rai info/ライ・ニュース 130

ROCK LA CASBAH : TUBE ET BOUQUIN

 ラシード・タハも自伝を出しました! タイトルは Rock la Casbah。クラッシュの曲をタハがカバーしたヒットのタイトルをそのまま使っています。フォーデルのと同じでDominique Lacoutという人の助力を借りてますが、こっちはFlammarionから出してます。
 これも早く読まなくちゃ。 (^_^)y

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極南?


 ルノワール+ルノワール展(於Bunkamura ザ・ミュージアム。5月6日まで)。

 やっとこれ見てきました。 (^_^)y

 画家ルノワールは、勉強、というのでなくて楽しく見に行くのです。理論とかそういうの抜きで、この絵がここに存在しなければならない、という理由がよく理解できますものね。で、その中心にあるのがやっぱり人と、顔なんですね。肖像画です。

 「歩いている労働者階級の若い女性ほど魅力的なものはない」 Je crois qu'il n'y a rien de plus charmant qu'une jeune fille de la classe ouvriere qui marche という映画監督の息子の言葉は、画家である父の感慨でもあったでしょう。この言葉は一見するより意味が深いと思いますよ。

 以前『C階段』っていう映画を見まして、これのラストですれからしのディレッタントがルノワールを前に涙する、というシーンがあったのを思い出しました。

 「極北」って言い方があります。こんな言葉はないですけどルノワールには「極南」という言葉があてはまるような気がします。

 息子の映画と合わせて展示するというこのハイブリッド方式展覧会はこれからもっと行われるようになるでしょう。
 ただこうやってみると、やっぱり映画というのは絵画と小説の中間あたりにあるな、という感じはしますね。
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だるまさんがころんだ


 ・・・てことで、『アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ』DVD+CDついに出ました!

 拙稿のライナーノーツのタイトルは『「アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ」も知らないで現代が語れるもんか!』となってます。

 おおげさじゃなくて、そうだと思いますよ。
 最近友人へのメールになにげなく書いて、書いた自分で「なるほどそうだな」と納得していることがあります。それは「世界のあらゆるところで伝統とか、ローカルなものとかが近代化、グローバルなものとキシキシ音をたてて擦れあってるのが現代」だ、というものです。
 そして植民地化、文化の越境と混交、移民などなどの現代的な諸問題、諸テーマのひとつの帰結が、アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ・コンサートのすばらしい音楽に具現しているところがあるのです。

 これで3150円は安い! さあ買おう! (そろそろ露店商人のノリになってきてますね。(^_^;) ) お申し込みはオフィス・サンビーニャさんのサイトまで。

(ちなみに1, 2, 3 Soleilsというのは、日本の「だるまさんがころんだ」に相当するフランスの遊びです。厳密に言うとその場合soleilは単数形なんですけどね。複数形にすることで三つの太陽=三人のスターというのがかけてあるのです。それからハレドが音楽を担当した1, 2, 3 Soleilという映画があるのも踏まえていると思います)
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CD


 今日は神戸でライのお話でした。神戸国際会館という立派な場所での日仏文化講座という催しです。

 これまでもうずいぶんいろんなところでお話ししてますが、「受けなかったかな?」という感触はいっぺんも持ったことがありません。

 それだけ社会的ニーズのあるお話だと思ってます。 (^_^)y

 でもほんとに場によって聴衆の方々の嗜好、年齢層等や、設備の状況が千差万別なのは面白いです。

 できる限りすんなり対応できるようにいろいろ用意しているんですが、それでも対応しきれないところがあります。

 このところはヨーロッパの主流であるPAL方式DVDが日本の再生機で見られないのが面倒になってきました。PALでコピーガードがかかっているやつは、どうしても見ようと思ったら、こっちからPAL対応機種の小っこいのを持っていって、その場の機械とうまくつながないといけない。これはめんどくさいです。

 あとMDとか、カセットとかも場所によって使えたり使えなかったりします。
 MD(ミニディスク)はその日使う曲を全部一本に入れておけるし、長すぎる前奏をとばす細工ができるなど、使えると便利なんですけどね。
 カセットなどはもう過去のもの、という感覚が日本では広がりつつあるのかもしれませんが、アルジェリアやフランス現地で買ってきた実物資料としてのカセットが使えないのは時に残念と思うことがあります。

 さて今日はプロジェクタでパワーポイントによるライのプレゼンテーションが骨格でした(このパワポ資料の骨組みを作ってくださったレ○さん、ありがとうございます。ほんとに役にたってます。m(_ _)m)。
 でもわたしはできればパワポは使いたくないほうです。体裁が無機質で画一化されているのがどうも気に入らなくて。それと機械不調の際即座に対応できるようにするためもあって、A4カラーコピーした資料の束を持ち歩いてるんですが、今回のように聴衆の数が数十人のレベルを越えるとさすがにこれでは無理です。

 今日はじめて経験した条件は、CDをDVDの機械で聞く形になっていて、CD聞くだけで切り替え操作が必要だったことです。
 音楽の世界ももう映像が伴ったDVDが主、という感じの時代なのでしょう。それに映像がないと、アルジェリアのポップシーンみたいな日本から遠い世界のことは分からないでしょう。
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未来とプラネタリウム


 つくばに住んでいる方、ごめんなさい。m(_ _)m

 つくばについては無機質という悪評を聞きますが、大学や周辺部をうろうろしているだけではそういうことは感じませんでした。
 今回はじめて中心部をうろうろしてみてそれがどういう意味か、少し分かった気がしました。

 金沢だったら、市の端の方に住んでいても、想像界の中の中心街、香林坊や片町あたりになんか「雑多」な、自分の知らない、正体不明のものが潜んでいることを漠然と感じながら生活しているわけですが、ここだとそれは感じにくいだろうな・・・ということでしょうか。
 もしそれがないのだったら、なんか常の空間とは違うものがあってほしいという心を満たしてほしいわけです。代表的なのは宗教的な建物ですね。誰もが素直になにか超越したものの存在を想定してしまうような、そういう空間です。
 科学オンリーだと、ダメみたいですね。
 金沢二十一世紀美術館はかなり評判ですが、中心街がこれだけだったら、やっぱしダメではないか、という感じがします。

 土曜日の午後、つくば中心部、エキスポセンターのプラネタリウムの前にちっちゃいゴーカートに乗っていたひと組の母子。
 この「センター」作った人は、こういう光景を想定して作ったんだろうか、もっと人が常につどう空間を「希望的に」想定したんじゃないか、とか、結局のところわれわれは夢の未来を築こうと努力しているにもかかわらず、いざ作るとなるとどこが夢だったのか分からなくなるようなものを作っちゃう、ということじゃないかな、とかつい考えてしまいます。

 というようなことが、プラネタリウムの、何の飾りもないつるんとしたコンクリートの半球に象徴されているような感じがしたわけです・・・
 普通たてものというのは内側を使うものでありながら、外側を数々の意味作用でうずめることで進歩してきたものだと思うのですが、なぜかプラネタリウムだけは「自分は外がズンベラボウでも許される!」と思いこんでる感じですね。いったいなぜだろう???・・・

 まあともかくつくばもこれで終わりじゃないでしょうから、なんとか住民のみなさん、愛される街づくりがんばってください。

 今回もなんか内にこもった思索になりました・・・

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聴衆

 つくばに来てます。
「チュニジアデー」という催しで、久しぶりにクラブ=バシュラフの演奏を聴きました。

 このグループはアラブ古典音楽を演奏する日本唯一のグループです。ウードの松田さん、ネイの竹間さんはチュニスで修業されたんですよ。 (^_^)

 さて演奏が始まるとチュニジア人たちが乗り乗り。最後の方になると合唱になって、ステージに何人も上がって踊りだしたのは壮観でした。

 古典音楽でこういうの、見たことなかったな。
 でも客席に実際にその音楽を創り、享受している「本来の」聴衆がいると音楽が実に生き生きするかというのが如実に感じられました(クラブ=バシュラフのいつもの演奏に生気がないというわけでは全然ないですが)。
 つまり、この音楽は「こんなふうに」受容されるんだ、という感覚が分かるのです。そしてその「こんなふうに」というのは、言葉ではあらわせないのです。

 
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このエントリーこのエントリーの続きです。ちょっとめんどくさい話です。 m(_ _)m
 今の気分のせいか、いつもと雰囲気の違うエントリーですみません。これから旅行とか、これから苦心して書いた論文が出るとかいうときはなぜか沈んだ気持ちになります。旅行の前は仕事にケリをつけるために力を使い果たすので疲労困憊からそうなるのでしょうか。そしてなんかそういうときはゲージュツとか詩とかに敏感になるような気がします・・・)

 この展覧会がいまいちわたしにとって乗れないものだったのは、その、なんというか、「自と他」という問題意識で、わたしにとっては「自と他」という枠では見れないようなものを見ようとしたからだったかな、と思うんです(でも考えているうちに、結局それが自と他の問題の本質だったということがわかる、という結末になるかもしれない、という感じもするわけですが)。
 だからかもしれないですけど、ひとつひとつの作品だけ取り出して頭に浮かべてみると、かなり面白かった気もしてくるのです。

 自と他、などという人間の根幹にかかわる問題への迫り方は、明らかに作家、作品によって違うわけなので、並んでいる作品ごとに観る方の頭を180度転換しないといけない。そんなことは無理のような気がするんですが。
 となると「美術館」という「ハコ」にそういうものを集結させることにいったいどういう意味があるんだろうかと考えますが、どうなんでしょう? こういうことは当然考えている人がおられると思いますけど。

 で、わたしにとって、今かんがえて面白かったと言えそうなのは「顔」の作品です。わたしはどうも、自と他の問題に、顔から入るようです(ご興味ありましたらこのエントリーもご笑覧ください)。

 渡辺克巳作品のように、新宿に集う人々、という大テーマがはっきりしている場合には、別に顔がこっちを向いていてもいなくても構わないです。撮影者のアイデンティティも実にはっきりしていて、観るものはそれを織り込み済みで見るわけですね。

 そういう大枠が取っ払われている場合には、より考えないといけません。

 「わたしいまめまいしたわ」(↑)での牛腸(ごちょう)茂雄という人の写真作品が後から気になってます。SELF AND OTHERSという作品名なので、もろに自と他、なんですけどね。やっぱりわたしにとっては「顔」の作品です。

 「こっちを向いた顔」というのは、まったく顔というものがとる常の形であって、あまりに自然なものなので、これになにかしら転調を加えることで意味がぶわっと生じてくる、と思います。

 牛腸作品は、何十枚もこちらを向いた人たちの写真を並べたものですが、最初の赤ん坊の写真、真ん中の眠る女性の写真、最後の子供たちが向こうの光の中に駆けていく写真だけ、人物がこっちを向いていないです。
 もっともそのことに注意を喚起する解説を会場で読んでしまったわけなので、ほんとはゆっくり見ていってそれを自分で気づくべきところなのかもしれませんが・・・

 最初に赤ん坊がいるのだもの、これは明らかに人間の一生の隠喩でしょうね。
 ならば最後の写真は死を意味するはず。

 ポイントはまんなかの眠る女性の写真のように思います。ぬいぐるみをかかえた女性が寝てますが、カーテンもない異様に光の入る部屋の、大きな窓際にベッドが置いてあります。普通こんなところで寝てられないような・・・
 これは、作者がわざわざこの場所にベッドを置き、女性に寝てもらって、撮ったのでしょうね。
 この女性も、片腕を垂らしているところなんか西洋図像学の死のサイン(ピエタとか『マラーの死』とか)ですから、やっぱり死を示してるんでしょうか。

 死って、自の終わりですね。

 うーん私の考えはここで止まりますが、なんか気になりますね・・・
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rai info/ライ・ニュース 129


FAUDEL : ITINERAIRE D'UN ENFANT DE CITE

 ハレドの歌にLiah Liahというのがあります。

 おまえは俺の母と口もきかない
 苦しみを癒してくれ、俺の髪は白くなる
 俺はツキもないし、美男でもない
 おまえが俺とおなじくらい苦しんでくれるなら!
 呪われた女め、俺の中に何を求めて来たのだ?
 おまえのために、俺は両親にまで背いたのに

 こういうのが典型的ライの歌詞です。
 そしてフォーデルはまさにこういう苦しみを経験したようですね(彼は美男ですけど)。ただ彼は両親に背くことまではできなかった。だから奥さんは子供と一緒に去って行ったんですね・・・

 ところで最近出版されたフォーデルの自伝、入手しました。とりあえずぱらぱら拾い読みした限りでは、離別の詳しい経過は書かれてません。苦しみは切々とつづってありますが。
 離婚の直接的原因だけでなく、奥さんの名前さえ書いてないです。チュニジア系の方という噂が聞こえてますが、これももちろん書いてありません。
 アラブの人らしく、プライヴェートなことを語るときのガードが固いですね。それにフォーデルは奥さんに戻ってきてほしいのだから、あんまりいろいろは書けないんでしょうね。

 別に奥さんはフォーデルのお母さんとわざと口もきかないようなひどい女性だったというようなことではないと思われますが、それでもフォーデルの家族には受け入れがたい事情のある人だったんでしょうか。
 
 その外はアイドルが自らの生い立ちを語るという体裁の本です。まあゆっくり読んでみます。
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ライの授業から


(前のエントリーの続き)

 ↑は仙台のお酒、浦霞。金沢に負けずに美味しい地酒はいろいろあるようです。(^_^)v

 東北大で受講していただいた韓国のLさんに「これからは東京=ソウル=北京の三か所公演くらいでヨーロッパからアーチスト呼べるといいんですけどね」というと「韓国は人口が少ないですからなかなかそういうのは」というお答え。
 その「小」の感覚は日本も見習わないといけないですね。
 でもワールドミュージックに関して言えば、問題は「啓蒙」だと思います。マーケットが広報コストを払わないために全然知られてないけどものすごくよい音楽というのが世の中にたくさんあるのだ、ということが分かった人を作っておくわけです。そうすればソウルもそこそこリスナー人口をかかえられるでしょう。

 金沢大のライ・ゼミも終わりました。今年はなんかライにジワーッときた学生が多かったみたい。去年はもっと熱さが表にでていて「おれ、ラシード・タハ尊敬する」と言い出した学生がいたりしました(たしかにタハは単に受ける曲を作って売れればいいと考える歌手ではなくて活動にコンセプトがあるし、曲も一曲一曲にそれぞれ意味が込められているので「勉強」に値するんです)。
 このゼミに関しては男の子がそこそこいますね。 (^_^)v

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仙台―金沢


 東北大の集中講義、もう一週間前に終わってるんですが、いまごろ書きます。仕事と仕事の間に無理に入れたもんですから日程がハードで大変でした。

 昨日は久しぶりに休養。午後ずっと寝てましたが、夜も普通に寝れました。ということは睡眠が一回分抜けてたんでしょうか。 (^_^;)

 集中講義に呼んでくれたのが寺本成彦先生(彼がどれほど偉いのかは、もうすぐ発売になる『アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ』ライナーに書きましたので見てください。(^_^)y )でなければ引き受けなかったでしょう。

 お題は例によって「ポップ音楽ライを通じて知るアルジェリア社会とフランス社会」というのですけど、受講された方の数はあんまり多くなかったです。でもモンゴルの方、韓国の方を交えてなかなか活発でした。わたしの授業は日本以外の方に受けるのかもしれませんね・・・ ライをさかなに、フランス、アルジェリア、日本、韓国、モンゴル等々の人がそれぞれの立場からバトルでトークなんかができたら面白いかもしれないな、てなことも考えました。なかなか難しいでしょうけどね。

 また仙台空港でわたしのとんでもない忘れ物 (*_*;)保管してくださった菅原さんに感謝の言葉を送りたいと思います。ありがとうございました。m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m

 ところで仙台は金沢に比べて乾いた寒さという感じですね。むこうは伊達正宗でこっちは前田利家、なんか天気にまで藩の開祖のキャラが反映してるような気が。

 ところで金沢はいまひどい雪です。できればあんまり外に出たくないです。

 夜に高速走ると、車が見事にひっくり返ってたりします。くわばらくわばら・・・


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