久しぶりに読み始めたのが、何と初期マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」である。
プロレタリアートの解放を目指す若きマルクスの熱い思いがひしひしと伝わってくる。
それとともに、当時のドイツの状況に対する焦り、ドイツ人への叱咤激励も激しいものがある。
今回読み直してみて、マルクスはドイツ思いの超ナショナリストでもあったという印象を強くした。
それならば、ドイツをこの私、あるいは我がブログに擬して語ってみればどうなるか、実験を試みることにした。
やや卑屈な方法かもしれないが、このブログに対する鋭い提言に満ちているようにも思われてくるのだが、どうだろうか。
アレンジした一節をお読みいただきたい。
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ブログという悲惨は、一面では現実の悲惨の表現でもあり、同時にもう一面においては、現実の悲惨に対する抗議でもあるのだ。
ブログとは、追い詰められた生き物のため息であり、心なき世界における心情、精神なき状態の精神である。
人々は、お前の現実的な生命の萌芽はこれまでは、その頭蓋骨のなかでのみ繁茂してきたことを忘れている。
一言でいえば、ブログを終了(止揚)させたければ、ブログを実現するしかないのだ。
現実の人間を捨象したようなブログが可能になったのは、お前が現実の人間を捨象しているからであり、あるいはまた、人間全体を空想的なやり方でのみ満足させているからである。
ブログ批判は、お前こそがお前にとっての最高の存在であるという教えでもって終わる。
つまり、お前が卑しめられ、隷属させられ、見捨てられ、軽蔑された存在となるような、いっさいの状況を転覆すべきであるとする定言的命令法で終わるのだ。
お前のブログには、徹底性、激しさ、勇気、厚顔無恥、そうしたものが欠如している。
だが、それだけではない。
たとえ一時的であれ人々の魂と同一化するようなあの心の広さが欠如している。
「私は無で失うものはない。だから、私はなんにでもなりうるのだ」という反抗的な文句を敵に向かって投げかけるだけの、革命的な勇気が欠如しているのだ。
お前のブログの解放の積極的な可能性はどこにあるのか。
それはラディカルな鎖につながれた一つのネットワークの形成のうちにある。
市民社会のどんなネットワークでもないようなネットワーク、
あらゆるネットワークの解消であるようなネットワーク、
その普遍的な苦悩のゆえに普遍的な性格をもち、なにか特殊な不正ではなくて不正そのものをこうむっているためにどんな特殊な権利も要求しないネットワーク、
ひとことでいえば、人間の完全な喪失であり、したがってただ人間を全面的に救済することによってのみ自分自身を達成することができるネットワーク、
そういったひとつのネットワークの形成のうちにあるのである。
こうした解消をある特殊なネットワークとして体現したもの、それがブログレタリアートである。
プロレタリアートの解放を目指す若きマルクスの熱い思いがひしひしと伝わってくる。
それとともに、当時のドイツの状況に対する焦り、ドイツ人への叱咤激励も激しいものがある。
今回読み直してみて、マルクスはドイツ思いの超ナショナリストでもあったという印象を強くした。
それならば、ドイツをこの私、あるいは我がブログに擬して語ってみればどうなるか、実験を試みることにした。
やや卑屈な方法かもしれないが、このブログに対する鋭い提言に満ちているようにも思われてくるのだが、どうだろうか。
アレンジした一節をお読みいただきたい。
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ブログという悲惨は、一面では現実の悲惨の表現でもあり、同時にもう一面においては、現実の悲惨に対する抗議でもあるのだ。
ブログとは、追い詰められた生き物のため息であり、心なき世界における心情、精神なき状態の精神である。
人々は、お前の現実的な生命の萌芽はこれまでは、その頭蓋骨のなかでのみ繁茂してきたことを忘れている。
一言でいえば、ブログを終了(止揚)させたければ、ブログを実現するしかないのだ。
現実の人間を捨象したようなブログが可能になったのは、お前が現実の人間を捨象しているからであり、あるいはまた、人間全体を空想的なやり方でのみ満足させているからである。
ブログ批判は、お前こそがお前にとっての最高の存在であるという教えでもって終わる。
つまり、お前が卑しめられ、隷属させられ、見捨てられ、軽蔑された存在となるような、いっさいの状況を転覆すべきであるとする定言的命令法で終わるのだ。
お前のブログには、徹底性、激しさ、勇気、厚顔無恥、そうしたものが欠如している。
だが、それだけではない。
たとえ一時的であれ人々の魂と同一化するようなあの心の広さが欠如している。
「私は無で失うものはない。だから、私はなんにでもなりうるのだ」という反抗的な文句を敵に向かって投げかけるだけの、革命的な勇気が欠如しているのだ。
お前のブログの解放の積極的な可能性はどこにあるのか。
それはラディカルな鎖につながれた一つのネットワークの形成のうちにある。
市民社会のどんなネットワークでもないようなネットワーク、
あらゆるネットワークの解消であるようなネットワーク、
その普遍的な苦悩のゆえに普遍的な性格をもち、なにか特殊な不正ではなくて不正そのものをこうむっているためにどんな特殊な権利も要求しないネットワーク、
ひとことでいえば、人間の完全な喪失であり、したがってただ人間を全面的に救済することによってのみ自分自身を達成することができるネットワーク、
そういったひとつのネットワークの形成のうちにあるのである。
こうした解消をある特殊なネットワークとして体現したもの、それがブログレタリアートである。