天皇・皇后が3月に沖縄を訪れます。琉球新報は、「沖縄に心を寄せ続けてきた両陛下が強く再訪を希望した」(13日付)と報じました。「本土」だけでなく沖縄でも、天皇明仁・皇后美智子を美化する論調が一般的です。
しかし、天皇の過去10回(皇太子時代5回)におよぶ沖縄訪問は、はたして「沖縄に心を寄せ続けてきた」ものでしょうか。
最も注目すべきは(したがって最も政治的な意味を持つのは)、皇太子時代の第1回訪問(1975年7月17~19日、写真左)です。この時、皇太子明仁はなぜ、なんのために沖縄に行ったのでしょうか。
敗戦後、天皇裕仁(昭和天皇)は天皇制維持のため全国を行脚(行幸)しました。しかし、唯一行っていない、いや、行かれなかった県がありました。沖縄です。
政府・宮内庁は裕仁天皇の訪沖のきっかけづくりとして、全国植樹祭(1972年)、国民体育大会(1973年)の沖縄開催を相次いで決定しました。いずれも天皇が出席するのが恒例とされていたからです。しかし、裕仁天皇はどちらにも行くことができませんでした。沖縄県民が出席を拒んだからです。
「沖縄県からの出席要請はなかった。『何もまだ言ってこないのか』。昭和天皇は宮内庁長官宇佐美毅に何度も尋ねたという。両行事の開催は天皇の沖縄訪問を円滑にするための意味もあったが、県民は拒否反応を示したのである」(高橋紘・元共同通信記者『平成の天皇と皇室』文春新書)
当時、裕仁天皇の訪沖に反対した「沖縄の労働組合代表」はこう述べていました。
「先の大戦で、沖縄住民は天皇の名のもとに多大の犠牲をしいられ、その戦争責任があいまいなまま天皇のご来訪(ママ)を受け入れるには、あまりに住民感情が複雑であるということと、天皇を政治的に利用して沖縄住民の望まぬ復帰形態(核基地付き・自衛隊配備―引用者)があたかも住民祝賀のうちに迎えられたような擬装がなされることを警戒しなければならない」(72年1月26日付朝日新聞。藤原彰氏ら『天皇の昭和史』新日本新書より)
皇太子・明仁の訪沖は、こうして沖縄県民に拒否された父・天皇裕仁の名代に他なりませんでした。
皇太子なら沖縄の抵抗は少ないだろうというのが政府・宮内庁の狙いでした。しかし、沖縄県民に歓迎されなかったのは、皇太子・明仁も同じでした。
「糸満市に差し掛かると、(皇太子)夫妻の車目がけて病院の屋上から、木材やクレゾール液の入った牛乳瓶が、投げられた」(前掲、高橋氏)
そして、ひめゆりの塔(糸満市)に着いた時、火炎瓶を投げつけられる事件が起こったのです。この事件は天皇・天皇制に対する沖縄の怒りを改めて示しましたが、同時に奇しくも、皇太子明仁の訪沖の狙いを浮き彫りにすることにもなりました。
当日、明仁皇太子は事件に対する「談話」を発表しました。きわめて異例です。「談話」はこう述べています。
「過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で、わが国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり…悲しみと痛恨の思いにひたされます。私たちは沖縄の苦難の歴史を思い…ともども力を合わせて努力していきたいと思います。(以下略)」(1975年7月18日付朝日新聞より)
のちに明仁皇太子は、記者会見でこうも述べています。
「本土と沖縄は、戦争に対する受けとめ方が違う。やはり、太平洋戦争の激戦地であり、民間人を含めて多数の犠牲者が出ました。…火炎びん事件や熱烈に歓迎してくれる人達…それをあるがままのものとして受けとめるべきだと思う」(75年8月26日の記者会見。斉藤利彦氏『明仁天皇と平和主義』朝日新書より)
「談話」と「会見」には共通の特徴があります。それは、沖縄戦をはじめとする沖縄の「多くの苦難」「悲惨な犠牲」をまるでひとごとのようにとらえ、「私たち」として国民を同じレベルに引き込んでいることです。「一億総ざんげ」のように。
そこでは、戦前戦中、皇民化政策を推進し、沖縄戦で「捨て石」にした天皇制帝国日本、敗戦後も「天皇メッセージ」(1947年9月20日)で沖縄をアメリカに売り渡した天皇裕仁の責任は完全に封印されています。
そのため「談話」や「会見」には、「痛恨の思い」はあっても、沖縄住民に対する一片の「謝罪」の言葉もありません。
これはこの時だけでなく、過去10回の訪沖、さらにはほかの会見などで明仁天皇が「沖縄」に言及する場合の例外のない特徴です。
(写真右は「天皇メッセージ」がもたらしたサンフランシスコ講和条約・日米安保条約の発効記念日―「沖縄屈辱の日」2013年4月28日―に「天皇陛下万歳」を叫ぶ安倍晋三首相)
「押し付けられた天皇制。その天皇の名の下で戦った沖縄戦。天皇の軍隊はスパイ容疑などで住民を虐殺し、敗色が濃くなると、県民に自決を迫った。敗戦、そして二十年に及ぶ異民族による支配。沖縄県民の感情からすれば、明らかに天皇は加害者であった」(前掲、高橋氏)。そして「その沖縄と皇室との和解に努めたのが、平成の天皇である」(同)。
1975年以来の明仁皇太子・天皇の「沖縄訪問」は、その「和解」のためだったと言えるでしょう。
しかし、「和解」とは、被害者の側から言うべきものであり、加害者の側が押し付けるものでないことは言うまでもありません。そもそも、加害責任を認めない、したがって謝罪も賠償もない「和解」などあり得ません。それは戦時性奴隷(「慰安婦」)についての「日韓合意」(2015年12月)と同じです。
そのあり得ないことを押し通し、沖縄に対する天皇・天皇制の加害責任、ひいては朝鮮、台湾はじめ東アジアへの侵略・植民地支配の加害責任をうやむやにしようとする意図が、天皇・皇后の相次ぐ沖縄訪問の底流に流れていることを見過ごすことはできません。
☆お知らせとお礼
過日お知らせしました自費出版『「象徴天皇制」を考える』に多数のご注文をいただき、誠にありがとうございました。完売いたしました。ご注文と合わせて多くの激励をいただき、たいへん力づけられています。深くお礼申し上げます。
来年には『「象徴天皇制」を考えるⅡ』を出したいと考えています。
今後とも「アリの一言」をよろしくお願いいたします。