あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

カタツムリ歩行同窓会で王子駅周辺を歩く(東京・北区)〈後半〉

2019-05-23 22:18:45 | カタツムリ歩行
 2019年5月19日(日)〈続き〉

 カタツムリ歩行同窓会がゴールの名主の滝公園で解散後、帰路は、西南方向のJR埼京
線板橋駅に向かうことにして、13時28分に正門を出た。


 北側の急坂、三平坂を上がり王子本町二丁目の住宅地を南西へ。


 都道455号を王子本町歩道橋際で右折して西進し、都営王子本町三丁目アパートの東
側を下って石神井川の紅葉橋を渡る。
     
 橋の右岸上流際は以前訪ねた金剛寺で、門前に「源頼朝の布陣伝承地」の説明板がある。


 治承4(1180)年,頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、鎌倉を目指す途中この地に陣を
とったといわれているよう。当時の石神井川流域両岸は岩が切り立ち、松や楓があり深山
幽谷の趣をもっていたという。

 寺伝によれば、弘法大師空海がこの地を遊歴し不動明王像を彫り、これが本尊になって
いるとのこと。江戸時代は紅葉の名所として知られ、「紅葉寺」の別称でも知られている
よう。


 山門を入ると、本堂周辺はモミジなどが新緑の彩りを。



 右手には弁天堂が祭られ、その横に地蔵菩薩や七福神が並んでいた。


     



 南下して都営滝野川三丁目アパートの東南端を西へ少しで、新緑の森が残っていた。四
本木(しほんぎ)稲荷神社の森である。
     
 拝殿に参拝しようとしたら、境内を清掃中の男性が居られたので声をかけたところ、こ
の神社のことをいろいろと教えてくれた。


 神社周辺の広い一帯は、戦時中は陸軍の火薬工場地だったので地元民も入れず、戦後も
昭和26(1951)年まで同様で、境内地は現在も国有地だという。


 境内にある手水鉢と忠魂碑の裏面を見るように言う。手水鉢には「明治四拾参年四月 
銃包火具職工一同」と、りっぱな忠魂碑には「大正六年四月 火具製造所一同」との奉納
者の名がある。
     

 この神社は当時、火薬工場での作業中に火薬などの爆発で犠牲になった人たちの霊を祭
る神社だったとも教えてくれた。 こちらの小さい社殿が古い本殿だという。
     

 帰宅後、ネットでこの辺りの古い地形図を調べたら、1896~1924年の地形図に
は「雷汞所」、1927~39年には「火工場」と記されていた。

 また、別のネット情報では『滝野川地区にもかつて日本陸軍の火薬製造廠があり、東京
第一陸軍造兵廠滝野川工場、別名滝野川雷汞所〈らいこうしょ〉です。

 雷汞とは、水銀を硝酸で溶解しエチルアルコールを加えて反応させたもので、わずかな
加熱や衝撃で激しく爆発する起爆薬。雷汞を詰めたのが雷管で、ここは砲弾等の雷管を製
造する場所だったようです』などと記されていた。


 わずかな鎮守の森に、このような戦争の歴史が隠されていたとは…。貴重な巡り会いで
あった。

    
 鎮守の森の西南側には鎮魂のためか、たくさんの花が咲いていた。
         

    

         

 住宅地の中を南西へ、滝野川三丁目には八幡神社がある。
     
 八幡神社は滝野川村の鎮守で、創建は建仁2(1202)年ともいわれるが詳細は不明
とか。社殿裏手からは縄文後期の住居跡が発見されており、神仏分離以前は先ほどと訪ね
た石神井川畔の金剛寺が別当寺だったという。

 境内にある御神木のムクノキやケヤキなどは、北区の保護樹木に指定されている。

 神社の前を西進して、地下を都営地下鉄三田線が、上を首都高池袋線の高架が走る国道
17号線に出た。
     
 わずかなスペースに稲荷神社が祭られ、近くの滝野川6交差点で国道を横断する。


     
 南東に延びる「きつね塚通り」商店街などを進み、JR埼京線の板橋駅の東口広場に出
た。



 広場の東側に「近藤勇墓所」の標識があるのに気づく。駅前広場は10数年前の中山道
ウオークで休憩したことがあるが、この墓所は知らなかった。

 墓所には、新選組組長近藤勇と副長土方歳三の名の記された大きな墓碑、新選組長倉新
八墓碑のほか、近藤勇の立像、近藤勇埋葬当初の墓石、それに3人の肖像画などがある。
        

    

         

         



 説明板によれば「慶応4(1868)年4月25日、近藤勇は中山道板橋宿手前の平尾
一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑され、首級は京都に送られたが胴体は
この場所に埋葬された。大きな墓碑の側面には合計百四十名の隊士の名なども記されてい
る」ことなどが記され、近藤勇と新選組隊士供養塔は北区の有形文化財に指定されていた。


 駅間広場を横断して、JR埼京線板橋駅東口には15時03分に着いた。


(天気 晴 距離 7㎞、地図(1/2.5万) 赤羽、歩行地 北区、歩数 15,300)





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カタツム歩行同窓会で王子駅周辺を歩く(東京・北区)〈前半〉

2019-05-22 22:24:03 | カタツムリ歩行
 2019年5月19日(日)

 カタツムリ歩行の第5回同窓会に参加した。集合はJR京浜東北線の王子駅南口。今回
の担当のKさんに地図をもらい9時57分に駅を出た。



 西側線路沿いを少しで、歩道橋でJR東北本線の線路を越える。さらに階段を上がった
段丘上は、新緑あふれる飛鳥山(あすかやま)公園である。

 中央部辺りから入ると、桜などの豊富な新緑がみずみずしい。上がってすぐの所に、青
銅の聖観世音菩薩像が立っていた。
         

 東側の園路を北に進む。屋根がけの大きな石碑があった。「象山先生桜賦(さくらふ)」
碑のようだが、碑文は霞んでいて判読できない。

 桜賦は、信濃国松代藩士の佐久間象山(さくましょうざん)が、門弟吉田松陰の密出国
に連座し松代(まつしろ)に蟄居(ちっきょ)中の万延元(1860)年に作られたとい
われ、明治14(1881)年に門弟の勝海舟らにより建立されたという。


 公園の北端からは北側の展望が広がり、そばの花壇はパンジーの花盛り。


 近くに石積みの塔があり、標高25.4mと記され、その前に公共基準点もある。
         


 折り返し西側の園路を南へ。桜並木を中ほどまで戻ると「明治維新百年植樹記念碑」が
立っていた。

         
 その先には「そのかみの 山をおほひし 花ふぶき まぼろしにして あがる噴水 
赤鳥」と刻まれた水上赤鳥歌碑もある。すぐ下に和風の時計塔が目につく。
     

 近くには、「飛鳥山の歴史」碑と都指定有形文化財「飛鳥山碑」があった。「飛鳥山碑」
には、豊島氏が王子権現を勧請したこと、王子、飛鳥山、音無川の地名の由来、8代将軍
吉宗と飛鳥山との関わりなどが記されているという↓。



 公園の中央部やや南寄り一帯は児童エリアで、滑り台などの遊具が設けられ、その二隅
に都電6080号車輌とSLD51853号機関車が静態保存されていた。


 都電は公園横の荒川線も走っていて、戦後初めての新造車で昭和24(1949)年の
製造。昭和46(1971)年3月まで荒川車庫に配属されていたという。


 D51型SLは昭和18(1943)年の製造、吹田、姫路、酒田などの機関区に配属
され、月へ約2.5往復の194万2千㎞余りを走行したようだ。


 公園の南西側に紙の博物館↑、区立飛鳥山資料館、渋沢史料館が並ぶが入館は省き、渋
沢史料館の南東側、旧渋沢庭園に入る。

 この一角は、次の1万円札の顔となる渋沢栄一が明治12(1879)年から亡くなる
昭和6(1931)年まで、初めは別荘、後には本邸として住んだ「曖依村荘(あいいそ
んそう)」跡とのこと。
     
 敷地は約2万8千㎡あり、日本館と西洋館を結ぶ母屋のほか、いろいろな建物が建って
いたとか。現在は大正期の小建築「晩香廬(ばんこうろ)」と「青渕文庫(せいえんぶん
こ)」のみが保存され、国指定重要文化財になっている。

 晩香廬と青縁文庫は有料(300円)だが旧渋沢庭園は無料。桜など新緑あふれる庭園
を一巡し、石灯ろうや茶席「無心庵」跡、兜稲荷社跡などを回り、青渕文庫↓も眺めた。


        
 渋沢史料館近くに「平和の女神像」が立っていた。日中国交正常化を記念し、人類の理
想である平和と幸福を願い1974年に建立したもの。
         
 作者は長崎の「平和祈念像」の作者、北村西望(きたむらせいぼう)という。


 渋沢史料館↑の先から飛鳥山公園を出た。駐車場の先で折り返すように北東への細道を
進み、日蓮宗祈祷所の妙見寺へ。境内は狭いので山門から眺めるに留める。


 少し戻り、さらに細道を東に抜けて、七社(ななしゃ)神社に入る。

 江戸時代には、南東に1㎞ほどの現在の古河(ふるかわ)庭園内の無量寺境内に祭られ
ていたことが「江戸名所図会(ずえ)」に描かれていたとか。

 神仏分離により明治2(1869)年に当地に遷座され、西ヶ原村の総鎮守になったと
いう。

 古くから子宝・子孫繁栄の神徳があるようで、境内中央部の願掛け公孫樹(いちょう)
と呼ぶ大イチョウの回りには、たくさんの絵馬が奉納され、中には八重桜絵馬もあった。
    
 本殿前に咲く八重桜を描いたものだが、その八重桜の品種は御衣黄(ぎょいこう)で、
4月中旬頃開花するという。

 丸い絵馬には犬の親子が描かれていたが、どうやら拝殿前の狛犬を模したもののよう。
         

 7月21日には「一心泣き相撲」と呼ぶ催しも開催されるようで、なかなか興味深い神
社だった。
     


 正面の石鳥居を出て、都道455号に合するところに一の鳥居が立ち、都道の両側には
立派な一里塚が残り、ケヤキやクスノキなどの大木が目に入る。

 「西ヶ原一里塚」で、慶長9(1604)年に幕府が日本橋を起点として道程の目安と
して築いたもののひとつ。日光御成(にっこうおなり)街道では本郷追分に次ぐ2番目の
一里塚で、国指定史跡である。


 旧道を挟んで一対の塚が現存しているが、大正時代には東京市電の軌道延長路線上にあ
るため撤去されそうになったが、渋沢栄一や東京市長、滝野川町長などの運動で保存に成
功したようで、都内の一里塚で旧位置に残る貴重な文化財だという。



 都道を飛鳥山公園の中央部付近まで戻って西に延びる細道に入り、都電荒川線の飛鳥山
駅南側の踏切を横断する。


 すぐ先に小さな地蔵堂があり、「江戸三大身代(みがわり)地蔵尊」の標石が立ってい
た。
         

 左手には本智院・滝野川不動尊の立派な標石があるが境内はわずかで、小さいお堂に不
動尊らしい石像が祭られていた。


 首都高中央環状線・国道122号の広い道路を横断して滝野川二丁目へ。

 住宅街なので、速度を抑えるためにしたらしい緩やかなカーブ道沿いに、国重要文化財
「旧醸造試験所第一工場(赤煉瓦酒造工場)」が残ったいた。


 隣に醸造試験所跡地公園があるが、工場には柵があり近づけない。


 その道の途中から左折、右折して、石神井川(しゃくじいがわ)右岸を背にした正受院
(しょうじゅいん)へ。参道の途中に「不動の滝跡」の説明板がある。

 不動の滝は、正受院本堂裏の谷から下った石神井川の岸にあったとか。室町時代に大和
国の学仙坊(がくせんぼう)という修行僧がこの地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創し、
その秋に石神井川の増水後、川から不動像をすくい上げて滝のそばに安置したことから、
「不動の滝」と名付けられたという。

 中門を入った辺りに咲いていた花。



 境内は、豊富な新緑にあふれている。本堂前に立つ大イチョウの下に、石造の近藤守重
(もりしげ)坐像がある。
         
 守重は通称重蔵(じゅうぞう)で、寛政10(1798)年、幕府から蝦夷地の調査を
命ぜられ、高田屋嘉兵衛の協力を受け、この石像のような甲冑に身を固めてエトロフ島に
渡り、現地の開拓に尽力した人。

 文政5(1822)年から4年間、正受院の東隣に滝野川文庫という書斎を設けて住ん
だという。近藤重蔵の名は知っていたが、ここがゆかりの地であったとは知らなかった。

 本堂左手に慈眼堂が、その横には「赤ちゃんの供養塔」という地蔵大菩薩立像があり、
それらの前は赤ちゃん供養のための花束がたくさん奉納されていた。


 境内に咲くカルミヤ



 山門を出て東側から石神井川右岸沿いの遊歩道に回り、上流に向かう。川沿いはソメイ
ヨシノの並木が続いている。
     


 「音無さくら緑地」↑際まで進んで松橋を渡る。橋には松のデザインが施されていた。
    

 橋の北側、王子本町二丁目には、昭和時代らしい民家が目に入る。


 都道455号を横断して、王子二小横から急坂の「王子稲荷の坂」を下って行くと、そ
の王子稲荷神社が祭られていた。



 この境内も緑陰豊富で、拝殿はきらびやかな装飾や彫刻が施されている。


 急石段を東に下り、正面の山門を出た。



 北側近くにある金輪寺前を通過し、12時02分にゴールの名主の滝(なぬしのたき)
公園の東側の薬医門を入る。

 名主の滝公園は、安政年間(1854~60)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開
いたのが始まりで、名前の由来もここから来ているよう。

 庭園として整備されたのは明治の中頃、昭和13(1938)には精養軒が買収し、食
堂やプールなどが作られ公開され続けたが、昭和20年4月の空襲で焼失し、東京都によ
り再公開されたのは昭和35(1960)年という。

 王子周辺にはかつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝があったが、「名主の滝」だけが
現存する唯一の滝。落差8mで都内有数の男滝(おだき)など4つの滝があるが、現在は
男滝のみ10時~16時の間のみ流れ落ちているよう。

 園内にはケヤキ・エノキ・シイ、ヤマモミジなどが植えられ、斜面を巧みに利用して自
然の風景を取り入れた回遊式庭園になっている。

 名主の滝の名は知っていたが来たのは初めて。東京二十三区内とは思えぬ緑いっぱいの
公園だった。

 薬医門のそばに中の島のある池があり、対岸にキショウブが咲く。

 キショウブの横を経て、流れ沿いのうっそうとした樹林内を上がり下りして巡ったが、
なかなか皆さんの昼食地が見つからない。


 薬医門とは離れた、管理事務所やトイレのある公園の北端寄り、正門近くのベンチに着
いたのは12時18分だった。近くに、垂直の斜面から流れ落ちる男滝が望まれた。
     


 昼食後、記念撮影とゆっくりのミーティングをして、散会となる。(続く)





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世界最大級という「つくば牡丹園」のシャクヤクを見に(茨城・つくば市)

2019-05-18 18:59:37 | ウオーキング
 2019年5月17日(金)

 前日夜のNHK総合TV「首都圏ニュース845」で、「つくば牡丹園」のシャクヤク
が見ごろと紹介していたので、急きょ見に行くことにしました。

 JR武蔵野線南流山駅でつくばエキスプレス線に乗り換え、10時44分にみどりの駅
に着ました。

 つくば牡丹園へはJR常磐線牛久(うしく)駅行ききバスがあるのですが、1時間1本
のみでしばらく待つので、東方に5㎞余りを歩いて向かうことにして10時50分に東口
をスタートします。

 新しい住宅や工場が増えつつあるみどりの中央地区を500m前後進んだところに、サ
ッカーJリーグ鹿島アントラーズのアカデミーセンターと呼ぶ建物がありました。


 南東側の中野集落に入ると、たくさんのほだ木が積まれていて、その奥に増殖する建物
らしいのが幾つも並ぶ「なかのきのこ園」が目に入ります。


 常磐自動車道下を谷和原41号こ道橋で東に抜けて飯田集落へ。小さな社殿の名の知れ
ぬ神社があり、鳥居には古くからの信仰らしいわらで作ったものが吊されていました。


 次の古舘集落を通過し、西北から東南に延びる幅広い谷地田を横断します。


 中央部を貫く西谷田川の流れ。田植えを終えて間もないからか、豊富な水量です。


 東側台地に上がって境田集落を抜け、県道19号・取手つくば線を横断しました。その
先の畑に立つ高圧送電線の鉄塔は、あまりり見たことのないかなりの高さでした。
     

 東丸山集落に入って右へと方向転換して南東に向かい,集落東端辺りで少しの間ながら
森を抜けました。
             

 次の房内(ぼうち)集落手前の草地を横断して1本北の道に出て、次の流れ沿いのやは
り幅広の谷地田を北東へ。


 これから横断する谷田川をまたぐ、丸山橋と手前の水管橋が上流側(西)に望まれます。


 丸山橋からの谷田川の流れ、この流れも田植えを終えた間もないのでかなりの流量が。


 東側台地上が若栗(わかぐり)集落で、その手前につくば牡丹園があり、12時32分
に着きました。


      門の横に掲示されていた「本日の開花状況」など。
     

 門を入った左手が入園券売場、1,000円の入園料を支払い入園券を受け取りました。
右手に立っていた園内案内図などのパネル。


 すぐ北側辺りの様子


          真っ白なシャクヤク
         

 
 入ってまもない北西側に通過できるアーチがあり、何色かのテッセンが咲いていました。


         

    

         


 アーチの北側は小さな白い花がいっぱい。

     
 近くのこれらもテッセンだろうか…
    

             


 アーチを抜けた北側には、通称「なんじゃもんじゃの木」呼ぶヒトツバタゴが枝いっぱ
いに細い針のような花を。

        
         


 敷地の北東側一帯、広いエリアのシャクヤク畑へ。
 




 花いっぱいのシャクヤクの向こうには、やわらかな新緑の彩りも。










         



    シャクヤク畑の北西端には、何本かのシャクナゲが咲いています。
    



 シャクヤク畑の東側にはボタンの畑が少しあり、その一番奥の樹齢150年という古木。 


 畑から西側に戻り、樹間から北側台地下を見下ろすした池の周辺。

 
 ボタンとシャクヤクの違いとは


 入口から西に進んだ中央部の広葉樹林の中には、レストラン(左)とその先にPeony
Garden Cafeがあり、食事や喫茶が楽しめます。


 Peony Garden Cafe の建物




 それらの近くから北東に下り、東西に細長く3つ並ぶ池の東側の池際に出て、池の北側
園路を西進しました。
         





 西端の池を、池の東側から眺めると。



 池の周辺に咲くシャクヤク


         



     

    

         



         


 13時過ぎ、西側の池の西端近くの緑陰にあったベンチで昼食をして、その後は南側周
辺をあちこち巡ってシャクヤクや新緑などを眺めました。
   

 ほぼ一巡したので台地上に戻り、そろそろ帰ろうかと思い、チケット売場でバスの時刻
を聞いたら、みどりの駅方面へのバスは毎時22分発とのこと。時間調整にもう一度シャ
クヤク園に回ったら、樹間から筑波山の双耳峰のうちのひとつの峰が望まれました。
     

 昼食時間を含めて1時間半の観覧を終えて、14時02分につくば牡丹園を退出します。


 来た時は気づかなかったのですが、駐車場の東側一帯も広いシャクヤク畑でした。





     
 東側の若栗集落を5分ほど、南北に走る県道143号・谷田部牛久線に出ると左手すぐ
そばが茎崎若栗バス停。14時22分発(5分ほど遅れ)みどりの駅行きバスに乗ります。

 
 みどりの駅西口には14時41分に到着しました。

 
 つくばエキスプレス線の上りホーム後ろ側に上がったら、北側に筑波山が一望できたの
でホームの端から1枚パチリ。


 間もなく14時59分発、秋葉原行き区間快速電車が到着し、乗車しました。


(天気 晴、距離 7㎞(園内1周含む)、地図(1/2.5万) 谷田部、歩行地
 つくば市、歩数 14,100)

 なお、つくば牡丹園の今年(2019)の開園は4月13日(土)~5月26日(日)
まで。詳細についてはこちらのサイトをご参照下さい。
 




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所沢航空記念公園のシャクナゲとバラが見ごろに(埼玉・所沢)

2019-05-16 17:46:44 | 所沢だより
 2019年5月15日(水)

 私の市内ウオーキングの定番コース、所沢航空記念公園に入ります。西北側、市立図書
館の裏手にある1本の西洋シャクナゲが咲いていました。

 サッフォーという名の西洋シャクナゲの1種のようです。
    

 日本庭園のシャクナゲが咲いているのではないかと思い、西側入口に向かいます。入口
前のエノキの新緑。


 入って間もないところに1本だけ咲いていました。


 池の東岸斜面には3、4本のシャクナゲがあり、何れも開花しています。
   

    

         

    

     

    

         

    

 日本庭園を横断して東北側出口に抜け、公園の央部にある放送塔下のバラ園へ。少し早
めの感じもしますが、何色ものバラがほぼ見ごろでした。


    

         

    



    

         

    

         

    



    

     

    

        

    


  
 手当たり次第撮ったのでかなりの数に。


    

         

    

         
 
             



    

         

     

         

    



    



    





 道路を挟んだ北側にはかなり枝を伸ばしたシャクナゲがあり、たくさんの花がよい彩り。


    

         

    

         

         

    



    

         

    


 バラ園前に戻り、南側から公園を後にして所沢駅方面に向かうことにしました。
         
         




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北本市西郊、新緑の荒川左岸台地をカントリーウオーク(埼玉・北本)

2019-05-15 22:08:48 | カントリーウオーク
 2019年5月12日(日)

 平成から令和に年号が変わって最初、カントリーウオークグループの第263回例会に
参加した。


 集合はJR高崎線の北本(きたもと)駅、10時15分に西口をスタートした。

     
 西口ロータリーに立つ、数本のベニバナトチノキが鮮やかな花を見せている、
    

 その下のテントで、今日開催の「きたもと緑の森めぐり」スタンプらラリーのリーフレ
ットを配布していたのでもらう。北本名物、トマトカレーも販売していた。


    
 駅前から西に延びる広い市道の1本南の細道を進むと、民家のバラやシャクナゲなどが
あちこちで咲き競う。
         


 細道を突き当たり、南下した交差点際、「プリムローズ&デグラン」という店が「きた
もとオープンガーデン」に参加していて、今日までの金土日が公開日。

 店の前と道路を挟んだ東側の一角に、バラを中心にテッセンなど鉢植えの草花がたくさ
ん咲いていた。
    

                

 次の角を右左折して、広い敷地に立派な建物が相対する市役所↓と文化センターの間を
抜ける。


    
 西側の本町六丁目の住宅街にも、レモンやシャクヤク、アルストロメリアなど春の花が
彩りを競っていた。


         
 
 本町七丁目へ、緑豊富な真福寺に北東側から入る。石戸厄除両大師と呼ばれ、社殿は朱
塗りコンクリート造りで堂々とした造り。

 創建から約600年という古寺で、地元では「両大師」や「大師様」の愛称で親しまれ、
正月3日と2月3日には「だるま市」が開かれ大変多くの参詣者で賑わうよう。


 境内中央部にクスノキの大樹が新緑のやわからかな彩りを見せ、囲んでみたら5人がか
りの幹、その下で小休止する。

     
 そばの立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、安永8(1779)年と刻まれてい
た。境内のほかの木々も伸び伸びと枝を広げている。



 境内南側、安永3年建立の仁王門を出て西へ、すぐ先で北への細道を入ると畑の向こう
にたくさんのルピナスが咲いている。



 次のT字路を左折して門前からの道に合し、石戸二丁目と四丁目の間を西進する。周辺
は小麦畑が多く、もう穂が出そろっていた。

    
 沿道の民家にも鮮やかなバラが咲き、古木の梅園もある。
         



 さらに西進して県道57号・さいたま鴻巣線を横断したすぐ先、南北に走る旧道に鎌倉
街道の説明板が立っていた。
     
 鎌倉街道の中道(なかつみち)から枝分かれして荒川沿岸を走る上野道(こうずけどう)
と考えられるという。その道路沿いには「景観フラワーロード」の表示もあり、道路沿い
に花畑が続いている。


 その延長となる東側すぐ先に、高尾氷川神社と浅間神社、須賀神社が接して祭られてい
た。

 氷川神社の創建は貞観11(869)年と伝えられ、市内最古の神社とされ、旧高尾村
の総鎮守とか。豊富な鎮守の森に覆われ、正月に地元の方から甘酒が振る舞われる初詣ス
ポットだという。


 拝殿左手には、親子お笑い芸人「完熟フレッシュ」が紹介した「ぴこりん絵馬」が奉納
され、その横には桜みくじが並んでいた。


 境内西側、道路下の谷底に下ると弁天池があり、弁天島の中央に厳島神社が祭られてい
る。


 この周辺も豊富な樹林に覆われていて、周辺一帯は県の「緑のトラスト保全第8号地」
である。


 厳島神社の南側、須賀神社は旧荒井村の鎮守で「荒井の天王様」ともいわれ、創建は天
正年間(1573~91)という。


 拝殿内には明治天皇と日露戦争の軍神・広瀬武夫中佐の肖像画などが掲げられていた。
    


 緑のトラストのやわらかな新緑を眺めながら西進し、「高尾さくら公園」の駐車場から
公園に入る。駐車場の北には、独特の鐘楼門のある阿弥陀堂が望まれる。


 高尾さくら公園は、広々とした芝生地に全国から集めた桜など、約30種約200本の
桜が植えられ、ソメイヨシノやヤマザクラの咲く4月初旬には、さくらまつりが開催され
るという。

 以前の例会でも来ているが、年数が経過して桜もかなり生長しており、花どきにもう一
度訪れたい。

 12時12分に着き、予定の昼食地の手前だが東屋(あずまや)もあるのでここで昼食
とした。


 南側には荒川の幅広い河川敷が望まれるが、その向こう、奥武蔵や奥秩父方面の山並み
は霞んで判然としない。

 昼食後にミーティングをして、13時ちょうどに高尾さくら公園を後にする。南東に下
ると「ヘイケボタルの里」と呼ぶ小さい池があり、その横から荒川左岸に出た。



 左岸沿いを下流に進み、8月下旬の日曜に「水辺まつりが」開催されるという「北本水
辺プラザ公園」の入口横を過ぎる。


 少し先の十字路を左折して東側台地に向かい、コイの泳ぐ池に沿って進む。



 台地上には「野外活動センター」の建物があり、遅れてきたCさんがここで合流した。

 建物内を少し観覧後、そばで記念撮影をして東側の道路に出る。


 南進して次のT字路を東へ、高尾八丁目を進み、県道33号・東松山桶川線を少しで南
側の荒井四丁目から五丁目へ。

 左下の栗畑に下りて背の低い梅林を進むと樹林となり、道なき道を久しぶりにやぶこぎ
して北本自然観察公園の北西側遊歩道に出た。


 少し先の東向斜面に、市指定天然記念物のエドヒガンザクラの古木が立っていた。樹齢
200年を超えると推定され、根回り3m、枝張り南北42m、東西13m、高さ20m
の大木である。
     
 北本の春を告げる桜として開花期には多くの見学者で賑わうようだが、新緑に覆われた
いまは周辺の木々に溶け込み、標識がなければそれと気づかないだろう。



 遊歩道を南進して「埼玉県自然学習センター」に入り、館内の展示を見るなどして小休
止する。





 休憩後は、建物の南西側のアシの茂る池の周囲を反時計回りに一周する。最後は池の中
を木橋で横断し、ニセアカシアの白い花咲く下を抜けてセンター横に戻った。


     

 東側の橋を渡って北本自然観察公園を出て、北東に進んで荒井三丁目を東へ、西中の北
側を東進して石戸八丁目から七丁目へと畑作地帯を進む。


 県道33号を横断して石戸六丁目の大蔵寺へ。参道を少しで独特の山門を入り、正面の
本堂前で小休止する。ここも境内の豊富な新緑が気持ち良い。



 大蔵寺については、新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)に「創建年代等は
不詳ながら、天台宗、安楽山無量院と号す」などと記されているようだ。


 東側に広がる大規模団地・URの北本団地に入り、郵便局横を北へ、団地の北端から東
進し、大きな北本中央幼稚園との間を進む。

 団地の北東端で北へ、県道312号・下石戸上菖蒲線を北本郵便局の西側で横断し、緑
一丁目で宗教法人解脱会の森に着き当たる。


 東に回ってさらに北進し、ゴールの北本駅には15時55に着いた。気温22℃前後で
東からの涼しい風もあり、強い日差しも少なくウオーキング日和だった。

(参加 11人、天気 晴、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 鴻巣、歩行地 北本市、
 歩数 22,100)





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市立図書館での「百田稔作品展」と超高層展望台からの展望(千葉・市川)

2019-05-11 22:02:08 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2019年5月10日(金)

 今日は夏日(25℃以上)となる予想でしたが、ご本人から案内をいただいていた「百
田稔(ももだみのる) 作品展」の観覧に出かけました。

 JR総武線の市川駅に正午近くに着き、南口に2つある45階建ての超高層ビルのウェ
スト館に向かいます。この3階にある市川市市川駅南口図書館が会場です。
     

     
 図書館入り口に掲示されていたポスターとボード


 図書館内の北側(線路側)の壁面に作品は展示されていますが撮影禁止です。

 百田稔さんの作品展では、従来は東海道、中山道、四国一周、北海道一周ドライブなど
長距離の旅にて毎日描いた絵はがき大の作品でした。

 今回は、駅弁、食事、野菜、果物、橋、元気な店、花、桜、市川市の消防、アルコール
飲料、麻雀、駅、環状道路、千葉商科大、石段と坂道、スカイツリー、赤レンガの建物、
港の船、切手など、日常見たり経験したりしたものをその場でスケッチされた多彩なテー
マの作品が並んでいて、とても興味深く拝見しました。

 見学前、この建物の屋上にアイリンク・タウン展望施設があると知ったので、作品展の
観覧後、上がってみることにしました。

 建物の北側にあるエレベーターで、45階まで直行で上がります。エレベーターはガラ
ス張りなので、上りながらも北側の展望が得られます。途中からの市川駅の眺め。


 45階まで上がり、さらに階段を上がった展望施設は地上150mになり、360度の
大展望が楽しめます。まずは南側の江戸川方面の眺め。




 反時計方向に一周することにして東の方向に進むと、南東側には江戸川(左)と旧江戸
川(右)の分流点が。

 


      東側眼下の市川駅から下り線方向。
      

 北側デッキに回ります。




 中央の緑の森は弘法寺の森、その向こう右手は千葉商科大、左のレンガ色は和洋女子大の
よう。


 もう少し引いてみると


 その左手、東北方向には江戸川上流の流れが。カーブ点の右手の緑は里見公園か。


 さらに左手、市川市中心部に伸びる3本の橋。右は京成本線、中央は国道14号・千葉
街道、左がJR総武線。


 JR総武線鉄橋とその南側、左岸のリバーサイドに立つマンション。


 都心方向はやや霞んでいますが、東京スカイツリーが望まれます。
     



 西側展望デッキ


 南西側の江戸川の流れ、はるか向こうには霞む高層ビル群が林立しています。


 南側デッキに戻り、展望デッキの1周を終えました。


 45階に下り、東側にあった展望施設の休憩コーナーでリンゴジュース(200円)を
注文してひと休み。
    

 ここには小さな売店もあり、百田稔さんの市川を描いた絵はがきも販売していました。


      休憩を終え、高層エレベーターで3階まで下ります。
     

     
 市川駅北口にある観光協会に回り、「2019いちかわガイド 市川市案内図」をもらい、
北口構内のレストラン街で昼食を済ませ、14時過ぎに市川駅から上り電車に乗りました。





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JR東日本「駅からハイキング」で国分寺駅周辺を歩く(東京・国分寺)

2019-05-06 18:58:20 | JR東日本駅からハイキング
 2019年5月4日(土)

 平成から令和へと年号代わりの10連休後半の今日は、『【JR国分寺駅開業130周
年記念】こくぶんじの恋と歴史と文化をめぐる春の探訪』というJR東日本の駅からハイ
キングに参加した。

 ちなみに、国分寺駅は中野、武蔵境、立川各駅とともに1889年4月11日の開業で、
今年同日に開業130年を迎えている。

 JR中央線国分寺駅と西武国分寺線・多摩湖線国分寺駅のある北口のビル5階の、
cocobunjiプラザルの総合案内で受付を済ませ、10時33分に北口をスタートする。



 本町四丁目商店街を西へ、本町四丁目交差点を北に少しで、最初のポイントの「恋ヶ窪
東遺跡」へ。

 野川(のがわ)の源流のひとつ、さんや谷に面した台地上の旧石器・縄文時代の遺跡で、
約4千年前の「柄鏡形(えかがみがた)敷石住居跡」復元模型がある。



 もとの通りに戻り西へ、緑が豊富な日立中央研究所の南側、西武国分寺線、JR中央線
沿いに進む。


 西武線の架道橋をくぐって住宅街の車道を進み、道標に従い遊歩道を進むと「姿見の池」
に出た。

 鎌倉時代、遊女たちが鏡代わりに姿を池に映していたという伝承が名前の由来のよう。
遊女が鎌倉武士・畠山重忠を慕ってこの池に身を投げたという「恋ヶ窪伝説」も残ってい
るという。
    
 池の対岸に大きなアオサギが姿を見せ、池の周辺にキショウブやシャリンバイ、コデマ
リなどが咲き、クワの実もふくらんでいる。周辺の新緑も気持ち良い。
    

         

 西側の車道に出るところに「恋ヶ窪用水(恋ヶ窪村分水)の由来」のパネルが目に入る。
玉川上水から引水して恋ヶ窪村を潤し、村の収穫量が増加して村人の暮らしが豊かになっ
たことなどが記され、そのイメージを復元したという流れが遊歩道沿いにある。
     

 府中街道に出て、JR中央線西国分寺駅上を陸橋で越えて線路の南側を東へ。


 日本芸術高等学園の手前を右折して、南に延びる幅広い歩道、「東山道武蔵路(とうさ
んどうむさしみち)跡」を進む。

 東山道武蔵路は、7世紀に律令制の確立に伴い造られた官道の一つで、当初は東山道の
本道の一部として開通し、のち支路となった。

 上野国(こうずけのくに)・下野国(しもつけのくに)から武蔵国を南北に通り、武蔵
国国府(府中)に至る幅12mの直線道路跡約300mを歩道として整備保存している。

 中ほどに、写真や地図入りの詳細な説明パネルが設置されていた。


 南下して武蔵国分寺公園の西側入口を過ぎる。すぐ先の国分寺消防署西元出張所の角を
東に入ると国分寺公園。

 忠魂碑や慰霊碑など三つの大きな碑の横に「土師竪穴(はじたてあな)住居跡」の説明
板があり、この周辺で土師器を使用していた時代の竪穴住居4棟が発見されたという。

 すぐ西側が「国分寺薬師堂」。薬師堂は、建武2(1335)年に新田義貞の寄進で国
文寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられ、現在の建物は宝暦年間(1751~63)に
この地で再建されたよう。

 堂内に安置された木造薬師如来坐像は、平安末期か鎌倉初期の製作と考えられ、国の重
要文化財に指定されている。

 うっそうとした境内を南に下って仁王門を出る。仁王門も宝暦年間の建立で、金堂跡付
近にあった旧薬師堂のものを再利用したことがうかがえるという。


 南側、広い草地に桜などが伸び伸びと枝を広げた一帯が「国史跡 武蔵国分寺跡」である。

 奈良時代中期の天平13(741)年、聖武天皇が諸国に命じて建立したもので、規模
は全国64の国分寺の中でも最大級とか。中枢付近は近年の整備を終え、市の歴史公園と
なっている。


 その中の金堂跡↑、講堂跡↓、鐘楼跡などに基壇などが復元され、各々の説明パネルと合
わせ、当時の建物の大きさをうがかい知ることができる。




 公園から北に進むと国文寺楼門が立っている。この門は、米津出羽守田盛の元菩提寺と
して建立された東久留米市の米津寺の楼門を明治28(1895)年に移築したもの。

 国分寺境内の諸建築物とともに、国文寺の変遷を知る上で重要な建物だという。


 楼門の北側が現在の真言宗豊山派の武蔵国文寺。最初に参拝した薬師堂もこの境内西側
で、本堂周辺には万葉植物園がある。

 昭和25(1950)年から13年かけて当時の住職が採集した万葉集に詠まれた植物
が所狭しと植えられ、現在約160種あるという。


 豊富な新緑に包まれた植物園の草木の下に、幾つかの小さな花が目に入る。
         

 門の西側、目の上には、名の知れぬ黄色の花がたくさん咲いていた。
         

 国文寺の前から、東に延びる「お鷹の道遊歩道」に入る。江戸時代の寛延元(1748)
年、国分寺市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応3(1867)年に廃止さ
れるまで村人の生活に多くの影響を与えていたとか。

 崖線(がいせん)下の湧水を集めて野川に注ぐ清流沿いの小道は、いつの頃からか「お
鷹の道」と呼ばれ、昭和47(1972)~48年に国分寺市が遊歩道として整備したと
いう。


 そのお鷹の道を少しで「武蔵国分寺跡資料館」へ。南側の「史跡の駅おたカフェ」↑で、
館内の「おたかの道湧水園」との共通入園券を購入(100円)し、入口である立派な旧
本多家(ほんだけ)住宅長屋門を入る。

 この長屋門は、国分寺村の名主を歴任した本多家の屋敷地南側に、表門と先代名主の隠
居所を兼ねて江戸時代後期に建築したもの。


 まずはこの建物に入って1階の建物を眺め、2階に上がって本多家の歴史パネルや資料、
養蚕や衣装などの展示を観覧した。


 敷地内東側には、武蔵国分寺七重塔の10分の1の推定復元模型がある。
     


 奥の建物が武蔵国分寺跡資料館で、史跡武蔵国分寺跡の出土資料、市内の文化財、史跡
武蔵国分寺整備事業などの展示があった。




    
 敷地内に咲くツツジやシャクナゲなどの花を見ながら北側の崖線下にある湧水観測ポイ
ントへ。数㍍先の木の根の下が湧水元のようだが、湧水らしいのは見えなかった。
        

    

         

 敷地の西側に旧本多家住宅倉が残されていた。明治33(1900)年に新築し、昭和
8(1933)年に改修したもののよう。
        

 お鷹の道を先へ、別の本多家の広い庭先から見たことのない花が咲いていた。行き交っ
た人も初めてで、名も知らないという。
    

 その先、北側の崖線下は都指定名勝の「真姿(ますがた)の池湧水群」で、お鷹の道と
ともに環境省の名水百選に選定されている。

 平安時代、絶世の美女・玉造小町が重い病を患い、薬師如来に祈って池の水で身を清め
ると、もとの美しい姿に戻ったという伝説が池の名の由来のよう。
      
 左手に弁天堂を祭る湧水池があり、崖線の下からもきれいな湧水が流れ出ている。流れ
沿いにはカラーの花が咲き出し、その東側には、野菜や柿などの無人販売をする本多園が
ある。


     


 13時を過ぎたので昼食をと考えたら、すぐ南側に「うどん」の看板が出ていた。小さ
な手造り風建物の店だったが入り、冷たいねぎとろうどん(700円)を注文し美味しく
味わった(少し食べてからの写真)。
    

     
 旧建設省の「手づくり郷土賞」のパネルが埋め込まれた岩の横からお鷹の道をさらに進
む。すぐ先、立派な長屋門を活用した建築研究所前を通過し、間もなくお鷹の道が終わる。



 その先は住宅地の中を東北東に進み、源流から間もない野川の不動橋を渡る。橋の北側
に「不動明王」と刻まれた石橋供養塔と庚申塔が並んで祭られていた。

 不動橋は以前は石橋で、石橋供養塔は天保3(1832)年の造立のよう。庚申塔は延
享2(1745)年の銘があり、造立者として国分寺講中と11人の名が刻まれているよ
うだ。

 その横で車道に出てそばのY字路を左へ、緩やかに左カーブする坂道を上がり分寺駅南
口のビル前に出た。

 右折した東側は「都立殿ヶ谷(とのがや)庭園」沿い。少し先に入口があり、「本日入
園料無料」の張り紙が。駅からハイキングのポイントではないが入園することにした。

 この庭園は、南満州鉄道副総裁や貴族院議員を務めた江口定條(さだえ)が大正2
(1913)年に別荘を構え、のち三菱合資会社取締役・岩崎彦弥多が買い取り、主屋を
建て替え国分寺崖線下の湧水と園地を結んで回遊式庭園としたとか。

 昭和49(1974)年に都が買収して整備後、有料庭園として開園したという。同時
代に造られた武蔵野の別荘庭園中でも風致景観を最もよく残し、芸術上の価値が高いこと
などから、国の名勝に指定されている。

 東側に下がる斜面一帯を覆う、豊富な新緑の園内を時計回りに一巡する。




 広々とした芝生地、みずみずしいモミジや松、ケヤキなどの新緑、咲き残るフジの花、
伸びてきた竹林のタケノコ、池と流れ落ちる滝、木々の下に咲く草花などを眺め、30分
余りが経過した。
     



 南町二丁目交差点から北へ、JR中央線を殿ヶ谷立体陸橋下で抜けて緩やかに上がる。
国分寺本町一丁目交差点を過ぎ、早稲田実業高校の正門近くの広場に、「日本の宇宙開発
発祥の地」碑があった。

 1955年4月、東大生産技術研究所の糸川英夫教授を中心とした若い研究者により、
日本初のペンシルロケットの水平発射実験がこの地で行われ、その50周年を記念して設
置した記念碑のよう。

 記念碑の地下には、2005年に子どもたちが夢見た「50年後の宇宙ロケット」のデ
ザインや、「50年後の人々へのメッセージ」がタイムカプセルに収めて埋められている
という。


 その先さらに正門に近いところには、王貞治氏の「ホームラン756号世界新記録達成
第1号国民栄誉賞受賞記念」碑があり、王さんのサイン「力」が刻まれた黒いボールが碑
の上に乗っていた。

 上空に黒雲が広がり、殿ヶ谷庭園辺りから時折雷鳴が聞こえ、いつ降り出すか不安に駆
られる。

 第七小と第二中の北側を進み、本多公民館図書館西交差点で広い通りへ。駅への道と勘
違いして少し前後を行き来して時間を費やす。

 すぐ先の細道を南下して最初の四つ角に「電車開通 札之丘十五年 記念道路碑」と刻ま
れた大正11(1922)年11月建立の石碑が建っていた。
     


 次の十字路でひとつ東を平行する車道に回り、15時08にJR中央線国分寺駅にゴー
ルした。


 手前の西武国分寺線に乗り、駅を出た頃から雷雨となり、自宅の最寄り駅に下りたらヒ
ョウが降り、駅で20分ほど雨宿りする。

(天気 晴後曇 距離 7㎞、地図 駅からハイキング地図、歩行地 国分寺市、歩数
 15,800)
 




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