濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

変われば変わるほど変わらないもの

2012-04-30 00:29:47 | Weblog
久しぶりに某大学名誉教授のS先生宅を訪れた。
奥様の訃報に接して、弔問した時以来だが、その時よりはお元気になられた様子で、まずは安心した。
談笑における話題はやはり震災のことに及ぶことになった。
S先生はすでに満八〇歳を迎えた戦中派だから、やはり私などの団塊の世代とは別な見方をしていて、大いに参考になる。
その発言を記憶にある限り再現してみると、概略、次のようになる。

──震災では、戦争の時のように誰も助けに来てくれないというわけではなく、少なくとも自衛隊がすぐに駆けつけた、これにはアメリカも驚いたようだ。
そして、海で行方不明になった者以外の多くは手早く葬られたが、空襲のときは、死体が十日間、なかには一か月もそのままで放置されていた場合もある。
福島の小中学生が教室からいなくなったといっても、それは転校しただけのことで、戦争の時のように、教室からいなくなったことが、そのまま死を意味したというわけではない。
しかも戦争の深刻さは特定の地域だけではなく、日本全体が同じような状況だったのだから、やはり規模が一ケタ違う。
だから、震災だけを取り上げて、それほど騒ぐほどのことではないのではないか。
3・11だけを切り取ってしまうと、歴史を巨視的に展望するための眼を失ってしまうおそれがある。──

ただおろおろと、オーバーアクション気味な反応をしてきた当方としては、何とも耳の痛い言葉である。
体験を絶対化することなく、相対的に眺めるということ、あるいは禅の公案めくが、状況が「変われば変わるほど変わらない」原理的、本質的な面を浮き彫りにすることが大切だということにもなるだろう。

前回に引き続き、原発事故に対する吉本隆明の言葉を引用しておこう。
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根本的には、人間はとうとう自分の皮膚を透過するものを使うようになったということですね。
人間ばかりでなく生物の皮膚や骨を構成する組織を簡単に透過する素粒子や放射線を見出して、物質を細かく解体するまで文明や科学が進んで、そういうものを使わざるを得ないところまできてしまったことが根本の問題だと思います。
それが最初でかつ最後の問題であることを自覚し、確認する必要があると思います。
武器に使うにしても、発電や病気の発見や治療に使うにしても、生き物の組織を平然と通り過ぎる素粒子を使うところまで来たことをよくよく知った方がいい。
そのことを覚悟して、それを利用する方法、その危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するように文明そのものがなってしまった。
素粒子を見つけ出して使い始めた限り、人間はあらゆる知恵を駆使して徹底的に解明してゆかないと大変な事態を招く時代になってしまった。
原子力は危険が伴いますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人間や人類は本当にアウトですね。
俺をどうしてくれるんだと素粒子側から反問されて答えられなければ困るわけで、何とかして答えるようにしなければならない。
心細く言えば、人間は終わりが近づいているくらい悲観的なものですが、でもここまで来たら悲観しても収まりがつくものではないわけで、この道を行くしかないのですね。
(「思想としての3・11」)
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文明や科学がもたらした危険は、文明や科学によって乗り越えていくしかないということ、そうした人類史的な覚悟が明瞭に現れている言葉だと思う。
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宇宙的自然との対話

2012-04-26 17:58:25 | Weblog
遅ればせながら、肌寒かった今年もサクラが咲いたことをまず報告したい。
そして、震災から一年経った被災地でも、無事にサクラが咲いたことを告げられると、改めて「植物的生」のしたたかさを思い知らされた。
そこで、三木成夫の文章を引用しておこう。
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さきにわれわれは、植物が「栄養─生殖」の生を営むため、大地に深く根をおろし、天に向かってそのからだを伸ばしきった、その姿勢について述べた。
それは考えてみれば、体軸を地面に垂直に大地を指向する、すなわち、この地球の球心を貫く力線にみごとに対応した姿に外ならない。
いいかえれば、地球の持つ「形態極性」に、自らの姿勢を従わせているのである。
それだけではない。
かれらはその一方において「栄養─生殖」のリズムを、春から夏にかけての成長繁茂と、夏から秋にかけての開花結実の双極相として表現する。
萌え出る春、夏草、稔りの秋そして冬枯れというこの典型的な生活曲線の中に、われわれは、地球の持つ「運動極性」とみごとに一致した生の姿を見ないでは済まされない。
それは、“自然リズムと生物リズム”のハーモニーのひとつの典型と考えられる。
こうして、植物たちの「生」は、母なる大自然の織りなす色模様の中に時間的にも空間的にも完全に“織り込まれている”ことがうかがわれるであろう。(生命形態学序説)
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ところで日本人は、こうした自然の営みに、これまでほどよく洗脳され、感性的に調和した文化を築き上げてきたと言える。
だが、原発事故以降、放射線や核分裂に代表される「宇宙的自然」に果たしてどう向き合おうとしているのか。
核燃料の残余がたとえ大地に埋められたとしても、その影響は、「“自然リズムと生物リズム”のハーモニー」を超越して何千年と続く、そうした事態を知って、途方に暮れているというのが、一般日本人の正直なところではないかと思われる。

もちろん、私は何もいまさら、安易かつ迎合的な反原発派の発言を繰り返そうとしているわけではない。
むしろ次のような吉本隆明の終戦時の体験をふまえた発言に同調する者だ。

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世の中では時代が変わると政府も変わる、人の考え方も変わる。
それがごく当然なのですが、僕はそれにもの凄く違和感があった。
だから、福島原発事故を取り巻く言論を見ていると、当時と重なって見えてしまうんです。(吉本隆明「週刊新潮」インタビュー)
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ただし、今後も科学と文明の向かう方向に進むしかないとしても、震災によって、手ひどい傷を負ってしまったような気がするのも確かだ。
感性と原理との間を架橋するには、宇宙的自然とのさらなる対話が必要になるのではないか。
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