濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

おじいさんとおばあさんと黄太郎と

2015-05-30 23:46:41 | Weblog
人間は魚のサケのように受精・産卵した後、すぐに死ぬという運命をたどらず、高齢まで生きられるようになったのはなぜだろうか。
難しくいえば、〈人類が生殖年齢を超える寿命を獲得した理由〉ということになるが、過去の医学部入試でもたしか取り上げられたテーマだ。
人類は、遺伝子だけではなく言語という伝達手段を獲得したため、老いても若者に多くの知識を伝えるという重要な役割を担うことができ、種の存続に有利に働くようになったから、と答えるのが無難なところのようだ。
かくして人間社会では「亀の甲より年の劫(こう)」というように、「家老」や「老中」などの長老が重んじられ、おばあちゃんによる子育てサポートは人類の繁栄に大きく影響したとまでいわれている。

ところで、日本のおとぎ話には、「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいて」、生殖年齢を超えたその老夫婦のもとに思いがけず子供が現れ……という話がいくつかある。
この場合、現役世代の「おとうさんとおかあさんがいて」とはならないのが不思議である。
このことについて、遠藤薫氏は「〈生〉と〈死〉のシナジーを求めて――「高齢社会」再考」のなかで

神になる前の老人は、 神の世界と人間の世界の境界に生きる人と崇(あが)められる。
かぐや姫や桃太郎をひろって育てるのが老夫婦であるのも、 おとぎ話の主人公たちが神の国からやってきた者たちであるため、 彼らと人間界とを取り持つのは半聖の資格を得た老人でなければならないためなのである。


と老人に対して好意的に解釈している。
たしかに「おじいさんとおばあさん」は経験豊富で「半聖の資格」をもった人間であろうが、その反面、「そろそろお迎えが来る」ことに砂をかむような味気なさや一抹の不安を感じている者でもあろう。
そんな人間に、神の世界の子であるかぐや姫や桃太郎の後見人役をさせれば、老いを忘れて立派に育ててくれるだろうという思惑が神様にあったに違いない。

こうした事情を察したのかどうかはわからないが、一昨年の冬、さる園芸家から、

「子育ての終わった私たちですが、老いのすさびにバラでも植えて育ててみませんか」

という優しい提案があった。
私は、過去にも現在にも未来にも憂愁を多く抱えているから、諸手を挙げてその案を受け入れ、園芸家の庭での植え付けを手伝うことにした。
植えてから最初の一年は虫に食われて苦杯をなめたが、今年は園芸家の丹精込めた手入れに支えられ、見事に黄色い花を咲かせた。
その名は「いぶき黄太郎」、グラハムトーマスという血筋のしっかりしたイングリッシュローズである。
先日、園芸家の庭を訪れ、黄太郎との再会を果たすことができた。
園芸家は今日咲いたばかりという黄太郎の三輪ほどをこともなげに切り、食卓の上のコップに飾り、私の目を喜ばせた。(写真参照)
咲いている花をその場で切り取り、その場で鑑賞し愛でる――これこそ、「地産地消」ならぬ「地産地賞」というものであろう。

遅ればせながら、最後に「黄太郎」の姓である「いぶき」について少し解説を加えておこう。
『日本書紀』の中で、スサノオの尊と天照大神の「いぶき」(息)から五男神と三女神が生まれたとあるように、じつは生命と深い関係にある語なのだ。
土橋寛『日本語に探る古代信仰』では、次のようにいわれている。

いのちの全(また)けむ人は/畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の/熊白橿(くまかし)が葉を髻華(うず)に挿せ その子
これはヤマトタケルの命が、死を前にして歌ったと伝える三首の歌(『古事記』)の一首であるが、この歌の実体は平群山の歌垣で、老人が若者たちに呼びかけた歌で、生命力の完全なお前たち若者は、平群山の茂った橿の葉を挿頭して、楽しく歌え、踊れ、そして抱かれよ、と勧める歌である。
この場合の「(イノチの)イ」は「ブキ」とも用いられる語で、古代では気息と生命は同一視されていたのである。


どうやら『古事記』の昔から、すでに「おじいさんとおばあさん」の力はいかんなく発揮されていたようだ。




みたまのふゆ

2015-05-16 14:31:20 | Weblog


色とりどりの花が咲き誇り、目を楽しませる季節となった。
上の写真は、過日、フェイスブックに「石レンガから芽を出して(!?)咲いた花」とコメントして投稿したところ、好評を博したものである。
豊饒な生命は、石の中からでもあふれ出てくるとでもいいたげであるが、事実、折口信夫は、古代日本人が石の中にタマ(魂)が入っているという信仰をもっていたと主張した。
古代日本人の、生物と無生物とを区別しない磊落なアニミズム的感性の産物だろうが、霊験あらたかなパワーストーンなどの流行も考えれば、現代人の感性ともそれほど違いはないのかもしれない。
また、古来の人々は、タマが成長し、生まれ出てくるまでに何物か(タマゴ)の中に入って(籠って)、ある期間を過ごすと考えた。
折口によれば、この「ある期間」こそが冬であり、「殖ゆ」や「振ゆ」などという語があるように、タマは振動し威力を増し、生命力に富む春を孕むということになる。
次は折口の「大嘗祭の本義」の一節である。

第一にきめてかゝらねばならぬのは「ふゆ」といふ語の古い意義である。
「秋」が古くは、刈り上げ前後の、短い楽しい時間を言うたらしかつたと同様に、ふゆも極めて僅かな時間を言うてゐたらしいのである。
先輩もふゆは「殖ゆ」だと言ひ、鎮魂即みたまふりふると同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆと言ふのだとしてゐる。即、威霊の増殖と解してゐるのである。


神道でいう、「みたまのふゆをかがふらせたまへ」とは、神様の御加護や生命力を降り注いでほしいという祈りの言葉である。

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ところで、先日のこどもの日に、友人が電話で、現在の日本は「限界集落」だらけの「限界国家」になってしまった、政府は経済対策や防衛対策などよりも少子化対策を優先するべきではないかと述べていたが、もっともな意見である。
(民族)国家が権威、信頼を失わないためにすべきことは、何よりも人々の子孫の安定と繁栄を日常の生活の側から保証することであろう。
一方、天野馨南子・ニッセイ基礎研究所研究員の意見によれば、現在の政府主導による「女性活躍推進」は「少子化推進」となってしまっているという。(http://diamond.jp/articles/-/70288)
こうした傾向を打開するためには、女性の社会進出それ自体は尊重しなければならないにせよ、「人口減少→労働力減少→それを補うために女性活用→晩産化進行」という悪循環を断ち切り、男女ともに生殖年齢(妊娠・出産の生物的適齢期)についての自覚をしっかり持つべきだとしている。
さらに、最先端の生殖医療の恩恵を受ける方法もあるが、これに対しては

「不妊治療の支援をもっと増やそう」「卵子凍結を推進しよう」といった意見もありますが、むしろ卵子凍結や不妊治療を受けなければならない人たちを減らすのが、健全な政策であるはずです。

と否定的な発言をしている。
「生物としての人間」というレベルにもう一度立ち戻って、「みたまのふゆ」式の自然の流れに即した繁殖方法が望ましいということになるだろう。
フランスなど少子化対策の成功した国もあるが、日本文化の特殊性をふまえたうえで、日本なりに少子化に対して、どういうコンセプト・構想で対処するか、さらに模索するべきだ。

ちなみに、英語のconcept(概念・構想)は受胎、妊娠を意味するラテン語のconceptioに由来するという。
硬い抽象語であるにもかかわらず、思念が胎動する様子が生々しくイメージされてくる。