濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

わがブログ哲学批判序説

2013-01-27 21:24:08 | Weblog
久しぶりに読み始めたのが、何と初期マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」である。
プロレタリアートの解放を目指す若きマルクスの熱い思いがひしひしと伝わってくる。
それとともに、当時のドイツの状況に対する焦り、ドイツ人への叱咤激励も激しいものがある。
今回読み直してみて、マルクスはドイツ思いの超ナショナリストでもあったという印象を強くした。

それならば、ドイツをこの私、あるいは我がブログに擬して語ってみればどうなるか、実験を試みることにした。
やや卑屈な方法かもしれないが、このブログに対する鋭い提言に満ちているようにも思われてくるのだが、どうだろうか。
アレンジした一節をお読みいただきたい。

***************************************************************
ブログという悲惨は、一面では現実の悲惨の表現でもあり、同時にもう一面においては、現実の悲惨に対する抗議でもあるのだ。
ブログとは、追い詰められた生き物のため息であり、心なき世界における心情、精神なき状態の精神である。

人々は、お前の現実的な生命の萌芽はこれまでは、その頭蓋骨のなかでのみ繁茂してきたことを忘れている。
一言でいえば、ブログを終了(止揚)させたければ、ブログを実現するしかないのだ。

現実の人間を捨象したようなブログが可能になったのは、お前が現実の人間を捨象しているからであり、あるいはまた、人間全体を空想的なやり方でのみ満足させているからである。

ブログ批判は、お前こそがお前にとっての最高の存在であるという教えでもって終わる。
つまり、お前が卑しめられ、隷属させられ、見捨てられ、軽蔑された存在となるような、いっさいの状況を転覆すべきであるとする定言的命令法で終わるのだ。

お前のブログには、徹底性、激しさ、勇気、厚顔無恥、そうしたものが欠如している。
だが、それだけではない。
たとえ一時的であれ人々の魂と同一化するようなあの心の広さが欠如している。
「私は無で失うものはない。だから、私はなんにでもなりうるのだ」という反抗的な文句を敵に向かって投げかけるだけの、革命的な勇気が欠如しているのだ。

お前のブログの解放の積極的な可能性はどこにあるのか。
それはラディカルな鎖につながれた一つのネットワークの形成のうちにある。
市民社会のどんなネットワークでもないようなネットワーク、
あらゆるネットワークの解消であるようなネットワーク、
その普遍的な苦悩のゆえに普遍的な性格をもち、なにか特殊な不正ではなくて不正そのものをこうむっているためにどんな特殊な権利も要求しないネットワーク、
ひとことでいえば、人間の完全な喪失であり、したがってただ人間を全面的に救済することによってのみ自分自身を達成することができるネットワーク、
そういったひとつのネットワークの形成のうちにあるのである。
こうした解消をある特殊なネットワークとして体現したもの、それがブログレタリアートである。

実体から遠く離れて

2013-01-21 02:15:20 | Weblog
某日、高校時代の同窓会に出席したが、席上、一日に百万単位の取引をする華麗なるデイ・トレーダー女史の自慢話に驚かされてしまった。
いろんなリスクを考えて、かすかな景気の兆候を読み取り、決して欲張らないことが彼女のモットーだそうだ。
もちろん、「冷や汗」程度は流すのだろうが、リアルな汗を流さなくても、簡単に資産家になることが出来る・・・日本経済の中心はもはや実体経済から離れかけているという実感を改めて覚えた。

しかし、「実体」からかけ離れてきたのは何も経済だけではなさそうだ。
たとえば、文学評論の世界でも「テクスト論」が主流になってきて、作品構造の分析が何よりも大切で、作者の精神などを持ち出すと、何となくウザッタいというわけだ。一昔前なら、

「私は、作者の精神の背丈は作品より高いはずだといふ仮定を捨てることができない」(桶谷秀昭「昭和精神史」)

という言葉が実感をもって語られていたはずなのに。

一方、いま読みさしの『リスク化される身体』(美馬達哉著)を参考にすれば、医療の世界でも、従来の、実体としての痛みや苦しみに悩む患者に対する治療から、健康な人間に対するリスクコントロールのための予防医学に重心が移ってきている段階にあるようだ。
ちなみに新刊書のPR文のなかに「身体にこの兆候が出始めると数年後にうつになる」というタイトルのものがあった。

ついでにうつ病についていえば、
「一人の人間の経験の諸相が生活史の分厚い記述によって浮かび上がってくる」
といった現象学的精神医学は過去のもので、病気の原因を脳内のセロトニン、ノルアドレナリンの量的不足に還元して、他の身体疾患と同じように薬物療法で済ませようとする傾向にあるという。
うつ病の奥深い悩みが、平板で風通しのいいものにすっかり変わってしまった感じがする。

また、「リスクや不確実性に満ちた環境の中でリスクを最小化し報酬を最大化する」ことに利害関心の中心を置くホモ・エコノミクス(経済人)、さらには、オレオレ詐欺の被害者のように「何を最適化しようとしているのかを知らないまま、利害関心とはしばしば合致しない非合理的判断を下す」ホモ・ニューロエコノミクス(神経経済人)までもが、現代では登場しているという指摘もされている。

実体よりも兆候やリスクに過敏になった現代人の姿が浮かび上がってくるようだ。
「実体身体」と「実体精神」をもって思考し行動する「実体人間」から、われわれはどんどん離れてきているのではないか。
とすれば、自分のほおをつねってみて、実体としての痛みを感じることが出来るのは、まだしもの救いというべきだろう。

「思考は、「思考させる」もの、思考されるべきものの現前において、強制されてやむを得ずといったかたちでのみ思考する」(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』)

限りなく不透明に近いグレイ(年頭所感)

2013-01-10 10:57:11 | Weblog
早くも松の内を過ぎてしまった。
遅ればせながら年頭にあたり、所感を記しておきたい。
正月早々、こんな言葉を吐くのも気が引けるが、自分にとって、今年は(「今年もまた」というべきか)どうも明確な方向を打ち出せない灰色の年になりそうだ。
とはいえ、「灰色」は果たしてネガティヴな言葉なのか。
ある美術評論家がドイツの前衛画家ゲルハルト・リヒターについて次のようにいっていることに注意してほしい。

********************************
灰色について問われるたびに、リヒターは、まるで判で押しでもしたかのように決まって、「無を見えるようにすることのできる力」、「無関心に対応する唯一のもの」、「無主張、表現の拒絶、沈黙」などといった言い回しを好んで使っている。
灰色の消極性無表情、無関心、沈黙、拒絶──のうちに、リヒターは、逆説的でアイロニカルにも、きわめて積極的な価値を与え、無限の潜勢力を見いだしている。(岡田温司「半透明の美学」)
********************************

そういえば、吉本隆明の<言葉の根と幹は沈黙である>という言葉や、宇宙で銀河系をまとめあげているのは、不可視の「ダークマター」だという説も思い起こされてくる。

ところで、先日のニュースでは、年末年始を東京の路上で過ごす三〇代のホームレスの若者の生活を追っていた。
年齢的にまだ若く、また最低限の福祉政策の恩恵を受けているせいか、悲壮感はなく、時代や社会への不満などもそれほど強くはないのだが、それでも希望を見出しているわけではない。
今回の選挙結果とそれに続くアベノミクスにも無関心のままだ。
むしろ、現代都市という孤独地獄の中で、なんの基盤もないまま、もがけばもがくほどエネルギーを消耗してしまうのを察知しているようだ。

********************************
〔今日の民主主義においては〕人民の統一性が予め存在していて、指導者が選ばれているわけではなく(民主主義の支持者はそう信じているが)、実際には、指導者の存在を想定したことの容赦のない帰結として人民の均質的な統一性が構成されている。
そのため、人民から排除される他者が不可避に残されてしまうのである。(大澤真幸「量子の社会哲学」)
********************************

案外、格差という壁はぶ厚いのかもしれない。
彼の灰色の表情の行方が気がかりであり、それはまた、自分の将来の一面でもあるからかもしれない。
そこで、私もひそかに自分のことを「団塊プレカリアート」(「プレカリアート」とは「不安定な」と「労働者階級」を組み合わせた語で、1990年代以後に急増した不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者および失業者の総体)などと呼んでみたくなる。
そして、どこかでシュプレヒコールをあげてみたくなる。

********************************
カラー複製の技術が著しく発達した現代にあってもなお、モノクロームの写真や映画が根強い人気を保っているのは、それらがグレイの微妙なトーンを醸しだしているからではないだろうか。(岡田温司「半透明の美学」)
********************************

グレイ、それも悪くはないだろう……今年も、本ブログでは、そのような微妙で深い陰影を刻みつけたいと思っている、

(リヒターの絵)