「いでよ高田屋嘉兵衛」というなら


 『日本経済新聞』の論説主幹、芹川洋一氏が2017年6月5日の「オピニオン」欄の見出しに書いていること。

 ほんとうに高田屋嘉兵衛(1769-1827. 一介の船乗りで、ロシアに拿捕されながら自分の帰国に成功しただけでなく独力で外交問題を解決した)にいでてほしいなら、彼のパワーを支えたような文学を、現代の若者たちがうまく見つけられるような仕組みを作っておかないと、いけないです。

 彼は近松門左衛門の浄瑠璃本、とくに『曽根崎心中』を読むことを、心の支えとしていたんです。

 「今の子はひよわだ」とか言って、日本社会内でそこそこのポジションを得られた大人が慨嘆してみせるのは、「おれたちはひよわじゃない」と思いたいからでもあります。そして「日本が一番」という根拠のない信念に安住していたいからです。

 適切な文学にめぐり合うことができれば、全員とは言いませんが、かなりの人間が精神的に救われ、生き延び、強靭な心を培っていくはずです。

 そういうことで、金沢大学「グローバル時代の文学」テキストの序説(粕谷が書きました)にはちゃんと近松があげてあるわけです(もっとも残念ながら近松自体は、21世紀にはもうそれほどのパワーをひとにあたえることはできないだろうなとは思いますが)。

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道上尚史『日本エリートはズレている』


 わたしが死ぬまでにしておきたい仕事のひとつ。

 この道上さんというひとの言っていることは、まったくその通りだと思います。
 
 世界は「接戦の時代」に入っているのに、無根拠な「日本が一番」感覚の上に、国のエリート層――もっともわたしは日本国には厳密な意味での「エリート」はいないと思ってますが――が安住してしまっている。
 これは、やばい。

 この状況をもたらした最大の元凶のひとつが「大学」であるのは間違いないのでここは、わたしにできることはなんとかしたいと思ってます。わたしがアルジェリアの「ライ」みたいなのやってるというのは、そのあたりにも動機があります。


 これだけでも巨大な仕事なんですけどね・・・ 

 だけど、わたし的には、わたしの中の問題はみんな連動してますんで・・・

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紙媒体の本をどうするか 1


 こんなもん、「よもやまよもやま」なのですが。

 もうわたくしも、残り時間でできる仕事が見えるようになって久しいです。
 実際の退職はまだかなり先ですが、「これ関係の仕事は、もうやってる暇ないよな」という本は、「処理」してます(「処分」ではない!と言いたい)。

 「本 de 募金」というのに本を送ると、売れたお金が寄付金になるということで、先日どさっと送りました。それでもまだほんの一部、頭が痛いのが洋書です。

 本は、どこかの図書館にあって、必要になったらすぐ取り寄せられることを確かめた上で、送り出します。
 ああ未練がましい。

 しかしこれから知の領域のデジタル化、ウェブ化が進めば、日本国領土の上にある多くの図書館に多数所蔵されている紙媒体の本は、全部残しておかなくてもよいだろう、場所が足らないし・・・ という話がかならずそのうちでてくるだろうと思ってしまうと、簡単に手放すのもためらわれて・・・

 それに、この仕事はもうできないだろうと考える、ということはそれだけ死を意識するということですし・・・

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西洋の威光


 西洋に有無を言わさぬ「威光」があった、というのは日本でも、アルジェリアでも、おそらく世界のほかのところでも変わらなかったと思います。

 なぜなら、それは劇的に「いのち」を救ってくれるものだったから。

 アルジェリア・モスタガネム大学でわたくしがお話したときの些細なできごとを思い出しました。今のアルジェリアの学生は「天然痘」varioleということばを知らないみたいだったということです。これをご覧ください。

 金沢大学の歴史をさかのぼると、1862年設立の「加賀藩金沢彦三種痘所」(「彦三」は「ひこそ」って読むんですよ。こんな風に加賀には他所もんには読めない地名がわんさかあります。(汗))がその起源であるということが分かります(こちらが理系とすると文系は1873年設立の「英仏学校」というのが始まりということなのですが)。
 恐ろしい病気である天然痘の予防法は、紛れもなく西洋から伝わったものでした。しかし、日本では日本人自身によって種痘を普及させ天然痘を撲滅するだけの余裕があったのに対し、アルジェリアでは――おそらくわけもわからないうちに――西洋人の手によって天然痘が対処できる病気、そして見かけない病気になった。西洋への畏敬の念を覚えるとともに、その後こんな病気があったということさえ忘れてしまったのではないかと思うのです。
 違っていたらごめんなさい。

 天然痘では昔過ぎるということであれば、ペニシリンやストレプトマイシンの例が記憶に新しいと思います。

 不治とみなされた病気に冒されてもう死ぬしかないと絶望していたひとたちがこの西洋起源の「魔法」で劇的に回復したとき、世界の支配・被支配をめぐる争い、植民地主義をめぐる恨みのこころはあっても、命を救ってもらえたという恩義は、人間である限り、どうしても感じてしまったはずです。
 日本語には「恩讐」ということばもありました。

 (ちなみに:プロスペローがエアリエルを操り、キャリバンを支配するというシェイクスピア『テンペスト』の21世紀的読み、グローバル時代の読みというのは、これなのです)
 

 その西洋の威光を生み出しているのがあるいは「ドン=キホーテ精神」なのかもしれませんし、ヘーゲル的な「進歩」なのかもしれません。
 とにかく、世界中みんな、命を救う「西洋化」には賛成なのです。
 あえて言えば、現代のイスラム原理主義者でさえ、そうであるはずです。

 ただこの「西洋化」を、色のない「近代化」にして、真の意味で万民のものとする、という課題が人類には残っている、ということだと思います。

 ワールドミュージックは、世界文学は、その糸口となれるはず、というかそのあたりにしか糸口はないはずなのです。
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Ça commence, l'enseignement obligatoire de deuxième langue étrangère au collège japonais


Pourra-t-on un jour apprendre le francais dans beaucoup de collèges japonais ?

東京の、新設の小中高一貫校ということですが、英語教育を小1で始めるなら当然中学くらいで第二外国語を、という発想になってきますね。この日経の記事(4月28日)には中国語、フランス語というのがあがってますが、中国語は経済的にも隣語という意味でも重要だし、フランス語は国際的な使いで、日本との深い関係、英語教育との相乗効果というとことからも教育言語候補として順当だと思います。こういう学校が多くなってきたら、センター試験の後継テストの「外国語」をフランス語で受けたいひとも出てくるかも、ですね。
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伊集院さん、ちょっと下品かも


 日経の連載小説をいま伊集院静さんが書いておられますが、うーん、なんか違和感があるなあと前から思ってまして。

 主人公の信治郎さん、船場の大店の旦さんにしてはちょっと言葉遣いが下品ではないですか?

 京都のはずれの育ちのわたしでは判断できないので、大阪出身の老母に聞いてみたんですが、やっぱり気になるそうです。

 たとえば:

 「番頭はん、そら違うてま。この看板ひとつにどれだけかかってでけてる思うてけつかんねん」ですが、

 「番頭はん、そら違うてまっせ。この看板どんだけでできてると思うてまんのや」

くらいかと。


 別にハイソぶる気もないですが、大阪弁にも上品な話し方というのは厳然としてある――あった――ので、やっぱりそういうのは尊重してもらいたいところです。

 たぶんフォークナーも、うんそうだ、と言ってくれるでしょう。
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How about studying periliterature/ périlittérature ってとらえ方、どうかな?


 昨日の日本経済新聞文化欄のショーレ・ゴルバリアンさん――お名前からするとたぶんアルメニア系の方ですね――の記事は、すばらしかったです。
 そうか、イランのテレビで『水戸黄門』とか『武田信玄』とかやってたわけですね、なるほど・・・

 フランスで活躍しているイラン系の映画関係者で北野武監督の映画の評価をグローバルに高めてくれた方がいましたが(なんてお名前でしたっけ・・・)、このあたりから日本への好感、あるいは共感をもっておられたのかもしれませんね(的外れだったらごめんなさい)。


 それでもうひとつご提案なのですが、(大学で教えたり学んだりする)「文学」に、アカデミックな研究になりにくい、Wissenschaftにならない「文学周辺のもの」研究への視線を含めてはいかがかと思います。

 映画はもう既に大ジャンル。これにマンガ、アニメ、そしてこんな風にテレビドラマ、そしてCMなどを入れて。
 ちょっと性質は違いますが、アメリカで盛んなように、「創作法」も視野に入ればいいですね。

 文学のメインストリームの作法にしたがってギリシャ語根から造語して、ぺリリテラチュアとでも呼びたいところです。

 これらが入れられたら、大学の文学教育は一気に時代の先端の知的営みになると思います。

 入れるのは、少しでいいはずです。あとの展開はこれから来る世代に任せればいいので・・・




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Français, gambatte (encore un effort)


Les Francais ont le privilège, me semble-t-il, cette fois-ci encore, de montrer pour l'humanité quel chemin prendre.
Je voudrais simplement dire que le choix de la haine ne fait que péréniser la situation de désaccord planétaire et sans espoir.
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ベトナム文学、少し大学でやってみては? 01

Étudier sur la littérature vietnamienne : n'est-ce pas ce qu'il faut pour nous, pour nos aînés de la génération Dankaï et pour nos jeunes ?
 How about trying to know even a little about Vietnamese literature ?


今の時にふさわしいかどうか自分でもよくわからないのですが、日本とベトナムに関するわたしの思うことを、我田引水みたいな感じになってしまうかもしれないのでいやですが、書いてみたいと思いました。

 (最近ブログがあんまり書けないのは、わたしの心の中にあることが、あんまり外に出すには不穏当なことになってるからかなあ、と思うのですが、単に時間がないということもあります。
 だからタイトルに「01」とつけておきます。これは書きかけです、まだ思索・議論を尽くしてはいません、作りかけです、という意味と解していただければ幸いです。それでも、許してもらえないときは許してもらえないでしょうけど)




 わたしの上の世代の方々、団塊の世代の方々はいろんなことをされました。ある意味、あとの世代はその影響下でしか生きられないところがあります。

 団塊の方々の関心事の中には「ベトナム戦争」があったと思います。それについて詳しいことはわたくしから述べることもないと思います。

 わたしにとって引っかかるのは、政治的大嵐の時代が終わってわれわれの「大航海時代」、海外旅行の時代の始まり以後になってしまうと、ベトナムのことを皆が忘れてしまったかのようだ、ということです。

 今はベトナムが経済的に注目される国として、日本で働く人の送り出し国として、その他の理由でもって、また注目を浴びていることは周知のとおりです。
 最近、天皇皇后両陛下も訪問されました。

 でも日本の知的営みがベトナムのひとの心にアクセスする気を欠いているように見える、ということは変わらないわけです。

 さて、大学の「文学概論」担当者としては、文学というのはひとの心へのかなり特権的なアクセス手段というふうに見えます。

 だからこういう状況は気になります。
 これはあまりに状況としてばかばかしい。なぜか、日本人が不必要に愚かで無情な存在にさせられている感をもちます。

 周知のとおりベトナムはフランスに植民地化された歴史をもっていて、近代化ということがフランスと深いかかわりをもった国でもあります。
 フランスとの関わりということからベトナム文学史を大学で教えてみる、学んでみることには確実に意義がある、かなり前にそう思いました。

 それで、実は数年前から、大学院授業ですが、ベトナム文学史の授業をたてていました。
 これまで受講生がひとりもいなかったのですが、幸い今期ひとり、かなり無理っぽくではありますが、受講してもらいました。
 フランス語で書かれた浩瀚なベトナム文学史の本を、近代文学のところから読んでみる、という授業内容です。英語による文献ももちろん合わせます。
 わたくし自身ベトナム文学についてはほとんど何も知りません。それでは教え手として失格ではないか、という考え方もありますが、現時点の日本では、こういうのは「あり」だし、またなくてはならない、と思います。
 こういうことができるために、フランス語は習えるようにしておかないといけないと思います。
 また「アクティブラーニング」なんて、こういう状況の認識から発想すべきことでもあるようにも思います。

 「文科系のやるべきことがわからないなんて、誰が言った?」Who said that Bunkakei is worthless ? Qui a dit que le bunkakei ne sert a rien de rien ?

 文科省、国大協の方々、どうでしょうか。こういうのは文系の学問のひとつの存在意義を指し示していると思うのですが。
 文科系の問題は、やるべきことがあまりにも膨大にありすぎて、しかもまだほとんど手がついていないところがあるということです。そして、案外日本でそのことが先鋭的に見えるのだろうと思います。

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若い人たちには、新鮮な青い野菜を食べてもらいたいですね。


 どこの大学食堂でも経営はたいへんだと思いますが、責任ある立場のひとは、ここでは100%の「ホモ・エコノミクス」になってはいけないです。責任ある立場のひとのさらに上のひと、影響力のあるひとも、そのように考えるべきです。


 これが、ひいては少子化を解消する方向に向かうような「気」の持ち方を醸成することに繋がる、と思います。

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