アリの一言 

オキナワ、天皇制の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「外国籍県民」を排除した翁長知事の責任を問う

2016年02月22日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 「外国籍児100人就学不明 県内5市、調査せず」−−21日の琉球新報1面トップです。
 「住民票がある外国籍の子どものうち義務教育年齢であるにもかかわらず自治体が就学の有無を把握していない児童生徒が、県内10市のうち5市で100人に上ることが琉球新報などの調べで20日までに分かった」

 さらに琉球新報は社説(22日付)で、調査していない5市の責任を厳しく指摘しています。
 「子どもの学ぶ権利を保障する上でも由々しき状態だ。・・・外国籍の子どもにも『育つ権利』を保障するためには、まず全ての自治体が就学の有無を調査し、把握すべきだ

 調査していない5市とは、那覇市、沖縄市、うるま市、宜野湾市、石垣市

 那覇市の場合、就任1年目の城間現市長よりも、昨年まで4期16年市長を務めた翁長雄志氏に重い責任があることは言うまでもありません。

 しかも、翁長氏が「外国籍県民」の排除で責任が問われなければならないのは、この問題だけではありません。

 2月1日の沖縄タイムス「論壇」欄に、「外国人の参加制限疑問 県民体育大会 国体より厳格」と題した土井智義氏(宜野湾市、大学非常勤講師)の投稿が掲載されました。沖縄県は昨年11月開催の第67回県民体育大会で、これまでの「参加資格」を変更し、日本国籍をもたない県民の参加を排除したのです。

 この問題は昨年12月6日付の同紙同欄の嘉手納良博氏(那覇市、テニス愛好家)の投稿で明るみにでました。
 嘉手納氏は「外国籍の課題は、単なる選手選考ではなく、大会趣旨、本県の目指すべき姿なども視野に入れ捉えるべき」だとして排除に抗議し、沖縄県体育協会に対し、〆2鶻姐饑劼鯒Г瓩覆ったのはなぜか△修糧獣任呂匹里茲Δ兵蠡海で決定されたのか今後はどうするのか、の3点を公開質問しました。

 これに対し、12月14日付の同紙投書欄で、安次富均・沖縄県体育協会事務局長がこう「回答」しました。
 「昨年(2014年−引用者)10月に競技団体と市郡体育協会宛て意向調査を行い・・・日本国籍を有し、かつ、本県で住民登録を行っている者を対象とするべきであるとの意見が多くを占めたため、ことし2月にその旨を周知し徹底するようお願いした」

 この経過を踏まえて、土井氏はこう主張します。
 
 「この解釈変更の結果、日本国籍をもたない人や国籍にかかわらず住民登録自体のない人が、県民体育大会の参加資格を失うことになった。これらの条件は、『日本国籍』を基本としつつも、『特別永住者』『永住者』の参加を認める国体の参加資格よりも厳しいものである。

 本件は、『沖縄県民であること』が、ある人びとの外部化によって成立していることを示すとともに、国からの上意下達だけでなく、地方レベルの『意向』でも既得権の制限がなされるという意味において、近年の朝鮮学校への補助金停止問題に通底する事例である

 特定の人々の参加を拒む解釈変更を、当事者に確認もせず、このように関係機関の『意向』で一方的に行ったことには疑問を持たざるを得ない。だが、問題は、手続き上の面にとどまらず、『外国人』と社会との関係そのものにかかわっている。すでにさまざまな権利が制限されている『外国人』が、大会に参加する家族や友人を横目に見ながら、また一つ社会参加を断念せざるを得ないとすれば、その気持ちはどのようなものだろうか。

 主催者の行政や協会は、スポーツを通じて全ての人が排除されない社会の創出を目指すべきではないか。『誰もが楽しく』という要望に照らし、参加資格の制限が廃止されるべきだと考える

 土井氏の主張に賛成です。さらに言えば、外国籍県民の排除はたんに「気持ち」や「要望」だけの問題ではなく、「スポーツは、世界共通の人類の文化である」(前文)、「国際社会の調和ある発展に寄与することを目的とする」(第1条)という「スポーツ基本法」(2011年施行)に反する行為です。

 同時にそれは、「万国津梁」というウチナーの精神にも反するでしょう。ちなみに、私が住んでいる広島県の体育協会事務局に問い合わせたところ、広島県では「外国籍の方でも問題なく参加できます」とのことでした。

 この問題で最も責任が問われるのは翁長氏です。
 それは翁長氏が県知事だからというだけではありません。当事者である沖縄県体育協会の会長が翁長雄志知事にほかならないからです。
 しかも翁長氏は、同協会が「排除通達」を出した2015年2月には、すでに会長に就任していたのです。

 翁長氏はこの問題についてどう考えているのか。見解と責任を明確にし、ただちに「外国籍県民排除」の「参加資格」を撤廃すべきです。


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天皇・皇后訪比 「慰霊の旅」は安倍改憲の先取り

2016年02月04日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 安倍首相は3日の衆院予算委員会で、憲法9条の改憲を改めて明言しました。その“理屈”は、「7割の憲法学者が自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をかえる」。つまり、憲法違反の状況(自衛隊)を憲法に従って変えるのではなく、逆に憲法を憲法違反の状況(自衛隊)に合わせようとする、まさに立憲主義の逆転です。

 この逆立ちした改憲手法は、9条だけではありません。「天皇制」や「政教分離」に関しても着々と進行しています。天皇・皇后による「慰霊の旅」は、まさにその1つなのです。

  仝醜垠法にはない「公的行為」の拡大

 そもそも、天皇・皇后による「皇室外交」は、現行憲法上天皇が許されている「国事行為」には含まれていません。そのため憲法にはない「公的行為」とされています。

 「天皇を外交上元首として扱ったり、さらには制度化されていないいわゆる天皇の『公的行為』の拡大によって天皇の政治性、権威性をさらに高めようとする試みが行われている。その例としては、1947年以来の国会開会式への出席と『お言葉』の朗読、50年以来の植樹祭や国民体育大会への出席、52年以来の全国戦没者追悼式への出席、52年以来の大臣等におよる『内奏』、64年以来の生存者叙勲、戦没者叙勲、そのほかオリンピック等への公式出席や、たび重なる『皇室外交』などをあげることができる。多くの憲法学者が違憲とするこのような『公的行為』の拡大が天皇の権威性を高めるための巧みな政治的演出であることは言うまでもない」(舟越耿一氏、『天皇制と民主主義』)

 そこで、自民党はどうしようとしているのか。「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日決定)で「天皇の国事行為」を定めた第6条に新たに次の1項を付け加えます。
 「天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う
 その趣旨を、自民党の「日本国憲法改正草案Q&A」はこう説明します。
 「天皇の行為には公的な性格を持つものがあります。しかし、こうした公的な性格を持つ行為は、現行憲法上何ら位置づけがなされていません。そこで、こうした公的行為について、憲法上明確な規定を設けるべきであると考えました

 ◆ 岼嵶遏廚如峭颪僚ゞ騎萋亜廚貌擦魍く危険

 国立歴史民俗博物館の新谷尚紀教授は、「同じ日本語でも慰霊と追悼とはその意味内容が異なる点に注意しなければならない」として、こう解説しています。
 「追悼は通常死と異常死の両方ともに該当する語であるが、慰霊は事故死や戦闘死など異常死の場合が主である。・・・戦闘死の場合には招魂慰霊による積極的意味づけがなされ社祠(ほこら−引用者)が設営されるなどして戦死者は霊的存在として祭祀の対象となりうる。つまり死者が神として祀り上げられる可能性があるという点が特徴的である」(「民俗学からみる慰霊と追悼」)

 「慰霊」は、きわめて宗教性が高く、神社・神道との関連性が強い、という指摘です。

 ちなみに、8月15日の政府主催「全国戦没者追悼式」で、壇上にある標柱の文字は、開始(1963年)から1974年までは「全国戦没者追悼之標」でしたが、75年から「全国戦没者之霊」に変わりました。75年とは三木首相(当時)が戦後初めて首相として靖国神社を参拝(「私的参拝」)した年です。これには、自民党が狙った靖国神社の国家護持(靖国神社法案)が挫折し、「国家護持をあきらめた右派勢力は・・・靖国神社への『公人の参拝』を制度化しようと方向転換した」(若宮啓文氏『戦後70年・保守のアジア観』)背景があります。こうした右派勢力の策動と、標柱の文字が「霊」に変わったのはけっして無関係ではないでしょう。

 天皇・皇后の「慰霊の旅」は、現行憲法の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(第20条2項)という規定に抵触する可能性があるのです。

 そこで、自民党はどうしようとしているか。「改憲草案」で上記の現行第20条2項に次の一文を加えます。
 「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない
 「Q&A」はこう解説します。「これにより、地鎮祭に当たって公費から玉串料を支出するなどの問題が現実に解決されます

 天皇・皇后の「慰霊の旅」が、自民「改憲草案」の「社会的儀礼」の例とされる可能性は小さくないでしょう。

  「天皇元首」化の先取り

 今回の訪比でも天皇・皇后は「国賓」であり、天皇はフィリピン儀仗兵を閲兵さえしました(写真左)。「両陛下が我が国にお越しくださったという事実そのものが、両国間の友好関係の深さを明確に物語っております」(1月27日晩さん会でのアキノ大統領あいさつ)と、天皇はまさに「日本の元首」として扱われたのです。

 現行憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」を、自民党改憲案はこう変えます。
 「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」

 「Q&A」はこう明言します。
 「元首とは、英語でHead of Stateであり、国の第一人者を意味します。明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していました。また、外交儀礼上でも、天皇は元首として扱われています。したがって、我が国において、天皇が元首であることは紛れもない事実です」

 「元首」となった天皇が「象徴」するものを、「日本国民統合」(現行憲法)だけでなく、「日本国及び日本国民統合」に変えようとしていることも見過ごせません。

 こうして、天皇・皇后の「慰霊の旅」は、安倍首相(写真右は天皇を出迎える30日の羽田空港)が目論む改憲の先取り、地ならしとして、政治利用される危険性が高いのです
 現行憲法の「象徴天皇制」に対する賛否のいかんにかかわらず、改憲と連動したこうした「天皇の政治利用」を許すことはできません。

☆「天皇・皇后訪比」についての計4回のブログ(1月23日、2月1日、2日、4日)に、乗松聡子氏(「ピース・フィロソフィー・センター」代表)が質量ともに大幅に肉付けしてくださったものが、共著の形で英文オンラインジャーナル『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』に掲載されました。乗松さんに深く感謝し、お知らせいたします
http://apjjf.org/2016/05/Kihara.html

 


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キネマ旬報ベストテン映画と天皇制

2016年01月11日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 7日発表された2015年公開日本映画のキネマ旬報ベストテンで、第2位に「野火」(大岡昇平原作、塚本晋也監督・主演)が選ばれました。「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作、原田真人監督)はベストテンに入りませんでした。

 両作品は、「戦後70年」に公開された「2つの戦争映画」として注目されました(8月25日のブログ参照。http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20150825)。
 キネマ旬報が「野火」を第2位とし、「長い日」を選外としたのは、同誌(映画関係者)の良識がいまだ健在であることを示したものとして評価されます。

 先のブログで書いたように、「長い日」の最大の特徴は、天皇裕仁を准主役として描き、美化したことです(写真中は天皇裕仁を演じた本木雅弘さん)。この点で、四方田犬彦氏(映画史・比較文学研究家)が興味深い指摘をしています。

 「この作品(「長い日」)が描きだす裕仁像は、『昭和天皇実録』が夥しい資料を巧みにモンタージュして浮かび上がらせてみせた裕仁像、つまり平和の実現のために努力を惜しまなかった誠実な権力者の映像に対応している。両者が同じ年に発表されたことは偶然ではない。原田は天皇裕仁をスクリーンに登場させることによって、彼の本質を逆に隠蔽し、その歴史的役割を批判的に考察する機会を観客から奪ってしまった」(「世界」1月号)

 原田監督はラジオのインタビューで、自ら『昭和天皇実録』を読んで脚本を書き、撮影したと述べています(2015年8月7日NHK)から、四方田氏の指摘は正鵠を得ています。

 ところで、キネマ旬報の第1位は、「恋人たち」(原作・脚本・監督・橋口亮輔)でした。「不器用だがひたむきに日々を生きる3人の“恋人たち”が、もがき苦しみながらも、人と人とのつながりをとおして、ありふれた日常のかけがえのなさに気づいていく姿」(チラシ)を描いた秀作です。

 その「恋人たち」にも、実は「象徴天皇制」が描かれているのです。
 それは、冒頭近くともう1回(記憶が正しければ)出てくる、「皇太子妃」雅子さんの実写映像です。3人の主人公のうちの1人、「退屈な日常に突如現れた男に心が揺れ動く平凡な主婦」(チラシ)が、せんべいをかじりながら、テレビに映った「雅子妃」に喜々として見入る場面と、その主婦がパート仲間と一緒に沿道で雅子さんに「日の丸」を振るシーンです。

 チラシでも橋口監督のブログや座談会などでもこのシーンについては触れられていませんが、私にはとても印象的でした。橋口監督はどういう意図で「雅子映像」を使ったのでしょうか。
 監督自身の口からその意図を聞くことはできていませんが、「雅子妃」が、「退屈な日常」を生きる中で「突如現れた男に心が揺れ」、「人と人とのつながりをとおして、ありふれた日常のかけがえのなさに気づいていく」「平凡な主婦」と対比させられていることは確かです。それで何を言いたかったのでしょうか。

 「日本のいちばん長い日」は、故岡本喜八監督作品(1967年)のリメイクです。岡本監督は乗り気ではなかったけれど会社の方針で撮らざるをえず、悩んだ岡本監督は「長い日」の完成直後、映画「肉弾」を自費制作し、いち特攻兵士の視点から戦争を描き直した、と言われています。
 岡本作品の中の「昭和天皇」は、すだれの向こうでしゃべることもない「殿上人」として描かれています。原田作品とはまったく別世界です。原田監督は岡本作品と比較して、「今は昭和天皇の人間性を描けるようになった」と語っています。

 橋口監督の「雅子映像」も、今日における「皇室・象徴天皇制」を映画に取り込んだものの1つと言えるでしょう。
 時代が昭和から平成へ、そして次の代へ変遷する中で、「皇室・天皇制」を映画・テレビ・小説で描くことが増えてくるかもしれません。その「表現の自由」は尊重されなければなりません。
 同時に、「皇室・天皇制」をどういう視点で描くのか。どういう眼をもって観るのか。作り手と受け手の双方に、(象徴)天皇制の歴史、日本社会の中で果たしている役割、そしてその「将来」についての見識が問われるのではないでしょうか。


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「天皇の国会開会式出席」はやはりおかしい

2016年01月05日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 4日、日本共産党は結党以来初めて党の方針として、天皇が出席する国会開会式に出席しました。
 この方針転換はきわめて不可解であり、94年の党史に大きな汚点を残すものと言わざるをえません。
 同時に、自民党が「天皇元首化」を図ろうとしているまさにその時だけに、たんに共産党の問題にとどまらない重大性を持つものとして見過ごせません。

 志位和夫委員長(写真中は議場で天皇に頭を下げる志位氏=テレビニュースから)は、方針転換を明らかにした昨年12月24日の記者会見で、これまで欠席してきた理由として「おもに二つの点」を挙げました(以下、引用はすべて同12月25日付「赤旗」より)。

 「第一に、開会式の形式が、『主権在君』の原則にたち、議会は立法権を握る天皇の『協賛』機関にすぎなかった、戦前の大日本帝国憲法下の『開院式』の形式をそのまま踏襲するものになっているということ」(以下A)

 「第二に、以前の開会式では天皇の『お言葉』のなかに、米国政府や自民党政府の内外政策を賛美・肯定するなど、国政に関する政治的発言が含まれていました。これは、日本国憲法が定めている、天皇は『国政に関する権能を有しない』という制限規定に明らかに違反する」(以下B)

 Aは「現在においても変わりがない」が、Bは「天皇の発言に変化が見られ、この三十数年来は、儀礼的・形式的なものとなってい」るとし、「日本共産党としては、三十数年来の開会式での天皇発言の内容に、憲法上の問題がなくなっていることを踏まえ、今後、国会の開会式に出席する」と述べました。

 まず、これまで欠席してきた「2つの理由」のうち、1つ(B)が仮に「問題ない」としても、もう1つ(A)は問題があるままです。それは共産党自身認めているのです。つまり天皇出席の開会式に憲法上の疑義があることは解消されていない。それなのになぜ「欠席」から「出席」へ方針転換できるのでしょうか。

 開会式出席後の記者会見で、志位氏は、「高い玉座が設けられ(天皇の)お言葉を賜るという形式は日本国憲法の主権在民の原則に反する」(5日付朝日新聞)と繰り返し、「改善を求めつつ出席を続ける」(同)考えを示しました。
 共産党が求める「改善」とは何ですか?「玉座」も「お言葉」もない天皇の出席がありうると考えているのですか?
 12月24日の記者会見で、「開会式の改革を実現するうえでも出席するとはどういうことか」と聞かれた志位氏は、「わが党が天皇制反対という立場で欠席しているとの、いらぬ誤解を招」くからだと答えました。この「理屈」にどれだけの人が納得するでしょうか。いま共産党に問われているのは、天皇制自体の賛否ではなく、「戦前の大日本帝国憲法下の『開院式』の形式をそのまま踏襲する」(A)開会式になぜ出席するのか、ということです。
 
 次に、共産党が方針転換した理由のBはどうでしょうか。

 1989年2月10日の第114回国会開会式で、天皇明仁は「お言葉」でこう述べました。
 「我が国は、今日まで、幾多の苦難を乗り越え、国民の英知とたゆまない努力により、国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。内外の諸情勢が変動する中で、我が国は、国民福祉の一層の向上を図るため不断に努力するとともに、世界の平和と繁栄を目指し、自然と文化を愛する国家として広く貢献することが期待されています」(宮内庁HPより)

 1989年といえば、その前年1988年8月にリクルート事件が発覚し、12月には消費税法案が成立、89年4月から消費税がスタートするという政治状況の中で、自民党政治に対する不満・批判が高まっていた時です。

 まさにその時に、「国民生活の安定と繁栄を実現し、平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました」という天皇明仁の言葉が、「自民党政府の内外政策を賛美・肯定する」「国政に関する政治的発言」でなくてなんでしょうか。
 この発言は27年前のものです。これでも「三十数年来問題ない」と言えますか?

 さらに重大なのは、天皇の国会開会式出席が憲法上問題なのは、共産党がいうAとBだけではないということです。
 憲法第4条は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と厳格に定めています。
 そしてその「国事行為」は、第6条(ー鸛蠻ぬ伸∈嚢盧枋拘映ぬ拭砲第7条の10項目に明記されています。天皇の国会出席・「お言葉」はそのどこにも記されていません。第7条の2項目に「国会を召集すること」とありますが、これと開会式出席は別です。宮内庁は「天皇陛下のご活動」の説明で、「国事行為に関連して、国会開会式に毎回ご出席になる」(HPより)としています。「関連して」と言わざるをえないのは、それが国事行為でないことが分かっているからです。

 天皇の国会開会式出席が憲法から逸脱していることは憲法学上の定説です。
 「天皇を外交上元首として扱ったり、さらには制度化されていないいわゆる天皇の『公的行為』の拡大によって天皇の政治性、権威性をさらに高めようとする試みが行われている。その例としては、一九四七年以来の国会開会式への出席と『お言葉』の朗読・・・などをあげることができる」(舟越耿一著『天皇制と民主主義』)

 憲法にない「公的行為」こそ、「天皇の政治性、権威性」を高め、天皇の政治利用を強めるための脱法手法にほかなりません。「3・11」東日本大震災直後の天皇の「ビデオメッセージ」以降、とくにその拡大を図ろうとする動きは顕著です。来る「フィリピン訪問」もその1つです。

 「赤旗」(4日付)は、安倍政権・防衛省が、統幕議長や陸幕長を天皇の「認証」を受ける「認証官」に“格上げ”することを検討しているとスクープしましたが、これも天皇の政治利用策動の一つです。

 憲法を逸脱したこうした天皇の「公的行為」の拡大、政治利用の強化、その行きつく先が、自民党改憲草案の「天皇元首化」であることは言うまでもありません。

 天皇の国会開会式出席は、その「形式」や「お言葉」の内容いかんにかかわらず、出席すること自体が「主権在民」に反し、「国事行為」から逸脱した憲法違反なのです。共産党もかつてはそう主張していたではありませんか。

 安倍政権がいよいよ天皇元首化の改憲に乗り出そうとしている時、共産党の方針転換とは逆に、天皇の「政治性・権威性」の拡大・政治利用を図るあらゆる策動に反対し、阻止することがますます重要になっています。


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見過ごせない「天皇新年の感想」の“異変”

2016年01月02日 | 天皇制と人権・民主主義

  

 天皇は毎年元日付で「新年の感想」を発表します。今年のそれには、例年にない文言が含まれていました。該当部分を引用します。

 「私どもの住む日本は誠に美しい自然に恵まれている一方、自然災害を受けやすい環境にあり、今年も日本人一人ひとりが防災の心を培うとともに、お互いが気を付け合って、身を守る努力を続けられることを心より希望しています」(宮内庁HPより)

 天皇は「日本人」に防災を呼び掛けたのです。しかし、いうまでもなく日本に住んでいるのは「日本人」だけではありません。在日コリアンをはじめ多くの外国人が生活しています。日本国籍を取得している人も、そうでない人も。天皇のこの「感想」からはそうした在日外国人は排除されているのです。

 そんなに深い意味ではなく「日本に住んでいる人」くらいのつもりで使ったのだろう、と思われるかもしれませんが、ことはそう簡単ではありません。なぜなら、明仁天皇の「新年の感想」は即位以降今回で27回目になりますが、これまで「国民」「この国の人々」「人々」とは言うものの、「日本人」という言葉は一度も使ったことがないからです。

 例えば昨年の「新年の感想」でも「防災」について述べていますが、そこでは、「それぞれ地域の人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくこと」と言っています。宮内庁のHPには英文も掲載されていますが、昨年「people」であったものが今年は「Japanese」。違いは歴然です。

 天皇のこの「日本人」が、安倍首相の「年頭所感」の次の言葉と重なるのです。
 「日本が、まさに世界の中心で輝く一年だ。しっかりとリーダーシップを発揮していく」

 偏狂なナショナリズムは民族差別と表裏一体です。それは「戦争をする国」の思想的・精神的底流でもあります。憲法違反の戦争法を強行した安倍晋三首相の下で、「偏狂ナショナリズム」が広がることが危惧されます。そうした中での天皇の「日本人」発言は、けっして軽視できません。 

 昨年の通常国会に野党は人種差別撤廃法案を提出しましたが、成立しませんでした(継続審査)。本来は1995年に日本が人種差別撤廃条約に加盟した時点で制定しておかねばならなかったものです。その後国連人種差別撤廃委員会から包括的な人種差別禁止法を制定するよう3回も勧告されながら、日本はいまだに制定していません。

 弁護士の師岡康子さんによれば、定住外国人に対する各国の政策を比較した国連の2010年の調査では、差別禁止に関する項目で日本は100点満点の14点、39カ国中最下位で、「致命的に遅れている」と批判されています。
 師岡さんは、「差別禁止を宣言する法案すら通らず、排外主義と闘う法も政策も全く整備されていない日本の状況は極めて特異である」(2015年12月11日付中国新聞)と指摘します。

 昨年末にあらためて表面化した、「難民」問題、「慰安婦」問題、選択的夫婦別姓の不許可、そして「沖縄の基地問題」などは、すべてその根底に「差別」が深く根を張っています。そうした日本の「差別構造」の頂点に立つのが、(象徴)天皇制にほかなりません。

 安倍政権の歴史修正主義、日米軍事同盟強化、格差拡大の新自由主義とたたかい、日本の新たな道を切り拓くことは、“内なる天皇制”を含め「極めて特異」な差別構造・差別社会を克服することと一体不可分です。それは同時に、自分に染みついた思想・精神を洗い直し、自分の生き方を問い直すことでもある、と痛感する年頭です。

 


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