頑固爺の言いたい放題

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神武天皇実在説

2012-11-28 15:52:38 | メモ帳

2012年11月25日に開催された「邪馬台国の会」において、安本美典氏が述べた神武天皇実在論説(但し、当日の講義は「神武天皇実在説」ではなく、「神武東征の年代」だった) の要約は下記の通り。

 神武天皇がまったくの架空の人物だったとすると、『日本書紀』はなぜ「神武天皇が九州からやってきた」と記述したのか。なぜ、「皇祖は大和に降臨した」と書かなかったのか。「国家を統一する力は九州から来た」とするからには、否定しがたい伝説があったからだと考える方が妥当である。

 神武東遷説を補強する事象は次の通り。

(1)     卑弥呼は天照大神であった可能性が強い。その活躍した時期を239年として、第25代の雄略天皇(活躍した年は479年)までの一代の年数の平均は9.56年。この方式に基づいて計算すると、神武天皇が活躍した時期は286-7年と推定できる。(没年を基準にすると、神武天皇の没年は292-3年)

 (2)  3世紀後半に文化の変化がおきた。

弥生時代後半に製造されたと推測できる鉄の鏃は、福岡県を中心に出土する。

 

 弥生時代~古墳時代前期に製造されたと推測できる絹製品も福岡県を中心に出土する。

古墳時代または4世紀代に製造されたと推測できる三角縁神獣鏡は、奈良県を中心に出土する。

巨大前方後円墳(全長100m以上)は、奈良県周辺に多く存在する。

したがって、3世紀後半に文化の変革が起きたと考えられ、これは神武東遷説に符合する。

注 図は当日聴講者に配布された資料から複写したもの。

 

 


卑弥呼は二人いた

2012-11-21 17:01:49 | メモ帳

『日本書紀』は神功皇后の条に、「倭の女王が魏に朝貢した」と記述しているが、邪馬台国と卑弥呼については、意識的に抹殺したと思われる。8世紀のヤマト朝廷は、邪馬台国の存在を隠したかったのではないか。最近出版された『卑弥呼はふたりいた』(関裕二 晋友会新書)の要旨は次のようである。

 ●奈良の盆地(大和)は神武東遷以前から存在した。神武天皇の条にイザナギがこの国をヤマトと名づけた、という記述がある。したがって、邪馬台国は以前からヤマトに存在し、東遷してきた天皇家は邪馬台国とは違う国の人々だったのではないか。 

●「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるゆえに、日本を以て名となす」(旧唐書) (日本国と倭国は別であり、日本国は倭国よりも東方に位置するために、日本と称した。)倭国を東遷した天皇家だとすると、日本国とは天皇家とは別に、東の方角にいた集団、ということになる。そして、「日本人」とはヤマトの先住民族ということになる。この先住民族とは、『紀』に記されているニギハヤヒの率いる集団だったのではないか。

 ●『紀』によれば、ニニギが九州を平定したとあるが、祝詞『六月の晦の大祓』にはニニギが平定したのは大倭日高見の国だとある。その日高見の国については、『紀』の景行天皇の条で、武内宿禰の東国視察の報告にあり、その場所は北関東から東北にいたる地域と特定できる。そして、その住民を蝦夷(えみし)と呼んでいる。

 ●纏向遺跡から出土する土器の大半は、東からのものだった。九州から流入したものは少ない。

 ●2世紀終盤の倭国大乱によって、北九州にいた勢力は衰退していた。一方、ヤマトには大きな勢力が生まれていた。北九州の勢力は邪馬台国の名で魏に朝貢し、その後ヤマトへ移動した。

 ●『紀』を編纂した目的は、蘇我氏から藤原氏への政権交代を正当化することであった。すなわち、ヤマト建国に大きく貢献したのは蘇我氏だったが、藤原氏はその蘇我氏の功績を抹殺した。

 ●中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足は親百済。白村江に出兵して敗戦。そのあとを継いだ天武天皇(大海人皇子)は蘇我系。そのあとを継いだ持統天皇(天智の娘)が政権奪回(親百済)。『紀』を編纂した時代の朝廷は、親百済・反新羅。親新羅の神功皇后は歴史から抹殺したかったが、あまりにも大きな存在だったので抹殺せず、時代の整合性がないトリックを施して、実在を疑わしいものに仕立てあげた。

 ●ヒミコは日巫女であり、職制である。魏使が女王の名を尋ねた時、なぜ名前を言わず、職制を伝えたのか。それは北九州の女王国が正式の日本国の王であると言った手前、正直に女王の名を言うと、ヤマトにあった正式の国ではないことがばれるからではなかったか。言い換えると、北九州の国もヤマトの国もともにシャーマンの女王を頂いていた可能性がある。

 ●『紀』仲哀天皇二年の条に、仲哀天皇と神功皇后が、越前角賀(敦賀)に笥飯宮(けひのみや)を建立したとある。その祭神は笥飯大神すなわちツヌガアラシト(天日槍=アメノヒボコ)で、新羅から来た渡来人である。新羅といっても、新羅系の加羅人だから、加羅出身ともいえる。日本と加羅(任那)の結びつきはかなり強い。神功摂政13年の条には、神功皇后の子の応神天皇が武内宿禰とともに、この笥飯宮に参詣した、とある。

 ●福岡県田川郡にある香春(かわら)神社の祭神は、辛国息長大姫命。神功皇后(息長帯姫おきながたらしひめ)と加羅のつながりを示す。

 ●宇佐神宮の祭神は、応神天皇・神功皇后・比売(ひめ)大神。『宇佐八幡御託宣集』には「辛国の城に初めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり」とあり、応神天皇が加羅から来たことを暗示している。

 ●加羅から来日した多紀理毘売(たぎりひめ)と出雲の大物主神(大国主神)の間にできた子供がカヤナルミで、神功皇后を同一人物。出雲と加羅に同盟関係があったことがわかる。もう一人の子供が事代主神(武内宿禰)で、出雲の国譲りの時に、積極的に協力する。そして、武内宿禰は蘇我氏の祖とされる。

 ●カヤナルミが出雲(ヤマト)・加羅連合国である邪馬台(ヤマト)の王だった。

 ●仲哀天皇亡きあと、その妃だった神功皇后と武内宿禰の間にできた子供が応神天皇という説もある(池澤注 それならば、兄妹相姦ということになるが)。

 ●『魏志倭人伝』には、ヒミコには弟がいて、ヒミコの神託を民衆に伝えて、政治を行ったとある。神功皇后を武内宿禰の関係を思わせる。

 ●事代主神とは、神の言葉を代弁する役割。葛城地方で一言さんと呼ばれる葛木坐一言主神社の祭神は事代主神。

 ●降臨したニニギニミコトを案内したサルタヒコも武内宿禰と同一人物。塩土老翁(住吉大神)も同一人物。

 【結論】

1.本来の邪馬台国は畿内にあり、出雲・吉備・東国の連合体。『倭人伝』に登場する北九州の邪馬台国は卑弥呼が魏使に「われわれがヤマト」と偽って伝えたもの。このとき、親魏倭王という金印をもらった。

2.『紀』に、神功皇后が北九州に攻め入り、筑紫平野の山門県の女酋を殺した、という記述がるが、その女酋とは魏使に偽って伝えたヤマタイ国の女王。

3.神功皇后はその後、卑弥呼の宗女トヨを名乗った。魏に親魏倭王の称号をもらった卑弥呼を殺したことは、魏に敵対することになるので、嘘を言わざるを得なかった。

 【池澤所感】

「神功皇后は卑弥呼だった」とは面白い説だが、『倭人伝』に出てくる卑弥呼は3世紀初めに活躍した人物。一方、通説では神功皇后が実在したとすれば、4世紀の人物。関氏はこの矛盾について触れていない。