濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

終わりと始まりの間

2012-03-30 00:09:24 | Weblog
震災・原発事故の後遺症のせいか、これまでの自分がどうも生物的感傷主義といったものに陥っていたように思えてきた。
つまり、地球における生態系はどんなことがあっても死守すべきであり、人間の努力でそれは可能だという考えを疑ってこなかったのだ。
だが、自然はそんなに甘くはない。
最近は、そうしたことをディスカバリーチャンネルの番組から多く学ばされている。
現在シリーズとして放映されているのは、「地球の最期」というもの。
おりしも、今年はマヤ文明の想定した人類滅亡説の年に当たるという。
これまで、小惑星の衝突、氷河期の到来、火山の爆発、大地震、放射線などによって、地球とそこに住む生物の運命はたやすく翻弄されてきたし、今後も翻弄されていくのだろう。
いずれも宇宙視線から眺めれば、「想定内」の出来事として考えた方が良さそうだ。
これは単なるペシミズムではない。
そうした覚悟で生きた方が、「星の子」である人間として理にかなっており、精神的に安定するというものだ。

しかしながら、ここまではあくまでクールな「科学的認識」で、一方の「人間的認識」というものもやはり根強く残っている。
唐突ながら、ここで実存主義の哲学者ハイデガーとその教え子だったハンナ・アーレント(写真)とを比較した文章を引用しておこう。


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ハイデガーは、死すべき可能性をつねにすでに抱えながら生きているわれわれのあり方のことを、「終わりへの存在」というふうに術語化した。
死という未了の終わりを内蔵していることで全体性が構成されているような、そのつどのわれわれの終末論的な生が、そう表示されたのである。
これに対して、アーレントにおいては、何か新しいことを巻き起こす可能性をいつもはらんでいる実存の「誕生的性格」──「始まりへの存在」──が、問題の中心となる。
生きているかぎりわれわれは、新しい始まりを突発させることへと不断にさしかけられている、というのである。(森一郎「死と誕生」)
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第2次世界大戦で亡命したアーレントの考えに従えば、人間はどんな状況でも、悔い改めて、新しい人生を切り開くことができる存在だということになる。
深い絶望に陥っている者、自信を失っている者にとっては、いくぶんかの希望が与えられる考えではないだろうか。

こんなことを考えていたところ、朝日新聞の論壇時評で、山内明美の論考「〈東北〉が、はじまりの場所になればいい」が取り上げられていた。
論考は読んでいないが、いかにも東北の女性らしいしなやかでしたたかな生命力が垣間見えてくるようだ。
ちなみに、インターネットから彼女の発言を拾ってみた。

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東北という多様に広がる土地を、ひとくくりにできようもない。
そして、〈東北〉という場所を、どこかの限られた一地域に限定もしない。
東京にも〈東北〉があり、東北の中にも、さらなる〈東北〉がある。
絶後の困難の中で、東北は、止揚の場所になれるだろうか。
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「死んでもいのちがある」ということ

2012-03-18 16:59:31 | Weblog
市井の思想人であり続けた吉本隆明氏が逝去した。
「死ねば死にきり。自然は水際立っている」という高村光太郎の言葉が好きだと言い、また、おしゃべりがやんだら死んでいたというマルクスの死に方(伝説)が理想だと言っていたが、臨死体験後の晩年には、老残の身からのなまなましい言葉を発していたようにも思われる。
その一節を引用しておこう。

 白内障で目もよく見えない。ほかにも前立腺肥大や高血糖などで、ボロボロの状態です。
「老いる」ことと「衰える」ことは意味が違いますが、こんな状況になったときには、死にたくなっちゃうんですよ。
年を取って、精神状態がある軌道に入ると、なかなか抜け出せないのです。
僕は死のうとか、自殺しようとまではいきませんでしたが、「これは生きている意味がないんじゃないか」ということは、ものすごく考えましたね。
ある時期は、そればかりを考えていました。これでは生きているとは言えないよなと。
結局は、その状態を自分自身で承認するほかないのです。
自然の「老い」に逆らうというのが、唯一の方法です。
逆らって、逆らって、それで勝つかと言ったら、負けるに決まっているのです。
負けるに決まっているんだけど、それでも逆らう。
いまの僕の実感と心境はそういうものです。
「おまえ、そんなにまでして生きていたいのか」と言われるかもしれませんが、そういうことではないんです。
何かに執着があるからということではなくて、もうそれ以外に手がない、道はないのです。
毎日そう考えて暮らしております。(「人生とは何か」)

高齢で生き延びた被災者の心境までもが想起されてくる内容だが、吉本氏の足跡や思想についてはさまざまに語られ、今後もさまざまに論じられるはずだから、これ以上特に付け加えようとも思わない。
また、つまらない感慨も控えておこう。
ただ、氏が晩年に高く評価していた解剖学者三木成夫の講演の一節を、手向けの言葉としたい。

われわれがなにごころなく自然に向かった時、そこでわれわれの五感に入ってくるものは諸形象すなわち、もろもろの“すがたかたち”であろう。
路傍の石ころを目にしても、小川のせせらぎを耳にしても、秋のけはいを肌で感じても、そこにあるものは例外なく、この“すがたかたち”であり、それらはことごとく生きた表情でわれわれに語りかけてくる。
これに対し、われわれがある思惑をもって自然に対した時、そこでは無生の“しかけしくみ”しか問題になってこない。
例えば解剖学的に涙を考えた時、分泌の伝導路だけで頭がいっぱいになるように……。(中略)
以上で「生命」とは、生活の中にではなく、森羅万象の“すがたかたち”の中に宿るものであることが解明された。
したがって、ある人間の持つ“すがたかたち”の強烈な印象がひとの心に深く刻み込まれた時、その人間の「生命」は生活を終えた死後もなお、脈々としてひとの心に波うち、消え去ることがない。
そこでは“死んでもいのちがある”ことになる。(三木成夫「人間生命の誕生」)

息はしてませんが生きてます

2012-03-05 09:58:48 | Weblog
NHKスペシャル「原発事故、100時間の記録」を見た。
番組中、福島の双葉厚生病院の看護部長がインタビューに応じ、原発事故の後、すでに死んでしまった患者をヘリコプターで避難搬送させようとしたときの、

「生きてますって言いました。息はしてませんが生きてますって。隊長の方はハッとしたようだけど『わかりました』と乗せてくれました」

という救急隊長に告げた言葉が印象に残った。

震災と原発事故の影響で、十分な治療も家族の看取りもできないまま死んだ患者に対するいたわりを含んだ発言であり、一般的に言い換えれば「死にましたが、まだ弔いをしていません」というニュアンスだろう。
死に対する看護部長のこうした気転の利いた、慈しみに満ちた発言が許されるのは、やはり死というものが、本質的に周囲の判断、了解によるものだからだ。
どの時点で死とするかは、他者の恣意的な判断によるしかない。
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「死は多様なものであり、時間の中に分散しているものである。
それを起点として、時間が停止し、逆転するというような、かの絶対的、特権的時点ではない。」
(ミシェル・フーコー「臨床医学の誕生」)
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ところで、私は看護部長の言葉から、自発呼吸の消失と脳死判定のことをついつい考えてしまった。
脳死者もまた「息はしてませんが生きてます」という状態に近い場合があると想像されるからだ。
フーコーは先の書で次のように述べている。
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病気とは一つの生命なのであり、病は生命そのものと連絡しているもので、生命を養いとし、「すべてが互いに連続しあい、つながりあい、むすびつきあう相互的な関係」に参与する。
病はもはや一つの出来事ではなく、また外から移入された自然でもない。
それはある屈折した機能において変化して行く生命なのである。......たとえば結節の生命があり、癌の生命がある。炎症の生命がある。......したがって、生命を攻撃する病という概念を廃止して、その代りに病理的生命という、ずっと密度の高い概念を採用すべきである。
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とすれば、「息をしていない」患者は、「病理的生命」を持ち続けていたというべきだろう。
ただし、その一方で「息をしていない」ことに伴う「死化」が始まる。
再びフーコーの主張を引用しよう。
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たとえば炎症による発赤は、血液循環の停止後は、極めてすみやかに消失する。
もろもろの自然運動(心臓の搏動、淋巴液流出、呼吸)の停止は、それ自体でいろいろな結果を惹起するから、病理的な諸要素を、これと分離することは容易ではない。
脳の充血と、それにつづく急速な軟化は、病的な充血の結果なのか、それとも死によって血液循環が中断された結果なのか……
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「病理的生命」の持続と「死化」の進行、まるで量子力学的な「重なり合い」を思い起こすような状態になっている!
これこそが「息はしてませんが生きてます」という言葉にリアリティを与えているものだと思われるが、どうだろうか。