~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

高尾穂見神社(山梨県南アルプス市)~小雨に煙る枝垂桜に魅せられて

2022-05-02 16:16:30 | ・神社・お寺

2022.4.16~18 山梨県へ出かけました。その時に参った神社を投稿します。
18日、美和神社、正ノ木稲荷 稲積神社、穴切大神社、北杜市の宇波刀神社、韮崎市の武田八幡宮参拝後、小雨模様だしどうしようかと悩んだ末、高尾穂見神社へ詣でました。更に南に位置する氷室神社もと思いましたが次回にしました。

甲府盆地の西、南アルプス市の中心から更に西に駆け上った辺りに鎮座しています。櫛形山中腹の標高800m辺りです。

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一の鳥居と手水社 赤い鳥居が小雨模様の山中に見えてきました。

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とても印象深い風景です。

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ん?

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お~、なんと枝垂れ桜の参道です!いや~感動しました。来て良かった^^

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ちょうど、見ごろでしたよ^^

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コントラストを上げてみました。

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二の鳥居 それでは境内へ。

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隋神門 

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参道階段

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ボワッとした建物は・・・・

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神楽殿でした。

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拝殿

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拝殿奥に本殿の屋根がちらりと見えます。

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拝殿のお賽銭箱の奥に木彫りの狛犬(昭和十四年建立)
阿吽の表情がとても良いですね~。お酒がたくさん奉納されていました^^

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拝殿の大きな扁額

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神楽殿 特徴的な屋根の木造建築です。境内ではひときわ存在感がありました。

案内板(南アルプス市教育委員会)によると“明治十八年から再建をはじめ、同二十四年に竣工”とのこと。1891年の造営

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神馬殿

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大杉と舞殿

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小雨模様だったので、この大杉の存在感もすごかったです。

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隋神門 境内側より。

小雨に煙る、枝垂れ桜、神楽殿、拝殿、大杉、どれも印象深い参拝となりました。

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穂見神社山梨県南アルプス市櫛形山北東山腹の山間集落である高尾に位置しており、通称を高尾山穂見神社、「高尾さん」、「山の高尾」という[1]。社格は旧郷社。『延喜式』には甲斐における式内社として「穂見神社」が挙げられており、山梨県内には当社のほかに韮崎市昭和町などをはじめ「穂見神社」が数社存在し、当社も延喜式内社に比定される可能性があると考えられている。

また、商売繁盛、資本金授与、養蚕の神社として県内外に広く知られており、東京や長野など遠方にも高尾講が存在し、参拝者が訪れる。かつては櫛形町に山梨交通電車線(ボロ電)の倉庫町駅が存在し、参詣客に利用された。

穂見神社 (南アルプス市) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2021年11月15日 (月) 10:42 


放光寺&小屋敷堰&旧武藤酒造米蔵(山梨県甲州市)~美しき水路

2022-04-26 09:03:06 | ・神社・お寺

2022.4.16~18 山梨県へ出かけました。その時に参った神社仏閣を投稿します。

大石神社を参拝後、甲州市の真言宗智山派・高橋山・放光寺周辺へ。

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参道市を行っていましたよ。小雨が降り始めました。

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仁王門

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本堂

放光寺(ほうこうじ)は元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立しています。

武田氏滅亡のおり、隣の恵林寺と前後して織田勢の兵火を受けすべて焼失したのです。現在の建物はその後のもので、仁王門、愛染堂は天正年間(1573~1592)に再建、庫裡は慶長年間(1596~1615)、本堂は柳澤吉保の援助を受け保田若狭守宗雪が寛文年間(1661~1673)に再建しております。下記サイトより引用。

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藍染堂

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愛染明王は真言宗の奥儀である「煩脳即菩提」を示す仏様。
愛欲をはじめすべての欲望にとらわれ染まる衆生を浄化解脱させる明王。

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南側には、戦国時代、武田信玄により再興された甲斐武田氏の菩提寺(臨済宗妙心寺派に属する寺院・恵林寺)があります。

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道祖神丸い石が祀られていました。この丸い石については以前紹介しましたが、

丸石神

・山梨県一帯に数百か所も祀られている。
・他地域ではほとんど全く見ることができない。その出自に関する伝承もない。
・自然の産物なのか、人の手が加わったものなのかも分からない。
・多くは道祖神のように道路の辻や人の集まる公共の施設の近くにあるが、神社の境内にあったり、屋敷神よろしく家の敷地内にあることもある(下記サイト様より抜粋)。
 

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前日にこの辺りで道に迷ったのですが、すごく良い場所で惹かれたので再度、訪れてゆっくり時間を過ごしたのでした。

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水の流れが美しいです^^

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宝永5年(1708年)小屋敷村古区図面の一部(小屋敷田遵家所蔵)(村内に用水[堰]が張り巡らされている)

小屋敷堰

ここに流れる用水(堰(セギ〕)は小屋敷堰と呼ばれる。ここ松里地区等を潤すための笛吹川から取水する堰は、上流から各々藤木堰·小屋敷堰·井尻堰の三つの堰であり、この地域の社会基盤となっている。
小屋敷堰は江戸明治時代以前にはこれより北に約3kmの下柚木目窪地(下柚木橋より上流約500m)において笛吹川から取水、ここから下流で藤木堰が合流し、小屋敷·三日市場ばかりでなく千野·塩後·於曾·熊野·西広門田の旧塩山地区にも水を供給し、取水方法は変わっても現在に引き継がれている。この堰はこれらの地域すべての田畑を潤すばかりでなく生活用水としても必須の堰である。
平成二十九年、古来からの堰の取り入れ口近傍の下柚木目窪地において、甲州市文化財課の指導のもと堰跡が発見された。宝永二年(1705年)の古文書によるとこの堰は樋(長さ2間幅1間4尺)により水を渡していたとの記述もあり、またこの堰を利用している広範な地区住民が集まり堰普請を行うことが必須であったとも記されている。
この堰はこの古文書において、三日市場天王宿の徳美屋敷を治所とする徳美藩(1633年~1698年)が小屋敷堰と藤木堰の間に胡桃を植えさせたという記録もあり1600年代には堰が存在していたことが明確に記載されている。
また恵林寺創建元徳二年(1330年)、開山夢窓疎石はここにこの用水を用いた庭園を造っており、鎌倉時代にはすでに小屋敷堰があったと推定される。
また、甲州市文化財課によるとごの堰は「条里制」に沿ったもので律令時代(七世紀後半)には存在していた可能性は高いとの見解もあり、更なる歴史探求が望まれるが、長い歴史を有するこの堰は松里地区ばかりでなく甲州市の大事な社会インフラとなっている。平成三十年三月 松里史跡調査会 看板より。

すごいですね!7世紀後半には作られていた可能性ありだって^^

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ハナミズキもキレイでした。

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交差する用水路の辺りに、すごい家屋が建っていました。

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旧武藤酒造米蔵

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見学できないのかな?

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惹かれますね~^^


神社たち by matol

2022-03-22 09:54:50 | ・神社・お寺

神社参拝のブログも継続しています。

神社たち by matol

わたし(matol)の神社参拝記録です(お寺も含めます)。

神社たち by matol

 

このサイトについて

① わたし(matol)の神社参拝記録です(お寺も含めます)。
topの写真は山梨県上野原市の軍刀利神社奥の院と大桂)

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② 「神社」の基本知識をご紹介~「神社」について考察しています。
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③ 古事記・上巻と神社・祭神についてお勉強しました。
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2016.12.3に訪れた北口本宮冨士浅間神社にて

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④ 氏神様以外で、もっとも参拝回数の多い軍刀利神社。
下記に上野原市・軍刀利神社の大桂の四季(1998~2016抜粋)を動画で紹介しています。
[山梨県上野原市棡原・軍刀利神社(奥の院)の大桂の四季]
music by 砂川憲和 吹道~風の軍刀利~ photo by paw

上野原市・軍刀利神社の大桂の四季

山梨県上野原市棡原・軍刀利神社(奥の院)の大桂の四季をご紹介致します。 music by 砂川憲和 吹道~風の軍刀利~ photo by ...

youtube#video

 
 

橘樹神社(千葉県茂原市)

2018-10-05 14:56:57 | ・神社・お寺

2018.9 千葉方面の神社を詣でました。 ラストは橘樹(たちばな)神社。上総国二宮です。

橘紋

拝殿には「橘木神社」と。

立派な本殿でした。

本殿には「橘神社」と。

ここから奥は「弟橘比売命御陵」

吾妻池

誰も参拝に訪れる方は居ませんでしたが、空気・空間の静かな溶け込んでしまいそうな場でした。

橘樹神社

・千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。
・神紋は「橘」。
・古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

・主祭神:弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)

・相殿神:日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。 忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて
日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると
伝える。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという
記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』
神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

本殿は、江戸時代の寛政12年(1800年)の造営。本殿の背後には、弟橘比売命御陵とされる古墳が残る。本殿が造営される
まで、拝殿から直接古墳を拝む形となっていたという。また、境内の吾妻池はこの墳墓を掘った跡の穴であると伝えられる。
by wikipedia

こちらは神奈川県横須賀市走水にある走水神社の弟橘媛(オトタチバナヒメ)のレリーフ

上総国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮
めた。数日後、海岸に弟橘媛の櫛が流れつき、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛
を納めた。この社が弟橘媛を祀る橘神社であったが、明治18年(1885年)に旗山崎が軍用
地になり走水神社境内へ移され、明治42年(1909年)に合祀された。走水神社by wikipedia

「橘樹神社」でググると、川崎市高津区の橘樹神社が上位にヒットします。この神社も、、日本武尊と
弟橘媛の男女2躯の神体を祀り、かつては立花社ともいわれていたようです。また近くの子母口富士見台の
高台にある「富士見台古墳」は、一説には弟橘媛の「御陵」であるとも伝えられているが、史料がなく
具体的なことは分かっていないとの事。川崎・橘樹神社by wikipedia


玉前神社(千葉県一宮町)

2018-10-04 16:51:04 | ・神社・お寺

2018.9 千葉方面の神社を詣でました。2016.12.31大晦日にも詣でています。

その時は残念ながら本殿・幣殿・拝殿は、建て替え工事中(平成29年3月竣工)でしたが、今回はばっちり^^

神社前の明治時代に建てられた古い土蔵を改装したかき氷店「赤七屋」。2017.5開業ってことは前に行ったときは
未だオープンしてなかったんだな。。。人気ですねー。

前回参った時には気が付かなかったのですが、鳥居脇に「御神水」。ちょっと錆っぽい鉄分の多い水でした。

黒い拝殿になっていました。

 

「はだしの道」くつを脱いではだしで、入口から時計回りに3周まわると願い事がかなう・・・玉砂利が痛そうです。

彼岸花が咲き始めていました。

立派な社務所でした。

前回は改修中でしたので境内の様子が良く分かりませんでした。黒塗りの拝殿・本殿は迫力がありましたね。
参拝者でけっこう賑わっていました。さすが一宮ですね。

玉前神社

式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

祭神は、玉依姫命 (たまよりひめのみこと)

社伝では、玉依姫命は海からこの地に上がり、豊玉姫命から託された鵜葺草葺不合命を養育した。のち鵜葺草葺不合命と結婚し、

神武天皇(初代天皇)らを産んだとされる。『延喜式』神名帳を始めとして文献上は祭神は1座とされているが、古社記には

鵜茅葺不合命の名が併記されている。そのほかに『大日本国一宮記』では前玉命とし、また天明玉命とする説もあった。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また、

上総国一宮として崇敬を受けたとされる。by wikipedia

●無形民族文化財「上総12社祭り」

平城天皇の御代・大同二年(807)創始と伝えられるこのお祭りはご祭神玉依姫命とその一族の神々が由縁の釣ヶ崎海岸で年に一度

再会されるという壮大な儀礼。


笠森観音・笠森熊野神社(千葉県長南町)

2018-10-03 15:56:39 | ・神社・お寺

 2018.9 千葉方面の神社を詣でました。

笠森熊野神社

この岩のくぼみは熊野神社の真裏にありました。

駐車場が満杯になるほど訪れている方が多かったです。

笠森観音の境内にあります。 「笠森寺」は、延歴三年(784))の開基と伝えられています。 坂東33観音霊場の第31
番札所として知られています。 岩山を背に、それぞれ高さの違う61本の柱で支えられた全国でも珍しい 「四方懸造」の観音堂
があり、国の重要文化財となっています。

神社は、お寺への参道の途中に鎮座。赤い鳥居が迎えてくれます。
御祭神:素盞鳴命
由緒:由緒は不詳であるが寛仁二年の創立といわれる。http://www.mikumano.net/ztiba/tyonan6.html様より。

五月雨にこの笠森をさしもぐさ  松尾芭蕉

笠森観音へは、2016.12にも訪れております。


高瀧神社(千葉県市原市)

2018-10-03 15:39:07 | ・神社・お寺

2018.9 千葉方面の神社へ詣でました。 

江戸尾立ての狛犬

境内にはたくさんの実が落ちていました。なんの実でしょう?

明治に建てられたようです。洋風な石碑ですね。調べましたが良く分かりませんでした。

底なし袋

高滝神社  祭神:瓊瓊杵尊 玉依姫命 別雷命

高滝湖を前に、松尾山を背に神社は鎮座しています。

良い空気・空間に鎮座する神社でした。高滝ダム(高滝湖)ができる前、養老川はしばしば氾濫して流域に被害を与えていた
ようです。川の氾濫を鎮める祈祷も当然ながら行われていたのでしょうね。
詣でたときは静まり返っているイメージでしたが、高瀧神社の秋季大祭は、喧嘩祭りとも呼ばれ、流鏑馬や神輿の渡御などが
行なわれます。花嫁まつりは、高滝神社の春季例大祭で行われる神事です。この1年間に結婚した花嫁が仲人に付き添われ
花嫁姿で参詣し子授祈願・家内安全を祈願します。これは氏子内に来た花嫁がご結婚の報告と感謝の心を捧げる行事です。
同時に稚児行列も行われます。
花嫁祭りとして知られているようです。
http://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/13424/より。

高滝神社の森は、房総半島のほぼ中央に位置しており、標高80mの丘陵の松尾山にある高滝神社の約1万6千平方メートルに
およぶ社域をおおっています。島状の独立した丘陵の上に発達した杜のため閉鎖的な森林生態を示し暖帯林の特徴をもつ自然林が
尾根伝いにまとまっています。北面には、樹高20mを超える巨木のほか、クリ、クヌギなど落葉広葉樹が繁茂し、アラカシ、
ヒイラギなど常緑広葉樹も混生しています。南面には、シダが多くタブノキ、アラカシなども混生し植生を示しています。
高滝神社(通称加茂大神宮)は日本実録に名を残す古社です。https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/3394 より。

この神社の創建年代については不詳であるが、「日本三代実録」に記されている。平安時代末ごろ、上賀茂社、下鴨社から分霊を
勧請したという。そのことから、「賀茂明神」と称されていたが、1880年(明治11年)現社名に改められた。by wikipedia

高滝神社由緒
当社は三代実録に貞観十年(868)九月十七日上総国正六位上高滝神従五位下とあり白鳳二年八月鎮座された。古くより安産及び
稚児の安健生育を祈るに神験いちぢるしく底なし袋の信仰は当社独特のものとなった。天正十九年に徳川家康より十石の朱印地の
寄進があった。明治六年郷社に同十三年県社に列せられ現在二千二百余戸の氏神として信仰をあつめて居る。現存する社殿は
享保十二年(1727)再建されたものである。http://www.komainu.org/chiba/itiharasi/takataki/takataki.html より。


青渭神社(東京都稲城市)

2018-09-17 10:23:24 | ・神社・お寺

2018.9.1 ウォーキングを兼ねて稲城方面の神社へ参拝してきました。

小田急線「栗平駅」~あちこちの神社を巡って、南武線「南多摩駅」まで11kmくらい歩きましたわ。 

平尾杉山神社参拝後、一山超えて「大麻止乃豆乃天神社」へ 。更に青渭神社へ。

 

狛犬の頭が凹んでいます。

このような狛犬のことを一般的に「カッパ狛犬」というそうですよ。水に関係のある神社ですので、河童を模した狛犬
ということなのでしょうかね?(河童の頭のお皿→狛犬の頭を窪ませた?)

一般にこの窪みを設けた理由は複数の説があって、ここに油をおいて火をつけ灯明代わりに用いたという説や、
原材料の石の大きさの都合で小さな石から制作するため角(または宝珠)を後付けできるようにするためという説など、
いろいろ言われているようです。https://koma-yagura.blog.so-net.ne.jp/2013-09-26様より。

となると河童とは関係ないのでしょうか?いろいろと調べてみると面白そうですね。

主祭神 青渭神、猿田彦命、天鈿女命

青渭神社(あおいじんじゃ)は、東京都の旧武蔵国多摩郡にある神社である。延喜式神名帳に「武蔵國多磨郡 青渭神社」
として記載されているが、式内・青渭神社の論社は稲城市東長沼・調布市深大寺・青梅市沢井の三社がある。

長沼という地名からもわかるように、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、
青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると
考えられている。 創建年代は不明であるが、伝承では弘仁年間(810年 - 824年)の創建とされている。by wikipedia

境内には巨樹も多かったです。境内はとても綺麗にされていましたが、相当に歴史の蓄積を感じる空気・空間でしたよ。
地元の方がポツポツと参拝に来られていました。 


大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)(東京都稲城市)

2018-09-12 09:01:01 | ・神社・お寺

2018.9.1 ウォーキングを兼ねて稲城方面の神社へ参拝してきました。

小田急線「栗平駅」~あちこちの神社を巡って、南武線「南多摩駅」まで11kmくらい歩きましたわ。 

平尾杉山神社参拝後、一山超えて「大麻止乃豆乃天神社」へ 。地図しか見てなかったので結構高低差があって、
ヘトヘトになりましたよ。曇りだと思ったら晴れてくるし・・・・。ポロシャツ、汗だくになっちゃいました。

 

大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)
東京都稲城市大丸に鎮座する神社である。
旧社格は郷社。
櫛真智命(くしまちのみこと)を祭神とする。

『式内社調査報告』では、『延喜式神名帳』に記載される武蔵国多摩郡「大麻止乃豆乃天神社」が当社であるとしている。
しかし、式内・大麻止乃豆乃天神社については東京都青梅市の武蔵御嶽神社も論社となっており、明治初年には武蔵御嶽神社
が大麻止乃豆乃天神社と称していた。

「おおまとのつ」とは「大きく丸い平地にある船着き場」という意味ではないかと考えられている。この神社が立地する
稲城市大丸という地名も、「大きく丸い平地」という意味であるとされるが、この地は古代から多摩川の渡河点の一つ
(府中街道と川崎街道がここで合流する)であり、津があったと考えるのは妥当であろう。

多摩丘陵中部の北辺に位置し、境内からは多摩川中流域の沖積地が一望出来る。境内の裏山はかつては城山と呼ばれ、
中世には大丸城という山城が築かれていたが、現在は多摩ニュータウン向陽台住区となっている。by wikipedia

通称天神山(標高70m)の中腹に鎮座する為、「天神社」のようです(菅原道真は祭神ではないようですが、地元では
天神様と呼ばれているらしいです。)。9月1日が風祭り(農作物を風害から守るために神に祈願する祭り)で、
境内、神社裏の山は草刈りで準備をされていました。境内の空気・空間はクタクタだったのに加え、大規模に草刈を
されていたので刈り機の音も大きく、あまり察知することはできませんでした。また機会がありましたら静かな時に
詣でたいと思います。

ところで、たまたまググって知ったのですが、私の地元の氏神様「馬橋稲荷神社」にも、主祭神の中に「大麻等能豆神」
があります。「大麻等能豆神」は、延喜式神名帳によると「櫛真智命」の元名のようです。この「櫛真智命」は、
太占(鹿の骨を焼きそのひび割れで吉兆を占う)を司る神様で、大和国の天香久山(あめのかぐやま)神社(奈良)という
非常に重要な神社の御祭神である神様だそうです。
延喜式神名帳には「武蔵国多摩郡」にも「大麻止乃豆乃天神社」があるとされ、それがどの神社を指すのかは確定して
いませんが、いくつか候補(論社)があります。・武蔵御岳神社(青梅市)・大國魂神社(府中市)・大麻止乃豆乃天神社
(稲城市)https://yu-makoto.com/archives/1342 様より。

なお、馬橋稲荷神社の龍の巻いた鳥居は品川神社と宿鳳山高円寺境内にある稲荷社と馬橋稲荷神社の3つのみなので
東京三鳥居の一つといわれています。by wikipedia


平尾杉山神社(東京都稲城市)

2018-09-11 17:46:56 | ・神社・お寺

2018.9.1 ウォーキングを兼ねて稲城方面の神社へ参拝してきました。

小田急線「栗平駅」~あちこちの神社を巡って、南武線「南多摩駅」まで11kmくらい歩きましたわ。 

う~ん・・・何の花でしょ??

まずは「平尾杉山神社」へ。

神社の裏は大規模に造成されていました。

杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。
鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。 
by wikipedia

この平尾杉山神社は、鶴見川流域に72社ある杉山神社のうちの1社であり、最も上流地域にあたると思われる神社。
https://tesshow.jp/tama/inagitama/shrine_inagi_sgi.html 様より。

明治大学非常勤講師・渡辺賢二先生のお話によると、杉山信仰とは農業の源である「水」を育む森としての森林信仰らしい。
また鶴見川最上流部にあたるので信仰上ある種の聖地であった可能性も高いとのこと。
http://inagi.info/hirao.html 様より。


氷川神社(埼玉県新座市馬場)

2018-09-07 12:44:40 | ・神社・お寺

氷川神社(埼玉県新座市)

2018.8 いつも近くを通っていましたが、やっと詣でてきました。

参道が長くてびっくり。

 

左は「不発弾」

「不発だったことから、「火災除け」「災難除け」「厄災除け」「安全守護」の御利益があるとされています。
不発弾を撫で、御利益をいただきましょう。」との事です^^

「片山郷総鎮守社」

当社は、さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する武蔵一宮氷川神社からの分霊である。
当地は、中世の片山郷の中心であったといわれ、当社西方の堀ノ内一丁目付近は鎌倉御家人で片山郷の開発領主とされる片山氏が
居住した地であると伝えられる。
当社の創立も中世に遡ると考えられる。本殿は、一間社流造りで、元治元年(一八六四)に社殿が再建されています。
江戸時代までは、当社北東に隣接していた蓮光寺が別当を務めていたが、同寺が移転した為に原ヶ谷戸円光院が務めていた。
社蔵の天明九年(一七八九)の「奉拝礼氷川大明神御宝前」と書かれた木札には「別当円光院住」とある。
この他、天保四年(一八三三)三月の鳥居再建の棟札が残されている。
明治四十年五月二十日、字駒形の村社駒形神社同境内社稲荷社、同年六月十四日、字堀ノ内の無格社八雲神社、字同道場の無格社
稲荷神社、字堀ノ内の無格社白山神社、同稲荷神社を合祀した。(境内掲示より)

参道と並行する道路からはあまり良く分からないのですが、なかなか立派な神社でした。地元の鎮守様^^


富士浅間神社(埼玉県飯能市)

2018-09-06 15:34:47 | ・神社・お寺

2018.8 富士浅間神社(埼玉県飯能市)

飯能に富士浅間神社があるのですねー。と思ったら・・・ずいぶん前に来たことがあったのでした。
2011年5月 滝の入タブの木
上直竹下分にある富士浅間神社の裏山には埼玉県指定天然記念物「滝の入タブの木」。
通常、四国、九州等温暖地に自生するクスノキ科のタブの木の中では最も北限にある。
推定樹齢700年で、樹高20m、目通り5.5m,根回り7m,枝張り27mの大木。 

この時は未だ神社巡りはしていなくて、巨樹巡りでたどり着いたようですわ。
今回は、奥社・タブの木までは行きませんでした。

祭神:木花開耶姫命、天照大神、加具土神、倉稲魂命、天之御中主大神、大山祇神、崇徳天皇

創建年月日不明だが、寛正4年(1463年)奉納の鰐口が存在し、それ以前の創建と推測される。by wikipedia

境内左側の滝

滝と倶利伽羅不動明王(くりからふどうみょうおう)

お不動様の持ち物によって教えを示した姿です。磐石の上に剣が立っていて、それに倶利伽羅竜王が巻きついています。
竜は剣の先を飲もうとしています。剣はお不動様の右手の剣、竜はお不動様の左手の索を表します。お不動様の代表的な功徳を
神格化したもの。

「この富士浅間神社は元修験のお寺・南仙院(狭山市笹井・観音堂末)持でしたが、神仏分離後に住職が神職を勤めるようになりま
した。」との情報がありましたが、「南仙院」が見つからず、良く分かりません。

神社入り口の畑仕事をされている方にご挨拶して詣でました。滝もあり神仏習合、修験系の雰囲気満載でしたよ。
力強い空気・空間でした。


加治神社(埼玉県飯能市)

2018-09-04 16:43:09 | ・神社・お寺

2018.8 加治神社(埼玉県飯能市)地名は知っていたのですが神社があったので詣でました。

加治神社 吾妻天神さま

祭神:高御産巣日命、神御産巣日命、菅原道真

慶長元年(1596年)、武蔵七党の丹党中山家範の家臣本橋貞潔が主君の遺命に奉じて天神社として勧請したという。
1872年、飯能町中山の鎮守として、村社に列し、1907年に九社を合祀、社号を天神社から、加治神社に変わったが、
現在も「天神様」と呼ばれる事が多い。by wikipedia

境内社の三十番神社

聞いたことのない神社だったので調べてみましたよ。

三十番神(さんじゅうばんしん)
神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。
最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。
中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を
布教しようとした日像が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。
また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」
などを唱えた。吉田兼倶は三十番神信仰が吉田神道から発すると主張した。
1868年、神仏分離のため、明治政府によって配祠を禁じられた。by wikipedia

柔らかな空気・空間の神社でした。↑境内脇もとっても気持ちよさそうな空間です。


上宮稲荷神社(清瀬市)

2018-08-30 08:56:07 | ・神社・お寺

時間があると相変わらず神社参拝に行っていますよ。

上宮稲荷神社(清瀬市)

清瀬市郷土博物館のhpによると、創建は1624年。昔、裏の土手にはキツネ穴があったそうですよ。
拝殿にはキンランの写真が飾られていました。境内はとても広いです。鎮座地が下宿の上なので上宮稲荷。村の鎮守様といった
風情の神社でした。