Wissenschaft


Wissenscaftにこだわられたら、アフリカは立つ瀬がないです。

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イタリア


 ここを参照してください。

 ヤマザキマリ氏が

「イタリア人は、古代ローマ帝国の1000年の歴史、その後のベネチア共和国の1000年の歴史を持っています。この二つの1000年の歴史の中で、人間がやれること、やるべきことはすべてやってきたという感覚をたいていの人々は持っています。」

って言ってますね。至言です。

 加えてイタリア人は神の代理人と称するローマ法王の世俗にまで及ぶ支配、それから銀行、複式簿記の発明による経済支配も経験しているし、あと航海術とかルネサンスとかボナパルト家(元来トスカナの家系らしい)まで考えたら、世界はイタリアが作ったんじゃないの?という気がしてきますね。

[追記] ダンテと俗語論を忘れてました。(汗)

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きちゃない


 つまり標準日本語的、標準正書法的には「汚い」ということですが・・・



 どこそこの国の政府が汚職で倒れた。きちゃない。

 どこそこの国でテロがあった。きちゃない。
 (こういうときひとは、ウェストファリア以後世界的に、国単位でものごとをとらえてしまう(これは別に日本に限ったことではないですが)。アルジェリアのはずれの方でテロが起こったら、日本の新聞ではアルジェリア全体がべちゃっと「テロリストのいる国」として塗りつぶされた地図が提示される。これではアルジェリア全土にテロリストがうようよいるように思えてしまう。アルジェリア全体が、きちゃないものにされてしまう)
 
 どこそこの国の中で内戦をやっている。きちゃない。

 どこそこの国とどこそこの国で戦争をやっている。きちゃない。

 今の日本でいちばん困ることは、政治的に問題のあるところ、紛争のあるところ、テロのあるところに「関与しなければいけない」と主張する側も、「関与するのは正しくない」と主張する側も、どちらも問題の地を、ひどい場合にはそこに生きる人々を基本的に、暗に「きちゃない」とみなし続けているらしいということです。


 ・・・申し訳ないですが、日本経済新聞さんに書いてある文化関係以外の記事というのは、なんかそういう印象を受けるものが多いように思うんですが。これは日経に限らず、日本のマスコミが共通して持っている悪弊とも思うんですが。

 きちゃないから、上から目線のことしか言えない。そういう態度しかひとに教えられない。おれの真似をしろ、なんで真似られない、という話しかできない。相手の事情に対する理解がないし、相手の人間性への共感がない。


 でもそういうのは、その「きちゃない」とみなされたひとに対して開陳すべき「日本の、わたしの信条」ではないし、そういうひとたちに対してとるべき態度でもないです。
 また21世紀の世界に飛び立つ日本育ちの、日本語育ちの若者にふさわしい「教育」にもならないんです。とくに「ゆとり教育」の犠牲者と馬鹿にされている世代、日本語ができない、メールに答えないとして簡単に人格を否定される、サバルタン世代の日本の若者には、全くふさわしくないです。



 ついでに言っておきますが、Wissenschaftにならない知は知ではなく、大学で教えたり学んだりするべきものではない、というのも、今後持つべき教育観としては不適切なところがあるんじゃないでしょうか。
 たとえば、それだと「アフリカ」は、どうにもならないです。
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心理小説


 Frantextで調べてみるといい。フランス語でーーおそらく十九世紀後半以降ーー"roman psychologique"という言葉自体には、いい共示的意味、connotationはない。十八世紀のフランス貴族、金持ちが誇った「繊細な心理」に対して、第三共和制以降の、連帯を国是とするフランス人は、へん、繊細でようござんしたねと、悪意をもっているのだ。(それでもカルフールは国外に出れば「おフランス」的な付加価値を身にまとって市場に相対するのだーーナショナル・イメージを販売戦略に利用するというのは当然のことではあるが)。

 だが、広い意味での「心理」、というより「ひとのこころ」というものは、フランス文学の中心的関心でありつづけている。バルトがピカール教授を難ずるのも、いま権力をもって強制されている読み方というのがいかにも陳腐な、人間というものを知らぬとしか言いようのない、「ひとのこころ」の読み方だーーとバルトには見えたーーからだ(Grains de la Voix)。

 文学は、生きることに寄り添ってはじめて真価を発揮する。むかしベルチエ先生がクルゼさんを揶揄って、何年も国立図書館にこもって勉強するより、二週間ばかりイタリアに遊びに行ったほうが、スタンダールはよくわかるのではないか、と書いていた。文学研究の大教授は、それだけ勉強したわけで、それだけ「生きる」ことをパスしてしまったわけで、そのことによって文学を扱うことに関してより不適ということになる。

 三島由紀夫は少年期のもっとも強烈な本は彼にとってラディゲの『ドルジェル伯』だと言っていた(『葉隠入門』)。日本文学がメインストリームの世界文学に繋がる典型例がここにある。そこーーつまり三島の少年時代の日本ということだがーーにおいて、「心理」はmodernなものであった。これはかなりユニヴァーサルな意味をもつことだと思う。アルジェリアではどうだったか。ヴェトナムではどうだったか。またドミニカ共和国ではどうだったか。それぞれメインストリーム参入の時期、様態がみな違うわけだが・・・


 フランス古典主義の密室志向ーー三単一とか言ってたらどうしてもそういうことになるーーはひととの繋がり、交わりについて考える方向性を進んだ。自然に、「ひととはなにか」についての考察を黙示する形態の思想・芸術が発達することになった・・・


 ひとが「考える」なら、「こころ」がそこにあることだけは疑いえなくなる。この「こころ」が「ひと」と同一視されるなら、これすなわちデカルトということになる、のかなと思う。
 「考えつく」ということが、ひとが自分を広げるということと等価だということに気づかなければならない。


 「フランス文学が役に立つ」というのは、こういうことが明らかになるから、のように思います。
 いま「人間」自体があやういーーAIの急速な発展がますますそれを実感させるーーのだから、なおさら。




 
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精神的高みは横方向にもある


 ゲーテはすべてのことを言った、というくらいでたくさん言葉を残している――のですが、なんとかわたしもひとつくらいは後世に言葉を残したいなあと思ってます。このブログでも何度も繰り返しているこれ、精神的高みは横方向にもある、というやつ。

 とくに日本語で思考するひとは上の方の高みを思ってうっとりするのが好きなので、これは警句として、残ってほしいです。

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日本の使命


 たぶん、わたしの思うかぎり、やるべきことというのは世界のすべての人が幸せで有意義な生をもてるようにするという方向性に沿った行動をすること、なので

 日本の、そして日本に学びにやってくる若い、これから来る世代のひとには、そのことを「教える」ーーというより「理解して」もらうようにもっていくことが、正しいことだ。

 ――アクティブ・ラーニングですか?

 かもしれない。

 日本内でも、アラブ内でも、その中だけで完結したお話、ものがたりに閉じこもることは、神――あえて神と呼ぶ、なぜなら・・・――の心にかなうことではない。

 日本は、世界にあるものがたりがひとつだけだという世界観を打破するために、ここにいるのに。

 ――その、ひとつにしか見えていないものがたりって、「経済」のものがたりのこと?

 そうかもしれない。アメリカの国のありかたと関連した、それ。
 ベンラディンのものがたり、のことも考えよ。スタンダールの作ったものがたりのことも考えよ。

 ――それって、ものがたりですか? 「詩」あるいは「うた」ではないのですか?

 かもしれない。
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よく死ぬために、よく生きること

Suite de ceci.
ここから続きます)

 わたしのお義母さんは、かなり見事に死ねことができた、と思います。ただもっと尊厳をもって死なせてあげたかった。それができなかったのはくやまれます。それが現代だということではあるんですか。

 さて、前も書いたかもしれませんが、若いころからずっと取り組んでいるスタンダールStendhalについて、今頃になっていろんなことが「わかった」気がするようになってきました。喜ばしいことです。

 Je me veux libre, et non pressé ; il me plaît de faire attendre les problèmes, je dis tous. Alain.

アランの『スタンダール』の冒頭の段落を締めくくる一文です。「わたしは自分が自由であってほしい。あせりたくはない。問題を待たせておくのが心にかなう。全ての問題を、とあえて言おう」と訳しておきましょう。
 人生、即座に決断を迫られるということは多いものです。そういうときは、早急に、選んで行動しなければならない。
 でももし時間に余裕があると思うなら、問題には「待たせておく」という解決法もあるわけです。
 とくに文学に関することは、あまり急いで、拙速で答えを出すものではないと思います。そういうことをすると自分が発してしまった言葉に足をとられて、一生袋小路から抜けられなくなる危険があります。

 今わたしは、スタンダールの最大の傑作『パルムの僧院』La Chartreuse de Parme について、なんだか複雑な結び目がひとりでにほどけていくように、本当のところが明らかにされていく感じをもっています。

 たとえば・・・

 第8章。主人公ファブリスの心の父ともいえるブラネス師が久方ぶりに彼と相対したとき。

 ”Voici ma mort qui arrive" わたしの死ぬときが来た

と言い、驚くファブリスにブラネスは

 Come face al mancar dell'alimento

とVincenzo Montiのイタリア語の詩を引いて自分の死を形容するのです(「ランプの油が尽きるように」みたいな意味だということですが・・・)

 わたしになぞだったのは「なぜここだけ詩なのか」ということでした。

 スタンダールは、ブラネスの声を借りて、自らの死がこうあってほしいと願い、そういう死を想定して、たたえているのです。
 詩とはそのためにあるのです。

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雨宮まみ氏



 この方の書いておられること、また書き方に、強い印象を受けました。
 でも残念なことに、もうお亡くなりになっているのですね。

 この『女子をこじらせて』のあとの作品、ウェブでの文章はもっとこなれているし、心理分析もますます冴えを見せておられます。

 今、この方は「ライター」「エッセイスト」などという肩書きしか(こう言っては職業差別なのですが)持っていないということで、あるいはすぐに、不当に、忘れ去られてしまうかもしれません。

 「作家」として記憶されれば、それだけ長く記憶に残ることもできるかもしれません。
 そうしてみましょうか。「作家・雨宮まみ氏」。

 制度としての「文学」がまだそういう威光をもっているなら、その価値はあると思います。

(なんか画像がでっかく入るようになりましたね。まあいいや)




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音楽が音楽をたたえる


 アリルド・アンデルセン Arild Andersen トリオ。1月12日、於もっきりや(金沢)。
 
 仕事に追われる多忙の合間に、ぽかっと開いたくつろぎのとき。
 ひとりででかけてアルコールをがぶがぶ飲んで、少しうとうとしたあとの醒めたこころできいた音楽は、まことに快いものでした。

 このアリルドさんというひと(ベーシストです)はジャズ界では有名なひとだそうです。わたしは知りませんでしたが。

 たしかにこれは非常な力量の持ち主です。そして、すばらしい。

 音楽は、多くの場合歌詞やその他の仕掛けによってなにか別のものを讃えるものになります。
 昨夜は音楽が音楽を讃えていました。アリルドさんはそれがどういうことか知っていたと思います。

 アリルドさん(ジャケよりさらにお爺ちゃんになってます・・・ でも、客席の前のほうに白髪で、かなりスイングしてるひとがいて、両者いい勝負だなと思いました。むかしは二人とも若かっただろうな、って)にとって、音楽を讃えるためのメディアになるものがJAZZなのだと感じました。
 JAZZはそうやって、そういう形で生き残っています。

 で、アリルドお爺ちゃんにサインしてもらいました。

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新年 日経さんへひとこと


 新年あけましておめでとうございます。

 今年のことはじめに、『日本経済新聞』を取り始めた動機について。

 それは、スポーツ欄が意外と面白いからだったと思います。誰も期待していない『日経』のスポーツ欄。だけど短いスペースで表現に工夫してましたし、豊田泰光さんとかがいいことを書いてました。
 文化欄もなかなか良いと思います。フランスのことも――当然ながら?――よく出てきます。

 面白いことに、前の方に行くほどつまらなくなります(株式欄は除いて)。フランスの扱いも不必要に冷たくなるし・・・
 いちばんいらいらするのが、『朝日』の「天声人語」に相当する「春秋」というコラムで、去年デヴィッド・ボウイが亡くなった時もなんかまとはずれなこと書いてましたが、昨日もサンテグジュペリについて、彼が撃墜されたときは「ナチスドイツに脅かされている祖国のために」飛び続けていたとか書いてまして、なんてぞんざいな書き方だろうとかなりいらいらしました。歴史の扱い方がいいかげん。「称えてるんやから、ええやろ?」といいたげなのがよけいに不快。日本「経済」新聞のアイデンティティを主張したい心が根底にあるせいなんでしょうか?・・・
 大見出しの記事の罪滅ぼし?か、真ん中へんの「大機小機」とかいう小さいコラムでバランスを取っているふしもありますが・・・

 やっぱり『私の履歴書』は面白いです。あえて言えば、内容の真偽はあまり問題ではない。

 ここのところ服部克久、高田賢三、カルロス・ゴーンとフランス関係が続いてますね。
 昨日の回で、ゴーン氏――このひと家ではアラビア語を話してるんでしょうね――が「ル・コストカッター」と呼ばれた、というのを読んで思わず笑ってしまいました。
 
 Oh là, là, il est LE cost-cutteur... quelle horreur...

とフランス人にかかげでささやかれてたんでしょうね。
 この「コストカッター」は、フランス人が嫌なものを英語で言う例のひとつなのだと思います。あはは。この定冠詞の「ル」le というのも、味わい深いです。フランス語の授業に使えそうです。



 
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