人と競わない、
争わない、
何事も競争しないことが何より大切。
勉強を競わない、
スポーツを競わない、
コンクールで競わない。
競えば、バカをみます。
競えば、損をします。
競えば、不幸になります。
競えば、精神の病に侵されます。
競えば、身体を壊します。
わたしは、幼少のころ病弱でした。幼稚園児のとき肝臓疾患で40日間寝たきりになり、
小学5年生から2年間は胃潰瘍で虎の門病院通い、中学生から20歳までは十二指腸潰瘍でした。
自律神経失調症で、続けて1時間の勉強は無理でしたので、少しづつ休みながらやりました。
運動神経は比較的よく両親の遺伝で身長は高かったのですが、とても運動部で他者と競うことは出来ません。でも健康管理を考えて、中1の時から毎晩8時になると自宅(神田須田町)の周りを走り(15分ほど)、腕時計でタイムをはかりましたが、だんだん早く走れるようになり、面白くなりました。
中2のとき(越境入学で文京区立第六中学校)、文京区の駅伝大会があり、選手選考のために、各クラスから代表10名(9クラスなので計90名)で不忍の池の周りを走りました。わたしは、競うつもりはなく(運動部の人たちに敵うはずがない)いつものペースで走りましたが、みなはすごく早くてとてもついて行けませんでした。でも、段々と先行者は遅くなり、わたしは同じペースでしたので、次々と抜いて最後は3着でした。わたしはただビックリでポカ~~ン。
それで駅伝代表に選ばれましたが、運動部でない人が代表というのは学校始まって以来と言われ、大いに話題になりました。
駅伝大会までは、大会のために毎日、競わされました。自分のペースではなくタイムを決められて競わされたのですが、そのために内臓病が悪化して参りました。文京区の大会では3位になり一応責任は果たしましたが、ヒドク身体が苦しくて、その後なかなか身体が戻らず、いま思い出しても「嫌」な感情しか起きません。
わたしは、この時、競うことで身体が悪くなり、得ることは何もないことがよく分かりましたので、それ以後、なんであれ二度と競技大会に出ることはしていません。遊びでヨウイドンをしたり、階段上りの競争をしたり、お相撲ゴッコ(押し合い)で勝負したりはやりましたが、何かの競技の選手になり、毎日毎日、大会のために練習するようなことは、以後やめました。でも、合理的に体力維持の運動(自分に合った楽しい動作)をしているだけで、筋力は64歳になっても強く、遊びの相撲では高校生・大学生にも負けたことがありません。若いころ部活や競技スポーツで身体を痛めていないからでしょう。スポーツ選手の多くは50歳も過ぎると、身体も神経もガタガタです。
全身力(体幹)強化のための基本がこの姿勢で押すことです(写真は、手賀沼公園で)。
実は、勉強もそうです。ほんらい点数競争ではなく、自己納得のためにやるものです。
小学生の時に面白い経験をしました。4年生の時に書いた作文がたいへん話題となりました。担任の太田先生(越境入学で文京区立誠之小学校)は「作文に満点はないので、わたしは20年以上の教師生活で一度も満点をつけたことはないのです。でも、今度はじめて満点をつけました。満点をつけるほかないすばらしい作文で、それは武田君の作文です」とクラスで言われてしまいました。嬉しいというよりも、またポカ~ンでした。
わたしは、よい作文を書こうとは全く思わず、文章の練習をしたこともなく、ただ、面白い思い出を楽し~く書いただけでしたので。
その後も卒業生代表の作文や、文京区のリレー放送に選ばれたりしましたが、なんで選ばれるのか?皆目見当が付かず、当惑でした。最近では、金泰昌さんとわたしの哲学往復書簡30回(東大出版会刊)のわたしの文章を見た日本語の研究者(大家と呼ばれている中国人の学者とのこと)が、「武田さんの文章は、まるで俳句か短歌のように完璧な日本語で、どこにも手の入れようがない」と言っていたと伝え聞き、驚きました。短期間での往復書簡でしたから、みな一日か二日で書いた文章で、できるだけ分かりやすくを心掛けましたが、優れた文章を書こうなどとは少しも考えませんでした。
こういう例は書いたらキリがないのですが、わたしは、わたし自身の長年の体験から、「競わない」ことがよい結果を生み、心身の健康を維持する【秘訣】だと確信しています。競うことを目的化した生き方ー文化は、人間の悦びや楽しさ、人間性の豊かさ、人間味あふれる優しさ、人間的魅力をつくりません。他者との比較で優越感に浸るイヤな人間を生んでしまいます。外側から見ると立派でも、内なる豊穣がない人になります。世間体ばかりで、数字で評価できることにしか関心がなく、心がつくる世界=善美への憧れに乏しく、芸術を味わうことのできない人にしかなれません。そう、芸術の世界までも競争世界の基準でみる人に陥るのです。一番、二番とね(笑・呆・憤)。
「現代人の不幸」から脱して、新たな人間味あふれる生き方ー文化を生みたいものです。競争原理から納得原理へ、競争原理からエロース原理へ、競争原理から健康原理へ、です。
(競う気持ちがない私のblogのアクセス数は先月一位になりましたが、それは結果です)
至高の基準とは自己の内なる善美であり、至高の愛とは自己を愛することです。それを学び・実践してはじめて他者を深く愛し了解できる人になります。
21世紀のルネサンスをはじめたい。自己に徹すること以上はない、これはブッダが到達した「自帰依ー法帰依」で、人間の生の原理です。
武田康弘
今は朝から晩までオリンピック競技のニュースばかりで息が詰まってしまいます(笑)
幣原首相の書簡が発見されたこと、安倍首相に「改憲反対!」と叫んだ男性がムリヤリ連行されたことを報道する局はどこにもありませんよね。
シンクロナイズドスイミングみたいな芸術系スポーツは、選手のセンス、知性、感性、内面の深みなどを問われるソロ競技が一番好きですね。
ですが、残念ながらオリンピックではソロ競技はありません・・・
楽しいですね。誠之では、わたしのクラス(五年ー六年)で毎年クラス会をしています。
また、六中では還暦同窓会を4年前に行い、70名集まりました(虎ノ門のニューオータニで)、集合写真はわたしが撮りました。
りんさん、
ほんとうに、ソロがないのは怪しからんことです。
3年年長だと、1969年の高校紛争(わたしより一つ上の人が中心)はご存知ないですね。
わたしも家がすぐ近くで、天文台があるので志望しました。
このお話には涙がでます。
ありがとうございました。
まあ、日本もだんだん戦前回帰で、北朝鮮のようになってきましからね(笑・呆・憤)。
ありがたいコメントにとても感謝です。
わたしは、好きなことをする、よいと思うことをきとんと述べ、堂々と生きる、そして人にはその言うに任せよ、と人間(=自由と責任をもつ個人)として生きています。ぜひ共に!
こんばんは、竹田です。
今回の武田さんの投稿を読み、「どこかで読んだことのある文章に似ているな」という既視感に捉われました。
時間があったら、新興宗教「幸福の科学」の教祖である大川隆法氏が大昔に書いた『太陽の法』を読んでみてください。その一節に、学生時代、自分がいかに優秀であったかが、読者が恥ずかしくなるような筆致で書かれています。今回の武田さんの投稿は、そのときの大川氏とは比べるべくもありませんが、少し同じ臭い(強烈な自己愛)を感じます。
また、、「エミール」や「社会契約論」のルソーの思想の土台が、《自己を愛する》です。
さらに、ブッダ(釈迦)の根本思想は、誰もが、「唯我独尊」として生まれてきたことを自覚し、「自分に帰依するー法に帰依する」 です。
そして、わたしの恋知は、「私の心の善美への憧れを不動の座標軸とする」というもので、ソクラテスのプロソピア(フィロソフィー)と通底します。
怪しげな新興宗教とは無縁です(笑)。
竹田さんは、なぜか、いつも「ひねくれた」コメントで、本質から遠ざかります。正面から自分自身に向き合い、善美を希求しないと、人生に深みと豊かさはやってきません。徳も得も得られませんので、自分が損です。
競争がないことはもっと害悪だと思います。
なんだかんだ競争することで文明は進歩してきたわけですから。