思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

次回描かれる「鎌倉殿の13人」を見る前に、2年前のBLOGをぜひご覧ください。後鳥羽上皇vs北条政子

2022-12-06 | 学芸

2年2か月前のBLOG再録ですが、北条と後鳥羽上皇と法然と法然と親鸞との深い関係を歴史家も知りません。  
情けないことです。以下をぜひごらんください。来年2023年は、最大宗派の浄土真宗開宗800年(茨城の稲田と八郷などが中心)親鸞生誕850年です。

後鳥羽上皇の悪業=承久の乱 と 北条政子・義時・泰時 と 法然・親鸞の念仏宗。茨城における浄土真宗開宗。2

2020-10-10 | 学芸

2 承久の乱と念仏宗


 1221年、朝廷(平安時代初期の村上天皇までは天皇家と呼ばれていた京都王)を真正面から打ち破り、完全勝利して新たな日本をつくったのは、権力や財への興味などなかった北条政子と弟の義時とその息子の泰時でした。日本史最大の革命でした。

 伊豆の片田舎の小豪族でしかなかった北条の姉弟は、朝廷と戦うことなどは夢にも思っていませんでした。伊豆に流されていた源頼朝への政子の純粋な愛がすべての始まりでした。親の反対を押し切り、政子は頼朝の元に飛び込み結婚しましたが、頼朝が平氏との戦いに勝ち、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたので、その国造りを全力で支えたのでした。

 政子は、頼朝の突然の死(1199年)の悲しみから僧となりましたが、二代目の息子頼家は情けなく力に欠け、三代目の実朝も貴族文化に憧れ軟弱で、鎌倉幕府は求心力を失い、結局は、冷静で頭がよく胆力も強い弟の義時が執権としてトップに立ったのでした。

 京都の後鳥羽上皇は、大変に権力欲が強く、王者意識をもっていましたので、源頼朝が征夷大将軍の時から東国も朝廷の支配下にしたいと考え、頼朝の忠誠心など当然の事とし、遅れた東国の武士集団の長としか見ていませんでした。
 後鳥羽は、源から北条に実権が移ったのをチャンス見、「義時を討て!」という院宣を全国に出し、朝廷による全国支配を企てたのです。義時が「朝敵」となれば、幕府は瓦解し、東国武士団は分裂するとみた頭のよい策士・後鳥羽上皇ならではの決断でしたが、

 彼の大誤算は、法然の念仏宗に帰依し、愛情深く恐れをもたぬ天才政子の存在を見なかったところにあります。頭も心も優れた武将の義時とはいえ男集団だけならば、犬のように上下意識の強い武士集団は分断され、戦いにならなかったでしょうが、女性の政子の東国武士への熱い想い、最愛の夫頼朝が言語を絶する苦難により拓いた鎌倉幕府を守ることへの強固な意思、再び京都に支配され誇りのない惨めな生活に戻ることへの断固たる拒否、それらを訴えた「大演説」により、動揺していた鎌倉武士たちは一致団結したのでした。

 朝廷軍が鎌倉に攻めてくるのを迎え撃つのでは敗北する、直ちにこちらから京へ攻め登る必要を政子は、弟の義時の息子で心身とも強壮な泰時に話しました。幼少時からずっと伯母の政子を慕い尊敬していた若干22才の泰時は、死を覚悟し、わずか18騎で出陣しましたが、泰時出陣の3日後には、関東の武士たちは続々と京へと進撃を開始したのです。ついにはその数19万に達しました。

 宇治川を渡り切り、東国武士が勝利を目前とした時、後鳥羽上皇の使者が来て、院宣が渡されました。

「この度の合戦は、朕(ちん)の意志からではなく、周囲の者たちが企てたことだ。今となっては、北条義時が言う通りに万事を行う。よって、洛中での狼藉(ろうぜき)を禁ずる旨を東国武士に命じてほしい」

 泰時は苦笑しました。父の義時の殺害を全国の武士に命じておいて、負けるとなると、周囲の者のせいにし、自分は戦いもせず、責任を取ろうともしない。

 京都・朝廷を完全制圧した後、義時は、後鳥羽上皇らを処分しました。後鳥羽上皇と息子の順徳は島流しで、終身刑。後鳥羽は、流刑を解けばまた何をするか分からないので、流刑者は数年で元の場所に戻すという従来の慣行を変え、60歳で死去するまで19年間隠岐の島に閉じ込めました。順徳天皇も流刑地の佐渡で21年後に45歳才で死去。土御門は自ら申し出て流刑となりました。皇室所有の荘園数百か所はすべて没収されました。

 後鳥羽上皇の残りの息子10名は、出家させられましたが、その中から、ちょうど東国茨城の地で誕生しつつあった親鸞の浄土真宗を助ける者が出たのです。親鸞の弟子となったのですが、なんという劇的な展開でしょうか。誰でもが南無阿弥陀仏の6文字で救われるという念仏宗は、傷心の息子たちの拠り所になったのでしょう。

 1207年、後鳥羽上皇は、「法に背き、義に外れ、法然門下4名を不当にも死罪とし、法然上人他を流罪とした」(「教行信証」親鸞著)のですが、その14年後に起こされた後鳥羽上皇の鎌倉北条幕府転覆の企て失敗により、自らは終身刑となり、息子たちは僧となり、なんと彼が弾圧した念仏宗に帰依して、親鸞を助けることになったのです。

 なお、親鸞が念仏門の法然門下となったのは1202年ですが、政子が法然門下になったのも同時期、少し前であったと思われます。また北条幕府と親鸞は深い結びつきをもちますが、それはまた後日に。

ーー続くーー

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする