あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

東村山にある多摩屈指のパワースポットを巡る(東京・東村山)(後半)

2020-02-27 21:58:42 | 江戸・東京を歩く
 2010年2月24日(振休・月) 〈続き〉

 徳蔵寺からT字路に戻りさらに東へ、やはり高架化工事用の鉄柱の立ち並ぶ西武新宿線
の踏切を渡る。


 渡ってすぐ左手の石材店には、石灯籠などたくさんの石材が並んでいた。


 都道16号・府中街道と交差する久米川辻交差点のすぐ先で左折して北東へ進む。府中
街道に合する直前を横断して、5つ目のスポット梅岩寺(ばいがんじ)へ。

 梅岩寺の創建年代は不詳だが、真言宗観音寺として応永5(1397)年の創建と伝え
られ、戦国時代の兵乱で焼失後、曹洞宗梅岩寺と改号し、浄牧院二世の阿山呑硯(あさん
どんせき・承応元(1652)年没)が中興開山したといわれるとか。

 徳川家からは寺領10石を受領しており、狭山三十三観音霊場の9番と10番(瀧谷寺)
札所である。


 参道に並ぶ何本もの白梅と紅梅がかなり見ごろに。




     
 山門を入った両横には、樹齢約700年で都の天然記念物のケヤキと、樹齢約600年
で市の天然記念物のカヤの巨木が目につく。ケヤキはさらに横に2本の古木がある。

 ケヤキは、目通り幹囲7.1m、高さ約32.5mあり、都内のケヤキの中でも有数の
巨樹で、特に樹高が秀でているとか。
     

     
 また、カヤも都内でも有数の大木で、目通り幹囲5m、高さ約30mという。
     


 正面の本堂は堂々たる構え。その前や、境内の何本もの梅の古木が何れも花をいっぱい
見せている。





 左手の庫裡前にはシダレ梅とロウバイが咲き、鐘楼のそばではサンシュユが咲き出して
いた。




    

 府中街道に入り、すぐ近くに最近開店したらしいスーパーアルプスで昼食を求める。



 久米川町交差点で府中街道に分かれて北西への細道へ。豪壮な民家の庭に、なぜか丸い
郵便ポストが立っていた。
     


 次のT字路を北に向かうと、大きなアセビがピンクの花をいっぱいに。



 秋津街道から秋津町の住宅地を北へ、墓地に囲まれた地蔵堂があり、入口際に市指定有
形民俗文化財の一石六地蔵(いっせきろくじぞう)が祭られていた。




 六角形の石柱の各面に地蔵菩薩立像が浮彫りされているもので、地元旧家の先祖が宝暦
10(1760)年と明和3(1766)年に亡くなった幼児の冥福を祈り造立したもの。
     
 一つの石に彫られた六地蔵は、多摩地域では非常に少ないという。


 北に緩やかに下る路傍、小さな地蔵尊の背後でたくさんのパンジーが春の訪れを感じさ
せてくれる。



 柳瀬川の秋津橋際には、「光あまねしの碑」があった。
     
 文化勲章を受章の詩人・草野心平は、東村山の自然に魅了され、晩年を過ごしたこの地
を「自然のまま」という意味の「五光」と命名し、この地の幸せを祈り「光あまねし」と
したためたという。



 その先には西武鉄道の研修センターがあり、構内に研修用の電柱や架線、信号機などが
見られた。


 南東側、秋津町四丁目の住宅地の中に、6つ目のスポット氷川神社が祭られている。

 現在の社殿は鉄筋コンクリート造りで境内に樹木も少ないが、秋津村真言宗竜泉寺の境
内社として弘仁9(818)年頃に村の鎮守として祭られていたという古社。

 江戸時代は南秋津村の鎮守社に、明治6(1873)年には村社になったとか。

 毎年10第1日曜日の例大祭には山車が町内を練り歩き、境内では輪踊り(盆踊り)が
行われるという。13時半を過ぎていたので、境内の一隅で昼食にした。

 南側の鳥居を出て東側の道路を北へ、十字路際の民家の庭先で、河津桜が見ごろになっ
ている。




    


 北側の秋津第二児童遊園に回ってトイレを借りる。住宅街を東進する途中の民家にも、
シダレザクラが咲き出していた。




 秋津町五丁目に入り、最後、7つ目のパワースポット秋津神社へ。広い空き地のある境
内、ケヤキの高木などが社殿を囲んでいる。

 祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、元弘(1331~4)の戦いの際、新田
義貞が日本武尊の武威を慕ってこの地に陣をはり、不動像を木にかけて祈念したとされて
いるよう。

 現在の本殿は文政4~5(1821~2)年か文化7(1810)年の再建と推定され、
正面と側面に精巧な彫刻が施されているようだが、覆屋の中なのでその様子は確認できな
かった。

     
 本殿右手背後には、倶利伽羅(くりから)不動像↑と宝永7(1710)年造立の↓庚申
塔が目につく。
              


 境内東北側から急坂を台地下に下ると、境内の鎮守の森の下からの湧水池があり、その
傍らは児童遊園地になっていた。


 東に進み、JR武蔵野線の新秋津駅の北側を跨道橋で越える。ゴールの西武池袋線秋津
駅には14時49分に着いた。


 今回の7つのスポット中、諏訪神社と梅岩寺以外は何度か訪れていたが、いつも忙しく
通過していた。今回はゆっくりと巡れたので新発見もあり、好天で暖かな日差しの中、見
ごろの梅などもあちこちで見ることができた。

(天気 快晴、距離 7・5㎞、地図(1/2.5万) 所沢、歩行地 東村山市、歩数
 16,200)





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東村山にある多摩屈指のパワースポットを巡る(東京・東村山)(前半)

2020-02-26 18:25:18 | 江戸・東京を歩く
 2020年2月24日(振休・月)

 令和初の天皇誕生日の振替休日となった今日は、風も無く穏やかな日和となった。

 都内のウオーキングを考えたが、新型コロナウィルスの懸念から近場にすることにして、
2年前に入手した「多摩屈指のパワースポット巡りMAP2」を参考に、わが所沢市とは
都県境を経て南隣りの東村山市にある7つの寺社を中心に巡ることにした。

 西武新宿線と西武園線の分岐点・東村山駅に10時04に着いた。


 駅とその周辺は高架化工事が進捗中で、構内もぐるぐると回り道に。西口を10時07
分にスタートする。

     
 駅前広場の北端から西への通りを500m近く進む。灯ろうの下がる細い参道を入り、
最初のスポット野口不動尊大善院(だいぜんいん)へ。

 山門の代わりに、富士山の溶岩を積んだ岩の上に青銅の仏像が鎮座し、その奥に本堂が
ある。


 本堂の左手にあるお堂



 境内西側には、やはり富士山の溶岩石を積み上げた築山に不動明王三十六童子が立って
いた。
     

     
 南側道路際には、昭和初期に5㎝くらいの木を10本植えた根が引き寄せ合い1本の大
木となった「家庭円満のコブシ」があり、家族の絆の木ともいわれているよう。


 西に向かい、昭和をしのばせる廃業した商店の建物や古くからの民家の前を通過する。


 その先を北に入ると、次のスポット広い境内の臨済宗正福寺(しょうふくじ)である。

 鎌倉の建長寺の末寺で、鎌倉幕府執権の北条時宗か父時頼により開基されたと伝えられ
るとか。

 どっしりした山門を入った正面が、都内唯一の国宝建造物である千体(せんたい)地蔵
堂である。

 鎌倉の円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物で、応永14(1407)年の建
立とか。

 鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらっった丸
薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれているという。

 堂内には、一木造り丸彫りで高さ15~30㎝ほどの小地蔵尊が約900体あり、正徳
4(1714)年~享保14(1729)年の奉納が多いとか。

 奉納者は現在の東村山、所沢、国分寺、東大和、武蔵村山、立川、清瀬、国立、小金井
の各市に及んでいるよう。


 西側の屋根掛けの下には、市内の知的障害者が心を込めて製作したという、味わいある
真新しい小地蔵尊がたくさん奉納されていた。



 地蔵堂の右手の参道をさらに奥へ。右手には新しい観音立像が並び、左手は豊富な植栽
が続く。



 正面に大本堂が、右手にはハスの鉢が並び、その向こうは庫裡(くり)らしい。



 境内のあちこちで、シダレ梅や白梅などが見頃な花をいっぱいに見せている。


    



 境内南東側に祭られて八坂神社横には、河津桜らしい色濃い桜も咲いていた。



 東に向かって折り返し、野口町四丁目を進み、土蔵のある民家や農家の農産物直売所前
などを過ぎる。



 弁天池公園↑の北側には、何10本もの白梅が咲き競う梅林があった。


 近くの畑の向こうに、ケヤキの高木などが立ち並ぶ武蔵野の典型的な風景ともいえる立
派な屋敷林が。


     
 前川に架かる朱塗りの弁天橋を渡り化成小の南側を東進して、やや交通量のある通りに
出て北に向かう。


 買い物客の並ぶ和菓子店前を過ぎてすぐ先、三つ目のパワースポットの諏訪神社に入る。
     
 東向に立つ諏訪神社の本殿は、多摩地方では珍しい錣葺(しころぶき)と呼ぶ厚板を2
枚重ねに葺いたもので江戸初期(17世紀後半)の建築らしい。拝殿の背後に回ってみた
が、その様子は確認できなかった。


 拝殿前に立つモクレン科のオガタマの木は、神を招き繁栄幸福をもたらすといわれてい
るという。
     

 境内北東側には、ケヤキだろうか荒れ枝だけの高木が。



 北側近くには「東村山ふるさと歴史館」があり、以前も来ているが久しぶりなので入館
した。


 ロビーにはひな飾りが並び、市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した丸木舟など
も展示されている。


 常設展示室は「ーみちでつづる東村山の歴史ー」というテーマで、古代の東山道道路や
中世の鎌倉街道、近世の江戸への道、近代の鉄道などを中心の展示が並ぶ。





 特別展示室では、「なつかしい暮らしと道具たち」のテーマで、百年前のかやぶき民家
での暮らしぶりや、高度成長期のころの暮らしの道具などが展示されていた。



 20分余り観覧して退館する。


 さらに北へ、すぐに西武園線の踏切を渡る。駅側には高架化のための鉄柱が立ち並ぶ。
東村山諏訪町郵便局手前の民家では、シダレ梅がかなり開花していた。


 T字路を左折して西に少しで、次のスポット徳蔵寺(とくぞうじ)である。

 手前に、国重要文化財「元弘の碑」などを展示する徳蔵寺板碑保存館の立派な建物が目
につく。


 その先に山門があり、境内は思ったほど広くはない。山門を入って正面が本堂。本堂左
手前の白梅が咲き出していた。




    

 徳蔵寺の創建年代は不詳だが鎌倉時代とも室町時代ともいわれ、江戸時代中期に北側の
八国山にあった永春庵をこの境内へ移したとのこと。


 その永春庵所蔵の板碑は「元弘の板碑」といわれ、新田義貞の鎌倉攻めに従い府中と相
模の村岡で戦死した3名の武将を供養したもの。「太平記」の記述を証明するものとして
国重要重要文化財に指定されている。

 寺は、武蔵野三十三観音霊場第7番と狭山三十三観音霊場第11番、12番(永春庵)
札所である。

 本堂手前左手に永春庵の小さい建物があり、本尊の聖観音立像が祭られていた。

 徳蔵寺には何度も来ているが板碑展示館は見たことがなく、観覧したいとは思うがまだ
先があるので今日も省いた(入館料200円)。


 門前にある「手作りパンの店 マドンナ」に立ち寄り、名物の塩あんぱんを購入する。
                                    (続く)





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市内のあちこちで梅が見頃に(埼玉・所沢)

2020-02-21 21:21:24 | 所沢だより
 2020年2月21日(金)

 このところのニュースの中心は新型コロナウィルスで、いつになったら心配なくなるの
だろうかと気になる毎日ですが、季節は少しずつ進み、市内のあちこちで梅が見頃になり
ました。

 4日前の2月18日(火)から今日まで、市内ウオーキングでみつけた梅の花のをいく
つか紹介します。

 2月18日(火)、東狭山ヶ丘5丁目の畑に咲く大きな梅の木。


 少し別の角度から




 小手指町1丁目の畑で


 2月19日(水)、所沢航空記念公園の日本庭園内にある茶処、彩翔邸前




    

 東側の蝋梅園のロウバイは、どうやら見ごろを過ぎたようで、花の彩りが今ひとつの木
が増えていました。





 その代わりに、航空記念公園の梅園の梅は見ごろの木が多くなっています。










 








 梅園の北東端近く、シダレザクラの見ごろはもう少し先になりそう。
  

 もう少し梅園の梅を


    



    







 所沢駅西口から一本木交差点へ延びる通り、民家の1本。
     

 2月20日(木)、上新井1丁目の普門院近く、民家の庭先で。


    

 国道463号バイパス沿い、小手指町3丁目の民家の庭のシダレ梅


   

 シダレ梅は2本あり、どちらも見栄えのする大きさです。
   

     

 上新井2丁目の民家、まだ若木の紅梅


 今日2月21日(金)、新所沢駅西口に近い愛宕神社境内に咲くのは河津ざくらでしょ
うか・・




         

 同じ境内に咲く白梅




 これらの梅も、2~3日過ぎると花の様子は変わるかもしれませんね。

 一方、昨日のテレビでは、今年の桜の開花は記録的早めになりそうとか。これも地球温
暖化の影響かと考えると、地球の近い将来が思いやられます。

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西武鉄道の新型特急「Laview(ラビュー)」が「iFデザイン賞」を受賞

2020-02-18 15:59:51 | 鉄道
 2020年2月19日(水)

 昨年3月から西武池袋線で運行を開始した新型特急「Laviw\ew(ラビュー)」が、世界
的に権威のあるデザイン賞「iFデザイン賞2020」を受賞したと、西武鉄道が2月14
日(金)に発表しました。

 国内の鉄道車輌でこの賞を受賞したのは、2007年に受賞した小田急の特急ロマンス
カーVSE50000型車輌以来のようです。

 iFデザイン賞(iF design award)とは、ドイツのハノーファーを拠点としているデザイン
振興のための国際的組織・インダストリー・フォーラム・デザイン・ハノーファー(iF)
の主催で1953年から開催されていて、毎年全世界の工業製品等を対象に優れたデザイ
ンを選定しており、「世界3大デザイン賞」のひとつとか。


 iFデザイン賞は、プロダクト、パッケージ、コミュニケーション、サービスデザイン、
建築、インテリア/建築、プロフェッショナルコンセプトの7つのカテゴリのから、各分
野の年間優秀デザインを表彰しているようです。

 Laviewは、世界的建築家の妹島和世(せじま かずよ)氏がデザイン監修し、日立製作所
が製造したものです。


 なお、現在運行中の西武池袋線特急列車のうち、現在はほぼ過半数の列車がLaview車輌
で運行されていますが、3月14日(土)に実施される時刻改正後は、平日は下り29本、
上り31本、休日の下り33本、上り33本の全列車がLaviw車輌となります。

 ちなみにLaviewは、昨年11月23日の当ブログで紹介しましたが、2019年度のグ
ッドデザイン金賞も受賞しています。

 特急車両Laviiewについてはこちらを

 また、ダイヤ改正後の西武池袋線特急列車時刻表はこちらをご覧下さい。





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埼玉の自然写真展・水繪会水彩画展・鉄道の埼玉展へ(埼玉・さいたま市)

2020-02-16 18:39:29 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2020年2月15日(土)

 今日は、毎年この時期にさいたま市内で開催されている写真展と水彩画展、そして県立
文書館の記念企画展の観覧に出かけた。


 まずは、JR宇都宮線土呂(とろ)駅で11時20分に下車し、西方1㎞ほどにある北
区役所のある「プラザノース」と呼ぶ建物に向かう。

 北へ向かう通りにたくさんボケを植えた畑があり、チラホラと花が。
    

 信号で左折して西へ、東西に長い中層住宅の前は「きたまちしましま公園」と呼ぶ芝生
がいっぱいの公園が続く。


 さいたま市北区役所や市立北図書館などのあるプラザノーズへ。


 この建物の2階に、最初の目的地『私がみつけた「埼玉の自然」フォトコンテスト 第
34回写真展』会場がある。
        
 会場では、昨年埼玉県内で撮った様々な自然をとらえた写真コンテストの入選・入賞・
招待作品が、あわせて150点近く展示されていた。

 貴重な一瞬をとらえた自然現象や動物の動き、季節感あふれる花や樹木や雪、ほのぼの
とした情景、夜の彩りなど、多彩な作品が多かった。


 会場は撮影禁止なので、外から見えた辺りを少しだけのぞき撮りしたもの。


 下は、会場でもらった案内葉書掲載の昨年の準特選作品


 会場の外側廊下に面したウィンドウに飾られた生け花も。


     

          

 観覧を終えて1階大ホールを一巡した。その一角にある地元大宮を本拠とするサッカー
J2チーム・大宮アルディージャのコーナー。



 12時20分頃プラザナースを後にして、同じ道をJR土呂駅まで戻り、12時49分
発上り上野東京ラインの電車に乗り、3つめの浦和駅で下車する。


 浦和駅西口にもサッカーの飾り物が。浦和は、Jリーグ1部のレッズの本拠地。ロータ
リーの北西側では、マスコットキャラクター「浦和うなこちゃん」が迎えてくれた。
     
 台座に記された説明によると、浦和のウナギは江戸時代に中山道を通る旅人に提供した
のが始まりのよう。浦和はウナギの蒲焼き発祥の地といわれ、その伝統の味が今も受け継
がれてているとか。

 次の会場、浦和駅西口から5分ほどの埼玉会館へ。
     
 地階にある第2展示室で開催中の「水彩画研究会 水繪会 第21回合同作品展」には、
カントリーウオークグループのメンバーTさんが毎年出展されている。



 会員の高齢化に伴い会員が減少しているようで、今年は昨年より狭い会場になり、作品
の数もかなり減っている。

 今回は、4つの教室のメンバー32人が各々3点(2人のみ2点)ずつ出展していた。





 そのほとんどが埼玉県内を描いた作品で、ほかの作品も関東甲信越越地方など、ウオー
キングや旅行で訪ねた場所が多く、懐かしく鑑賞した。




 会場を出て、埼玉会館1階ロビーに掲示されていた作品のいくつかも観覧する。

 「阿蘇山鳥瞰図」 長田博之

        
         「ヴェニス」 互井開一

     
      「渋沢栄一像」 倉田白羊

     
      「待春」 三浦白琇
    
 14時近くに埼玉会館を出て、西に進んで埼玉県庁構内に東側の門から入り、第1庁舎
北側を西進する。


 入口近くにあるのは日時計のよう。

 
 県庁の西北側に抜けて、国道17号周辺で食堂を探したが見つからない。結局、市役所
前交差点から仲町交差点へと回り、中山道を南下する途中で昼食をした。

 途中のビルの前に咲いていた白梅


 さらに少し先で、西に延びる歩行者専用道を進んで玉蔵院に立ち寄る。



 二つ目の山門右手の石に、きれいな生け花が。


 その山門を入ると、花時には見事なシダレザクラが楽しめるのだが、まだ枯れ枝のまま。



 左手の地蔵堂は安永9(1780)年の建立で、さいたま市指定有形文化財である。



 地蔵堂前の紅梅と白梅がもう少しで見ごろになりそうで、かなりの花を見せていた。


    

 その先で埼玉会館前に出て、結局一周して再度県庁構内を西に抜け、国道17号線にあ
る最後の目的地、埼玉県立文書館(もんじょかん)へ。




 ここでは、昨年リニューアルされた記念の企画展「鐵道の埼玉 ー明治から現代へー」
を観覧する。
     

 会場は、「プロローグ ー新たなテクノロジーが世界を変えるー」「Ⅰ 延びる線路の
インパクト ー日本鉄道会社と埼玉ー」「Ⅱ 鉄道会社のストーリー ーできた線路/で
きなかった線路ー」「Ⅲ 鐵道とコミュニティ ー新幹線と埼玉ー」「エピローグ ー写
真でふりかえる鐵道の埼玉ー」の五つのコーナーに分けて展示されていた。

 展示室内は、珍しく撮影可能になっていたので何点か撮ったが、古い文書や地図などは
文字が小さく不鮮明なものが多いので、見られそうなもののみを幾つか紹介する。


 福沢諭吉著「西洋事情 初編」の扉絵


 日本鉄道会社設立の裁可書


 埼玉県内鉄道交通網略図


 東上線沿線の観光案内

     
      川越鉄道の定款


 国鉄大宮工場関係資料

    
     大宮工場塗工手伝の辞令


 





 埼京線開業記念入場券


 シベリアから帰還した埼玉県民(上野駅)(この中の600名中48名が埼玉県出身)
 (昭和23(1948)年5月10日)

 15時30分過ぎに観覧を終え、埼玉県立文書館を出た。館前の国道17号線には、
「日本橋から24㎞」の標柱が立っていたが、撮ったのがボケてしまったので省く。


 そばの交差点を左折して西進し、台地から下って別所沼公園に北東端入口から入る。

 公園を囲むたくさんのメタセコイアはまだ枯れ枝のまま。北側や西側の広場などには、
家族連れなど多くの市民が訪れていた。




 別所沼にたくさんいるのはキンクロハジロだろうか・・



 公園中央部にも、浦和駅前より小ぶりな「浦和うなこちゃん像」がある。


 公園の南側に、24歳の若さで亡くなった詩人で東京帝大卒の建築家としても知られた
立原道造が、建てようとして実現できなかった建物を、私淑する詩人や建築家たちの呼び
かけによる市民運動で2004年に竣工した、「風信子荘(ヒアシンスハウス)」と呼ぶ
小さな建物がある。


 その南側に1本だけ立っていた、河津桜(カワズザクラ)がかなり開花していた。
     

 ちなみに昨日のTVでは。本場・伊豆半島河津町の河畔の河津桜は見ごろになったと報
道されていたが、こちらは伊豆よりも気温が低いので、見ごろはもう少し先になりそう。

 別所沼公園の南西側から延びる「花と緑の散歩道」と呼ぶ、ソメイヨシノの並木が続く
遊歩道を1㎞ほど進む。
     
 このソメイヨシノも、あとひと月半近くすれば満開の花に覆われるものと思われる。


 JR埼京線と武蔵野線の武蔵浦和駅に16時18分に着き、16時23分発府中本町行
き上り電車に乗る。





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古隅田川など在原業平ゆかりの地をカントリーウオーク(埼玉・春日部、岩槻区)

2020-02-13 22:17:50 | カントリーウオーク
 2020年2月11日(祝・火)

 埼玉県内を中心に歩いているカントリーウオークグループの、発足から満27年の記念
日となる第270会例会に参加した。


 集合は東武アーバンパークライン(野田線)の八木崎(やぎさき)駅。快晴たが少し風
が冷たい。10時09分にスタートした。

 鎌倉街道中道(なかつみち)の枝道という、線路の北側沿いの道を東北にすぐ、県立春
日部高校前を過ぎる。



 さらに少しで春日部八幡神社へ。鳥居の横に「八幡神社参道入口」碑と「都鳥の碑」が
並んでいた。

 「都鳥の碑」には、平安初期の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)が詠んだ「名に
しおはばいさ事問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」の歌碑の由緒が記されている。

 業平が奥州に旅したとき、武蔵国と下総(しもふさ)国境にある隅田川の渡しで詠んだ
もの。当時は当神社の辺りが二つの国の境で、奥州への通路にもなっていたとか。その故
事を後世に伝えようと、江戸末期の嘉永6(1853)年に粕壁宿(かすかべしゅく)の
名主が依頼したものという。


 豊富な樹木の立ち並ぶ参道を進むと、二の鳥居の先に大イチョウが立ち、その先に端正
な拝殿が祭られていた。
     

 春日部八幡神社は、元弘年中(1331~4)この地の武将だった春日部氏により鎌倉
の鶴岡八幡宮を勧請(かんじょう)したといわれているよう。

 春日部氏の領地だった新方領(にいがたりょう)の総鎮守で、天保11(1840)年
の氏子連名帳には、現在の春日部市のほか、久喜市、白岡町、宮代町を含む52か村の氏
子の名が記録されているという。


 参道中央の大イチョウには、元弘年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに生長し、
参詣人を驚かせたという伝説があるようだ。

 拝殿右手の壁面には、生まれ年の絵馬に願いを込めると福が来るという、新しい十二支
大絵馬が掲示されている。


 拝殿の右手に「希典書」と刻まれた招魂碑が立っていた。日露戦争の将軍・乃木希典の
書で、背後には、日露戦争で戦死した地元の英霊の名が刻まれているよう。
     
 この碑は、昭和20(1945)年の敗戦後、GHQによりつぶされそうになったが、
近所の人が土に埋めて難を逃れ、昭和26(1951)年夏掘り起こしたという。

 その奥の稲荷神社横には、「浅間山」と呼ぶ高さ8・2m、周囲200mある、江戸時
代の富士信仰の対象として築かれた富士塚があるようだが、確認は省いた。

 また、招魂碑の右手には、「中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘」の説明板がある。

 榛名山や浅間山の火山灰などによる大量の砂が、平安~室町時代の寒冷期の強い季節風
で利根川の旧河道沿いに吹き溜ためられてできた内陸性の砂丘で、境内の長さ200m、
幅50mの規模で見ることができるという。

 ちなみに、この時代の利根川は隅田川から東京湾に流入していた。隅田川も現在の流路
ではなくて、これから向かう古隅田川が本流だった。

 大イチョウの近くには、重さ63.75㎏と123.75㎏の力石が保存されていた。


    

 駅前まで戻りさらに西へ、西八木崎三丁目の住宅地を進む。庭に石灯籠などのある家や、
ミツマタの咲き出した家の前など過ぎ、国道16号線に出た。


 北に少しで、内牧工業団地の南側沿いの古隅田川遊歩道へ、遊歩道は流路に従い西から
北へと緩やかにカーブする。

 沿道の白梅が咲き出し、その先は堤防だったらしい盛土になった樹林に沿って進む。






 国道から700m前後で、樹林越しに見えた西側の満蔵寺に入ることにした。柵を越え
て墓地を抜けると、大きな本堂が西向きに建っている。


 本堂前の大イチョウは高さ27m、根回り周囲10.4m、推定樹齢350年で、「満
蔵寺のお葉付イチョウ」と呼ばれ、県指定天然記念物である。
     
 このお葉付イチョウは、実が葉の付け根に実ることから名付けられたもの。今は枯れ枝
だが、枝の付き方も普通のイチョウが上に向かって伸びるのに対し、水平もしくは下に向
かって伸びている。


 山門を入り左手に立つお堂。


 山門の右手前に小さな祠(ほこら)が祭られ、そばに「梅若塚」碑がある。

 謡曲「隅田川」のもととなった、大切なわが子・梅若を失った母の哀しい伝説の地は東
京・墨田区の木母寺(もくぼじ)というのが定説のようだが、ここが発祥の地と伝えられ
ていて、ここから木母寺に移されたとされているよう。

 この梅若塚を略記した応永3(1393)年の版木が、ここ新方袋の名主の家に所蔵さ
れており、寛延2(1749)年の「葛飾記」にも、ここから木母寺に移されたと記され
ているとか。

 この梅若丸の悲しい生涯と母の哀れな運命を知った海蔵寺の裕閑和尚は木像を彫り、体
内に梅若丸が抱えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を立てて安置したといわれ、こ
れが当寺にある子育て地蔵尊だという。


 門前にはほかに、日光石、月光石と呼ぶ巨石や、大きな一会(いちえ)観音像などが目
に入る。
     

 寺の周囲は田んぼが広がり、北側には屋敷林に囲まれた古くからの住宅などが望まれる。



 寺の前の道路をすぐ先で左折して南西へ、白梅が見ごろな宮川小の北側を進んで古隅田
川の左岸沿いに南下する。



 流れは、周辺の住宅の排水だろうかやや汚れていたが、岸辺にはコサギが1羽見えた。


 宮川小と豊春中の中間辺り、堤防が続く古隅田公園に、移設された石橋「やじま橋」が
ある。

 橋はここ中曽根と対岸のさいたま市岩槻区小溝の間の古隅田川に架けられていたもの。
元文2(1737)年の造立で、石材は江戸城の石垣などにも使用された神奈川県真鶴
(まなづる)地方産。現存の石橋としては県内最古のひとつという。

 200mほど先で右折して西にすぐのところで、橋の架けられていたという矢島橋の位
置を確認した。
     

         
 元の通りに戻り、堤防上に植栽の続く古隅田公園沿いに少し進み、豊春中の南側で公園
の遊歩道に上がった。
          
 間もなく「古隅田野鳥の森」の表示があり、遊歩道は左から右、さらに左へとカーブS
字状に進む。その途中で記念撮影した。


     
 東端まで進んで東武アーバンパークラインの線路際で車道に出る。


     
 踏切を渡り、東側の春日部ハイタウンと呼ぶ住宅地を抜けて県道2号・さいたま春日部
線に出た。


 右折してすぐ、古隅田川に架かるのが業平橋。明治時代に架けられた橋だが、もとは
100mほど上流にあり、在原業平が渡ったと伝えられ、近くに在原業平ゆかりの舟塚が
あったといわれているという。


     
 橋の南東側は豊春小。次の十字路を右折し、豊春郵便局前を過ぎ、東武アーバンパーク
ライン隣の駅・豊春(とよはる)駅に12時25分に着いた。


(天気 快晴、距離 5・4㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、歩行地 春日部市、歩数
 10,300)

 このあと、2駅先の岩槻駅まで行き、本町三丁目の愛宕神社の近くにある「にわさきカ
フェいわさ喜」と呼ぶ古民家のカフェへ。


         
 満27年の記念日を祝って乾杯し、27年間の思い出などを語り、大きなメークインを
じっくり煮込んだ今日のメニュー、「ほっこり肉じゃが」を美味しくいただいた。
    

 食後、Nさんが珍しいものを見せてくれた。園芸品種ハツユキカズラの 種だという。イ
ンゲン豆のような細いさやをむくと、このような穂に小さな種が付いているようだ。
    


 14時30分頃岩槻駅に入り、大宮行電車で帰途につく。

 帰路、駅のコンコースにある岩槻観光案内所でもらった、「楽楽楽さいたま」第16号を
帰宅後見たら、なんと「にわさきカフェ いわさ喜」が見開きで紹介されていた。
     








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真冬の草津温泉3日間のバスの旅(群馬) 第3日

2020-02-06 21:44:03 | 国内旅行
2020年1月28日(火)

 連泊の草津温泉、ホテルヴィレッジで6時30分に起床した。窓から外を眺めると予報
通り昨夜から雪になったようで、数㎝の積雪で今も降っている。
     

          





     


 8時前、パティオと呼ぶレストランでバイキング朝食をする。今朝もメニューは豊富
だった。




    


 レストランやロビーなどからも雪景色を眺めた。










 部屋に戻ったが雪では外出する気にならず、しばらくは部屋で持参した本を読んだりし
て過ごす。

     
 チェックアウトは12時なので、11時過ぎに外の雪をもう一度眺め、支度をして11
時30分頃に部屋を出た。
          





     



     



 本降りではないが雪が降り続いているので、シャトルバスで草津温泉の温泉街まで行く
気にもならず、チェックアウトした後はロビー周辺で15時まで過ごすことにして、まず
は廊下をあちこち歩いて館内巡りへ。


 廊下には、絵画や彫刻などの作品が多数展示されているので、それらを眺める(前日、
前々日に見たものもいくつか紹介する)。


    





     










 時々は外の景色も確認したら、雪は小降りになっていた。




 バイキング朝食をたっぷり食べたのと、外歩きをしていないので昼食は軽めとし、売店
のパンと温泉たまごなどで済ませた。


 帰りのバスは15時発の予定だったが、皆さんが早めに乗車したので14時55分にホ
テルヴィレッジを出発した。



 このツアーのもう一つの宿、草津ナウリゾートホテルで残りの参加者も乗り、15時
05分に草津温泉を後にした。
     

 峠を越えて吾妻川沿いに出ると、ガスで視界は利きにくくなり、高度が下がるにつれて
雨になった。



 往路と同じく八ッ場ふるさと館で15時40分から16時までトイレ休憩する。雪から
雨で今日は閑散としていた。




     



 雨の国道145号、国道352号などを経て、17時01分に渋川伊香保ICから関越
自動車道に入った。夕方のラッシュ時だが大きな渋滞もなく順調に走行し、18時ちょう
どに三芳PAで最後の休憩となる。

 東京外環道から首都高5号線を経て、新宿駅に近いセンタービル前には19時07分頃
到着した。


 かなりの雨なので地階に下りて新宿駅への地下道を進み、西口近くにあった「ワインバ
ー マイアミ パティオ」に入り、スパゲッティの夕食を済ませた。


    

 さらに地下道を回って西武新宿駅まで行き、20時35分発本川越行き急行電車に乗る。

(天気 草津 雪、新宿&所沢 雨)




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真冬の草津温泉3日間のバスの旅(群馬) 第2日(後半)

2020-02-05 22:41:56 | 国内旅行
 2020年1月27日(月)(後半)

 草津温泉の中心、湯畑の西側から西の河原(さいのかわら)通りに入ると、立派な旅館
や土産物店などが続いている。


 奈良屋と呼ぶこの旅館は徳川将軍に温泉を献上していたよう。


     
 右手からの湯滝通りと合し、左へとカーブしてさらに進む。


     
 ユニークな店がいろいろあり、両側のウィンドウなどを眺めながら進む。







 大きなガラス店の前では、温泉たまごを造っていた。別の入口の前には、3つのポスト
が並んでいる。
     
 傍らの説明によれば、「日本の初期のポストは黒色だった。しかし当時は公衆便所が普
及し始めた頃でもあり、「便」の字を見た通行人が垂便箱(トイレ)と勘違いしたり、夜
間は見にくいなどの問題が起こり、明治34(1901)年に鉄製ポストを試験導入した
際、「目立つ色」として赤色に変えられた」という。

 3つのポストは実際に使われていたものをレトロ風に塗り替えたものだが、郵便物の投
函はできない。

 左手高みから合した「しゃくなげ通り」に入り、すぐ先を左折して草津片岡鶴太郎美術
館前を過ぎると家並みが途絶え、前方のあちこちから湯気の立ち上る西の河原公園に入る。





 西の河原公園は、温泉街の西方にあるのでこの名があり、湯畑と並んで草津温泉の人気
スポット。

 公園の東側山すそを流れる湯川や、その右岸側の幅広い河原のそちこちに湯気が立ち上
がり、摂氏50℃以上の温泉が湧き出していて、湧出量は毎分1万5千リットルに及んで
いるとか。

 遊歩道などが整備されていて、気軽に温泉が湧出する様子を観察できる。



 両側の斜面には残雪があるが、何か所も湧出する源泉に手を入れると熱々の源泉が確認
でき、冷えた手が温まり気持ち良い。

     
 遊歩道を少し進むと、左手に「鬼の茶釜」碑があった。その先、斜面上には草津稲荷神
社が祭られている。




     
 遊歩道沿いに数体のお地蔵さんが並び、その中には「縁結地蔵尊」「ぴんころ地蔵尊」
「夫婦円満 子宝地蔵尊」などもある。近くの路傍にあった温度計はちょうど0℃を示し
ていた。
                          


 その辺りから西の河原は幅が広がり、あちこちから湯煙が・・・。







 左手山すそに2体の胸像がある。ベルツ・スクリバ両博士胸像で、傍らにその説明板が
立っていた(左がベルツ博士、右がスクリバ博士)。
     

 そばの2つの記念碑↓は、「ベルツ先生記念碑」(左)と「水原秋桜子碑」(右)。

 ベルツ博士は明治11(1878)年に草津温泉を訪れて草津温泉の優れた効能と環境
に魅せられ、草津を愛し、特に高温入浴法の「時間湯」が博士の貴重なテーマとなり、そ
の治療効果を学会に発表しており、碑は昭和10(1935)年に建てられたという。

 水原秋桜子碑は、俳人秋桜子が「ベルツ博士の胸像に注ぐ秋日和のすがすがしさは、ベ
ルツの心に触れているようだ」と、草津町の恩人ベルツ博士の遺徳をたたえて読んだもの。

 昭和57(1982)年10月、ベルツ博士の生誕地ドイツ・ビーティッヒハイム・ビ
ッシンゲン市と草津町の姉妹都市締結20周年祭の折、序幕建立されたという。

 ちなみに、草津温泉の北から東側にかけて周回する最外周の道路は、「ベルツ通り」と
名付けられている。


 足湯のできる大きな泉源や東屋などが設けられていた。



 公園の突き当たりまで進むと、その上部に草津ビジターセンターの建物が見えた。高山
植物展示室や西の河原露天風呂などもあるようだが、センターへの階段も雪が凍って滑り
そうなのと、時間も経過しているので入館は省いた。


     
 公園の最上部東側斜面からは、湯気の上がる大きな流れが滝となって落下している。
     

 その横の谷間の流れは高温のようで「立入禁止」の立て札がある。


     
 滝の上部の橋を渡って東側の遊歩道に回り、折り返すことにした。その一角には近年の
建立らしい斎藤茂吉の歌碑や延命子育地蔵尊がある。
          




 西の河原公園の上流から下流に向かってもう一度見返しながら進む。



 公園の入口から片岡鶴太郎美術館前まで戻ると、その背後に草津ホテルの立派な建物が
2棟見えたので上がってみた。




 ホテル前の広場からは、対斜面のホテルらしい建物も望まれる。



 西の河原通りから湯畑を経て、15時40分にバスターミナルに戻る。そばに足湯もあ
るが、誰も入っていなかった。
     

 15時50分発のシャトルバスで連泊のホテルヴィレッジに帰着した。

 ホテルの部屋にあった、ベルツ博士のこと記した「ベルツ博士と群馬の温泉-抜刷-」
という小冊子をゆっくり読んでみたいと思い、フロントで在庫を聞いたらあるとのことな
ので、1冊分けてもらった。
         

(天気 曇、地図 「草津温泉タウンマップ」、歩数 13,200) 









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真冬の草津温泉3日間のバスの旅(群馬) 第2日(前半)

2020-02-04 18:00:57 | 国内旅行
2020年1月27日(月)
 宿泊した草津温泉のホテルヴィレッジで6時30分に起床した。7時50分頃から、ホ
テルのレストラン「白根」でバイキングの朝食をする。メニューは大変豊富だった。

 部屋に戻り外を眺めると曇天だが、天気予報では夕方までは持ちそう。チェックアウト
は12時で、チェックインタイムの15時までは部屋に入れないので、草津温泉街の観光
に出かけることにした。

 ホテル発11時10分のシャトルバスに出発直前に間にあい、5分ほどで昨日同様、草
津温泉バスターミナルに着く。

     
 湯畑に向かって昨日午後と同じ道を下る。もうもうと湯気の上がる湯畑の東側を下って、
東に延びる細い通りへ。



 両側に純和風の温泉旅館が並び、少し先のY 字路の右手に「ての字屋」という旅館があ
った。

 ここは、半世紀以上前の昭和40(1965)年7月、職場の上司の8ミリ映画づくり
の取材に同行して宿泊したところ。建物は新しくなっていて、当時はどんな建物だったか
も思い出せない。

 そばのY字路際の小スペースに、「草津節発祥の地」碑がある。

 碑文によればここは鷲乃湯跡地で、鷲乃湯の由来は傷ついた鷲がこの湯により傷を治し
たという故事からのよう。
     
 「鷲の湯」は江戸時代から昭和44(1969)年までここにあり、「時間湯」の共同
浴場として親しまれ、草津温泉を代表する最も古い温泉浴場の一つだったという。

 Y字路のすぐ先の古久長旅館は、信州松代藩士佐久間象山が正妻のお順(勝海舟の妹)
と幾度となく訪れて常宿として入湯していたと記されていた。

 当時の建物は3階建ての豪壮な館だったが明治2(1869)年4月の草津温泉の大火
で焼失し、現在の「せがい出梁造り」と呼ぶ2階建ての建物が再建されたよう。

 すぐ先、突き当たりのT字路で北への急坂を上がると日蓮宗日晃寺である。

 日晃寺の建立は延享3(1746)年で、現在の本堂は弘化年間(1844~48)の
再建。草津町の鬼門除けの寺として、町民の信仰の中心になっているとか。

 石段下に浄行菩薩立像がある。心を込めてそばの湧水を菩薩様にかけ、汚れたところ、
病んでいる身体の部分をたわしでこすって念ずれば、必ず治してもらえるという。
     


 石段の中断左手には稲荷神社が祭られ、本堂は正面を上がりきったところにあった。だ
が、前面の残雪が凍っていたので慎重に進んで参拝した。


 石段下から左手(西側)に上がると白根神社東門があるようで、階段と鳥居が見える。

 上がろうとしたが、階段に雪が凍り固まり滑りそうなので諦め、日晃寺の東側を上がっ
て上の道路から回ることにした。

 東側の道を次の十字路まで進んで左折して西へ、少し先の土の出た路傍には霜柱がたく
さん残っていた。
    


 右カーブ点まで進むと、南側の囲山公園の樹木に遮られて陽が差さず、路面一面が固く
凍りついていて滑りそう。その向こうが白山神社だが行くのは諦め、もとの道を湯畑まで
戻った。



 昨日とは別の足湯にも、今日もたくさんの観光客が入っている。湯畑の東側を回り、も
う一度湯煙の上がる湯畑を眺める。






 湯畑の東北側上部、「白旗源泉」の看板のある小屋に白旗の湯の源泉がある。

 源頼朝が建久4(1193)年に浅間山麓で巻き狩りした際、ここに湧く温泉を発見し
て入浴したと伝えられ、当時は「御座の湯」と称していたが、明治30(1897)年に
源氏の白旗にちなんで白旗の湯と改称されたとか。
     
 源泉の中に祭られた祠(ほこら)には、たくさんのさい銭が投げ込まれていた。


 その横から急階段を上がると、真言宗豊山派の光泉寺である。

     
 中段にある仁王門の左手に湯善堂と呼ぶお堂があり、湯善神が祭られている。
     

 そばに、小林一茶の「湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の貌(かお)」と刻まれた句碑
がある。

 小林一茶は、寛政3(1791)年と文化5(1808)年に草津を訪れていて、文化
5年の来草の際には江戸から草津までの5日間の道のりを「草津道の記」という紀行を残
しており、この句はその中に収録されているという。

 残雪の残る境内、右手には不動堂がある。
  

 その上の重厚なかやぶき屋根は釈迦堂で、元禄16(1693)年の建立。元禄時代の
様式を残す県内でも珍しい建造物とか。

 本尊の釈迦如来は奈良東大寺の公慶上人(こうけいしょうにん)の作と伝えられ、平成
17(2005)年の調査でそのことが事実と判明し、300年を経て世に出た仏様なの
で「遅咲き如来」として地域の信仰を集めているという。

 さらに上がって正面の本堂に参拝する。光泉寺の開山は養老5(721)年で、行基菩
薩が草津温泉を発見し薬師堂を建立したのがはじめのよう。

 本尊は薬師如来で、同じ行基菩薩が創建した有馬、道後とともに日本三大温泉薬師とい
われているという。

 参拝できなかった白根明神の別当寺として、正治2(1200)年、草津領主湯本氏が
再建したと伝えられ、光泉寺僧職は鎌倉幕府から地頭職を賜り、寺領として白根庄の領有
を許された真言密教の寺院。

 鎌倉幕府滅亡後は南朝に仕え、僧兵を率いて合戦におもむき、南朝の重臣、護良親王、
新田義貞、楠正成、名和長年、北畠親房らはこぞって白根大明神に神礼を奉納しており、
南朝衰微後は北朝に仕えたという。

 本堂は開山以来多くの火災にあい、現在の鉄筋コンクリート造りアルミ板葺きのお堂は、
昭和46(1971)年に5回目の建て替えとか。 

     
 本堂前に弘法大師像が立ち、本堂前部の回廊には、お釈迦様の弟子で神通力に優れてい
るという賓頭盧尊者(びんづるそんじゃ)像がある。
     
 別名「撫仏(なでぼとけ)」とも呼ばれ、自分が病気している場所と同じ場所を撫でれ
ば、病気が治ると信じられているよう。

      
 境内は約3,800坪(12,600㎡)あり、ほかに鐘楼堂や筆塚など見るものが多か
った。


 湯畑に戻り、草津温泉周辺のライブカメラ↓を見たり、湯畑を囲む石柵に記された草津に
来た著名人の名前などをもう一度見る。

 なお、この画像は「You Tube」で常時配信されている。







 13時近くなったので昼食をすることにして、リーフレットで目を付けていた近くのそ
ば店に行ってみたが10人以上並んでいる。

 近くの幾つかの店も並んでいて、外で待つのは寒いので少し移動して、湯畑の下部、今
朝最初に向かった日晃寺への通りの入口際にあった「茶房ぐーてらいぜ」というカフェに
入る。



 外は寒いが店中は暖かい。スパゲッティを注文し、美味しくいただいた。
    


 13時50分過ぎに店を出て、再び湯畑の東側に回り、草津たまごファームという店に
入って卵製品の土産を求めた。


 このあとは、温泉街の北西にある西の河原(さいのかわら)公園に行ってみることにし
た。                                  【続く】





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真冬の草津温泉3日間のバスの旅(群馬)(第1日)

2020-02-02 16:13:52 | 国内旅行
 例年なら1番寒い寒の内だが、今年は暖かい日が多い。でも、行ったことが無いという
連れ合いの希望で冬の間に温泉で温まろうと、阪急交通社・トラピックス企画による草津
温泉への3日間のバス旅に出かけた。

 私は草津温泉へは、半世紀前以前に温泉街近くの天狗山スキー場でのスキーや万座温泉
や志賀高原からの山越えのスキーツアー、職場の上司の8ミリ映画取材時の同行で出かけ、
比較的近年では1999年7月の草津白根山へのグループ登山、2009年10月にカン
トリーウオークグループで草軽電鉄廃線跡ウオーキングなど、あわせて数回行っているが、
温泉だけを目的としての旅は初めてになる。
 
2020年1月26日(日) 第1日

 小雨模様の西武新宿線の始発駅・西武新宿駅で下車し、JRなどの新宿駅に近い新宿副都
心の超高層ビル群のひとつ、センタービル前に行く。
     


 草津温泉行きの貸切観光バスは、9時30分にセンタービル前を出発した。

 首都高5号線から東京外環道を経て関越自動車道に入り、高坂SAで10時30分から
50分までトイレ休憩する。
     



 関越自動車道は埼玉県中央部を北西へと進み、群馬県に入る頃には雨は上がり、赤城山
や榛名山、上越国境・谷川連峰などの真っ白な山並み、さらに浅間山などが望まれた。

 榛名山


 谷川連峰


 浅間山


 赤城山

 北上するにつれ次第に青空が増え、赤城山、榛名山、谷川連峰、武尊山(ほたかさん)
らしい山並みも一層はっきりしてきた。

 谷川連峰


 武尊山

 関越自動車道の渋川伊香保ICを11時35分に出た。国道17号を少し北上して、国
道352号・長野街道に入り、JR吾妻線と吾妻川に沿って西方に向かう。


 中之条町で国道145号に入りさらに進むと、前方に草津白根山周辺↑かと思われる山
並みが近づき、風が強いのか雪煙の上がる浅間山↓も再度見えてきた。


 2度目の休憩地、今年完成予定の八ッ場(やんば)ダム左岸上部にある、「道の駅八ッ場
ふるさと館」で12時35分から13時までトイレ休憩となる。









 道の駅からは、ダムを横切る高さ87mの湖面2号橋(不動大橋)↑や、渇水期でもあり
まだ水位の低いダム湖の湖面などが望まれ、周辺には工事中の場所も見られる。







 さらに5㎞余り西進して草津道路・国道292号線に入り、林間をアップダウンして草
津温泉街へ。


 湯畑などのある温泉街中心部の北東側、家並みが少なくなった標高1,200mの山すそ
に進み、最初にツアーグルプのもう一つの宿泊先、ナウリゾートホテルに着く。


 さらに5分足らず、温泉街中心部の北北西にある私たちの2日間の宿泊地、ホテル ヴィ
レッジには13時35分頃に到着した。
     


 部屋に入りひと休み後、草津温泉街を少し巡ることにした。14時40分発ホテルのシ
ャトルバス↑に乗り、5分ほどで草津温泉バスターミナルに着いた。


 バスターミナルは3階建てで、待合室や売店、レストランなどがあり、その前の広場に
は温泉、文化、スポーツを形取ったらしい彫刻がある。
     

      台座には、草津町について以下のように記されていた。
     


 そばの交差点から湯畑に向かって下る。交差点際には石仏などの並ぶ古い建物があり、
その先両側には土産物店などが続いている。







 湯畑近くまで下ると、建物の間から西方の草津白根山周辺の山並みが望まれた。


 坂を下ったところが湯路広場で、中心部に大きなモミの木が立っていた。
     

 その周辺には、入浴できる温泉の建物や土産物店、飲食店などが建ち並ぶ。




    





 例年なら今頃はかなりの積雪のはずだが、暖冬の今年は雪が少なくて屋根に雪のない
ところも多く、周辺の斜面にも北側斜面以外には雪が見えない。


 それらの建物に囲まれて湯畑があり、硫黄の匂いが立ちこめ、温かな噴気がそちこちか
ら立ち上っていた。



 ちなみに、草津温泉は草津白根山(標高2,160m)の東麓にあり、毎分3万2,300ℓ
以上の自然湧出量は日本一のよう。

 日本を代表する名泉(名湯)の一つで、古くから日本三名泉(他は下呂温泉と有馬温泉)
の一つに数えられ、 江戸時代後期以降に何度も作られた温泉番付の格付では、当時の最高
位である大関(草津温泉は東大関)が定位置であったとか。

 明治時代に、ドイツ人医師・ベルツ博士が「世界第一級の温泉保養地(リゾート)」と
世界に紹介しているという。

 湯畑を囲む石柵には、草津を訪れたたくさんの著名人の名と来訪時期が記されている。


 湯畑の周囲には2つの足湯もあり、多くの観光客が楽しんでいた。








     




 湯畑の下部には、平成13年(2001)に草津温泉「湯畑」の湯けむりが環境省の
「かおり風景100選」に選定されたことを記したパネルや、岡本太郎が記した「草津の
未来をえがく」というパネルがある。
     


 湯畑の回りを反時計回りに一周し、幾つかの土産店をのぞいたり、ツアーでもらった温
泉まんじゅうと温泉たまご引換券を各々の店で品物に交換してもらったりした。
    




 気温は0℃前後だったが、日が傾いて冷えを感じてきたので引き上げることにした。


 往路をバスターミナルまで戻り、バスを待つ間にターミナルビル1階を回ってみた。


     
 観光協会の前に、草軽電気鉄道のデキ12形電気機関車の1/2スケール模型がある。
         
 草軽電鉄は、大正15(1926)年9月に新軽井沢~草津温泉間の全長55.5㎞が
全線開通した。ピークは終戦直後の昭和21年3月で、46万人の乗客があったよう。

 しかし翌月、国鉄長野原線(現在のJR吾妻線)が渋川~長野原間で旅客営業を開始し
て乗客は減り始め、相次ぐ台風被害も追い打ちをかけ、昭和37(1962)年1月末で
廃線になったという。

 私も草軽電鉄には乗ったことがなく、動く映像を観たのは、つい数年前にリバイバル上
映された、高峰秀子主演の日本最初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」であった。


 草津温泉バスターミナル16時20分発のシャトルバスで、ホテルビレッジに戻った。

 ホテルには3棟の建物があり、そのひとつのタワー館↓が私たちの宿泊棟である。






(天気 東京 小雨、草津 晴、歩数 10,000)




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