唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

河中節度使史 その1

2021-03-02 13:49:23 | Weblog
蒲州[河東郡.河中府]は京師と、唐の建国地河東[太原府]を結ぶ要地である。また鹽池が有り多額の税収が得られる地域であった。

天寶十五年/至德元年[756]
◎.? 安禄山軍に対して河中防禦守捉蒲關使が設置され、呂崇賁が防禦使となった。
◎.6月 安禄山軍に潼関で唐軍は大敗し、京師は陥落した。蒲、華、同、商州防御使は皆逃亡し守兵は逃散した。
◎.7月 關内采訪使が節度使となり、前蒲關防御使呂崇賁が節度使となった。

至德二年[757]
◎.正月/2月 朔方節度使郭子儀が賊將崔乾祐を潼關に破り河東郡[蒲州]を回復した。
◎.3月 賊将安守忠が河東を攻撃したが、郭子儀が撃退した。
◎.4月 郭子儀は關内河東副元帥となった。
◎.10月 唐軍が京師・東京を回復し河東・河南諸郡を制圧した。
◎.? 馮翊[同州]太守顔真卿が蒲州刺史本郡防御使封丹陽縣開國子となった。真卿は安禄山の乱に際して挙族抗戦したが敗れて入朝し、憲部尚書兼御史大夫となっていたが、その剛直さを宰相等に敬遠されて馮翊太守に出されていた。
◎.12月 河中防禦使は河中節度兼蒲關防禦使となり,蒲晉絳隰慈虢同七州を管轄した。

乾元元年[758]
◎.10月 顔真卿は御史唐旻の誣告により饒州刺史へ貶せられた。
◎.9月 右羽林大将軍趙泚が蒲州刺史蒲同虢三州節度使となった。

乾元二年[759]
◎.7月 刑部尚書王璵が蒲州刺史充蒲同絳三州節度使となった。璵は禮典の専門家である。

乾元三年/上元元年[760]
◎.2月 尚書右丞崔寓が蒲州刺史充蒲同晉絳等州節度使となった。
◎.2/3/4月 蒲州は河中府に昇格し、尚書右丞蕭華が河中尹兼御史中丞充同晉絳等州節度觀察處置使となった。
◎.8月 將作監王昂が河中尹河中晉絳等州節度使となった。

上元二年[761]
◎.2月 前河中尹蕭華は宰相となった。
◎.3月 副元帥李光弼が史思明に敗北した責任を取り、太尉と中書令を辞した。敗戦は唐朝の指示による強行で、光弼としては不本意な戦いであった。そこで光弼は不満を示したわけで、唐朝は慌てて侍中河中尹晉絳等州節度觀察使として遇した。
◎.5月 すぐ李光弼は大尉兼侍中.河南副元帥都統河南淮南山東五道行営節度しなり、臨淮郡に鎭した。現実の河中節度使は王昂が継続していたと推定できる。

唐史データリンク集

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 嶺南節度使史 その9 | トップ | 河中節度使史 その2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事