伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【緊急特集】「おふくろさん」「愛は不死鳥」「愛の執念」・・・川内康範さん逝去

2008-04-08 | Weblog
テレビドラマ「月光仮面」の原作やアニメ「まんが日本昔ばなし」の監修、そして森進一の「おふくろさん」、故・松尾和子さん・マヒナスターズによる「誰よりも君を愛す」、故・青江三奈さんの「恍惚のブルース」など数多くの歌謡曲の作詞を手掛けた川内康範さんが昨日、88歳でお亡くなりになりました。

川内さんは脚本家・作家・政治評論家など長年にわたり多彩な分野で活動をされ、また強い信念の人でもあったがゆえに様々なエピソードを残しており、その生涯を振り返る上で触れなければならないことは膨大なあるわけですが、当ブログでは、「歌謡曲」に関する話題を扱っておりますので、ここでは「作詞家」としての側面にスポットを当て、その人となりを偲びたいと思います。

<ムード歌謡の原点「誰よりも君を愛す」で一躍人気作詞家に>
1941年に東宝に入社して以来、それまでは作家・脚本家としての活動が主だった川内さんが歌謡曲の作詞家として一躍注目を浴びるようになったのは、やはり松尾和子、和田弘とマヒナスターズによる第2回レコード大賞受賞曲「誰よりも君を愛す」であろうと思います。

この曲は元々1960年に発刊された川内さん原作の小説を題材として製作された歌で、その経緯からその小説を著した川内さんが自ら同曲の歌詞を手掛けることとなったようですが、「人間の情愛」をストレートに描いたその作風は一躍日本の歌謡界に衝撃を与えました。その後、1970年代までいわゆる「ムード歌謡」と言われる大人の恋愛を題材とした歌が数多く発表され、そして名作も多く誕生しましたが、その路線の礎を築いたのはこの「誰よりも君を愛す」であったといっても過言ではないでしょう。 この曲を作曲したのは低音の魅力、フランク永井を世に送り出した大作曲家・吉田正さん。吉田さんの悲壮感あるメロディーラインに情熱的な川内さんの詞が溶け込むことでこの曲はリアリティーを持たせ、それゆえにこれほどの反響を得たといえるでしょう。

「誰よりも」の大ヒットを背景として川内さんは作詞家としてのキャリアも着実に積んでいくこととなります。同じく1960年には松尾和子さんソロによる「夜がわるい」(曲自体は結構ヒットしたそうですが、歌詞が当時の歌謡曲としては過激であったために、テレビ・ラジオの放送倫理基準にひっかかり放送自粛を余儀なくされたというエピソードが残っているそうです)、1966年には城卓矢さんを一躍スターダムに伸し上げた「骨まで愛して」、1967年には長らくスランプの状態にあった水原弘さんが「奇蹟のカムバック」を果たした名作「君こそわが命」、1970年には布施明さんの代表作の一つに数えられる「愛は不死鳥」など、現在でも日本歌謡史を振り返る上で欠かすことの出来ない名作を次々と世に送り出していきます。

この中で、川内さんは自身の作詞家人生を語る上で欠かすことの出来ない、2人の新人歌手と出会います。一人は故・青江三奈さん、もう一人は森進一。1966年、ビクターが社運を賭けて「ため息路線」として送り出した2人の大型新人でした。

<川内康範と青江三奈-最後まで切れる事のなかった深い絆>
青江さんについては、銀座のあるクラブを訪れた際、そこの専属歌手として彼女が歌っている姿を見て、そのそれまでの女性歌手にはないハスキーボイスに衝撃を受けた川内さんがスカウト。当時「週刊現代」で受け持っていた連載小説「恍惚」に登場するヒロインの歌手の名前である「青江三奈」を芸名として授け、デビュー作も自ら進んでプロデュースするなど、彼女のプロ歌手デビューに多大な貢献をしました。デビュー作である「恍惚のブルース」は約80万枚の大ヒット、続く1968年には同じく川内さん作詞の「伊勢佐木町ブルース」がミリオンセラーを記録し、一躍青江さんはスター歌手の仲間入りを果たしたました。

その後は川内さんが詞を提供する機会は少なかったようですが、青江さんは2000年に亡くなるまで終生、川内さんとは「師匠と弟子」に近い関係で接していたといいます。青江さんが亡くなる3年前に久々に「恋命」という歌を提供した際、そのレコーディング中に青江さんが珍しく号泣してしまい、何度もレコーディングをしなおすという一幕があったそうですが、青江さんが亡くなった後の某新聞紙への追悼寄稿で、川内さんは、その時に流した涙の真意はわからないとしながらも、「恋愛にも一途な子だったので、ひょっとするとその時も「本当の恋」を探し続けていたのかもしれない」と実の娘の苦しい胸のうちを察するかのような言葉を述べておられます。師匠・弟子、もしくは親と子にも似た深い絆が川内さんと青江さんの間にあった、それを如実に表わしたエピソードだと思います。

<川内康範と森進一①-「森進一の後見人」として奔走>
青江さんと並び、もう一人、川内さんの作詞家人生を語る上で欠かせない歌手が森進一。森進一と川内さんとの出会いはデビュー当初ではなく、デビュー3年目に出した「花と蝶」製作時に歌手と作詞家という立場で対面したのが最初だったそうです。

複雑な家庭環境に育ち、歌手デビューするまで、数十の職業を転々としながら親や幼い弟や妹に仕送りをし続けていたという森の境遇が、やはり同じく、少年時代に数十の職業を転々として様々な苦労を味わった自身の境遇と相通ずるものを川内さんは感じ、二人は意気投合、家族ぐるみの付き合いを始めるようになりました。

その後も、川内さんは「銀座の女」(1970年)、「命あたえて」(1981年)など自ら作詞を手掛けた作品を森に提供する傍ら、彼の芸能生活を脅かしかねない様々なスキャンダルや事件にも真っ先に後見人的な立場として事の収拾に当たるなど、森の芸能活動を全面的にバックアップしました。1973年に森の実母が自殺した際には葬儀を取り仕切り、ショックの色を隠しきれない森を励まし、1979年のナベプロ独立騒動の際には、ナベプロの圧力によって各放送局が森を自身の局の歌謡番組に起用することを自粛するムードが漂う中、川内が直接交渉に当りNHKや一部民放の歌番組への出演を取り付けたりするなど、事あることに川内さんはその火消し役、仲裁役を買って出ていました。

こうした経緯から、世間では長らく川内さんと森との関係は良好なものと見られていた最中の2007年、突如としていわゆる「おふくろさん」騒動が勃発、知られざる両者の決して埋めることの出来ない亀裂が明るみに出たのです。

<川内康範と森進一②-「おふくろさん」歌詞改変騒動>
2007年2月、森、そして川内さんにとっても代表作ともいえる名曲「おふくろさん」に関連して、ある騒動が持ち上がります。

川内さんは前年の紅白歌合戦で森が「おふくろさん」を歌唱した際、オリジナルにはない台詞が自身に許可を得ずに追加されている点を著作権侵害に当ると指摘し、森サイドに話し合いの場を設けるように要求。これに対し森サイドも一度はこれに応諾する態度を見せますが、話し合いを行う直前になって森は体調不良を理由にこれをキャンセル。この態度を川内さんは批判し、「もう森には(「おふくろさん」を)歌ってもらいたくない」と激怒。これに対し、森は「あの歌は「森進一のおふくろさん」として親しまれている」などとしてこの川内さんの批判に耳を貸そうとせず、これに対し川内さんが森に対して「人間失格」と放言、絶縁を宣言したというのが、この騒動の一連の流れです。

元々、このオリジナルの前に付けられた台詞(バース)は、森がまだナベプロの所属であった1978年に、当時彼のコンサートの演出を手掛けていた保富康午さんが補詞をつけることを提案し、保富の書いた詞に原曲作曲者で森の「兄貴分」的な存在でもあった猪俣公章さんが曲をつけたものであったそうですが、この際、川内さんには補詞を付ける旨の連絡は何ら入ってこず、また、当時はまだテレビでは、台詞入りではない、オリジナルバージョンのものを大抵の場合は歌っていたことから、事実上看過された状態が10数年近く続いていました。

この「自身に無断で歌詞が付け加えられている」という事実を川内さんが最初に知ったのは、1994~1995年頃のことでした。この頃から森はオリジナルバージョンよりも台詞を追加したバージョンで「おふくろさん」をテレビで歌うことが多くなり(おそらくこの時期に前後して作曲者の猪俣公章さんが死去したこともあって半ば追悼の意味合いから、この台詞付のバージョンを頻繁に歌うようになったのだろうと思います)、たまたまテレビでこの台詞付バージョンで歌っている姿を川内さんが見かけ、そのときにこの「歌詞改変」の事実を初めて知ることとなったのだそうです。
その後、事あるたびに、森と会うときには台詞付バージョンの歌唱を控えるよう忠言をしてきたそうですが、森からの回答はあまり快いものではなく、そのたびに川内さんの不満は蓄積され、ついに堪忍袋の尾が切れてしまったのが、この2007年の一連の騒動につながったのだろうと思います。

と、ここまで森に対していかにも批判的な論調で文を続けてきましたが、正直なところ、私の考えとしては、この騒動は両者共に「負」を認めざるを得ない部分があったと思います。
まずは森サイドについては、配慮に欠けた行動が目立っていた点は問題であろうと思います。確かにこの頃、肝炎や欝症を患っていたのも事実ではあろうと思いますが、仮にそのような病体を押しても尚交渉に真摯に当っていたとすれば、川内さんの心証も絶対に違っていたと思いますし、相手は、昨日今日会った人ではない、何十年も自身の芸能活動を影で支えた「恩人」といってもよい人物だけにより真摯に対応する心構は持ち合わせておくべきだったかと・・・。

他方、川内さんの言い分に対しても多少腑に落ちない部分があります。
このバースの部分をつけること自体は元々はコンサートでの演出の一貫としてなされたもので、そのコンサートは当時の所属事務所である渡辺プロの主導により開かれていたものであるという事実を十分考慮に入れた上で問題提起をされるべきだったと私は考えます。この事実を頭に置けば、まず真っ先に批判を向けるべきは、森本人ではなく、渡辺プロの姿勢ではないか、と感じたりするのですが・・・。ある掲示板では当時、「渡辺プロを敵に回すのは面倒なので、真っ先に森だけをつるし上げただけではないのか?」と川内さんの言動を批判する論調の書き込みをいくつか見た記憶がありますが、上記のこのバースを付ける経緯を考えると、そう理解されても仕方のないもの言いではあったかな・・・と今思うと感じますね。半ば、メディアに対して高圧的な発言・態度を採ったこともあまり私の目には心証のいいものではなかったですし・・・(ただ、この点はこの騒動とは別にして、川内さんが今のメディアや放送の方向性自体に批判的だったからこそのものだったと見れば多少納得は行くんですけども・・・)。

いずれにせよ、この騒動のために、名曲中の名曲である「おふくろさん」が世に葬り去られるのはとても惜しいことです。私にとっては、「森進一のあの魂を揺さ振られる歌声によって、初めて猪俣公章の朴訥としたメロディーが生き、そして川内康範の母性愛溢れる歌詞が生きてくる」と考えている次第です。この「おふくろさん」には森進一、猪俣さん、川内さん、三者三様の自らの母親との様々な想い出、そして母親に対する尊敬と感謝の念が詰め込まれていると言われています。それゆえに強いメッセージ性を帯び、この三者の一つがかけても成立しえない歌だと私は思うのです。

川内さんは残念ながらお亡くなりになってしまいましたが、一日も早く、円満な形でこの曲が「森進一の歌声」によってテレビを通じて聞ける日が来ることを祈るばかりです。この歌を他の歌手が歌っても説得力は欠けますし、川内さんのあの歌詞の世界も表現することはできない。これは断言できます。他の歌手が我が物顔で歌う「おふくろさん」は見たくもありません(少々キツイ物言いかもしれませんが・・・)。

「おふくろさん」騒動を文末に書いて、この記事を終えるのはなんとも淋しい気もしますが、輝かしき「昭和」の時代を駆け抜けた大物、時代の証言者がまた一 人天に召されたことは淋しいかぎりです。政治不況、経済後退、そして「恩義」「義理」が死語となり非常にドライな人間関係しか存在しない今の時世を愁いな がらきっと川内さんは旅立たれたことと思います。彼ほどに強い信念を貫き続けることは難しいのかもしれませんが、彼の与え続けてきた様々な媒体を通じての メッセージは、これからも日本人の「教訓」として活かされるべきと思います。川内さんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

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<「夜のヒットスタジオ」で歌われた川内康範作品>
・1968/05/05 花と蝶/森 進一(曲:彩木雅夫)-1968/11/11放送
・1968/09/21 慟哭のブルース/水原 弘(曲:曽根幸明)-1968/11/25放送
・1969/05/05 気まぐれブルース/青江三奈(曲:曽根幸明)-1969/05/12放送
・1969/10/05 花と涙/森 進一(曲:宮川 泰)-1969/11/03放送
・1969/12/05 逢わずに愛して/内山田洋とクールファイブ(曲:彩木雅夫)-1970/01/05放送 
・1970/04/20 愛は不死鳥/布施 明(曲:平尾昌晃)-1970/04/27放送
・1970/09/05 嘘でもいいから/奥村チヨ(曲:筒美京平)-1970/10/05放送
・1970/09/15 銀座の女/森 進一(曲:曽根幸明)-1970/11/30放送
・1971/05/05 おふくろさん/森 進一(曲:猪俣公章)-1971/06/07放送
・1974/05/25 愛ひとすじ/八代亜紀(曲:北原じゅん)-1974/05/27放送
・1974/09/25 愛の執念/八代亜紀(曲:北原じゅん)-1974/10/14放送 
・1981/09/21 命あたえて/森 進一(曲:猪俣公章)-1981/11/16放送
 

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7 コメント

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スパイダースに断られた川内康範 (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-12 02:23:07
つまらぬ話ですみませんが。
ワタクシGS大好き人間なものでありますので「おふくろさん」とは関係ない話になりますが、ご存知かもしれませんが川内康範が1968年に是非スパイダースに歌って欲しいと作詞した歌をフィリップスに持ち込んだ曲が「愛を探して」という歌でしたが、自分たちには合わない詩だとの理由でケンモホロロにアッサリと断られました。(怖いもの知らずのスパイダースだったのか?、川内氏にまだ威厳がなかったのか?)
川内氏の立場もあることですしレコード会社はその歌をザ・カーナビーツにレコーディングさせてシングルを発売しましたが、まったく売れず大失敗作に終わりました。因みに作曲は鈴木邦彦。
B面も川内氏が詩を担当、「ゴーゴーストップ」というとっても軽いノリの詩でありました。多才であります。
Unknown (resistnce-k)
2008-04-12 04:18:42
一般に川内さんの作詞家としてのカラーは「男女の情愛」とかそういったとてつもなく人間臭い世界を描いているものと理解されているきらいがありますけど、実際には主に1960年代~1970年代の初頭ぐらいまでは、それだけではなく、青春歌謡とかそういった明るいムードの曲調の詞もいくつか書いているんですよね。

さっきご指摘を頂いた森田健作の「あのとき君は天使だった」も川内さんの作詞なんですよね。あの「青春の巨匠」が「ムード歌謡」の第一人者である川内さんの作品を歌っているとは・・・とちょっと意外な感じもしますが(もっともこの頃はまだ例の「おれは男だ!」というドラマが始る前ですから、まだそういうイメージはそこまではついていなかったのでしょうが)。

しかしあの厳格に見える川内さんの詞を蹴ってしまうというスパイダースもかなり勇気あることをしましたね(笑)・・・。
ただ、その断りの理由が論理的で納得のゆくものであるとするなら話はまた変わってきますけど(スパイダースはメンバーがメンバーだっただけに(汗)当時のGSバンドの中でもきわめて音楽やエンターテイメントというものに対する考え方がしっかりしていましたからね・・・。)。川内さんが徹底的に嫌ったのは「不合理」なこと、「道理に適わない」ことでしたからね。それ相応のしっかりした論理が相手方にあれば、何にも文句も出すこともなく、逆に相手の意見を尊重していたんだろうと思います。

ところで、GSの話が出てきましたので、ここでついで言及しますが、以前もどこかの記事のコメへの返答で書いたと思いますが、当時の出演者リストをざっと見てみると、初期のヒットスタジオでは、グループサウンズのバンドというのはほとんど出演していないんですよね。実は。

一番最初に出たGSバンドはザ・タイガースで、放送開始から1年を経ようとしていた69年10月20日、当時ヒット中の「スマイル・フォー・ミー」をひっさげての登場でした(この出演時のOPメドレー時のスチール写真は、88年に出された「芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE」という本の中にも掲載されています。ジュリーや一徳さんが青年というより、まだ「少年」のような風貌で実に若い・・・。そのときのいでたちはメンバー全員白いスーツ姿で統一しており、次にバトンを渡す歌手の歌を歌っていたのはやはりリードボーカルのジュリーだったようです)。
彼らの場合は渡辺プロの中でも一押しの存在でしたので、それで他のバンドよりも一足早く同プロダクションとコネクションのあったこの番組にも初出演することが出来たと見るのが自然でしょうね。

これから少し経ってから69年11月に入って、ブルコメとワイルドワンズが登場、そして年が明けて70年最初の放送でようやくスパイダースが登場したんですよね(ところがスパイダースはその後ほどなくメンバーそれぞれソロ活動が多忙となってしまい、事実上休業状態になってしまい、ヒットスタジオにスパイダースが登場したのはこの70年最初の放送の1回のみらしいです)。

「最初の1年間、GSバンドの出演が皆無だった」というのはこのブログを始める前に出演者履歴を調べていく中で判明したことで、最初これに気づいた時は意外でもありました。

ただ、1960年代~1970年代前半ごろまでは夜10時という時間帯は今の放送界での概念以上に「遅い」という理解が一般的で、どちらかといえば、GSの主たるファン層であるティーンエイジたちよりも上、それこそ30代・40代・50代当りの人々をターゲットにした番組がほとんどであったようなので(ちょっと時代は下りますけど、時代劇の「必殺」シリーズも最初期の頃は相当残酷な場面の連続で、のちに狂言であったことが判明しましたけど、これを見て殺人を思いついたとかいう事件が起きたぐらいで、とても子供も安心して見ていられるような番組じゃなかったみたいですからね・・・)、どうしてもこういう「大人向き」の出演者の編成を組まざるを得なかったのかも知れません(現にGSバンドがほとんど出ない代わりに、ムード歌謡のコーラスグループはかなり多く出演していますからねぇ・・・)。
自称?GS&60年代研究家(笑)による「夜ヒット」一考察 ② (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-13 10:35:53
最初の一年間はGSが出演できなかった理由のワタクシなりの考えは先のコメントに書かせてもらいました。結局はまだまだ人気絶頂だったタイガースやジュリーは夜の10時でも出演しますし、その後すぐに迎える70年代初期アイドル全盛時代には頻繁に若いアイドルも出演させます。これも視聴率や時代の流れの影響もあるでしょうが・・

毎週のように観ていた「夜ヒット」でしたので69年のタイガースが初出演した時もよく憶えております。やっと出てきたかぁ~という気持でした。真っ白のスーツ姿で緊張した様子のタイガースでした。
それからresistnce-kさんのコメントで一つ気になる事があるのですが。これもワタクシの記憶違いかもしれませんので、もし間違っていたらお許し下さい。
スパイダースの出演の事なのですが、ワタクシの記憶ではタイガースが出演した回にスパイダースも共演した時があったと思うのですが・・・。もしかしたらマチャアキ単独だったかゲストだったかもしれません。
その時に、後に井上尭之バンドに在籍することになるギタリストの速水清司がいたGS「チューリップス」(レコードは未発売)もゲスト出演していました。「夜ヒット」だったと思うのですが。チューリップスとジュリーとマチャアキが一緒に「ウエスタン・カーニバル」の話をしていた事、記憶しています。
「夜ヒット」だと思うのですがねぇ・・う~ん、もしかしたら他の歌番組かもしれませんが・・

さて、話は変わりますが「夜ヒット」について個人的な意見と感想をもう一つ。
ご存知の事とは思いますが、当初は番組内であの有名な歌謡ドラマのコーナーがありました。これも最初は楽しみの一つだったのですが、けっこうな人気コーナーになってきた為か?、それとも何を勘違いし出したのか?、途中あたりからこのコーナーが少し変わり始めました。高校生だったからなのかワタクシはある時期「夜ヒット」が嫌いになりかけました。
それまでの歌謡ドラマのコーナーは時間の関係からか手短でテンポよく出演歌手も顔を出す、どこか芸能人かくし芸大会にも似た楽しい一時のコーナーだったのですが、段々とコーナーの時間を長く取りだして、演技をするのもレギュラー陣やダン池田たちだけみたいなノリになっていき、何かつまらない三文芝居でも観ているような錯覚に陥ってきたのです。
このコーナーの長い時間のため、出演歌手の人数も少なくなっていったように思いました。まるでクダラないバラエティー番組を観ているような気になり、面白くなくなっていた時期がありました。歌番組というよりバラエティの要素が強くなってきた感じです。
好き嫌いは、人それぞれですから何とも言えませんがワタクシは面白くなかったですねぇ。結局はこの歌謡ドラマも無くなりましたが・・
決して「夜ヒット」の悪口ではありませんよ、誤解の無いように・・・
まぁ、ちょっとした想い出というか、当時感じた事を書かせてもらいました。 それでは、また!
Unknown (resistnce-k)
2008-04-13 15:38:53
スパイダースの名前が時のラテ欄のヒットスタジオの項目で出たのは1970年1月5日のみで、あとは一切出てこなかったみたいなので(スパイダースぐらいの格のバンドであれば、普通に名前も上位に記載されていてもおかしくはないですからね・・・)、ひょっとすると、仮にヒットスタジオであったとしても、その「ウェスタン・カーニバル」の件のときは、応援ゲストとしてマチャアキ一人で「紅白歌のベストテン」が終わってすぐに番組に数分顔を出した、って感じだったんじゃないでしょうかね・・・。

この時にタイガース、そして仮にスパイダース自体も出ていたとすれば、かれらが何を歌っていたのか、またその時のほかのゲストにどんな歌手がいたか、っていう点が分かると、大抵の推測はつくんですけどね・・・。その点も分かる範囲で構いませんのでよろしければまた追加情報を送ってください。宜しくお願いします。

「歌謡ドラマ」のコーナーが番組の看板コーナーという触れ込みになっていったのは、多分、三波伸介が司会となった辺りからだったのではないかと思います。

本職は「芸人」である三波さんが歌番組であるこの番組の司会に抜擢された理由というのは、「バンザイ事件」による、一種のクーデターのごときマエタケさんの司会解任劇により番組付いてしまったダーティーなイメージを払拭するには、豪快かつ明瞭なイメージのある彼の存在感がどうしても欲しかった、というのが真意だったでしょうし、既にこの頃には三波さんもレギュラーの司会番組をいくつも抱えている、タレント・司会者としても一流の格にあった人なわけですから、ある程度三波さんにも配慮して彼が司会をやりやすい環境を作る必要があったんだろうか・・・とは思います。そんなこんなで彼の得意分野であるコントの部分が以前よりまして番組内で重要視されるような構成がとられたんじゃないだろうかという察知は付くんですけどね(特に最初の頃は、朝丘雪路も司会に抜擢され、主に歌手とのトーク・細部進行は芳村真理と朝丘の二人が行い、その中にちょこちょこ三波さんが顔を出して茶化しを入れて立ち去る、って形で司会進行がなされていたらしいです。塚田さんも後年の著書でも三波さんに司会を依頼する際、「主にコメディリリーフとの役割を担って欲しいとお願いした」といったことを明言なさっています。)

この三波さん抜擢によって、「バンザイ事件」による悪い影響からは早く立ち直ることができたものの、今度はその前、マエタケ時代から見ていた人を中心に「歌番組なのに歌が聞こえてこないじゃないか」とこの「歌謡ドラマ」コーナーを中心に動いているような構成の手法に対する批判が増えるようになってきました。また、三波さんはいわばその道のプロなので、コントの役柄のままでその場の空気によってアドリブを多用して場を盛り上げようとなさる傾向が強く、どうしても予定したコーナーの持ち時間をオーバーしてしまうこともしばしばでそのしわ寄せが各歌手が歌う時間に来ていたのも確かだろうと思います(まだこの頃はフルコーラスの原則というのは徹底されていなかったみたいですからね・・・)。
あくまでも「歌謡」バラエティーという番組路線を謳っている以上は、「歌謡番組」のテイストをあくまでも本流に据えた上でバラエティー的な色彩を組み合わせる手法を採るべきところ、当時の構成・制作方針を見る限り、その関係が逆転していたとも解すことができるので、こういう批判が出てもやはり仕方はなかったとは思います。

1975年に入ってからは、これらの声に対応するために、歌謡ドラマの規模は徐々に縮小され、代わって、黒人の人気R&B女性ボーカルグループであったスリーディグリーズや、戦前派の大物である淡谷のり子さん、「おそうじオバちゃん」というかなり過激な歌で世に物議をかもした憂歌団など異色の歌手を率先して出すようになったり、この年の秋頃からは
歌手名に加え、作詞者・作曲者のクレジットも曲名テロップで表示される形が採られるなど、その後の完全な「総合音楽番組」への方針転換につながる動きが番組内でも随所に見られるようになっていきました。

この一連の「総合音楽番組」への転換の機運を築いたの、後に業界内で一目置かれる存在として恐れられる疋田拓氏(のちにとんねるずや爆風スランプからも他の番組とかでもその「怖い人」ぶりがよくネタにされていた方です)ら高い演出能力を持っていた当時若手のスタッフたちであったことはいわずもがなでしょう。当時のフジテレビの首脳陣たちも、色々と物議を醸すような話題が多いにせよ、数少ない「数字が稼げる番組」としてヒットスタジオの存在を重要視していたのも確かで、その番組の好調ぶりを堅持させつつ、路線転換までスムーズに事を運んでいけるそういう人材として疋田さんらが当時まだ30代前半という年齢ながらディレクター・プロデューサーなど番組の主要ブレーンとして格上げさせた、と見ることもできるかもしれません。

因みに、1976年の春改編を以て、「お笑い」の要として起用された三波さんはわずか2年でこの番組については「お役御免」となってしまいますが、既に大物ゆえに別の新番組を夜ヒットのスタッフは用意。その番組こそがあの「スターどっきり(秘)報告」だった、という話も結構有名ですよね。この「どっきり」のほうでは、(当時これも見ていた人の話ではありますが)宮尾すすむやダン池田さん、立川清登さんなど並み居るくせものレポーター陣(笑)を「キャップ」としての威厳をちら付かせつつ巧く料理して司会を行っていたようで、彼の豪快なキャラクターにもうまくはまっていたようです。

仮に歌謡バラエティーという体裁で番組を続けたとしても番組の寿命は早くに尽きていた可能性は(その後の音楽界の劇的な環境変化を考慮する限りでは)きわめて高かったと私は思います。少なくともにテレビに消極的姿勢だった中島みゆきや吉田拓郎は「歌謡ドラマ」を続けていたとすればヒットスタジオに顔を出すことはまずなかっただろうし・・・(歌謡ドラマが好きだった人もおられるので、そういう方々には失礼な物言いかもしれませんが・・・汗)。

そういう意味でも、さっきの「アルバム収録曲を披露させる」という判断といい、「純粋な音楽番組」への路線転換の判断といい、音楽業界や放送界に流れる流行に関する「空気」というものを読み取るのがつくつくこの番組は巧かったと感じますし、その積み重ねが「長寿化」へとつながったという風に見ることもできるでしょうね。
「スケジュール表」 (昭和の名盤!アナログ日記)
2008-04-13 22:12:15
凄い知識と分析ですね~、さすが「夜ヒット」を専門とするブログをされている方だけあり、完璧なまでの豊富な知識をお持ちのようであります。感心させられました。
これはワタクシも、いい加減な記憶だけでコメントするのは失礼に当たると思いましたので当時の収集した資料や写真を物置から引っ張り出してきて、少しでもresistnce-kさんのお役に立てればと意気に感じている次第であります。
先ほどのスパイダースの件、当時画面をカメラに収めているので写真を探そうと思い、数十年ぶりに探してみたのですが「夜ヒット」だけでなく他の歌番組も撮っているため莫大な量と殆どメモせずに乱雑な収納の仕方をしているためにナカナカ見つからず、今回は諦めてしまいました。それでも数時間かかってなんです、ご了承下さい。
懐かしい当時のものなどを見ながらだったので、余計に時間がかかったようです。ゴメンナサイ。
怪しい記憶ですのでresistnce-kさんのブログ記事を見ていると「夜ヒット」ではなかったのかもしれません。ただ、ジュリーの衣装は「スマイル・フォー・ミー」の時の白いスーツだったことは間違いありません。この頃のタイガースはこの白いスーツで他の歌番組にも多数出演していたので、何とも言えない気がしてきました・・・でも「夜ヒット」だったと思うんですけどねぇ。写真さえ見つけ出せば完璧なんですが。
探しながら他の写真も多数出てきたので「夜ヒット」の分と判るもので日付を記入していた物の中から、写真を見て出演者の名前を記事のコメント欄に後で記入しておきますね。
重複しているかもしれませんが、もしお役に立てればと思います。

それと写真とは別に、タイガース、スパイダースの当時のスケジュール表を照らし合わせてみようと思い、探したのですがスパイダースのスケジュール表だけがどこにあるか見当たりませんでした。
タイガースを含む、渡辺プロの一部タレントの「夜ヒット」に出演した月日を記しておきます。お役に立てるかどうか判りませんが、参考にしていただければ幸いです。resistnce-kさんの記録と重複する部分もありますがご了承下さい。
演奏曲目は充分ご承知のことと思いますので、お手数ですがお調べ下さい。

1969年
3/31 ザ・ピーナッツ
7/14 ザ・ドリフターズ
9/15 トワ・エ・モワ
11/24 トワ・エ・モワ
12/15 ザ・タイガース
12/29 トワ・エ・モワ

1970年
1/12 ザ・タイガース
1/26 トワ・エ・モワ
2/2 クレイジーキャッツ
2/23 トワ・エ・モワ
3/2 ザ・タイガース
3/23 トワ・エ・モワ
3/30 ザ・ドリフターズ
4/6 トワ・エ・モワ
4/13 ザ・ワイルドワンズ
5/11 ルートNo.1
5/18 ザ・タイガース、トワ・エ・モワ
9/21 ザ・タイガース
10/26 ザ・タイガース
11/16 トワ・エ・モワ
11/30 ザ・タイガース
12/7 ザ・ワイルドワンズ
12/14 トワ・エ・モワ
12/21 ザ・タイガース

1971年
1/4 トワ・エ・モワ
1/11 ザ・ドリフターズ
2/8 トワ・エ・モワ   ・・・このへんで終わります。

フジテレビと渡辺プロダクションの関係 (resistnce-k)
2008-04-14 00:25:37
時間をかけて資料を探して頂き、本当に申し訳ない限りです。

上記に挙げて頂いたリストに加えて、これ以外にも伊東ゆかり・中尾ミエ・園まり・梓みちよ・森進一・布施明・いしだあゆみといった当代のナベプロのスター歌手たちも当時の常連組として結構な頻度で顔を出していたわけですから、いかに当時のヒットスタジオにおいて(というよりも他の歌番組全般を通じてみても)渡辺プロの影響力・権威性が凄かったかは一目瞭然ですね・・・。

元々フジテレビは開局2ヶ月後から渡辺プロ主導で生放送のジャズ音楽番組として立ち上げた「ザ・ヒットパレード」を初めとして、「紅白」「レコ大」と並ぶ年末年始の大番組に成長した「かくし芸大会」、このほかにも1960年代の前半には中尾・伊東・園をメインキャストに据えた「森永スパークショー」、そしてクレイジーキャッツ主演・青島幸男作の昼の5分番組「おとなの漫画」など、古くから渡辺プロとのかかわりが深い局で、そんな縁からヒットスタジオにも初期から率先して同プロダクションは歌手を供給してくれていましたよね・・・(いきなり初回放送で布施明、2回目には森進一がそれぞれ初出演していますからねぇ・・・)。最初の頃はそれこそほんの3ヶ月程度のつなぎ、と局内でも半ば諦めムードで始まった番組で、しかも放送時間も夜遅い10時でかつ生で歌を歌わなければならない、ということもあり、モノクロの頃はコンディションやスケジュールの面から他の事務所やレコード会社はこの番組の出演を控える傾向がかなり強かったらしいので、この当時芸能界最大勢力のナベプロの助け舟には、当時の制作陣は相当助けられたんじゃないでしょうかね・・・。仮にこのパイプがなかったとしたら、、、と考えるとかなり恐ろしい気もしますが(多分、地味に浮上の機会もなく当初予定通りに3ヶ月で終わり、ってことにもなってたかもしれないですね)・・。
おふくろさん  (もののはじめのiina)
2021-08-07 09:49:06
ご存知だとは思いますが、川内康範氏の死後に「今後は川内康範のオリジナル作品のみ歌唱すること」を条件として歌えることになったそうです。

いい関係であった川内康範―森進一が、生前に和解できていないのは残念ですが、「おふくろさん」を聴けるのは何よりでした。

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