濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

「家族」という名の患者

2014-06-09 22:49:46 | Weblog
前回の倫ちゃん、フーちゃんの終末期医療について、もう少しこだわってみたい。
先日、久しぶりで医科歯科大の教え子に会ったので、同じ文章を読ませ、感想を聞いたところ、医師たちの行為は立派な医療であるとの返事が返ってきた。
そして、感慨深げにこんな話をしてくれた。
彼の祖父が倒れたとき、無駄な延命治療と知りつつ、祖母たち家族はそれを望み、医師たちも反対はしなかった。
やがて祖父が亡くなったとき、精一杯の治療を尽くしたという思いが祖母の心をどれほど慰め、救うことになったか、というのだ。
患者自身は救えなかったにせよ、家族は救えたというのも、たしかに立派な医療であるに違いない。
〈医師にとっての医療〉、〈患者にとっての医療〉のほかに、第二の患者である〈家族にとっての医療〉もあるはずで、それぞれ別な角度から考えなければなるまい。

やがて短命のうちにこの世を去っていった倫ちゃん、フーちゃんの家族にとっても、みんなで話しかけたり、歌ったりした体験は、つらい記憶の中でかすかな癒しとなって残っていくのではないだろうか。
そうした牧歌的光景もまた、殺伐とした今日の医療現場だからこそ、かえって意義深いと思う。

次は長期脳死の子ども──子どもは脳の状態が大人よりも柔軟性に富んでいて、脳死状態でも成長することさえある──を扱った小松美彦の文章『生を肯定する』の一節である。

私たちは本当は「ただ生きているだけ」に尊厳なるものを感じてしまっているという事態を呼び起こし、その感覚を言葉にしていくことが重要だと思っています。
例えば『長期脳死──娘、有里と生きた一年九ヵ月』を書かれた中村暁美さんがテレビなどで繰り返し述懐しているのは、長期脳死者の「娘は生きる姿を変えただけなんです」ということです。
それは呼吸という一個の生理機能の存在ではなく、ただそこにいるということを体感し、それがその言葉に結晶化しているのだと思います。(中略)
中村さんが「姿を変えただけ」と言うとき、それを感じさせる何かのことをわれわれは「いのち」と呼んできたのだと思います。
その「いのち」とは何かということをそれ以上分節化する必要も科学化する必要もない。


「いのち」は、語源的には息の勢いのことであり、人間の自発的呼吸を前提としている。
だから、人工呼吸器の出現によって、現代人の「いのち」についての見方は大きく揺れ動くことになる。
そうした中で、人工呼吸器の助けを借りてであれ、まだ体が温かく、顔の色つやもよく、「姿を変えただけ」で生きていると感じさせるもの、それが「いのち」だと著者はいう。
そう思い、そう感じるのは、子ども本人でも医師でもなく、子どもと深い絆で結ばれた家族であろう。
だから、このとき、「いのち」は、〈濃密な関係としての「いのち」〉として立ち現れてくるしかない。
やがて「いのち」は喪われても、なお「おもかげ」として長く残されていくことになるのではないだろうか。



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2 コメント

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Unknown (on)
2014-06-09 23:20:10
前回と今回のブログを拝見して、思い出した詩があります。
谷川俊太郎詩集「はだか」に「はな」という詩があるのですが、その一部分です。

にんげんはなにかをしなくてはいけないのか
はなはたださいているだけなのに
それだけでいきているのに


やらなくてはいけないことが山ほど、こうせねばならないと言われる事も山ほどあった時期に、この詩を読んだのですが、「あっ」と一瞬息が止まったのを覚えています。

医療技術が進むにつれ、「いのち」の定義や生と死の境界線の判断が難しくなってきた様ですが、元々はとても単純だったのじゃないでしょうか。

そして、それを愛する気持ちや尊ぶ気持ちも、もっと単純で明快なものであって欲しいと、私は願っています。
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Unknown (Y老師)
2014-06-10 11:12:44
引用の詩も含めて素晴らしいご意見です! 力をつけてきましたね。
花はそもそも植物状態だし、脳なんてないから、永久脳死状態だけど、人の心を誘うのはなぜでしょう。動物特に人間は困ったものです。

動物たちは、いきおい植物のつくりあげた"平和のみのり"にたよらざるを得なくなってくる。すなわち居ながらにして、自分だけでからだを養うことができなくなり、ついに大自然の中から、ただ自分の好みにあった"えさ"だけを見つけ(感覚)、それに向かって動く(運動)という新しい仕事をはじめるのである。
 しかもこの時かれらは、泳ぎ(魚類)、のたうち(爬虫類)、飛び(鳥類)、歩く(哺乳類)という、いずれも地球の重力にさからったひとつの冒険をおかすのであって、あるものは冬の荒野に木の実を求めてさまよい(草食動物)、あるものはこの動物にとびかかり(肉食動物)、あげくのはては仲間に襲いかかる(人類)といったさまざまの方法をあみだすのである。(三木成夫)
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