頑固爺の言いたい放題

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邪馬台国、中津・宇佐説(卑弥呼=天照大神)

2011-03-26 17:28:06 | メモ帳

 

2009年5月17日、大分県宇佐神宮で第5回全日本邪馬台国論争大会が開催され、アマチュアの研究
家数人がそれぞれ自説を披露した。その一人は鷲崎弘明で、宇佐神宮の祭神である比売(ひめ)大神
について「卑弥呼と比売大神、天照大神は同一人物だ。邪馬台国は宇佐にあった」と主張した。
「邪馬台国の位置と日本国家の起源」(鷲崎弘明著 新人物往来社 平成8年9月)によれば、鷲
崎説の概要は次の通り。
 
 『倭人伝』の「水行10日、陸行1月で邪馬台国に至る」という記述の起点は、博多湾沿岸にあっ
た伊都国または奴国であり、海路ならば10日、陸路ならば1ヵ月で大分県中津・宇佐に至る。同様
に、「水行20日で投馬国に至る」の起点も博多湾沿岸で、場所は山口県南部海岸の防府あたりに比
定する。
 
その前提は、
  1里は85-90mの短里で、1日の行程は50里(4.3-4.5m)、ひと月(30日)128-135 km。この短
里で計ると、博多湾から中津までの距離に相当する。
  魏使は自分では邪馬台国、投馬国には行っておらず、倭人にその方角を尋ねた。魏使が倭国に来
た時期は『倭人伝』の記述からして夏であり、太陽が昇る方角は真東ではなく、かなり北寄りであ
る。そのために、日本列島の位置が実際よりも65度東南方向にずれていると誤認した(下の地図)。
 
狗奴国は宮崎県・鹿児島県に比定する。また、「女王国から海を渡って東へ千余里にある倭種の
国」は四国の西北部に、「その南、女王国から四千余里にある侏儒(こびと)国」を四国西南部
の宿毛・中村に比定する。そして、「女王国から船で東南に1年かかるところにある黒歯国」に
ついては、紀伊半島から房総半島までの地域に比定する(当時の倭人の1年は現代の半年である)
㊟。
また、『倭人伝』にある倭国の位置として「会稽東冶の東」とある記述については、会稽郡の東冶
であって、それは現在の上海のやや南であるから、65度ずらした地理感覚では実際の位置にピタリ
適合する。
 
鷲崎説は古田武彦、安本美典などの説を細部まで検討し、自説を構築しており、『倭人伝』に記述
がある国々の地理的関係は矛盾なく収まる。
 
鷲崎が邪馬台国を中津・宇佐に比定する根拠は『倭人伝』だけではない。
(1)   宇佐神宮の祭神は比売大神(天照大神)だが、これは卑弥呼であり、宇佐神宮がある亀山その
     ものが卑弥呼の墓。宇佐神宮の近くにある百体神社とは、『倭人伝』にある「殉葬するもの
     百余人」の記述に対応する。
(2)   宇佐周辺にある遺跡は330箇所を超え、その内古墳と認められるものが150箇所以上ある
 
鷲崎は大和朝廷の起源が北九州であることの根拠として次のように述べる。
(1)弥生時代には北九州から瀬戸内海におよぶ銅剣・銅鉾文化圏と、近畿・中部地方を中心とする銅
     鐸二大文化圏があった。しかし、後者は3世紀の初めに突然消滅する。これは外部勢力による征
     服を意味し、その勢力とは神武東征に象徴される九州勢力である。
(2)弥生時代の墓では中国から輸入された銅鏡が九州で発見されているが、畿内では弥生時代の墓か
     ら銅鏡が出土していない。しかし、古墳時代になると、畿内でも古墳から銅鏡が発見される。銅
     鏡を墓に埋めるという習慣は九州から畿内に移動したのであって、これも九州勢力の東征を物
     る。
 
鷲崎説は多くの先人の研究結果を踏まえて構築しただけあって、これといった矛盾が見られない。
鷲崎説が発表されたのは平成8年で、その後高名な学者・研究家が名指しで鷲崎説を批判してい
ないように見受ける。古代史のプロは、アマチュアの説など眼中にないらしい。沖縄説、四国説
対する態度も同様である。結局、邪馬台国はどこにでも比定できるということだろう。
                                                  終
 
㊟鷲崎は「古田武彦説では、裸国・黒歯国を南米大陸に比定しており、当時倭人が南米まで認識していたとはあ
まりにも空想的」と批判している。


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1 コメント

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解釈が勝手すぎる (河内 康)
2018-02-01 17:05:24
日本の古代学者は、自分の仮説を述べる時に、「断定的に」話すのが非常に不思議である。
 まして、魏志倭人伝の中身を勝手に解釈して自説に有利なように曲解しようとするのは、やめるべきである。東が65度もずれているような間違いをするわけがない。それが一般的な常識である。
 無理があるところは、無理があると素直に認めれば良いかと思う。その上で、その解決を考えるのが学者ではないのか?と思う。自然科学の世界の先生に比べて、日本の古代史の学者は少し異常である。

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