~風に吹かれて~ by ポー(paw)

-人の中に 人の創り出した物の中に 動植物の中に 地球や宇宙の中に 魂の琴線にふれ 愛を感じながら 生き込みたい-

伊豆長岡周辺3(韮山代官・江川邸)

2017-11-03 18:56:28 | ・旅・山

2017.10中旬~下旬  社用で「伊豆長岡温泉」へ行きました。「韮山反射炉」見学後、反射炉を築造した韮山代官・江川邸へ
行きました。

「江川」さんの表札がとても親しみを覚えます。門の奥には代官であった江川家の邸宅。この主屋の北側に役所の建物がありました。
解体修理の前は茅葺だったそうです。玄関は、武家屋敷の正式な出入り口であり、身分のある来客と、主人が使います。大河ドラマ
「篤姫」でも使われたそうですよ。

とても印象的な欅です。

主屋の中を見学~ いろいろと教えていただきました。

土間には「大かまど」「ぺりーの大砲」「パン釜」などが展示されていました。

生き柱

礎石がなく、削り方が他の柱と違うようで、文化年間の修理の時、不審に思い 根元を130cmほど掘り下げたが、 途中で
あきらめたそうです。江川家がこの地に移り住んだ時に、生えていた欅をそのまま柱として利用 したものと考えられるとの事。

すごい天井です。
主屋の天井部分は、
たくさんの桁・貫で組まれ、くぎや、ねじ類を使わない柔軟工法がなんと耐震構造となっているそうですよ。
重要文化財に指定されているこの住居は、1600年頃に建てられたもので、部分的には、それより古い中世の建築部材も使われています。 

そして天井の上部には棟札箱(家が建てられると、その年月日などを記して納める箱)が置かれてあって、この箱には、
日蓮聖人が、江川家が
火事などにあわぬようにと書いた防火符が納められているそうです。これは16代英親(1261年)の時
であって、
その後この家は火災にあっていないそうですよ。この写真は棟札のコピー。コピーでさえも日蓮聖人のエネルギーが
漲っているようですね。

江川家では、現当主から40代を、年数でいうと1000年程を遡ることができます。

・初代は大和源氏の祖とされる源頼親。初代が大和守(やまとのかみ)となって、大和国(奈良県)に勢力を築き以後宇野を姓として
 8代までは大和国に居りました。
・9代宇野親信が、従者と共に伊豆のヤマキと呼ばれた現在地に移住しました。時は平安時代の最末期。それで、近くにいた源頼朝
 の伊豆旗揚げに参加したと家譜は伝えています。
・16代英親(ひでちか)が日蓮に出会って改宗し、それ以後今日に至るまで熱心な日蓮宗の家になった。
 江川姓への改姓も21代英信(ひでのぶ)のあたりらしい。
・北条早雲が伊豆討入(うちい)りをして韮山城に入った時に、23代英住(ひでずみ)が早雲の家来となり、以後、後北条氏に仕えたこと、
 また江川酒を醸造して名声を得ていたことは、江川家以外の史料があって確かめられます。
・“代官の家”というのは江戸時代の江川家のありようです。28代の江川英長(ひでなが)が、徳川家康に仕えて代官になり、以後明治に
 至るまで、代々“お代官さま”になりました。http://www.egawatei.com

西蔵

建築は幕末。正面と側面から見ると、わずかに内側に傾いている、このような建て方を「四方ころび」という。屋根の形は、
兜を思わせるので「兜づくり」、庇ひさしは伊豆石を加工した瓦である。また正面から見ると将棋の駒形に見えることから駒蔵
とも呼ばれてきた
。http://www.egawatei.com/ より。

南米蔵  明治25年に建築された米蔵である。
北米蔵  大正8年に建築された。 南北米蔵は置屋根、下見板が取り外しできる作り方になっている。

なんと「薬箱」です。屋敷には、漢方薬として利用されたいろいろな木が植えられているそうです。

台場とは、今から150年前の江戸時代末期、外国の艦隊から江戸を守るために人工的に築かれた海上砲台、つまり軍事施設です。
台場の設計および築造の担当者に任命されたのが、常々海防に関する建議を行ってきた、江川坦庵だった。現在、レインボー
ブリッジの下に浮かんでいる二つの小島には、かつて何十門もの大砲が備え付けられ、異国船の来航に備えていたのです。

びらん樹
暖地に自生するバラ科常緑樹で、6月ごろ幹の皮が剥はがれて落ちるのでこの名がある。葉は煎じて、咳止めや鎮静剤として
使われた。

裏門

門扉の表側には、多くの凹んだ跡があるが、指をさし込むと鋭い金属に触れる。 天正18年(1590年)、秀吉の小田原攻めで、
韮山城の砦であったこの屋敷も攻められが、その時の銃丸や矢じりの跡である。(昭和62年修理、扉は古いものをそのまま使用)

パン祖の碑
西洋式パンは16世紀に日本に伝来したが、キリシタン禁教令とともに製造は禁止されたという。坦庵公は、外国と戦争に
なった時、兵隊の食料を確保することは何よりも大切と考え、保存のできるパンを焼くことを思いつき、長崎のパン職人
作太郎は、江川邸に来て、パン窯の作り方、パンの焼き方の実際を示した。全国より砲術を学びにきた多くの若者が、この
パン焼き法を身に付け、それぞれの国に帰った。全国パン協議会では、坦庵公が西洋式パンを全国に広めたこの功績を称え、
昭和28年にこの碑を建てた。http://www.egawatei.com/

代官江川家の中でも36代の江川英龍(坦庵)「世直し江川大明神」「勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知られざる
巨人・江川英龍」・・・すごい方だったようです。その功績はこのブログでは書ききれません。また、江川家は、質素と倹約が
家是であり、自分の衣服も礼服以外はみな木綿、冬でも袷ひとつで通した。ふだん着用する袴はつぎはぎだらけだった。
火鉢も使わず、客間以外の襖や障子には反故紙を使った。畳も藁クズさえ出るようになるまで使い続けたという。
http://www.egawatei.com/