~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

中氷川神社(所沢市三ヶ島)

2017-02-23 15:50:51 | ・神社・お寺

2017.2 中氷川神社(所沢市山口)へ参拝後、もうひとつの中氷川神社(所沢市三ヶ島)へ向かいました。

二つの中氷川神社が存在するわけですが、二つの中氷川神社がいずれも「大宮市の氷川神社と奥多摩町の氷川神社の中間に

建つので中氷川神社と称する」「延長五年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載された延喜式内社である」

と主張しているそうです。

http://buraritabi305.blog.fc2.com/blog-entry-164.html

こちら様のブログで詳しく考察していますが、郷土歴史家の間でも未解決のようです。

山口の中氷川神社は、今風、明るい感じですが、こちらは、鎮守感満載です。

拝殿

本殿

本殿の裏側には枯れてしまった御神木の大きなケヤキが残されていました。樹齢は1000年近くありそうです。

枯れてしまっては可愛そうだと切ってしまう神社もありましたが、ここではまるでこちらが中氷川神社であると云わんばかり

に残されているようにも感じました。

いずれにしても、明るい感じの山口の中氷川神社とは対照的な深い森の中のような空間で、太古からの様相を呈しているように

感じられました。 


中氷川神社(所沢市山口)

2017-02-23 15:50:07 | ・神社・お寺

2017.2 中氷川神社へ参ってきました。


中氷川神社

・埼玉県所沢市山口にある、氷川信仰の神社である。

旧入間郡と多摩郡92村の総鎮守で旧県社。

・式内社・中氷川社の論社であり、大宮氷川神社同様、須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命の3神を祀る。

・中氷川神社の「中」の意味は、大宮氷川神社と奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間

 大宮氷川神社と武蔵国の国府(東京都府中市)の中間などの説がある。

・崇神天皇御代の創建と伝えられる。

・平安時代末期に山口家継が社殿造営し、その後兵火により焼失したが、天正年間(1573年~1593年)に

 山口高忠が山口城とともに再興した。

by wikipedia 

延喜式式内社の中氷川社に比定される。

・山口貯水池の湖底に沈んだ、朝鮮半島より渡来した人の居住地と伝えられる勝楽寺村の七社神社が合祀されている。 

・当地は狭山丘陵の谷あいを流れる柳瀬川流域にある。ここは、河川沿いに集落が開けているため、その地形は東西に

 長く南北に短い。山口という地名は、この水の出る山の口を指して名付けられたものと思われる。

立派な神社です。

手水舎

川のように流れていました。このような作りの手水舎ははじめてみましたね。

狭山湖から流れ出る柳瀬川のようですね。

拝殿

本殿

拝殿脇の「和魂宮」

戦没者を慰霊する「護国神社」の相当する社のようです。

 http://buraritabi305.blog.fc2.com/blog-entry-163.html

境内にある金比羅神社

祠を覆っている建物は、昭和七年の本殿再建前の「中氷川神社旧本殿」のようです。http://buraritabi305.blog.fc2.com/blog-entry-163.html

なんかとても存在感のある重厚な覆いでした。

境内階段上より

とても立派な神社でした。もう一社、 同じ名前の中氷川神社(所沢市三ヶ島)へ向かいます。


秋谷神明社(横須賀市秋谷)

2017-02-17 11:56:26 | ・神社・お寺

2017.2

三浦半島最高峰の大楠山を登りに行きましたが、道中、秋谷神明社へ寄りました。

若命家長屋門

屋根は瓦ぶきで、壁は漆喰(しっくい)、腰には平瓦を張り付けた、なまこ壁の長屋門です。入口正面に向って左手には

納屋、米蔵があり、右手には畳部屋が付属します。門扉は内開きの欅(けやき)の扉で、以前は木部に柿渋が塗られ、

雨や風からの保護がなされていました。建築年代は江戸末期と伝えられています。若命家は、江戸時代に秋谷村の名主役を

務め、本陣としての役目を果たしていました。横須賀市hpより

長屋門の奥に「秋谷神明社」はありました。

拝殿

立派な神社です。彫刻も素晴らしい。

ゆっくり、じっくり観たかったのですが、大楠山へ登りますし、翌日が祈年祭のようで準備の方々が沢山居られたので

まあ、また機会があれば訪れたいと。。

元弘元年(1331年)に若命基盛が相模国葛原から祭神を奉載し秋谷に移し、秋谷の守護神となったようですね。


大楠山ハイキング3(山頂展望~帰路~長井)

2017-02-17 11:51:07 | ・旅・山

2017.2 大楠山へ登ってきました。

大楠山

横須賀市西部にある海抜241.3mの山。三浦丘陵の一角をなし、三浦半島最高峰として知られる。関東100名山の第100番目。

というわけで、240mの山なら大したことないだろうと思ったら大間違い。素晴らしい展望でした。

海岸線から登ったわけで0m~240m、例えば高尾山だったら、高尾山口駅191m~高尾山駅472m=281m。

山を下りてお昼ご飯と思ってましたが、山頂ですでに12時^^;

山頂に小さな休憩所があってカップヌードルお湯付があったので助かりました。

 

らせん階段上の展望です。

富士山は、少し雲をはらんでいましたが終始望めました。

左は国土交通省のレーダー雨量観測所。

東京方面

中央より右側に薄ら「東京スカイツリー」が見えています。

アップで。

左側は「江の島」 山々は「丹沢山系」ですね。

大楠山北にある「葉山国際カンツリー倶楽部」

富士山方向

富士山 アップで。手前は真鶴半島かな。

南方面 三浦半島が全貌できました。右側は伊豆大島。

らせん階段展望台の直下

猿島

東京スカイツリー 超望遠撮影

しらばく経った同じ場所から、東京スカイツリー 超望遠撮影

どうしてこんなに色が違うんだろう。どちらも天候はそう変わりなかったと思うんだけど・・・。

帰りは違うルート、林道に沿って下りました。途中、頂上よりも綺麗な河津桜と葉の花に出逢えましたよ。 

メジロくんが数羽賑やかに飛び回っていました。

ん?この穴は・・・?

入ってみました。防空壕のようだなあ。削り後が生々しいです。右側には覗ける穴が開いていて外が見えていました。

その後、途中で無農薬の無人販売所で野菜を買って、立石駐車場へ戻りました。

帰りは、ちょっと用事で長井まで行きました。

 

午後から急速に風が強くなりました。長井の小和田湾から望む海がすごい色をしていました。

この辺りはウミウシ探索の引潮時にしか来ないので、ほぼ満潮時の海は久しぶりでしたねー。

江の島 丹沢方向

富士山

南方向

空も怪しい色合いになっていましたが、雨に降られることはありませんでした。FIN


大楠山ハイキング2(前田橋~頂上付近)

2017-02-16 08:47:32 | ・旅・山

2017.2.11

立石の駐車場に車を止めて大楠山へ。

前田橋まで歩き、前田川遊歩道を上流へ。 

とても良く整備できた遊歩道です。

キセキレイが居ましたよ。

前田川遊歩道・・・全長1380m

前田川

三浦半島最高峰、大楠山(242m)からあふれ出す豊かな水。それをたたえる前田川は、秋谷の海水浴場にたどり着く

全長約3キロの流れ。そのうちの約1.4キロが、前田川遊歩道として整備されています。整備といっても、ほとんどの道が

自然の狭い川原をたどっていくルートです。 

遊歩道終わり辺りでは、「タイワンリス」も居ましたよ。

馬頭観音^^

ここを過ぎると山道を登っていきます。

登山道、正面からタッタカやってきました。

陽当りの良い斜面にはスミレが咲いていました。

途中から富士山が見え始めました。

山頂脇

雪が少し残っていました。と同時に河津桜が咲いていましたよ。ここで雪と桜とは思いもよらないサプライズでした。

梅と菜の花畑。菜の花はわずかに咲いていました。

大楠山レーダ雨量観測所

大楠山(おおぐすやま)

横須賀市西部にある海抜241.3mの山である。三浦丘陵の一角をなし、三浦半島最高峰として知られる。

関東100名山の第100番目。

大楠山レーダ雨量観測所脇の展望台に上りましたが、そこから見える上の写真のらせん階段上がトップのようなので

そちらへ向かいます。そこからの展望は次回投稿します。

今回歩いたコース


越生神社(埼玉県越生町)

2017-02-15 15:02:07 | ・神社・お寺

2017.2

近くを通ったので立ち寄りました。

大高取山塊の東の端、越生町役場の近くにあります。

鳥居の奥に静けさを感じます。

風が割と強かったのですが「無」「静」を感じる佇まいの拝殿でした。

拝殿を見守っていたら動画が撮りたくなりました。

動画で拝殿をアップしたら、す~~~っと風が流れ、拝殿の紙垂を揺らしました。

100年以上前の写真ですね。家々が時代を感じさせます。

漆黒の中、圧倒的に煌びやかに輝いていました。

歴史を感じさせる燈籠です。素朴な形がいいですね。

越生神社

明治42年(1909年)に、神社合祀令を受けて、琴平神社に、旧越生村村社八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の

八坂神社、ほか市街地に点在していた稲荷社を合祀して造営された神社である。

七月下旬に催される「越生祭り」は、牛頭天王を祀る八坂神社の祭典、祇園祭(天王様)の系譜を引いている。神社を出立

した紳輿が町内を渡御し、夕刻から曳航される六代の山車の上では、神田囃子の流れを汲む囃子の競演が繰り広げられ、

華やかな江戸天下祭の名残を今に伝えている。

越生神社の奥宮がある高取山には中世の山城跡がある。標高約170mの頂上が平らに削られ、空堀と土累で画された郭

(曲輪)が数段残されている。江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。

生越四郎左衛門は「太平記」に登場する。南朝の北畠顕家を討ち取った武将である。越生神社下方の平坦地付近と推定

されている越生氏館背後の高取山に築かれた「物見砦」や「詰城」であった可能性がある。一方、現存する遺構は室町期

後半から戦国期のものであり、太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。

平成二五年三月 越生町教育委員会

越生子ノ権現

越生神社の境内にありました。

飯能の子ノ権現にも行ったことがありますが、ここにも勧請されたのですね。


春日神社(埼玉県越生町)

2017-02-15 15:01:52 | ・神社・お寺

2017.2

走っていたら目に飛び込んできたので、埼玉県越生町の春日神社へ立ち寄りました。

いい天気^^

左側は線路で八高線沿いにあります。

シンプルな随神門 手作り感が良い感じです。

たくさんの御祭神が祀られているようです。

由緒

当社の創建は、延暦元年(782年)とされる。

当地内裏山の獅子岩の近くに祭祀されたを、征夷大将軍の坂上田村麻呂が、東夷征伐の際、現在地に遷し宮殿を

増築したとされ、内裏大明神と称した。

また、平将門が内裏を置いたとされ、延喜年間(901年~923年)には、平国香(将門の伯父)が修繕。松山城の城主、

上田能登守の再建を経て、元禄4年(1691年)に、現在の春日神社と改称し、越生十六郷の総鎮守と定めた。

慶安3年(1650年)には、将軍徳川家光より社領を与えられ、明治5年の社格制定の節には、越生総社に列せられた。

http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=3344 より

拝殿

本殿

拝殿から空間があって後方に本殿がありました。

大黒天の祠

左側に線路が見えています。

手水舎にヒヨドリくんが居ましたよ。

神楽殿

ん?中央に何か・・・?

笑顔が可愛いですねー。

平将門が内裏を置いたとされる辺りから、「平将門」がクローズアップされているのでしょうか。

 

 

春日神社(全国に約1000社)の総本社は、奈良の春日大社ですが、

奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に

遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の

武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのを

もって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も

出てきている。by wikipedia

との事です。鹿島神宮や香取神宮の神様が関係しているかもしれない。いずれまた調べてみようと思います。


黒石神社(埼玉県越生町)

2017-02-15 15:01:33 | ・神社・お寺

2017.2

鳥居の奥に吸い込まれるように参拝してきました。

鳥居には「黒石神社」と書かれていますが、

他に何も情報を得られるものがありませんでした。

でも、とても魅力的な参道です。

拝殿・本殿一つになっています。中に何か祀られているのでしょうか・・・・。

帰ってから、ググっていろいろと調べました。

「黒石神社」ですが、鳩山町には四つの黒石神社があるそうです。

鳩山町大橋・黒石神社  鳩山町熊井・黒石神社  鳩山町須江・黒石神社  鳩山町竹本・黒石神社

黒石神社から見える妙光寺には、昔、寺子屋のようなものがあり、かなり優秀な人材が育ったそうです。また、

鎌倉時代前期に熊井太郎忠基が住み、熊井城があったと言われています。忠基は源義経の家来だったそうです。

この神社の御祭神は、日本武尊。

黒石の由来は、

① 鉄鉱石が取れた・・・黒い石鉄鉱石を使うことは、朝鮮半島からの伝来。

② 流れ星(隕石)がご神体。

の2説があるそうです。

http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/71fc93a995c9080a0d29b67585e00833

鳩山町熊井・黒石神社 には「 内陣には長さ60センチと47センチの大小一対の灰色をした岩石が奉安されている」

といわれているそうです。

http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/71fc93a995c9080a0d29b67585e00833

なかなか不思議な感じの神社ですね。鉱山の採掘知識を持っていた渡来人たちが鉄を使って権力を持ち、この地に

利益をもたらしたのかもしれませんね。


厳島神社 (横浜市中区)

2017-02-14 17:51:06 | ・神社・お寺

2017.2 横浜・関内にある厳島神社へ行ってきました。

鳥居には「横濱辨天」

厳島神社 (横浜市中区)

横浜村の鎮守で、宗像三女神(市杵島姫尊、多紀理姫尊、多岐都姫尊)を祭神とする。

元来は洲干島とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称した。

創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられる。

足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えている。by wikipedia


境内にはひょうたん池があって、清水が湧き出たため「清水弁天」とも、また所在地から「横濱弁天」とも呼ばれ

ていたそうです。

銭洗弁天社

奥には、「豊受稲荷(「ゆたかいなり)大明神」

横浜の金運スポットだそうな^^ 月日の流れ、横浜の発展に伴い、現世御利益バリバリっぽくなってしまったのだろうなあ。


大楠山ハイキング1(立石公園駐車場)

2017-02-14 09:12:24 | ・旅・山

2017.2.11 三浦半島の最高峰!!!(笑)大楠山(海抜241.3m)へ行ってきました。

相模湾沿いの立石公園駐車場に入れて前田川から登りました。

駐車場に着くと「荒波と富士」!!!!!!

写真を撮っている方も多く、打ち付ける波を待ってパシャパシャ撮ってました。

こんな被写体選びもあるのだなと新鮮な気持ちで撮りましたよ。 

パット見は似たような写真ばかりですが、私的には波の色や飛沫がそれぞれに違って気に入ってます^^

反対側の秋谷海岸・佐島方面

伊豆大島がクックリと見えていました。

ちょっと沖のカンムリカイツブリの群れ

冬毛と夏毛の子がいますね。雌雄同色のようです。


鶴見神社(横浜市鶴見区)

2017-02-11 17:13:30 | ・神社・お寺

2017.2.4

横浜関内へライブを観に行く途中で「鶴見神社」へ立ち寄りました。

横浜を中心として「杉山神社」が数十社あります。主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社ですが、

多摩川を越えた領域には存在しない謎の多い神社だそうです。

で、この「鶴見神社」は、古来、杉山大明神(杉山神社)と称されていたそうです。

鶴見神社

東海道本線のすぐ脇にあります。横浜・川崎間の最古の神社のようですよ。

本殿は、杉山大明神(五十猛命)と天王宮(素盞嗚尊スサノオ)の二社相殿となっています。 

鶴見神社の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられる。古くは杉山大明神(杉山神社)と称された。

1920年(大正9年)に、社名を鶴見神社と改めた。by wikipedia

天王宮、牛頭天王、素戔嗚尊(スサノオノミコト)に関してはいずれ調べてみようと思います。

狛犬があまり見たことのない荒々しい溶岩?の上から見下ろしています。

拝殿

鶴のマークが印象的ですね。

神紋は有職鶴(ゆうそくづる)

鶴は古代から霊鳥として尊ばれてきた。また亀とともに長寿のしるしとされ、めでたい動物といわれてきた。

wikiによると、「鶴見」の名は、鎌倉時代から現れ、源頼朝がここで鶴を放ったことから命名されたという伝説もある

ようですが、杉山神社の頃からこの神紋だったのでしょうか。それとも鶴見神社に改めた後なのでしょうか?

宝物殿の扉も神紋の有職鶴が印象的です。

拝殿を背に・・・たくさんの方が参っているようですね。

1962年(昭和37年)、境内の古木が倒れた際にその根元から弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る

祭祀遺跡が発見された。これにより、創建伝承以前から祭祀の場となっていたことが確認された。

また、2005年(平成17年)の施設構築時に貝層の中から弥生時代終末期〜古墳時代前期のものと思われる土器片が出土

している。さらに2008年(平成20年)の調査では境内から貝塚(鶴見神社境内貝塚として横浜市指定史跡に指定)が発見

されており、先の貝層との関連が考えられる他、今回発見された貝塚の周辺からも古墳時代前期の竪穴式住居跡が確認されて

いる。

 

相殿の天王宮に伝わる「鶴見神社大神輿」は、横浜最古の神輿とされ、例年7月の天王祭には古式ゆかしく渡御する。

この神輿は、約350年前に鶴見川の天王河原(現・潮見橋付近)に流れ着いたものと伝えられる。当時、少し上流にあった

鎮守天王社(現在は川崎市幸区小倉の小倉神社)の祭礼のとき、鶴見川で神輿を洗った際に、誤って流してしまったものと

される。


神木に関して、一つの伝承がある。江戸時代のこと、その神木の中でも大きな檜が人々の信仰をあつめていた。あるとき、

江戸の芝居小屋の棟木にするため、この檜の巨木を切り倒したところ、病人が出るなど奇怪なことが続いた。そこで、

この檜を伐採した跡に、これに代わる木を植えたところ、鎮まったという。by wikipedia


横浜最古の神事芸能田遊びは、明治五年を最後に廃絶となったが、昭和六十二年に再興された。以来杉山祭と呼称して

田祭り保存会が結成され、毎年例祭日に奉納されている。

本殿

本殿裏から

溶岩のような岩石に囲まれて建てられています。

ググってみると富士山溶岩を礎石にしていると紹介しているページもありましたが・・。社殿は1915年(大正4年)11月に

再建されたようですので、富士講の方々も関わっていたようにも思うのですがどうでしょう?本殿裏に富士塚もありましたし。

本殿奥の「富士塚」。

 

境内の外より。

かつては約5,000坪もの社地を有していたと伝えられていますが、明治五年(1872)、新橋・横浜間に日本初の鉄道が

開通し鶴見駅も開業したのだが、この際に線路敷くために、当社の西半分が失われてしまいました。浅間神社もあった

ようなのですが残念ですね。。。

 

いろいろとググってみると、こちら様のページが非常に詳しくまとめられていました。

https://jinjamemo.com/archives/post-2920.html


田中稲荷神社(狭山市)

2017-02-10 12:52:35 | ・神社・お寺

2017.2 前を通ったら、「富士」の文字が見えたので気になったのでお参りしてきました。

田中稲荷神社(狭山市)

由来は不明でありますが、峰の愛宕神社と同じく小笠原家の奉納と思われ、同家と関係のある安穏寺の守護神として

建立されたものかと推測されています。祭神:倉稲魂命  狭山市のhpより。

拝殿脇に「富士塚」がありましたよ。

この山頂より反対側を向くと

そうです。真正面に富士山が見えていました。

ピントが合ってないのもそうですが、この日は砂塵がひどくてひどくて・・・。 


日枝神社・水天宮・御嶽神社(東京都清瀬市)

2017-02-10 12:29:08 | ・神社・お寺

2017.2

東京都清瀬市の日枝神社・水天宮・御嶽神社へ参ってきました。

ここは道路沿いに左側から日枝神社・水天宮・御嶽神社が並んでいました。 

山王鳥居

立派な神社です。

山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を

表しているとされます。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。 山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を

開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座

されていた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰です。 独特の鳥居である事から、分霊社の中にはこの鳥居を

模して建立する例も少なくありません。 (例)東京赤坂鎮座 日枝神社など http://hiyoshitaisha.jp/faq/a07/ より

拝殿と御神木

御神木・・・すごい存在感です。西陽を浴びて輝いていました。

武蔵野では、スギの大木は丘陵か山地に生育していますが、この木は台地に根を張った、珍しい大杉です。

推定樹齢400年、樹高は21mを測ります。昭和54年4月6日天然記念物指定 清瀬市hpより。

 

拝殿

御祭神:大山咋神 大己貴神

当神社は天正7年(1579)中島筑後守信尚が社殿を造営して鎮祭せりとあるも、境内に柊(ヒイラギ)の老樹あり、

景行天皇の御代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、柊の根本に憩い「清キ土ナリ」とのたまいけるとて、

爾来この村を清土(きよど)と称したるも何時の頃よりか、清戸と改められたとあり、故に当時の柊は枯れその根株より

蘖(ひこばえ)を生じ今日に至る云々とあり、依って日本武尊が祭祀せられたといい伝えられている。

http://hiejinja.jp/modules/shoukai/ より

日枝神社 三猿の石燈籠

一基は寛文4年(1664年)横山太良兵衛ほか下清戸村11名により寄進されました。刻まれた銘文によると、天正7年

(1579年)中嶋筑後守信尚が開いたとあり、清戸の開発を知る大きな手掛りとなっています。燈籠には山王権現のお使いで

ある猿が、見ザル、聞かザル、言わザルの姿に彫り出されています。もう一基は宝永7年(1710年)に建てられました。

清瀬市hpより。

石灯篭の下部にお猿さんが掘られています。西陽を浴びて^^

参道脇には沢山の大きな燈籠が・・。

お隣の「水天宮」

御祭神: 安徳天皇 底筒男神 表筒男神 中筒男神

安徳天皇を祭神とする本社の水天宮は、福岡県久留米市瀬下町に鎮座まします御本社より、御分霊を勧請した社でありますが

年代は詳ならず、安産守護・水難除・寿命長久の霊験高きを以って知られております。

http://hiejinja.jp/modules/shoukai/ より。 

更にお隣の「御嶽神社」

日枝神社・水天宮・御嶽神社の境内

御嶽神社 階段上の祠

「富士山太々講記念碑」という石碑があります。

こんもりした小山・・・この塚は文化3(1806)年に御嶽講の人々が築山した御嶽塚のようですが、富士講の方々も一緒に

参拝されていたのかなあ。。。


白子熊野神社(埼玉県和光市)

2017-02-07 17:55:35 | ・神社・お寺

2017.1

和光市にある白子熊野神社へ行きました。 

参道脇から入ったのですが、月極駐車場のようで・・・何処にクルマを止めていいのか迷いました。

結局、駐車場は良く分からず・・・。

白子の鎮守様ですね。その後、熊野信仰が伝えられ熊野神社となったようです。

拝殿

山下にあるので、鬱蒼とした森に囲まれているかのようです。

初詣はたくさんの人が訪れたようですね。

参道入って右側にこんもりした小山が・・・。もしかして浅間神社??鳥居には何も書かれていません。

お山の頂上には富士浅間大明神の祠が・・・。やはり富士塚だったようですね。

寂れてしまっていて・・・浅間神社ファンとしては、ちょっと悲しいですね。。。

富士塚山頂から望む熊野神社の拝殿

 

神社の左側には、「神瀧山清龍寺不動院」がありました。

本能寺の変により織田信長が自害したとき、僅かな部下と共に、大阪の堺にいた家康公は、人生最大の危機を迎え、
三重県の伊賀を超え自城の岡崎城への多難な伊賀越えが始まる。この人生最大の危機に瀕した家康公とその一行を救い、
三重の白子の浜から船で脱出させてくれたのが、服部半蔵を頭領とする伊賀忍者。恩義を感じた家康公は後に、
同じ白子の地名のある、埼玉県和光市の白子一帯を領地として与えた。この地にある名刹の清龍寺不動院を、伊賀忍者は
出城として、江戸城の警護に日々出仕していた。また不動院の法主は家康公より多大な石高を下付され、伊賀忍者の監督を
行っていた。

このような関係で、家康公の生前の命により、二代将軍の秀忠公が当寺院に家康公のご守護神を祀り、以来約390余年の間、
歴代住職により日々の灯明を欠かさずお祀りされている。
(現在の皇居の主要な門の一つである半蔵門は。伊賀忍者の頭領、服部半蔵の名残である)

護摩行、滝行、座禅も行われているようです。 

http://www.nana.or.jp/~seiryuji/index.html

この境内で感じた、私的なある感覚は、熊野神社ではなく、こちらの不動院のものだったかもしれません。