マンガとフランス

 前の投稿で述べましたように、フランスはさまざまなジャンルで世界の才能を糾合する座敷を提供する活動を始めるのが好きというか、得意というか。、常套手段というか、なのですが、今わたしが注目しているのはマンガの分野です。アングーレームAngouleme(フランス西部の町)で毎年「国際マンガ祭」をやっているのですが、これはどれほど世界的権威をもつようになるのでしょうか。

 一般的日本人は潜在的感覚として「マンガ(劇画を含む)の世界最先進国は日本にきまっている」と思っているとおもいます。世界の他のどこに手塚治虫やつげ義春がいるか? と。この感覚は「世界最高峰の野球はアメリカ大リーグにきまっている」と思うアメリカ人の感覚とかなり似ているのではないでしょうか。
 レベル的に大リーグを超える野球は存在しないし、少なくともここ何十年かはその状態は変わらないと思いますが、しかしマンガの方はどうだか分かりません。だいたい世界の他の国のマンガ界がどうなっているか、一般の日本の人はほとんど知らないでしょう。

 フランスは欧州有数、ということは世界有数のマンガ大国なのです。
 既に相当に文化として認知され、「第9芸術」の名も与えられています(第1から第8まではなんなんでしたっけ? (^_^;) )。
 もしアングーレーム・マンガ祭がこれからどんどん世界的権威になっていったら、日本人はどう思うか。「なんだ、日本マンガが世界で一番いいに決まっているのに、例によってフランス人が、高級文化かなんかしらないがつまんないマンガを振りかざして、賞とか作って、世界の中心みたいな大きな顔をしよって」てなことを思って、またフランスへの反感のネタを見つけるようになるのでは、と危惧しているのです(とりこし苦労ならいいんですが)。

 ほんとはそういう話じゃ、全然ないんですよ・・・ (^_^;)
 ここまで書いてきたことである程度分かっていただけたと思いますが、フランス人たちは自らの国が世界の集う場にするために、いろんなことで多大な犠牲をはらっているので、日本人はそのことを理解してあげないといけないとわたしは信じます。

 それはともかく、個別文化としてのフランス・マンガの現況が日本に全く、全く伝えられていないのは、残念というより危険な感じさえしてなりません。フランスのクラブでガンガン鳴りまくっている「ライ」音楽のことを日本人がほとんど知らないというのと同じで、これら今現在息づいている文化を甚だしく軽視するというのは、現在のフランスのありのままの姿を無視するということであり、良いこととはとても思えないです。現状はわれわれ異文化を伝達する立場にあるものの責任が大です。

 わたしが「教養」にいろいろ文句をつけるのも、それが評価の定まった文化、どうしてもある程度過去のものである文化にしか敬意を払わないということがあります。旧来型の「教養」にこだわる限り、結局フランスという国、世界有数の強力な文化に関してさえ「今の姿」に日本人は無知になっていくばかりなのです。われわれ異文化の伝達・流通に責任あるものは「既に評価の定まったもの」にこだわっていてはいけないのではないでしょうか。

 たしかにマンガみたいなジャンルについて必死に勉強しても、数年たったら役に立たなくなるような知識・情報が多いかもしれません。今人気絶頂のマンガでも数年後にはみんな飽きてしまって十年もたったらもう誰も覚えていない、それ以後も再評価されることもない、ということになると勉強の労力がムダになるわけです。だれしも自分の努力が無駄になるのは嫌なので手を出すのが億劫だ、ということになるのは当たり前といえば当たり前です。
 でもわたしと話をしたマンガ好きのフランス人Julien君は「グレッグGregのアシル・タロン Achille Talon(フランスの有名なマンガ家と彼が創ったキャラクター。どうです、知らないでしょう?)の秀逸なセリフは今のフランス人みんなの心に残ってるんだよ」と言ってました。そういうものが研究対象としての意味をもたないはずはないです。

(自分のことを顧みても、山上たつひこやいしいひさいちの印象的なフレーズ、シチュエーションはわたしの心の中にしっかり残っているし、フレーズ、シチュエーションをそのままを使うことはなくてもその発想法や言葉のリズムなどはわたしの言うこと、書くことのどこかにしっかり刻印されているように感じます。
 このブログを読んでいる方はそういうマンガの影響に気がつかれないでしょうか・・・)

 いまだ知られていない異文化の紹介には「教育」が、バカ売れする人気作品の掘り当てに貢献したところでお金にはならない代わり月給をもらっているからいくらはずしてもそれで飢え死にすることはない学校勤め人である「教育者」が、なんとかしないといけないです。
 なぜなら現段階では商品化するのに障害があるからです。フランス人と日本人の笑い、ユーモアの質の違いという決定的なネックの上に「フランスのマンガは上質紙に繊細な色刷りが必要でコストが高い。たぶん儲からないだろう」という予測があって、日本の出版社はフランス・マンガの商品化に消極的なのですから。

 フランス・マンガの作品量は膨大です。この膨大な作品群の中には日本人の面白く思えるものもあるはずなのです。そういうものが「いったん知られてしまえば」あとは継続して売れるようになる可能性は大きいと思うのです。
 しかしこの「いったん知られる」のが難しい。文化には、スポーツにおけるオリンピックやワールドカップみたいなもの、「文化界のベッカム」を値打ち通りにちゃんと商品にしてくれるチャンスって、ないものでしょうかね・・・
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オリンピックとフランス

 2012年のオリンピックがロンドンに決まって、フランス人たちはずいぶん落胆していることと思います。とくにフランス政府としては、最近存在感が薄れつつあったオリンピック公用語としてのフランス語のステイタス回復のきっかけにもしたかったでしょう。でもまあそれは2020年以降ということにしてください。気長にやってりゃそのうち必ず開催が回ってくるでしょう(残念ながらシラク大統領の存命中は無理かなと思いますけど)。
 それより五輪開催がロンドンに決定した次の日に例のテロが起こったのは、あれはサミットだけが目的でオリンピックは関係なかったんでしょうか。そっちの方が心配です。

 2012年の開催は隣のイギリスなんですから、EU内の協調などという文脈でロンドン・オリンピックでのフランス語のステイタスに配慮するようじっくり働きかけることだってできるはずと思います。こういうとフランス語擁護推進論者さんたちの顰蹙を買いそうですが、やみくもフランス語使用促進に突っ走るより結局このくらいがちょうどいいことになるんじゃないでしょうか。
 わたしは別にオリンピックにおけるフランス語は象徴的存在でも十分と思いますよ。フランス語普及が職務でタテマエとしてフランス語推進を唱える人々のなかでも常識的な人々は口には出さなくても似たようなことを考えていると思うのです(そのタテマエ的発言を右から左へそのまま報道する「闘うフランス語」のような姿勢がふさわしいものと思えないゆえんです)。実際、ここという肝心なところではフランス人は英語が地球上広範囲に流通していることをうまく利用していると思います(このへんも日本では、フランスに対する先入見からあまり気付かれてないみたいで危ないなと思うのですが)。
 ただ象徴的ステイタスでも、フランス語が自己主張し続けない限り失いかねないですし、そうなると確かに英語、アメリカが今以上にのさばることになって最終的にやっぱりそれは良いことではないでしょう。アメリカ的価値が地球上で唯一絶対のものかいな、という観念がいま以上に重くのしかかっちゃいますからね。その意味ではフランスの偉いさんたちの頑張りは全くの無意味ではないはずです。

 だいたい、アメリカ的価値観だけでは、大リーグはできてもオリンピックはできにくかったと思われますから(前項をご参照ください)。
 またまた繰り返しになってくどいのですが m(_ _)m オリンピックもワールドカップもその始まりにはフランス人が指導的役割を果たしたということの意味をあんまり日本人は意識しなくて、「フランス人が作ったのか。ふーん」で、それ以上意味は考えたりしないと思いますけど、BO-YA-KIのフランス語系人としては、もう一歩突っ込んで考えてほしいところです。日本が世界内でうまく立ち回るためには、そういう「国際センス」みたいなものが必要だと思いますよ。 (^_-)
 オリンピック公用語はともかく、サッカー界の方はFIFAというのがFederation internationale de football association というフランス語名の略語が一般に流通しているわけで、フランス語の存在感がかなりあります。現在チューリッヒにあるFIFA本部も、もちろん当初はパリにあったのです。

 トゥール・ド・フランスもカンヌ映画祭もパリ・コレもフランス料理もパリ=ダカール・ラリーも、それぞれのジャンル(パリ=ダカは何のジャンルか知りませんが。ちなみにああいう「とんでもない」競技ってフランス人は好きです)の優秀な人、優秀作品を世界から集めて、世界最高峰みたいな顔してますよね。
 ノーベル文学賞だってフランス(的趣味判断)が主導権を握っているのだという話がありますよ(パスカル・カザノヴァ著『世界文学空間』を御覧になってください)。

 ところで今気になっているのは「マンガ」のことです。これは次の投稿に回します。
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大リーグとオリンピック

 おとといテレビでホワイトソックスの井口選手が決勝2ランホームラン打ったところを見ました。(^_^) 皆さんは、アメリカにわたった日本選手の中では井口が一番大リーグに違和感なくぴたっとはまっているように思いませんか? だって彼、体型といい、肌の焼け具合といい、そしてなにより打席での眼光鋭さがヒスパニック系選手みたいに見えるじゃないですか。 (^_^) 登録名「ぺドロ・マルチネス」や「ホセ・ゴンザレス」でいくとか。 (^_^)y

 さて話は大きくなりますが、諸民族の集った井真成のころの長安では出自にかかわらず科挙を通れば宮廷で相当の出世が見込めました。ピカソやストラヴィンスキーが活躍していた頃のフランスも世界の芸術の天才が集結して活躍し、名誉を得ていました。その意味で当時の中国、フランスは「普遍的」な性格をもった場だったわけです。
 ヒスパニック系であることが大リーグらしくありうるという今の大リーグも世界の才能を集める場であるわけですが、「オリンピック」が大リーグの上位ステージみたいな顔をしてでてくる−−−オリンピックにおける野球のもつ経済効果なんて大リーグの足下にも及ばないのに−−−ということは、理念のレベルの話ではあるにせよ大リーグはひとつ次元の低い普遍性しかもたないことがあらわにされてしまうわけですね。

 ロンドン・オリンピックで野球がなくなることになって日本にはかなり落胆している人も多いでしょうが、これは明らかに大リーグとオリンピック委員会の間の問題だと思います。経済的観点から言って大リーグ選手にはオリンピックに出なければならない必要は全くないし、アメリカ人はオリンピックの勝者がどこであれ世界最高レベルの野球が見られるのはアメリカ大リーグだと思っているので大リーグがわざわざオリンピックに協力する必要もない、というところが大きいのですね。このことについてCYBER FRENCH CAFEをご参照下さい。たしかに「MLBにせよ日本プロ野球機構にせよ、それぞれの国の最高峰のリーグ戦を主催する団体はいずれも『興行団体』であるから」ということがポイントだと思います。よくも悪くもアメリカ(そして日本)は資本主義的でありすぎるのです。

 こいうことを言っては日本の野球関係者には嫌な顔をされそうに思いますが、1ーアメリカを発祥の地とし、2ーアメリカが常に中心地であり、3ーそしてアメリカ人の一般的考え方がそう簡単に変わりそうもない以上、野球はオリンピックとそう良い関係になれない宿命を背負っているように思います。それにこのスポーツは用具、設備にやたらお金がかかりますから世界の国々、地域が等しく豊かになる時代が到来しない限り、ボールひとつあればできるサッカーやバスケのような世界の底辺まで浸透しうる力を持っていないように思うのです。

(ちなみに、昔はたいへん貧しかった日本人の間でこれほど野球が普及したのは、ひょっとしたら「バット」のせいではないかなと思います。つまり廃刀令で武士のプライドの源泉だったオブジェが奪われて心理的喪失感があったところに、形態的に類似した野球のバットが代理物として入り込んだのではないでしょうか。打席でバットを右手ですっと立てて投手の方を見るイチローの姿を見るたび、どうしても「剣士」の姿がだぶって見えるのはわたしだけでしょうか・・・)

 アメリカ人は自分のところが一番だから、他のところは言うことを聞くのが当然だという態度を「そのまま」出す、というか出せてしまうのです。実は本当はフランス人もそれをやりたいのだと思いますし、ある種の場面ではもろにやってくるんですけど (^_^;) この国が世界で圧倒的に強い分野というのはあんまり見当たらない (^_^;;) というのがミソです。経済でも軍事でも、何につけてもこの国はずっと二番手あるいは二番手グループだったために一番手の国(かつてのイギリス、今のアメリカ)が勝手をできないような「普遍的理念」みたいなものを持ち出すというやり方を練り上げたのです。そして組織者、創業者としてそれなりの存在感を確保するわけです(フランス語がオリンピックの公用語として残っているなんて今のところ創業者利得以外のなにものでもないでしょう。しかしこういう「虚」の存在も使い用によっては大きな力となると思いますよ。知的財産という「虚」的なものに活路を見出そうとしている日本もフランスのやり方は参考になるはずです)。前にも書いたように思いますが、オリンピックもワールドカップもクーベルタン男爵とかジュール・リメみたいなフランス人が音頭をとってできあがったというのは理由のないことではなくて、彼等はフランス人の常套的行動パターンにのっとって動いたにすぎないと思うのですよ。ついでに言うと、こういう理念を練り上げるためにはフランス語という言葉は実によくできていると思いますよ。数字の70とか90とかを言うのはちょっとややこしいけどね。 f(^_^;)v

 で、もちろん世界の他の国はこれに乗っておいた方が一応得なのです。
 経済力や軍事力ではとてもアメリカにはかなわないけど、オリンピックのような場では、アメリカとて全種目で金メダルが取れるわけではないので、溜飲を下げるチャンスがいくらでもあるわけですから。たとえばアルジェリアみたいにスポーツ界でそれほど存在感がない国でも、陸上中距離なんて分野ではちゃんと金メダルが取れたりするのです。
 またご存知の通りサッカーではあんまりアメリカは強くないので、これもブラジルやイタリアが世界一と威張れる場になってますでしょう?
 それにオリンピックやワールドカップで活躍したら、何人でも世界的人気を得られて、世界で商品として通用するチャンスを得られるのです。よく思うのですが、あのベッカムでさえ日本でのワールドカップで活躍して日本女性にそのイケメンぶりを印象づけるまで、日本で商品価値というほどのものはなかったのです。
 もしオリンピックもワールドカップもなかったとしたら、現代の世界はずいぶんつまらない、風通しの悪いものだったでしょう。そして世界にフランス人がいなかったとしたら、オリンピックもワールドカップも存在しなかったか、あるいはずいぶん形の違ったものになっていただろうと思います。
 
 フランス自身はオリンピックでもワールドカップでも他を圧するほど強いわけではないですね。だけどそういう誰でもがトップになりうる「場」を作るのに向いた素質があるのです(というようなことに関係したことが『フランス生まれ』という本に書いてあったように思うのですが、この本、持っていたはずなにのどこに行ったか見当たらないんです。 (^_^;) ほんとわたしの家も研究室も乱雑のきわみなので・・・ f(^_^;;) 間違ってましたらごめんなさい。これからも探索続けます)。
 だからオリンピックにおける野球をめぐる駆け引きも、巨視的に見ればアメリカ(的なもの)とフランス(的なもの)のせめぎ合いなのだと思いますよ(もっともパリは2012年の大会をロンドンにとられちゃいましたけど。これについてはまた改めて書きます)。
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rai info/ライ・ニュース 016

FESTIVAL "LES ESCALES" A SAINT-NAZAIRE (FRANCE)
 8月5日、6日に「グリニッジ子午線上で生まれたジャンル」のフェスティバルという変わった趣向のイベント"Les Escales"がフランスはロワール河口にあるサンナゼールで開かれ、ライが代表格で出てました。あわててネットを探って調べてみると、たしかにオランは「北緯35.70°、西経0.62°」でほぼグリニッジ子午線上にあるんですね。全然気がつきませんでした。
 出演していたのはラシード・タハ Rachid Taha、シェブ=マミ Cheb Mamiなどです。
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モローのあきらめ?

 見た順番が前後しますが、ギュスターヴ・モロー展(於 BUNKAMURA ザ・ミュージアム。10月23日まで。9月12日に展示替え休館あり)

 モローにもまた先入見があって、ほとんど興味ないけど一応見ておくか、象徴主義の話の参考にもなるしという感じで行ってみましたが(考えてみればフランスでもどこでもモローの現物をちゃんと見るという機会はこれまでなかったです)、レオノール・フィニとは逆の意味でびっくりしました。
 この人がこんなに「粗い」とは。そういえばなるほどそんなことを人から教えられたことがあったのを思い出しましたが、実際に見てみると実に印象的です。正気ですか、これ?
 典型的なのが入場券にものっているくらい代表作の『一角獣』。女性の服の模様が、細かい線とは言えない無骨な黒の線(とわたしには見えます)で描きこんであります。売れっ子で絵を仕上げている時間がないから描きとばした、ということでない限り、意図的か、あるいは仕方ないと納得してやっていることなんでしょうね。・・・

 と考えてウェブを検索してみました。DADAさんのモロー観にかなり納得しました。彼は、精緻志向は精緻志向なんだけども、どこかで「これくらいでいいか」と思っちゃうということですか。・・・こういうこと言うとなんですが、フランス人にはちょっと「根」に欠けるところがある場合が多いかもしれません。マラソンで強いフランス人なんて聞いたことないですしね(イタリア人がかなり強いのと好対照です)。根性ということを純粋にそれだけで尊んでしまう傾向のある日本人と志向が正反対であるかもしれません。

 以上、全然モロー・ファンでない者のたわごとですので、あんまり気にしないで下さい。     m(_ _)m
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沈黙の捕鯨船

 ところでわたしの住んでいる金沢でマシュー・バー二ー展「拘束のドローイング」をやっているので、いい機会だから見ておこうと思いました(8月25日まで)。
 会場は全国的にも話題になっている「金沢21世紀美術館」でした。うん、これはなかなかいいところですね。本当に成功したかどうかは10年くらい見てみないと分かんない気がしますが、今のところ何度も行ってみたくなる場所になっています。・・・さすが美術館だけあって、ブログ用の写真を撮ろうとして見渡せば、さあ撮って下さいと言わんばかりの形態が見つかりますが、わたしの撮りたかったのは上のもの。喫茶室"Fusion21"で出てくるコースターです。テーブルに乗っていると同心円だけがバラバラに見えて、どうやってコップを支えてるんだ、と一瞬はっとします。

 さてバー二ーの作品そのものの解説とか、そういうことにはあんまり興味がないというか、そういう知識・能力はほとんどないし、わたしはどうしてもそこから自分が持ち帰った印象とかアイディアに興味を集中してしまいます。解説書とかそういうのは見ずに書きますが、ブログなのでこれでいいことにしてくだされば幸いです。

 ・・・バー二ーはいろいろ手を使ってますが作者/作品/鑑賞者というのが整然たるコミュニケーション回路の当たり障りのない諸要素として腰を下ろしてしまわないように、自分のアイディアとその具体化の過程を人目に曝すこと---彼の場合、跳びあがらないと描けないとか体にゴムをゆわえつけるとかで描きにくい状況を作って、わざと苦労して描いている、その自分の姿をさらすこと---を自分の芸術活動のなかに含みこんでいるのでしょう(なんかブログという営みも、芸術ではありませんがこれと似ていないこともないように思えます)。
 映画『拘束のドローイング9』Drawing Restraint 9 も見ました(普通の意味での「作品」に「映画」や「写真」という要素をぶつけて---あるいはその逆?---別の次元を開いています)。映写室はえらい盛況でした。長ったらしい、セリフもない芸術映画ですが、展覧会終了寸前とはいえキャパ150くらいの部屋が1日3回上映でほぼ満席です。
 で、やっぱりお客は女の子の学生さんで8割がた占めています。まあ平日の午後ですからサラリーマンのオヤジたちは来れないにしても、男の学生がもう少し来ないものか・・・。
 映画にオハナシはないこともないですが(メインは日本の茶道のお茶会なので、当然あの茶道を構成する様々なきまりが「拘束」になるわけです。そのほか長時間息を止めなければならない海女さんの苦しい仕事も)、2時間半観客を支えるのは、現代の「鯨のいる場」への好奇心、そして鯨の油の質感への誘惑だと思います(鯨そのものは出てこないと言っていいのですが)。ちなみに、これまで気が付きませんでしたが、バー二ーは案外ウィトゲンシュタインと顔が似ているところがありますね。お茶の勉強もちゃんとしたようです(これは当然か)。彼のパートナー、歌手のビョルクがひとことだけしゃべるところがありますが、アイスランド語でもthank you は tak みたいです。 (^_^) 
 感慨深いのは、日本と日本の捕鯨船を舞台に撮られた映画、登場する西洋人はバーニーとビョルクだけという映画だから当然ではありますが、セリフが(ほとんど)ないということがこの映画の「日本的」な印象を強化する、ということです。日本て、世界の大沈黙国なのでしょうか? かもしれません。いわゆる「国民性」によって、思想によって、加えて歴史の経緯によって? 
 しゃべってない人間は存在してないも同然というおしゃべり国フランスと正反対だな。
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芸術と人の間

 「遣唐使と唐の美術」展と「うつす・まなぶ・つたえる」(於東京国立博物館。どちらも9月11日まで)。

 これを見に行ったのは、中国で墓誌が発見された「青年遣唐使」井真成(いのまなり、またはセイシンセイ)に対する日本人のまなざしが、なんとなく大リーグで活躍するイチローや井口、松井たちを見る目を思わせる感じがしたからです。井真成自身に関する資料はたいへん乏しく、あまりこのアイディアを発展させることはできませんでしたが。
 ところで、たしかライシャワーだったと思いますが遣唐使の船がなんで毎回天候の悪い、難破しやすい季節に出かけて行ったのか解せないと書いてましたが、結局これは中国側が諸民族の朝貢使節を受け入れる時期に合わせていたからなんですね。朝貢使節の滞在費は中国が持っていたのです。しかしそれで生還率6割の旅行をやらせるとは、日本政府は貴重な人材をずいぶん粗末に扱っていたものです。 (^_^;;) (さすがにこれほんとかな、って気がしますので、わたしになにか事実誤認がありましたら、なにとぞお教え下さい。 m(_ _)m )

 さてむしろより興味深かったのは、遣唐使展の続きに会場が設営されているのでついでに入ってみた「うつす・まなぶ・つたえる」の方でした。
 「写す」という実践から芸術に直に接してもらうことで、人と芸術の間のギャップをうめてもらおう、不必要な畏敬(=敬遠)を排して伝統芸術に親しんでもらおう--そういう思いがこの企画にもあるのでしょう。観覧者はフロッタージュで金箔にほとけさまのお顔を写し取ることができ、その金箔はおみやげとして持って帰ることができます[上]。ほかにも書の写し取りとかもあります。
 芸術というのは公に認められ、高尚なもの、はては神聖なものとして奉られてしまうと、どうしても人間との遊離、乖離が始まってしまうものです(大学でフツブンガクなんぞ教えているとほんとにそれを感じますね)。新しい、より魅力的なジャンルが現れたときなど特に、その時点でハイカルチャーとしてのステイタスを保持しているジャンルはそれと対比されて、実際にはまだまだアピール度を持っていたとしても権威の側にいるためにかえってそれが見えなくなってしまうのはほとんど不可避と思います。それに権威の側にあるジャンルに関してはどうしても「これが分からないのはお前が馬鹿だからだ」「勉強不足だ」「感受性がない」と上から下へ言わせてしまい、本人も思ってしまう度合が大きいのでしょう。

 もっともこうやって自尊心を傷つけられた有為の人材がその反発で実学、実業こそ自分の道と考えて、その方向に邁進して成功し、世界に貢献したという場合も多かったかもしれませんね。
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ヒトラー

 『ヒトラー〜最後の12日間〜』(於渋谷:シネマライズ[上])。

 第二次大戦後60年ということで、ヒトラーという史上最悪の人物もそろそろ客観的に扱う気運が出てきた感があります。
 さてそのヒトラーですが、ヒルシュビーゲル監督の映画をみました。
 先にヨアヒム・フェストの原作を読んでいたので、映画の方にそんなに大きな発見はありませんでした。特別に心に残ったことは映画とは直接関係のない、言語的なことです(わたしはこればっかりか)。
 登場人物のひとり、ヒトラー崇拝者がヒトラーに向かってMein Fuhrer, fuhren-Sie... と懇願するところがあったのです(ドイツ語はわたしは本当にあやふやですので、間違っていましたらごめんなさい。ともかく以下の議論に支障はないはずです)。
 ここが勘所のような気がします。Fuhrerだからfuhrenするのが当然というか、fuhrenする以外のことが本質になりようがなく、考えようがないということです。不幸なことに、ドイツの多くの人達はこういうところにも幻惑されたのでしょうね(たしかヒトラーはFuhrerという称号を彼以外に使うのを禁じたのだったと思います)・・・ このあたりの感覚を、ドイツ人の俳優たちがドイツ語を使って演じているのを見ることで、いくらか分かった気がしたのは収穫でした。
 この例に関しては英語で言い換えれば My Leader, lead us ! でしょうからドイツ語と状況は同じことになります。フランス語だと mon Dirigeant, dirigez-nous ! でしょうか(ちょっと雰囲気が違う感じですが)。
 さてこれが日本語だったら・・・ Sootoo-kakka, warera wo michibiki tamae とでもなるんでしょうか。音的にはなんの類似性もない単語が並ぶわけです。「総統」と「導く」の間の関係はどうとでも恣意的な解釈を与えられます。独英仏語で起こることと似たことを起こさせようと思うなら「導き手よ、導いてください」でしょうか。こういうのはどうやっても現代日本語の話し言葉の自然な言い方にはならない。「指導者よ、指導して下さい」がまだ近いかもしれませんが、「指導者」の「者」shaって、音的に言ってFuhrerのerと同じ様態で意味を即座に自然に生じさせるのでしょうか?・・・
 日本語圏では、ヒトラー級の怪物がでてもヒトラーと全く同じやり方で人々をたぶらかすことは難しい気がします(だからといって他にもいろいろ手はあるはずなので日本語話者がとくにだまされにくいということは言えるわけもないですが)。しかし逆に言うと、もっと日常的な政治の文脈では国民が政治を理解して主体的に関わろうとする上で、現在の日本語のたたずまいのあり方が大きな障害になっているように思うのです。いちいち「この語はこういう意味である」と各駅停車で止まり止まりするようにして理解を進めて行かねばならないのですが、当然分からないところが残り、そこがブラックボックスのように残されていることになります。
 それはその人の勉強が足りんのだ、という声が聞こえそうですが、そもそも政治というのは、勉強していない人でも理解できる権利があるもののはずなのです。
 ・・・これまた考え過ぎで、言語のたたずまいの問題を過大視しているかもしれません。
 
「闘うフランス語」について(番外編2)をご参照ください)
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rai info/ライ・ニュース 015

15e FESTIVAL DU RAI D'ORAN
 今年のオラン・ライ・フェスティバルは3日に短縮されたせいもあって低調だったようです。新しいスターの誕生を見ることができませんでしたし、みなが当然出演するものと思っていた Cheb Djelloul、Cheb Abdou、Chabba Kheira、Reda Talianiといったところを聞くことができませんでした。こういうスターたちはこれまで、出演が予定されていなくても当日現場にやってきて、その場で話をつけてステージに上がる、というやり方をやっていたんですね。
 主な出演としては、Belkacem Bouteldja、El Hindi(まだやってましたか。もうすぐ引退するとか言ってたように思うんですが)、Cheb Redouaneが初日に、Bella(このひと女性じゃありません。ムクツケキ男です[上]。(^_^;) )、Nani、Houari Dauphinが二日目に、Cheikha Nedjmaが二日目、三日目と登場しています。
 三日目の最終日には文化大臣Khalida Toumiの臨席をあおいでいます。この晩、フランスから来たレゲエグループ、Rabsta Familyというのが出演していますが、これは既に発表済みのこのフェスティバルをワールドミュージック全体に開放する方針の最初の試みということです。またレバノンから来たKhorchid Daoud がブーテフリカ大統領に賛辞を述べた後、ビラルの歌を歌うなんてことをやってます。なんかちょっとうっとうしいですね。はたしてオランのファンはこういう構成で納得するんでしょうか? 
 ちなみに今後フェスティバルは Festival culturel national annuel de la chanson rai 「ライ歌謡全国文化例祭」というのが正式名になるそうです。 (^_^;)  官製だなあって感じがしますね。個人の恣意がまかり通る前近代的運営、「コンプライアンス」意識ゼロの運営には問題がありすぎて是正されなければならないというのは確かにそうですが、それだけ出たとこ勝負のいいかげんな運営が予期せぬ面白さを生むということもなくなるのでしょう。・・・なんかかえってナスロに頑張ってほしい気もしてきました。 (^_^;)  
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フランスと芸術

 フィリップス・コレクション展--アートの教科書(於森アーツセンターギャラリー。9月4日まで)。
 かのホリエモン社長さんが東京を睥睨する「六本木ヒルズ」の52階にあって22時までやってるギャラリーです。

 ここにある「名画」たちの与える印象とつい数時間前に見たアジアの名画たちの与える印象の差は歴然としていて、アジア勢はなんか写真図版で見る方がいい感じにみえる気がするのです。作品が保存されている土地の気候によるものか、ニスなどによるものか、日々のメンテナンスのノウハウによるのか、あるいは単に腕の巧拙によるのかわたしにはよく分かりませんが、ヨーロッパ(というか大半はフランス)名画さんたちは物理的な、質感の点で優っている感じがします。このレベルで差をつけられてはアジアはかなわない。アジア人は別のことをやるべきなのか、ということになっちゃいかねないです。
 ただ「洋画」というグローバルスタンダードの同じ土俵で勝負していくなら、今はともかく、やがては西洋人も絵画の分野における非西洋人の営みの意義を今よりずっと理解するようになるかもしれません。そのときには音楽における「ワールドミュージック」の作り手たちと同じような努力がしっかり評価されるようになるでしょう。

 それはともかく、この展覧会の趣旨のひとつは「アートの教育」ということになります。会場でやってるビデオによると、アメリカの大学で美術史を勉強するのが事実上不可能という時代が20世紀初頭まで続いていたそうなのですが、コレクションの創始者ダンカン・フィリップス(1886年生)と同時代の「(西洋)美術」というのは「フランス美術」ということとほとんど同じであったように思えます。
 今回の目玉作品はルノワールの「舟遊びの昼食」ですが---中央一番奥の人物がジュール・ラフォルグだとは知りませんでした(27歳で夭折した彼がこんなところに自らの姿をとどめているとは)ーーー、この作品の世界に親しみをもたせるために、絵の中の人物がかぶっている帽子の実物、つまり「当時フランスで使われていた帽子」を生徒たちに被らせてみる、というようなところまでフィリップス・コレクションの「美術教育」は含みこんでいるんですね。

 19世紀から20世紀にかけての時代、美術の天才たちはほとんどフランス人であるか、またはフランスでフランス語で活躍した人たちですね。こんなに一地域にひとつの美学系統の営為の粋が集中するというのはルネサンス期のイタリアと同じく希有な例でしょう。
 まったくフランスは強力な武器をもってますね。以後世界に拡散した現代芸術がひとつのオハナシにまとめにくい感じがするだけにますますその感を強くします。
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