えらいぞジダン!


 レアル・マドリード、チャンピオンズ・リーグ優勝!
 ジダン、きみはアルジェリアの星だ!

http://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20160529/448825.html

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金沢大学生協に登場


 どうあってもこのお菓子を食べろ、と言うのじゃな?

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フェミニスムとポストコロニアリスム


 フェミニズムとポルトコロニアリズムはおそらく、この意味での「政治」に気をとられて「文学」を忘れてしまっている、ということなのだろう。

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政治


 スタンダールが言っている「政治」:

 La politique au milieu des intérêts d'imagination, c'est un coup de pistolet au milieu d'un concert. Ce bruit est déchirant sans être énergique. Il ne s'accorde avec le son d'aucun instrument.

と言ったときの「政治」は、金銭オンリー=自己目的化した利害に関係するもののことだ。『赤と黒』でスタンダールが、他ならぬワーテルローの関わるこの箇所でこの警句を放っているのはそれが、金銭に関しては、一番大きな「おはなし」にかかわることだからだ。
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移民


 「現代ヨーロッパ社会論」のために。

 世界の有為の若者の自己実現は手助けしなければならない。ならば経済先進国が発展途上国の「優秀な留学生」を移民として受け入れてその能力を生かせる場を提供するというのは、正しい。だがそれだけだと発展途上国は有為の人材を失い続けいつまで経っても途上国のままとなる。

 先進国で成功し、故国に多大な援助をするという例はたくさんある。しかし、それは経済的成功者の「リア充」自慢ということになって、逆境の中でなんらかの精神論をよすがにしないと生きていられない地元のひとたちの反発を招いてしまい、うまく機能しない。

 先進国と途上国の格差は固定されたまま、歴史の終わりまでいくのか。

 それでは人間はあまりに愚か、ということになろう。天の意に沿わぬ、と言ってもいい。

 世界の「だいたいの」平等(完全な平準化など、目指すものではない)がなりたった状況から「逆算して」考えてみてはどうだろうか。
 少なくともそうすれば、目の前のひとにへいこらすることもないし上から目線になることもないだろう。自然体でいられるだろう。


 それにしてもすべてを金銭が支配していることが問題だ。スタンダールが二十一世紀に再来したなら:

 La brève campagne de Waterloo leur a coûté, à elle seule, un milliard de francs. Pikéty

 とでも書くだろう。"leur"ってもちろんイギリスの上流階級、la noble Angleterre のことだ・・・
 ロンドンのシティは二十一世紀にもまだ崩壊していないから、『赤と黒』はまぎれもなく現代小説である。

 金銭は、金銭を究極まで追求することで克服するか、あるいはバランスをとる原理を対置することを考えるか。それともそれは同じことなのか。






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ひとがそこにいること


 プリンスも死んだので――2016年に死なないアーチストは大物とは言えない、みたいな勢いですね、富田勲さんも亡くなられました――、それで彼のベストは『バットマン』の映画音楽だと思うので、CDをアマゾンで発注してみました。
 そしてふと思いついて同じ映画音楽、長く手元になかったライ・クーダー『パリ・テキサス』も発注しました。
 そしたら、『パリ・テキサス』の方が早く届きました。

 これってほとんどライ・クーダーのギターによる、ほとんど単音の音楽ですね。それでいてこれほど心にしみる音もないなあ・・・

 こういう音楽って、「そこにライ・クーダーという人がいる。彼が弾いている。彼が、わたしとともに、あの映画の世界に居て、弾いている」という思いがなかったら成立しないのかな、と思います・・・
 だからこそ、あの音楽が車の中で鳴りだすや、即座にわたしは自分が、息子とともにアメリカ深南部、テキサスを走っている気になってしまうんでしょうね。


 この音楽は、打田さんがわたしにくれたものでした。いただいたのは「カセット」であって(そういう時代でした。昔のことです)CDではなかったんですけど。
 ひとから音楽をもらうということは、わたしはめったにない。自分で見つけるんです。
 でも『パリ・テキサス』はまれな例外をなしています。打田さんからもらったんだ、という思い、そこにひとがいるという思いとともにわたしは聞いています。

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「もつ」ということ


 マルローついでにもうひとつ。

 禅の高僧の肖像に限らず、掛け軸の絵にはよく「賛」がついてますね。絵の上になにやら書いてある、鑑賞者のコメントです。ハンコも押してある。ある意味でこの絵を「所有して」「もって」、その絵にコメントを付け加えることをもって「参加して」しまう。

 「中国においては、宗教的なものを除いて、作品の享受はその所有ということにまず結び付けられる」(『空想の美術館』)

 ぜんぜん話ちがうのかもしれないけれど、断捨離的ミッションの仇敵的な思想。

 「大体私が勉強をしますときには、その後の勉強の仕方におきましても、この人と思うような研究者の学問の全容を、全体系きのいてうかがうというようなことを致したいと思いまして、なるべく全集を買いました」(日本経済新聞2007年9月2日、三浦雅士による引用。原典は白川静「京都の支那学と私」、『桂東雑記I』(平凡社、2003年)収録)

 お金を出して買って「もって」いなければ、白川静はあの大学問体系を構築できなかったのだろうか。

 もつってなんだろうね。
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おかあさんへ

今日の花屋さんは、花盛り。






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白隠は現代マンガの始祖ではないだろうか?


 ぜんぜん話は変わる、はずですがやっぱりあんまり変わんないかも、と変なこと言いますが、まあその母の日の前の日に京都の母のところにいて、帰りに国立博物館『禅』展みてきました。これは面白かった。

 日本美術史の全体の流れからすると、ここでひとつ、マルローの言うメタモルフォーズが起こっているか、と思います。つまりその、描く方の立場から言うと人間を超越したほとけさまを描いたり彫ったりするミッションが、以心伝心で教えを伝えてくれる師の人間的なところをリアリズム?をもって追究するミッションに変化したかと思うのです。

 ほとけに限りなく近いかもしれないけど、まぎれもなく人間である師。人間であるから、その顔のウラには底しれない何かがありそう・・・
 そのウラをも映し出すために、画家はその顔の真実に肉薄する。

 でもね、厳密に言うとこれ、リアリズム、ですかね? しいのき迎賓館と違って展示物の写真をこのブログに載せるわけにはいかないので残念なのですが、わたくしの言葉で言うと、なんだか禅の坊さんたちはみんなちょっと変な顔をしています・・・というか変な顔に描かれていると思うんですよ。ひょっとしてそこに誇張、カリカチュア化みたいなものがあるとしたら。

 白隠は達磨さん本人なんか見たことなかったはずですが、彼は入場券に印刷された、こんな(↑)肖像を描くわけですね。

 この目のでっかさ・・・ほとんど現代のマンガではないですか。
 もっともそういうこと、既に指摘している人、言っている人いそうな気がしますけどね・・・

 北斎が『北斎漫画』とか描いているので、また浮世絵というのが世界に知られた民衆ジャンル――あれは複製をその本質とする版画であり、最初から「アウラ」がない――だからそっちの方に気をとられますが、禅の高僧の肖像というのもひとつの源流ではないかと思ったりして。

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若い男たち


 5月5日、しいのき迎賓館、写真家・鋤田正義氏トーク。
 デヴィッド・ボウイを撮ったものが有名ですが、ロックのスターたちの魅力的ポートレートをたくさん撮られた方、というか有名な、よく見かけたロック・スターの写真の多くが鋤田さんの作品である、ということです。

 トーク会場の壁一面に貼られた鋤田さんの代表的作品群――わたしのちょうど正面にマーク・ボラン、その右上に山本寛斎氏と肩を組んだキース・エマーソン・・・彼は最近自殺しちゃったんだなー・・・がありました――。
 ボウイはつい最近亡くなったわけですが、「グラム・ロック」というジャンル名で一緒にされていた一方のマーク・ボランの方はもうずっと昔に、30歳にもならないうちに事故で死んでしまった。いかにも彼らしい最期(なんて言ったら可哀想ですが)だったんですが・・・

 こうやって全体を見渡すと、やっぱり若い男性が多くて、なんというか、こっちにガッと来る感じです。

 ただ初めてこういうことに気付いたんですが、ロックスターのポートレートと言うのはウラがないというか、表面に全力が行っているというか、そういう感じなのですね。

 鋤田さんは、英語はお話にならないそうなんです。
 案外そのこととも関係があるかも、と思いました。

 ただまたその「表面しかない」無防備なところがロックというか、ポップカルチャーというものに似合っている感じもして。

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