「・15のライフレッスンbyキューブラーロス」カテゴリーからの投稿です。
不幸にして、ある人たち・・・実はあまりにも多くの人たち・・・にとっては、愛
はしばしば支配であり、操作であり、ときに憎しみであるのです。しかし、不幸な
経験によって形成された狂気に、いつまでも囚われている必要はありません。愛を
定義し直し、望ましい関係を作り上げることは可能なのです。ところが残念ながら、
そうしようとする人は少ない。
人がうまくいかない関係の中に留まる理由は二つあります。一つは相手が変わる事
を期待しているから、もう一つは、どんな関係でもきっとうまくいくはずだと教え
られてきたからです。うまくいかなかった昔の関係に戻ろうとする人が、いかに多
いことか・・・。
自分がおかしいと思う事について相手と対決するのは、何も悪い事ではありません。
ただし、期待を持った対決は相手への操作になります。相手と分かち合い、互いに
真実を語る必要はあります。ただし、自分が望む反応を得るためにそうしてなりま
せん。
毎日を いらいらしながら暮らしている人は、「こうあるべきだ」というイメージを
持っている人です。
現在の相手を見ることは、過去や未来の相手を見る事よりも難しい。相手がずっと
昔にした事を、未だに根に持っている人がなんと多い事か。たとえ相手が謝罪し、
変わっていたとしても、過去の不幸な記憶で現在の相手を評価している人は沢山い
ます。
将来に対するイメージ、こうあるべきだという幻想、そして戦略や健忘録を手放し
たとき、愛は自然にあるべき形をとってきます。愛は私たちの思うところには行か
ず、愛自身が行きたいところに行くものなのです。
人間関係を通して自己の魂の存在を学び、魂の豊かな構造を学び、自己を癒しへと
導く事を学びます。愛の関係において先入観から生まれた自分だけの記憶の執着を
捨てたとき、私たちは誰を愛するのか、いつまで愛し続けるのかといった疑問を退
けます。私たちよりはるかに偉大な力によって、私たちのために創造された本当の
愛を見つけるために、その限界を乗り越えるのです。
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愛を定義しなおす・・・今まで思っていた「愛」は違っている。染み付いてしまった固定観念
を壊してみる。そこから違った世界が見えてくるのかもしれません。
相手を、自分好みにしようとしてはいけない。人をコントロールすることはできない。相手を
尊重し、傾聴する・・・・そこから分かり合える光が見えてくるのでしょう。
「いらいらしながら暮らしている人は、「こうあるべきだ」というイメージを持っている人」・・・・
小我が強いという事になりますね。自分の思考の枠の外の事が許せず、枠の中でなけれ
ば安心できないといった事なのでしょう。
「現在の相手を見る」・・・・相手の過去の事や、今まではこうだったという記憶が、相手を
見る先入観を作成してしまいます。「今のあなた」「今日のあなた」に、なんの先入観も持た
ずに接することができれば、全く違った人間関係が築けるかもしれません。
昨日会社で誰かから嫌な思いを受けた。その嫌な思いを昨日のうちに切り捨て、今日、
その人とまっさらな状態で接してみる。おそらくできないでしょう(笑)でも、そんなつもりで
思考・行動していると、受けた嫌な思いという感情の束縛時間は、どんどん短くなっていき
ます。試してみてください^^
後ほど「時間のレッスン」が出てきますが、「現在の相手を見る」は、「現在に生きる」に繋が
ります。ここでも強烈な訓えがありますのでお楽しみを^^
以上で、「人間関係のレッスン」は、終了。次回からは、「喪失のレッスン」です。
煩悩のひとつなんですよ。
よく言われる「愛」は、「慈悲」という言葉が
近いとされます。
仏教の思想から生まれた概念で、人間が持つ根本的な欲望のこと。
欲愛(よくあい)・・・肉体の快楽を求める欲望
有愛(うあい)・・・生きることへの執着
無有愛(むうあい)・・・平穏に生きたいという欲望
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ふむふむ・・・
「渇」は、「かわく」ですものね。
「渇いている」と感じているのであれば、
満たさなければなりません。満たす行為は、
小我といったところでしょうか。
15のライフレッスンbyキューブラーロスに
出てくる「愛」は、そんな渇愛(所有愛、恋
愛、執着)と慈悲(慈愛)が、ごちゃ混ぜなん
ですよ。
ただ、生きていると、まさにごちゃ混ぜな状態
の真っ只中にいるので、分けずに都度気が付け
ばいいのかなと。
それでも、気が付くと渇愛に陥っちゃって、自
ら苦しむことが多いですよね。
まあ、この世で生きていれば仕方ないことなの
かもしれませんが。
カナメは、どうバランスをとっていくかなのか
なあ。
だんだん「渇」ではなく「枯」てくれば、
自然に慈愛に向かうのかも・・・・ね(笑