濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

懐かしい人々

2019-01-31 18:52:02 | Weblog
私事になるが、昨年、ひょんなことから同期会の幹事を引き受けてしまった。
リーダーシップのかけらもない自分には何とも身にそぐわぬ役回りだが、他に担当しようとする懇篤な方も現れないので、「幹事」という名義だけ貸すような気持ちで、しぶしぶ求めに応じることにした。
それでも、多くの方の協力を仰いだおかげで、会は大過なく終わり、まずは、ほっと肩をなでおろしている。
それにしても、なぜ、こんなことになってしまったのか。
振り返れば、もう十年以上も前にもなるだろうか。懐かしさが手伝って同期会の集まりにふらりと顔を出したことが始まりだった。この時の懐かしさは

ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく(石川啄木「一握の砂」)

という人恋しさからであったろう。賑やかな酒場の暖簾を冷やかしぎみにくぐったという気分である。あるいは

気障(きざ)な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思い初めた。(森鴎外「雁」)

といった、軽い心のときめきもそこに含まれていたのかもしれない。
ちなみに、「懐かしい」は「夏」や「なつく」と語源的に同じらしい。
距離が縮まり、温もりが伝わるといったニュアンスがあるように思う。
そのためか、その後は情にほだされて、ズルズルと毎年出席するようになり、現在に至っている。
ところで、懐かしさは過去の自分と現在の自分をつなぎとめ、アイデンティティの安定性を保持するものだとも言われている。
同級生の、それなりに年輪を重ねながらも、どこか昔のあどけない面影を残す姿を見ているうちに、あのときの教室の様子、あのときの自分の生活、あのときの時代の雰囲気までもが自然に思い出されてくる。
そして、過去の自分と今の自分が一列につながっていく。だから、「懐かしさ」の多い人生は、きっと豊かな人生なのだろう。
ところが、こんな思いに冷水を浴びせるような文章に巡り合った。

昔から同窓会というものが嫌いで、何十度となく案内をもらったが、とうとう一度も出なかった。たまたま同じ年に同じ学校にいたというだけで、改めて旧交をあたためるのはヘンテコなことだし、何の必然もないのに集まってワイワイ騒ぐのはコッケイなことだからだ。(池内紀)

たしかに、こうしたクールな見方も十分理解でき、むしろ正論だともいえるのだが、「同じ年に同じ学校にいた」ということだけで、何物にも代え難い深い因縁を感じることがあるのも否定できない。

論語に「温故知新」とある。「故(ふる)きを温(たず)ねる」ばかりで「新しきを知る」ことがなければ、人生は停滞してしまう。
「温故知新」に類する語句には、「来を知らんと欲する者は往を察せよ」がある。
懐古主義の小部屋に閉じこもっていても、ITやAIの嵐に無残な姿をさらすだけになる。
懐かしさに酔いつつ、「来を知らんと欲する」ような進取の気概が必要になるだろう。
今年もやがて同期会の案内が来る。
どんな態度で同級生の仲間に接していくべきか、思案しているところである。

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