人間は魚のサケのように受精・産卵した後、すぐに死ぬという運命をたどらず、高齢まで生きられるようになったのはなぜだろうか。
難しくいえば、〈人類が生殖年齢を超える寿命を獲得した理由〉ということになるが、過去の医学部入試でもたしか取り上げられたテーマだ。
人類は、遺伝子だけではなく言語という伝達手段を獲得したため、老いても若者に多くの知識を伝えるという重要な役割を担うことができ、種の存続に有利に働くようになったから、と答えるのが無難なところのようだ。
かくして人間社会では「亀の甲より年の劫(こう)」というように、「家老」や「老中」などの長老が重んじられ、おばあちゃんによる子育てサポートは人類の繁栄に大きく影響したとまでいわれている。
ところで、日本のおとぎ話には、「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいて」、生殖年齢を超えたその老夫婦のもとに思いがけず子供が現れ……という話がいくつかある。
この場合、現役世代の「おとうさんとおかあさんがいて」とはならないのが不思議である。
このことについて、遠藤薫氏は「〈生〉と〈死〉のシナジーを求めて――「高齢社会」再考」のなかで
神になる前の老人は、 神の世界と人間の世界の境界に生きる人と崇(あが)められる。
かぐや姫や桃太郎をひろって育てるのが老夫婦であるのも、 おとぎ話の主人公たちが神の国からやってきた者たちであるため、 彼らと人間界とを取り持つのは半聖の資格を得た老人でなければならないためなのである。
と老人に対して好意的に解釈している。
たしかに「おじいさんとおばあさん」は経験豊富で「半聖の資格」をもった人間であろうが、その反面、「そろそろお迎えが来る」ことに砂をかむような味気なさや一抹の不安を感じている者でもあろう。
そんな人間に、神の世界の子であるかぐや姫や桃太郎の後見人役をさせれば、老いを忘れて立派に育ててくれるだろうという思惑が神様にあったに違いない。
こうした事情を察したのかどうかはわからないが、一昨年の冬、さる園芸家から、
「子育ての終わった私たちですが、老いのすさびにバラでも植えて育ててみませんか」
という優しい提案があった。
私は、過去にも現在にも未来にも憂愁を多く抱えているから、諸手を挙げてその案を受け入れ、園芸家の庭での植え付けを手伝うことにした。
植えてから最初の一年は虫に食われて苦杯をなめたが、今年は園芸家の丹精込めた手入れに支えられ、見事に黄色い花を咲かせた。
その名は「いぶき黄太郎」、グラハムトーマスという血筋のしっかりしたイングリッシュローズである。
先日、園芸家の庭を訪れ、黄太郎との再会を果たすことができた。
園芸家は今日咲いたばかりという黄太郎の三輪ほどをこともなげに切り、食卓の上のコップに飾り、私の目を喜ばせた。(写真参照)
咲いている花をその場で切り取り、その場で鑑賞し愛でる――これこそ、「地産地消」ならぬ「地産地賞」というものであろう。
遅ればせながら、最後に「黄太郎」の姓である「いぶき」について少し解説を加えておこう。
『日本書紀』の中で、スサノオの尊と天照大神の「いぶき」(息)から五男神と三女神が生まれたとあるように、じつは生命と深い関係にある語なのだ。
土橋寛『日本語に探る古代信仰』では、次のようにいわれている。
いのちの全(また)けむ人は/畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の/熊白橿(くまかし)が葉を髻華(うず)に挿せ その子
これはヤマトタケルの命が、死を前にして歌ったと伝える三首の歌(『古事記』)の一首であるが、この歌の実体は平群山の歌垣で、老人が若者たちに呼びかけた歌で、生命力の完全なお前たち若者は、平群山の茂った橿の葉を挿頭して、楽しく歌え、踊れ、そして抱かれよ、と勧める歌である。
この場合の「(イノチの)イ」は「イブキ」とも用いられる語で、古代では気息と生命は同一視されていたのである。
どうやら『古事記』の昔から、すでに「おじいさんとおばあさん」の力はいかんなく発揮されていたようだ。
難しくいえば、〈人類が生殖年齢を超える寿命を獲得した理由〉ということになるが、過去の医学部入試でもたしか取り上げられたテーマだ。
人類は、遺伝子だけではなく言語という伝達手段を獲得したため、老いても若者に多くの知識を伝えるという重要な役割を担うことができ、種の存続に有利に働くようになったから、と答えるのが無難なところのようだ。
かくして人間社会では「亀の甲より年の劫(こう)」というように、「家老」や「老中」などの長老が重んじられ、おばあちゃんによる子育てサポートは人類の繁栄に大きく影響したとまでいわれている。
ところで、日本のおとぎ話には、「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいて」、生殖年齢を超えたその老夫婦のもとに思いがけず子供が現れ……という話がいくつかある。
この場合、現役世代の「おとうさんとおかあさんがいて」とはならないのが不思議である。
このことについて、遠藤薫氏は「〈生〉と〈死〉のシナジーを求めて――「高齢社会」再考」のなかで
神になる前の老人は、 神の世界と人間の世界の境界に生きる人と崇(あが)められる。
かぐや姫や桃太郎をひろって育てるのが老夫婦であるのも、 おとぎ話の主人公たちが神の国からやってきた者たちであるため、 彼らと人間界とを取り持つのは半聖の資格を得た老人でなければならないためなのである。
と老人に対して好意的に解釈している。
たしかに「おじいさんとおばあさん」は経験豊富で「半聖の資格」をもった人間であろうが、その反面、「そろそろお迎えが来る」ことに砂をかむような味気なさや一抹の不安を感じている者でもあろう。
そんな人間に、神の世界の子であるかぐや姫や桃太郎の後見人役をさせれば、老いを忘れて立派に育ててくれるだろうという思惑が神様にあったに違いない。
こうした事情を察したのかどうかはわからないが、一昨年の冬、さる園芸家から、
「子育ての終わった私たちですが、老いのすさびにバラでも植えて育ててみませんか」
という優しい提案があった。
私は、過去にも現在にも未来にも憂愁を多く抱えているから、諸手を挙げてその案を受け入れ、園芸家の庭での植え付けを手伝うことにした。
植えてから最初の一年は虫に食われて苦杯をなめたが、今年は園芸家の丹精込めた手入れに支えられ、見事に黄色い花を咲かせた。
その名は「いぶき黄太郎」、グラハムトーマスという血筋のしっかりしたイングリッシュローズである。
先日、園芸家の庭を訪れ、黄太郎との再会を果たすことができた。
園芸家は今日咲いたばかりという黄太郎の三輪ほどをこともなげに切り、食卓の上のコップに飾り、私の目を喜ばせた。(写真参照)
咲いている花をその場で切り取り、その場で鑑賞し愛でる――これこそ、「地産地消」ならぬ「地産地賞」というものであろう。
遅ればせながら、最後に「黄太郎」の姓である「いぶき」について少し解説を加えておこう。
『日本書紀』の中で、スサノオの尊と天照大神の「いぶき」(息)から五男神と三女神が生まれたとあるように、じつは生命と深い関係にある語なのだ。
土橋寛『日本語に探る古代信仰』では、次のようにいわれている。
いのちの全(また)けむ人は/畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の山の/熊白橿(くまかし)が葉を髻華(うず)に挿せ その子
これはヤマトタケルの命が、死を前にして歌ったと伝える三首の歌(『古事記』)の一首であるが、この歌の実体は平群山の歌垣で、老人が若者たちに呼びかけた歌で、生命力の完全なお前たち若者は、平群山の茂った橿の葉を挿頭して、楽しく歌え、踊れ、そして抱かれよ、と勧める歌である。
この場合の「(イノチの)イ」は「イブキ」とも用いられる語で、古代では気息と生命は同一視されていたのである。
どうやら『古事記』の昔から、すでに「おじいさんとおばあさん」の力はいかんなく発揮されていたようだ。