伊集院さん、ちょっと下品かも


 日経の連載小説をいま伊集院静さんが書いておられますが、うーん、なんか違和感があるなあと前から思ってまして。

 主人公の信治郎さん、船場の大店の旦さんにしてはちょっと言葉遣いが下品ではないですか?

 京都のはずれの育ちのわたしでは判断できないので、大阪出身の老母に聞いてみたんですが、やっぱり気になるそうです。

 たとえば:

 「番頭はん、そら違うてま。この看板ひとつにどれだけかかってでけてる思うてけつかんねん」ですが、

 「番頭はん、そら違うてまっせ。この看板どんだけでできてると思うてまんのや」

くらいかと。


 別にハイソぶる気もないですが、大阪弁にも上品な話し方というのは厳然としてある――あった――ので、やっぱりそういうのは尊重してもらいたいところです。

 たぶんフォークナーも、うんそうだ、と言ってくれるでしょう。
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How about studying periliterature/ périlittérature ってとらえ方、どうかな?


 昨日の日本経済新聞文化欄のショーレ・ゴルバリアンさん――お名前からするとたぶんアルメニア系の方ですね――の記事は、すばらしかったです。
 そうか、イランのテレビで『水戸黄門』とか『武田信玄』とかやってたわけですね、なるほど・・・

 フランスで活躍しているイラン系の映画関係者で北野武監督の映画の評価をグローバルに高めてくれた方がいましたが(なんてお名前でしたっけ・・・)、このあたりから日本への好感、あるいは共感をもっておられたのかもしれませんね(的外れだったらごめんなさい)。


 それでもうひとつご提案なのですが、(大学で教えたり学んだりする)「文学」に、アカデミックな研究になりにくい、Wissenschaftにならない「文学周辺のもの」研究への視線を含めてはいかがかと思います。

 映画はもう既に大ジャンル。これにマンガ、アニメ、そしてこんな風にテレビドラマ、そしてCMなどを入れて。
 ちょっと性質は違いますが、アメリカで盛んなように、「創作法」も視野に入ればいいですね。

 文学のメインストリームの作法にしたがってギリシャ語根から造語して、ぺリリテラチュアとでも呼びたいところです。

 これらが入れられたら、大学の文学教育は一気に時代の先端の知的営みになると思います。

 入れるのは、少しでいいはずです。あとの展開はこれから来る世代に任せればいいので・・・




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Français, gambatte (encore un effort)


Les Francais ont le privilège, me semble-t-il, cette fois-ci encore, de montrer pour l'humanité quel chemin prendre.
Je voudrais simplement dire que le choix de la haine ne fait que péréniser la situation de désaccord planétaire et sans espoir.
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ベトナム文学、少し大学でやってみては? 01

Étudier sur la littérature vietnamienne : n'est-ce pas ce qu'il faut pour nous, pour nos aînés de la génération Dankaï et pour nos jeunes ?
 How about trying to know even a little about Vietnamese literature ?


今の時にふさわしいかどうか自分でもよくわからないのですが、日本とベトナムに関するわたしの思うことを、我田引水みたいな感じになってしまうかもしれないのでいやですが、書いてみたいと思いました。

 (最近ブログがあんまり書けないのは、わたしの心の中にあることが、あんまり外に出すには不穏当なことになってるからかなあ、と思うのですが、単に時間がないということもあります。
 だからタイトルに「01」とつけておきます。これは書きかけです、まだ思索・議論を尽くしてはいません、作りかけです、という意味と解していただければ幸いです。それでも、許してもらえないときは許してもらえないでしょうけど)




 わたしの上の世代の方々、団塊の世代の方々はいろんなことをされました。ある意味、あとの世代はその影響下でしか生きられないところがあります。

 団塊の方々の関心事の中には「ベトナム戦争」があったと思います。それについて詳しいことはわたくしから述べることもないと思います。

 わたしにとって引っかかるのは、政治的大嵐の時代が終わってわれわれの「大航海時代」、海外旅行の時代の始まり以後になってしまうと、ベトナムのことを皆が忘れてしまったかのようだ、ということです。

 今はベトナムが経済的に注目される国として、日本で働く人の送り出し国として、その他の理由でもって、また注目を浴びていることは周知のとおりです。
 最近、天皇皇后両陛下も訪問されました。

 でも日本の知的営みがベトナムのひとの心にアクセスする気を欠いているように見える、ということは変わらないわけです。

 さて、大学の「文学概論」担当者としては、文学というのはひとの心へのかなり特権的なアクセス手段というふうに見えます。

 だからこういう状況は気になります。
 これはあまりに状況としてばかばかしい。なぜか、日本人が不必要に愚かで無情な存在にさせられている感をもちます。

 周知のとおりベトナムはフランスに植民地化された歴史をもっていて、近代化ということがフランスと深いかかわりをもった国でもあります。
 フランスとの関わりということからベトナム文学史を大学で教えてみる、学んでみることには確実に意義がある、かなり前にそう思いました。

 それで、実は数年前から、大学院授業ですが、ベトナム文学史の授業をたてていました。
 これまで受講生がひとりもいなかったのですが、幸い今期ひとり、かなり無理っぽくではありますが、受講してもらいました。
 フランス語で書かれた浩瀚なベトナム文学史の本を、近代文学のところから読んでみる、という授業内容です。英語による文献ももちろん合わせます。
 わたくし自身ベトナム文学についてはほとんど何も知りません。それでは教え手として失格ではないか、という考え方もありますが、現時点の日本では、こういうのは「あり」だし、またなくてはならない、と思います。
 こういうことができるために、フランス語は習えるようにしておかないといけないと思います。
 また「アクティブラーニング」なんて、こういう状況の認識から発想すべきことでもあるようにも思います。

 「文科系のやるべきことがわからないなんて、誰が言った?」Who said that Bunkakei is worthless ? Qui a dit que le bunkakei ne sert a rien de rien ?

 文科省、国大協の方々、どうでしょうか。こういうのは文系の学問のひとつの存在意義を指し示していると思うのですが。
 文科系の問題は、やるべきことがあまりにも膨大にありすぎて、しかもまだほとんど手がついていないところがあるということです。そして、案外日本でそのことが先鋭的に見えるのだろうと思います。

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若い人たちには、新鮮な青い野菜を食べてもらいたいですね。


 どこの大学食堂でも経営はたいへんだと思いますが、責任ある立場のひとは、ここでは100%の「ホモ・エコノミクス」になってはいけないです。責任ある立場のひとのさらに上のひと、影響力のあるひとも、そのように考えるべきです。


 これが、ひいては少子化を解消する方向に向かうような「気」の持ち方を醸成することに繋がる、と思います。

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気の持ち方ではないですか



 少子化、少子化と言いますけど・・・

 まずかったのは「ホモ・エコノミクス」的思考・行動パターンをはびこらせすぎてしまった、というところにあるのかもという気が最近してきました。

 日本語にはたいへん便利な、そして正体の定義しにくい「気」ということばがあります。
 要は、気の持ち方を、子供を持ちたくなる方向にもっていけばいいのではないですか。

 トマ・ピケティ・ブームは日本の経済界に「彼の学説は、日本にはあてはまらない」と判定されたのでしょうか、すぐしぼんでしまいましたね。
 まあ、たぶんそうなのだと思います。ただそれだけにピケティはフランス、イギリスについては強力に説得力のある議論です。だからわたしのフランス史概説の授業では彼を援用するようにしています。

 それだけでなく、非常に大きな一般論、たとえば出生率に関する一般的見解は、十分謹聴してその意味を考えるに値すると思います。

 人口の歴史の教訓は、こうした子作りの選択がおおむね予測不可能だということだ。それは文化、経済、心理、個人的要因に影響され、各個人が自分のために選ぶ人生の目標に関連して変わってくる。(『21世紀の資本』、みすず書房、2014年、p.85)

 [...] toute l'histoire démographique démontre que ces choix de fécondité sont en grande partie imprévisibles. Ils dépendent de considérations à la fois culturelles, économiques, psychologiques et intimes, liées aux objectifs de vie que les individus se fixent à eux-mêmes. (Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Seuil, 2013, p.136)


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「日本語母語話者で」「メンタルヘルス維持に困難のある」「人材」


 日本語母語話者で、メンタルヘルス維持に困難のある(潜在的に有能な)人材にこそ、適切な文学教育に接することができるようにしておくべきでしょうね。
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ハラル


 ハラルって、相手がイスラム教徒だと分かったら自動的にハラルを出す、というようにするべきではないと思います。

 イスラムの方のご接待のときは、ハラルが出せるかどうかというのより、その人はハラルにどれだけこだわるかを知るということの方がずっと問題なのです。

 でも「イスラム教徒の○○さんはお酒も豚もぜんぜんオッケーだった」というようなことを不特定多数向けに、公に明言、明記してしまうと差しさわりがあってしまうかも、なんですよね。この辺が問題なのです。

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21世紀の「教養」


 教養教育を守れ、みたいな声は根強いし、わたしも基本的に賛成ではあります。

 でも、それじゃ、その「教養」の中身は?と言われたら、わたしが答えるなら、たぶん多くのひととはかなり違った内容のものをあげることになるでしょう。

 現在は文科省も全大協も、文系の学問の意義がよくわからん、という時代のようですから、わたしが少し言いたいことをいっても悪くはないと思います。
 今の大学で教えている内容の枠組みは、とくに確かに文系では、日本で「大学」というものができてからさして変わってはないと思いますが、21世紀には21世紀型の「教養」というものがあるので、文系のひとはそういうものこそ勉強すべきだし、理系のひとも基礎的なところは知っておいてほしいと思うわけです。

 たぶん、わたしのいうこと、間違ってないと思います。

 それで、わたしの考える21世紀型の「教養」――この言葉は「鑑賞」と同じで、実は何語にも訳せないですね――というと、一番最初に思い浮かぶのが・・・「レゲエ」なんですよね。

 「レゲエ? 知りませんな、何ですかそれは?・・・ああ、そのような下賤なものは大学では・・・」というようなことしか言えないのでは「グローバル人材」としてはなはだ心もとない人にしかなれない、と思うのですよ。

 旧国立大の現役教員がこんなこと言っちゃいけないですかね?

 (でも、いつもおんなじことをわたしは言ってるんですが。ここもご覧になってください)

 この議論は長くなりますんでここではこのくらいにしておきますけどね。とにかく時間がなくって。でもわたくしは全くマジです。

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Wissenschaft


Wissenschaftにこだわられたら、アフリカは立つ瀬がないです。

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