頑固爺の言いたい放題

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神功皇后は架空の人物か

2012-07-31 14:31:33 | メモ帳

神功皇后は架空の人物であると主張する学者・研究家は数多い。例えば、故井上光貞氏は「四世紀における朝鮮問題の焦点は、南朝鮮の弁韓地帯の確保であり、記紀に語られている新羅はまだ脇役だった。したがって、神功皇后の新羅征伐は史実ではない」と述べた。(日本の歴史I 中央公論社)高名な故津田左右吉氏も同じような意見だった。

 

「三王朝交替説」を唱えた故水野祐氏は、大略「仲哀天皇の王朝を応神天皇が滅ぼしたのだが、『記紀』の編纂者は天皇の系譜を万世一系のように組み立てる必要性から、仲哀と応神の間をつなぐための架空の女性が必要だった。それが神功皇后である」と主張した。

 

池澤注:「紀」には仲哀天皇の正妃の子(つまり正統な後継者)を神功皇后と応神天皇が殺したという記述があり、水野氏の主張と整合性がある。

 

安本美典氏は実在論を唱える。

もし神功皇后の新羅進出が史実に基づくものでないとすれば、神功皇后の事跡は、ほとんど架空につくられたものとなってしまう。とすれば、『古事記』『日本書紀』『風土記』の編纂者はなんの目的と必要性があって、神功皇后の物語をつくりだしたのだろうか。神功皇后の事跡を架空のものとする論者は、またしばしば『古事記』『日本書紀』は天皇の権威を高めるために述作された部分が多いと主張する。とすれば、神功皇后のような物語を作らなくても、仲哀天皇や応神天皇などが、直接朝鮮へ進出したとするほうが、はるかに天皇の権威を高めうるではないか。…やはり女性であり、皇后という特殊な立場にありながら、みずから朝鮮半島に出かけていったという史実があり、その特殊性のゆえに記憶に残りやすく、古文献の編者たちも、皇后の半島進出の事跡を書き残したと見るべきである。(「倭の五王の謎」1992年 廣済堂文庫)

 

上記の諸説を知った上で、井沢元彦氏は神功皇后架空説を唱える(「逆説の日本史 1 古代黎明編」小学館 1997年)。

大和朝廷の系譜において、「神」の名を与えられた人物は、神武・崇神・応神の三天皇と神功皇后のみで、それぞれ王朝の始祖と考えられる。「記紀」では応神は仲哀と神功の間に生まれた子であるがごとく装っているが、それは嘘。応神の本当の父親は「記紀」から抹殺された。神功には応神の母であったこと以外に、さしたる功績がなかったので、三韓征伐の主役だったという物語が創作された。

 

最後に実在説を唱える後藤幸彦氏の主張を調べてみよう。

後藤氏はその著書「神功皇后は実在した その根拠と証明」(明窓出版 2007年)において、神功皇后が実在した根拠を三つの面から説明している。

 

その一つは、「記紀」にある神功説話があまりにもお伽噺的で非現実的であるために、神功が架空の人物であるかのような印象を与えているが、その説話は実際にありうることだという点。

 

「記紀」の記述において、もっとも非現実的とされている部分は次の二か所である。

(1)「大魚の群れが船を押し上げて、進行を助けた」

 当時は海中に住む動物はすべて「さかな」と呼ばれた。大魚とはイルカのことである。イルカは好奇心が強く、船を見つけるとそのまわりに寄ってきて、並んで泳いだりする。また群れる習性があり、時には何千頭という群れをつくることもある。皇后の軍船はまさにこのイルカの大群に遭遇したのである。無数のイルカが周囲を囲み、飛び跳ねる様を見て、船が進むのを魚が助けたかのように思い込んだのである。

(2)「船を乗せた波が新羅の国の半ばまで及んだ。これは天神地衹がお助けになったのである」

「国の半ば」とは、市街地の中心までという意味であろう。たまたま津波が発生し、倭の軍船はその津波に乗って、新羅の国の中心まで進むことができた。人々は、天の神・地の神が神功の軍勢を援護したと考えたのである。

 

第二点は各地に残っている伝承である。

神功皇后にまつわる伝承伝説はおびただしい数であり、各地に存在する。それが架空のものだったとすると、それを各地に創作させ、代々伝承させたことになるが、そんなことはありえない。

(池澤注:井沢説は後藤説よりはるか以前に発表されたとはいえ、後藤説と同じような意見は井沢説以前に存在した。井沢氏はこの指摘に対して反論していない)

 

第三点は天皇の即位年と崩御年の推定である。

後藤氏は、「記紀」、「三国史記」、および「宋書」における「倭の五王」に関する記述を仔細に照合して、第10代の崇神天皇から第21代の雄略天皇までの各天皇の即位と崩年を割り出したが、神功に関係する仲哀と応神の即位年と崩御年は次のようである。

 

14代 仲哀天皇:即位352年、崩御355年 享年26才

15代 応神天皇:即位356年(神功摂政元年)、崩御410年 享年55才

 

一方、倭が半島に攻め込んだのは確実で、物証が存在するのは下記の通り。

●373年(神功摂政52年)に百済は七枝刀を献上した。

●高句麗の広開土王(好太王ともいう)の碑文によれば、391年から407年まで、何度も倭が攻め込んできて交戦したとある。

 

池澤コメント:後藤氏の研究は、四世紀後半に(すなわち応神天皇の在位中に)大和朝廷が朝鮮半島に出兵したことを立証しているが、「記紀」にある神功による三韓征伐を史実だと立証したとは言えない。「記紀」の記述によれば、神功は仲哀天皇の死後ただちに半島に攻め入ったことになる。後藤氏の研究によれば、それは355-356年のはずであるが、半島側にはその記録がない。したがって、神功皇后の三韓征伐が史実かどうかは依然として不明である。

 

 


邪馬台国近江説

2012-07-05 15:46:20 | メモ帳

 「邪馬台国近江説」後藤総一著 サンライズ出版 2010年の概要は次のようである。以下 青い字は後藤氏が一人称。

 纏向遺跡は邪馬台国ではない

纏向遺跡がヤマト王権の首都だったという通説には賛同するが、纏向遺跡が邪馬台国だったという説には賛同しかねる。同じ纏向遺跡でも、その前期(2世紀後半―3世紀後半)と後期(3世紀後半―4世紀なかば)では、墓の形が違うし、出土する土器も異なる。前期は庄内式が主流で、後期は布留式が主流である。集落の形態や規模も前期と後期では大きく異なるので、後期になって纏向の人口は急増した可能性が高い。すなわち、3世紀後半に支配者が交代したと思われる。破壊された銅鐸が大量に発見されていることも、支配者の交代と価値観の転換を意味すると言えよう。したがって、邪馬台国がヤマト王権に継承されたとは考えにくい。

 邪馬台国とヤマト王権の継続性を疑う根拠はもう一つある。それは、卑弥呼が「記紀」では王(女王)とされていないことである。もし、アマテラスが卑弥呼であるなら、卑弥呼を初代天皇にしたはずである。「紀」の神功皇后の章は「倭人伝」を引用しており、倭国女王が晋の武帝に朝貢したと述べているから、「紀」の編纂者は卑弥呼の存在を知っていたはずだ。それにもかかわらず、卑弥呼を抹殺してしまったのは、存在が知られると困るからではないか。換言すると、ヤマト王権は邪馬台国を継承したのではないことになる。

 考古学の立場

滋賀県守山市の伊勢遺跡では、平成4年以降つぎつぎと興味深い建物がみつかっている。床面積185平米という大型竪穴建物含め弥生時代後期の大型建物が13棟見つかっている。これらの建物は円周部に等間隔で配置されており、建築様式からして、これらの建物は祭殿だろうと思われる。祭殿ばかりでなく、50-60平米ある集会場のような建物もみつかっており、数百人が住んでいたと推測される。また、伊勢遺跡周辺にもいくつかの遺跡が発見されている。

 近江の地政的位置

§伊勢遺跡がある守山市周辺は交通の要衝であり、古代の物流拠点だった。琵琶湖は北陸方面、山陰方面への水路として利用された。朝鮮半島から若狭湾を経由して、ヤマトへ行く道筋でもあった。

§市の東に流れる野洲川やその他のいくつかの河川は肥沃な大地を育み、近江は日本有数の米の産地である。

§現在の守山、栗東、草津、野洲などは古代における都市圏だった。

§守山市南部は、かつて物部郷と呼ばれた。物部氏はニニギノミコトに先だって、ヤマトに天下ったニギハヤヒを祖先とする。

結論:琵琶湖周辺は日本の古代文明の発祥地である。

 伊勢と邪馬台国の関係

弥生時代前期、朝鮮半島の伊西国(現在の釜山の北西50キロにある伊西面という集落がある)からやってきた渡来人集団が琵琶湖畔に建設したのが伊勢遺跡だろう。そして、それが邪馬台国である。卑弥呼の時代の遺跡で、規模においても特殊性においても伊勢遺跡を超えるものはない。倭国大乱ののち180-190AD前後には、伊勢遺跡は周辺国を束ねる地位にあったと推測する。2世紀後半に、纏向はまだ淋しいムラにすぎなかった。

伊勢遺跡は3世紀前半に、最盛期を過ぎていたことは認める。しかし、政治の中心地が纏向に移ったのちも、琵琶湖畔の伊勢は祭祀の中心地として残ったと考える。

卑弥呼の死後、台与があとを継ぎ、その次にナガスネヒコが邪馬台国の後継者となった。そして、ナガスネヒコが神武(イワレヒコ)に敗れ、邪馬台国は滅び、ヤマト朝廷が王権を樹立したのである。ヤマト朝廷は、先住者だった卑弥呼を祖神アマテラスに祀りあげ、先住者を納得させたのではないか。ニギハヤヒがナガスネヒコを裏切ったのは、彼も神武(イワレヒコ)も渡来人だったからであろう。

 「魏志倭人伝」と伊勢遺跡の関係

魏使が朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、唐津(末蘆国)に上陸したという通説はその通りであろう。奴国、不弥国までは方角の距離もきちんと記されているが、そのあとは曖昧になる。「南、投馬国に至るのに水行二十日」、「また南、女王の都するところ、水行十日、陸行一月」に関して、畿内説の通説通り、南ではなく東と考える。「水行十日」で若狭湾に至り、「陸行一月」は若狭湾から琵琶湖東南部に至る日数と解釈する。

 後藤氏は伊勢遺跡に造詣が深く、その特殊性と規模に感銘して、これこそ邪馬台国に違いないと主張する。邪馬台国と纏向遺跡の文化の相違を指摘して、纏向は邪馬台国ではないと断定している点は卓見である。ナガスネヒコが邪馬台国を継承し、その邪馬台国をイワレヒコ(神武)が打ち破ったという推測はユニークで、説得力がある。