、鉛筆を持ち、リアル手帳にでも書くことをオススメします。論拠のある批判であれば、同調してくれる人もいるでしょうが、悪口では第三者のコンセンサスが得られることが少なく、アクセス乞食と思われたり、時には自分を孤立させることにもなりかねません。
 サイト批判、ブログ批判は良くない! そんなことはイカン、けしからーん! という人をよく見かけます。ありふれた日常を綴っていれば、批判されることは極めて稀であるはずなのに、そうはせず、自分は(他人のブログではないせよ)何かに対する批判をしておきながら、自分を批判するな、というご都合主義者だと思います。
 メタブログはダメ! というメタブログ批判は「メタメタブログ」なのです。
サイト批判をされている方というのは、自分の文章が批判や罵倒されることを受け入れています。その一方、「個人サイトの悪口を言ってる奴の人間性を疑う」と言ってる人は、自分もそれをやってることに無自覚なので、読んでいて空しくなります。

column_INTERNET_009

サイト批判批判は、メタレベルではサイト批判と同じなので、自己矛盾である。そのことに無自覚な人は気づいた方がいい、というのが骨子です。サイト批判を批判するときは、きちんと批判の内容を吟味して、その内容を批判しましょう、と。

column_INTERNET_009

 他人のサイトの批判は、その論拠がハッキリしていれば、全然問題なし。むしろ問題にする方がどうかしている。
 ただし、その批判について、誰からの同意も得られなければ、批判した人が恥をかくだけ。批判された本人以外の多くの人が、「ただの悪口じゃないか」と思うような物であれば、批判者としての価値を大きく下げてしまうのです。批判者としての価値を下げたくない人が、たびたび行うのが「匿名での批判」ですが、匿名での批判は、仮に優れた批判であっても、その価値を正当に評価されないものです。何故なら、自分の価値を下げる場を持たない人の批判は、発言に対してリスクを負うところがなく、無責任で単なる罵倒になってしまう傾向にあることを、多くの閲覧者が経験上認識しているからです。
 
 自分の考えを否定されることを、物凄く嫌う人が多いようです。だから批判はしちゃいけない、ということなのでしょうか?
 でも何か意見を述べていれば、その反対意見を持つ人は当然存在しますよね。僕は自分が批判されることが、決して好きではないにしても、ものの考え方の違う人の意見を聞くのは、結構面白いと思ってます。その人に同調することは少ないかもしれませんが、自分にとって新たな物の考え方が生まれてくることもあるでしょう。自分へのまっとうな批判は、自分の大きな成長材料にもなりえます。
 自分に同調してくれる人だけを寄せ集めていると、ある種の高揚感にはひたれるかもしれませんが、人としての成長はそこで止まってしまいます。井戸の中の蛙の王様になっても、嬉しい物ではありません。

Web上での批判はやめよう、と定めるのは無味乾燥だと思います。何故なら、論拠がちゃんと書き込まれた批判的な文章は、たとえ自分の考え方とは異なっていても、読んでいて面白いと思うからです。個人的には、自分と似た思想の文章を読むよりも面白く感じることが度々あります。やはり「Web上での批判」にはそれなりの存在意義があると思うのです。

でも、私には「今」がある: Webでの批判の際の心構え

 D Slenderさんと同じ考えです。映画鑑賞が好きな人は、おすぎさんの評論を聞かないですか?
 おすぎさんがつまらないと言った映画が、本当につまらなかったですか?
 おすぎさんが絶賛していた映画を、あなたも面白いと思いましたか?
 おすぎさんの映画感想と、ほぼ同じ感想を持った、ということは、たまにはあるかもしれませんが、毎回同じように思う人はいないはずです。
 数学の答えや、法律に関わることでもない限り、最終的に「それが正しい」かどうかを判断するのは、自分自身です。
 自分と似たような思想ばかり読んでいると、自分の考えは間違っていない、みんな自分と同じように考えている、という誤解をしてしまいます。自分が形成したコミュニティから一歩も出ず、また外部からの侵入を認めないのなら、それでも構わないのかもしれませんが、WEBの仕組み上、そんなことはありえないのです。いつまでもジャイアンではいられません。
 
 以下、D Slenderさんの「Web上で他者批判する際に心がけていること」です。
 一つ一つ、僕の感想を書いていきます。
 
A. 批判したら、必ず根拠を書く
 これは当然のこと、というか根拠がないのは「批判」とは言えないですよね。
 「えっけんのバカー」「おまえの意見は間違っている!」は、誰も批判とは認めてくれないです。 相手を罵るだけでは、自分がバカであることを宣言しているようなものです。
 
B. 自分の感性で批判する。論拠を他人に求めない
 これについては『みんなが不快だ』は俺が不快だ!を参照して下さい。
 
C. 絶対的に正しいものは稀なので、批判しつつも冷静に
 価値観の違いを言い争っても、相手を納得させることは難しいです。
 特にマナー論では、答えのでない議論になることが多いので、時には相手の立場になって考えてみることも大事なことだと思います。

D. 言葉遣いに注意し、言うべきことは直裁に言う
 乱暴な物言いになりがちな僕ですから、この辺は自重する必要はありますね。
 相手を傷つけまいと遠まわしな表現を使う人もいますが、本人が気付かなければ何の意味もないし、無関係な第三者に不快な思いをさせることは、避けた方が良いと思います。

E. 相手の主張を誤読しないよう最大限の努力を
 誤読しないよう努力するのも大事だと思いますが、誤読させないような文章を書くことはもっと大事です。
 相手を負かすことだけを考える人の多くは、相手の文章の一部だけを切り取って反論しがちですが、それは単なりあげ足取りでしかないし、冷静な読者からは笑われるだけです。
 しかしながら何度説明しても、繰り返して誤読して反論する者もいますので、そのようなバカは早めに見切りをつけ、スルーできるようになることも必要かと思います。

F. 引用をする際には、誤解を招かないように十分長く引用する
 誤解を招かないような説明は大事だと思いますが、基本的には相手の記事へのリンクなどで済ませられる物は、過剰な引用は避けた方が良い、と僕は考えています。
 相手が十分な説明なく記事を書き換えた場合は、批判した側の記事がおかしくなってしまう場合もありますが、説明のない記事の書き換えを繰り返す人は、読者の信頼を失う物だから放っておいても構わないと思うし、書き換えの説明があってされた物であれば、謝罪のあった過去の発言を執拗に責めるのは、僕はどうかと思います。
 2ちゃんねるなどで、いわゆる「祭り」が起きた場合に、「まとめサイト」と呼ばれる一連の騒ぎを解説したものが出来たりしますけど、あれは一種の私刑であって、「まとめ」といいつつ、実は「祭った側」にとって都合の良い部分ばかりが取り上げられている物で、多くの場合、客観的事実を伝える物にはなっておりません。それが「祭り」中の一時的なものであれば、そんなに問題視しませんが、祭りが盛り上がるほど、個人情報の漏洩など、祭る側の問題点が浮き彫りになる物です。
 話がずれてしまいましたが、一時的な個人の過ちを粘着的に責めつづけることに繋がりかねない「十分に長い引用」は、その必要性を十分に吟味してもらいたい物です。

G. 批判すべき件と無関係なことでは批判しない
 当然です。「批判したいこと」では言い負かすことが出来ないからなのか、無関係な相手の経歴などを持ち出して批判する人が、結構多いように思えます。勢いに乗れれば、相手に大きなダメージを与えることも出来ましょうが、冷静な読者は論点がずれていることを早々に見抜くことでしょう。
 また、批判対象の巡回先を渡り歩いて、本人とは無関係な人を巻き込むことによって相手にダメージを与えようと試みる人がたまにいますが、恥ずべき行為です。
 僕は「批判すべき件と無関係なこと」を批判しだした人は、その時点で負けが決定した物だと考えています。

H. 人種・宗教関連のことには言及しない
 自分の心の奥底から、完全に差別を無くすことは、僕は難しいと思います。
 しかし身体的特徴を嘲笑うことは、明らかに反社会的な行為です。
 たとえ本心は差別の気持ちがあっても、それをWEBという公共の場で表現するのは絶対にしてはいけない行為です。
 宗教については、たまに「批判されても当然」という現象があったりしますが、過激な宗教団体・狂信的な信者からイノチを狙われたくないのなら、話題にしない方が良い、という程度ですね。

ところで、蛇足気味の追記ですが、「いろんな異論は不快ですか?」(むだづかいにっき♂)の中で

相手に知らせないで、なおかつその相手のサイトへの入り口を用意している批判と言うのは、言ってみりゃ「バカ晒し」と何ら変わらないと思うのです。


とありますが、ここだけは私は違う意見を持っています。自由なリンクはWebの大原則。筋の通った批判であれば、相手に知られないリンクをしても構わないと思います。実社会の企業人事などでも、本人が居ないところで辛辣な評価が話し合われたりしますからね。
でも、私には「今」がある: Webでの批判の際の心構え

 この件については、D Slenderさんのブログのコメント欄で回答していますが、その追記として。
 リンクが自由な物である、というのは同意なのですが、こと、他人の批判に関したものとなると話は別です。
 本人のいないところでの「辛辣な評価」というものが、僕は対象者を嘲笑う卑しい行為になりやすい物だと思うのです。その評価がマジメな物であるほど、対象者にとっても役に立つ物であるはずなのだから、対象者を特定できる批判であれば、バカ晒しに陥らないためにも、相手に知らせる必要性は高いと思います。そしてブログというツールは、そうした事を行うためには大変利便性の高い物だと思うのです。
 
 インターネットでは陰口という物は成立しません。
 ネットに公開した時点で、誰もがそれを見ることが出来る物です。
 つまりは悪口を言われている人も、知る可能性はあります。
 もし、相手には絶対にばれないと思って悪口を書いているのなら、それはあまりに無知かつ無恥な行為といえるでしょう。
 
 むだづかいにっき♂:他人の悪口を書く際のスタンス

 
 
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批判なのか、悪口なのか。

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