6月後半に開いた聖路加第二画廊における個展の直前に、この絵は完成した。
黒ラブ君の名前は“ マーク ”。
そのちょうど一年前、第二画廊では初めての個展会期中に H さんにお会いした。
「わぁ、可愛い!」
そんな感じのテンションでご覧いただく方が多い中、静かに絵の前にたたずむH さんの表情はちょっと違っていた。
無理もなかった・・・。
そのあとお話をした中で、愛犬を亡くされた直後であることを知った。
それが、マーク君だった。
同じ年の2月に愛猫の元さんを亡くしたばかりだった私には、H さんのお気持ちがよく分かった。
そしてその悲しみから立ち直るには、“時”が持つ偉大な力を借りながら、しっかりと想い出してあげるしかないことも・・・。
しかしその時の H さんには、まだあまりにも時間が足りなかった。
ほんの一瞬想い出しただけで涙が溢れ出し、言葉を遮った。
それでも少しずつ、少しずつ、マーク君の話を続けるにつれ、時折笑顔が見えるようになっていった。
私はただ耳を傾けることしかできなかった。
それからしばらくして、改めて肖像画制作の依頼を受けた。
預かった20枚ほどの写真には、ご家族みなさんのマーク君への愛情が溢れていた。
その中から、いちばんマーク君らしい表情を選んでいただく。
同時に、絵の中に込めたいと思う希望事項をうかがう。
肖像画を描くときはいつもそう・・・。 出来る出来ないに関係なく、とにかく希望されることを全部聞かせていただく。 私も描き手として遠慮なく意見を言わせてもらう。 その上で、最善の形を探してゆく。
何度も繰り返すが、肖像画は私だけが描くのではなく、依頼者と共に描くものだから・・・。
H さんから手渡されたメモ書きにはこんな希望事項が書かれてあった。
・笑っている表情(舌が出ている)
・目が合うように
・元気そうに
・優しい顔
・丸い目をして
・お花がいっぱい
・天国にいる感じ
何気ない言葉一つ一つの中に、マーク君への思いを強く感じた。 そして一番最後に書かれた一言が、熱く胸に響いた。
それから数か月の間に、デッサンを見ていただいたり、絵のサイズを再検討したり・・・。 少しでもマーク君らしい絵を・・・というお互いの気持ちが様々な形で積み上げられていった。
マーク君については十分なくらいイメージが固まったが、最後まで絞りきれなかったのがバック。 つまり、希望事項に書かれた最後の二つ。
そんな状況のまま、私は4月のボザール・ミューに於ける個展を控えていた。
その個展では、天国へ旅立って一年が過ぎた元さんを思いきり描いた。
まさに“天国にいる感じ”の元さんの絵も何点か・・・。
その個展に H さんも来てくださった。 そしてその中の一点を特に気に入ってくれたことがきっかけになって、マーク君の絵の全体のイメージが固まった。
個展終了後、最後の仕上げに掛かった。
もう迷いはなかった。
想い出深いという桜の花の薄紅色、マーク君の気持ちになった勿忘草の青、そのほかに黄、緑、橙・・・などなど、それぞれの色に H さんの様々な思いを描き込み、最後に白のパステルで優しく花々を覆った。
この4月から H さんは聖路加病院でお仕事を・・・。
そんなこともあって、完成したマーク君の絵は第二画廊での個展中に引き渡すことになった。
お約束の日、H さんのご希望もあって朝から展示することにした。
何人もの方々が、マーク君の前でニコニコ・・・。 私も思わずニコニコ・・・。
そんな数時間後、貴重な昼休みの時間を使って H さんが来てくれた。
壁に掛けられた絵を前に、静かに何回もうなずく H さん。 私にはそれだけで十分だった。
そして少し遅れて見えた妹さんが、一言・・・。
「あっ、マークだ・・・」
その言葉にホッとしながら、初めて H さんとお会いした一年前のことが懐かしく想い出された。
社会人としてご実家を出るにあたり、マーク君の絵をご両親に贈られるとのことだった。
きっと今も忙しい毎日を過ごされていることと思うが、はたしてもうご両親にご覧いただくことができたのだろうか?
マーク君がいつも H さんとご家族の皆さんを見守っている。
この絵の前に立った時、そんなふうに感じていただければと願う。