頑固爺の言いたい放題

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聖徳太子の謎

2012-08-24 12:01:40 | メモ帳

聖徳太子(574-622年)は紙幣に使われるなど、日本史の大スターである。Wikipediaによれば「推古天皇摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた」とある。本名は厩戸皇子だが、その諡号「聖徳太子」に相応しい偉人、と理解されている。しかし、井沢元彦氏と梅原猛氏は、聖徳太子は失意のうちに死んで、怨霊になったと主張する。

井沢元彦説

32代の崇峻天皇が東漢直駒によって暗殺されたとき、厩戸皇子(聖徳太子)は19才で、帝位につく資格があった。しかし、その時、帝位を継いだのは、当時前例になかった女帝となった推古である。推古には竹田皇子という息子がいたが、まだ幼かったので、時間稼ぎに自分が天皇になった。

東漢直駒に暗殺を命じたのは誰なのかは不明だが、それが厩戸皇子だと疑われたので帝位につけなかったという推測もあるし、首謀者は推古で厩戸皇子が疑われるように仕組んだという推測もある。東漢直駒は崇峻暗殺という理由ではなく、別の名目で死刑に処せられた。ところが、竹田皇子は間もなく若死してしまった。そこで推古は天皇の座に居続け、厩戸皇子は摂政のままで49才にして死亡した(推古29年)。

井沢氏は「逆説の日本史2 古代怨霊編」(初版1998年)において、太子の死は尋常ではなかったことの証拠を二つ挙げている。

(1)殯(もがり)の期間:

≪もがり≫とは天皇や皇族の死後、埋葬するまでの間、遺骸を棺に納めておく葬儀儀礼であり、陵を築くまでの時間を稼ぐ目的もあった。≪もがり≫の期間は通常1年を超え、時には敏達・斉明のように5年を超えてこともあった。ところが『日本書紀』によれが、太子は推古29年(30年という説もある)2月5日に死亡し、その月の内に磯長陵に葬られた、とされる。しかも、その墓は母の穴穂部間人皇女のもので、太子は母と合葬されたのであり、太子のために特に陵が築造されたわけではない。

 ≪もがり≫が異常に短かった例として、安閑・崇峻・孝徳・天智がいるが、いずれも異常な死を遂げている。

安閑については、百済の歴史書に「531年に天皇・太子・皇子がともに死亡した」という記述があるが、3人同時に死ぬとは尋常な死ではありえない。通説では、この天皇とは継体であり、太子とは長男の安閑で、皇子とは宣化とされている。

崇峻は暗殺されたと『紀』に明記されている。

孝徳は中大兄皇子(後の天智天皇)によって、都を大和に遷都され、自分は難波の都に取り残された。おまけに中大兄の妹である間人皇后も大和に連れ去られた。屈辱的立場に置かれた孝徳は1年後に難波宮で憤死した。

天智は馬の遠乗りに出かけたまま行方不明になった(暗殺説もある)。

このように、≪もがり≫が短かった天皇は異常な死を遂げていることから、聖徳太子も同様と考えられる。そして、自殺を思わせる証拠もある。

(2)「聖徳」という諡号:

諡号に「徳」がついた天皇は孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳と6人いるが、みなまともな死に方をしていない。「徳」の字を諡号にいれたのは、無念の死を遂げたことにたいする慰霊であったことは間違いない。

孝徳については(1)で説明済。

称徳は女帝で、天皇家の血筋ではない愛人の弓削道鏡という仏僧を次の天皇にしようと執念を燃やしたが、果たさなかった。また、称徳は天武天皇系だが、その死後に皇位を継いだのは、天智天皇系の光仁である。暗殺説もある。

文徳は最愛の妃が産んだ第一皇子を皇位につけることができず、太政大臣の藤原良房の娘が産んだ9歳という幼少の第二皇子を皇位(清和天皇)につけざるを得なかった。しかも、32才という若さで、発病後4日にして死亡した。治療を妨害されたという説もある。

崇徳は怨霊となったことで歴史上有名な天皇である。23才の若さで譲位させられ、上皇となってから政権奪回のクーデターを起こし(保元の乱 1156年)、失敗して讃岐に流された。流刑地から写経を朝廷に送ったが、それが突き返され、呪いの書状を送り、失意のまま死んだ。

安徳は源平の戦いに敗れ、壇ノ浦で入水した子供の天皇である。

順徳は父の後鳥羽上皇とともに北条幕府に反乱し(承久の乱 1221年)、失敗して佐渡に流され死んだ。後鳥羽上皇も隠岐に流され、60才で死んだ(1239年)。死後、顕徳院という諡号が贈られたが、その後後鳥羽に変えられた(1242年)。変更の理由は、顕徳院の怨霊が現れたから。「徳」の字が鎮魂に役立たないと判断されたからで、その後「徳」の字が諡号に使われることはなくなった。

≪もがり≫と諡号の分析から判断して、聖徳太子が無念の死を遂げた人物だったことがわかる。古代の日本では、地震・台風などの天候不順、疫病、飢饉、戦争など不幸な出来事はすべて怨霊の仕業で、怨霊を鎮魂すれば、それが御霊(みたま)になって人々を守ってくれると考えた。だから、怨霊を祀ることが政治であり、政治とは「まつりごと」だった。鎮魂によって、怨霊が御霊になると、「聖」になる。「聖徳太子」の「聖徳」にはそのような意味合いがこめられているのだ。

㊟聖徳太子の前にも、懿徳と仁徳という徳が入った諡号を持つ天皇がいるが、井沢氏は100才以上も生きた天皇については、諡号は別の観点からつけられたはずだから、聖徳太子の「徳」とは意味合いが違うと主張する。

梅原猛説

 聖徳太子怨霊説を最初に唱えたのは梅原猛氏である(「隠された十字架」昭和47年)。同氏は法隆寺を研究することで、聖徳太子が怨霊であったことを立証した。

 聖徳太子が自殺かいなかはともかく、失意のうちに死んだことは間違いない。そして、聖徳自身が不幸であったばかりでなく、聖徳の子孫にまで不幸が及んだ。すなわち、聖徳太子の子である山背大兄王も帝位につく資格があったが、蘇我蝦夷は山背大兄王を退けて、蘇我の血筋の田村皇子(舒明天皇)を帝位につけ、その息子蘇我入鹿は山背大兄王を一族もろとも惨殺した(643年)。

 その入鹿と蝦夷をともに討ち果たしたのは藤原鎌足(~669年)と中大兄皇子(天智天皇)である(大化改新645年)。そして、天智の死後に鎌足の子、不比等は、『紀』(720年) に、聖徳太子を賛美し神格化することで蘇我一族を悪玉に仕立て、相対的に藤原一族を善玉に見せかけた。そして、藤原氏が仏教の擁護者であるように見せかけた。なお、不比等は『紀』が完成した720年に死んだ。

 厩戸皇子が「聖徳太子」という聖人としてあがめられるようになったのは、彼が怨霊から御霊になったからであり、その証拠は法隆寺にある。

 法隆寺は聖徳太子によって、607年(推古15年)に建立されたが、670年(鎌足の死の翌年)に火災で全焼し、それから再建を開始し、711年(和銅4年)に完成した。では、誰が何の目的で法隆寺を再建したのか。聖徳太子の血筋は絶えていたのだから、太子のゆかりの人ではなく、その当時の権力者である藤原一族によって再建されたと考えるのが妥当である。その証拠として、『法隆寺資材帳』には橘三千代(藤原不比等の妻)、元正女帝、光明皇后などの藤原不比等の周囲にいた女性たちが法隆寺に数多くの財宝を寄進した記録がある。

 また、山背大兄王殺害に加担した可能性がある孝徳天皇が巨勢徳太(実行犯)の願いにより、法隆寺に食封三百戸に与えた(647年)、という記録がある。その食封は680年(天武9年)に停止されたが、722年(養老6年)に再開され、727年(神亀4年)にまた停止されたが、再建後の738年(天平10年)にまた再開されている。

 そして、食封再開の時期は、常に藤原家に不幸な出来事があったすぐあとである。例えば、737年に藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟が次々と天然痘で死亡した。そのほか、地震や旱魃による飢饉などが相次ぎ、藤原一族が聖徳太子の祟りと受け止めたと推測される。

 さて、法隆寺そのものが聖徳太子の霊を閉じ込めようとする意図の表れである。金堂にある釈迦如来は聖徳太子の、薬師如来は聖徳の父親である用明天皇の、化身であるとして、人々は敬った。その金堂と塔の二つの建物を回廊で取り囲んであるのは、霊を外に出さないためである。そして門の真ん中に柱があるのは異様であり、霊を外に出さないためである。

 梅原氏の「聖徳太子怨霊説」は歴史学界に受け入れらたわけではない。学界の通説は、怨霊信仰が文献に現れるのは平安時代初頭であり、そもそも聖徳太子は天寿を全うして死んでおり、無実の罪で死に追いやられたのではないから、怨霊化する理由もない、である。しかし、井沢氏は大国主命を祀った出雲大社が巨大なのは、怨霊となった大国主命の鎮魂のためであるなどの根拠から、古代日本には怨霊信仰があったと主張し、学界の文献優先主義を批判している。

 ㊟ 現在の法隆寺には、講堂・鐘楼・経蔵が回廊の内側にあるが、創建当時は回廊の外側にあった。

 



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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-08-26 07:27:06
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

で、アメノタリシホコは
蘇我馬子であり
用明天皇でもあり
聖徳太子でもあります。

この4名は 実は たった一人の実在人物です。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。









で、 通りすがりンのものですが 絶対 古田史学はおかしいです。
古すぎますよ。石渡信一郎史学こそ 真の 日本古代史学です。
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