濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

カズオ・イシグロあるいは「信頼できない語り手」1

2017-10-27 21:02:13 | Weblog
最近、文学に造詣の深い二人の貴婦人から、カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞を受賞したことを喜ぶ言葉を立て続けにうかがった。
残念ながら、私は、カズオ・イシグロの『私を離さないで』をもっぱらSFエンターテインメント風に、つまり帚木蓬生『臓器農場』やフィリップ・K ・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などと同じような感覚でストーリーを追うに任せて読んだだけだから、ノーベル賞のニュースを聞いたときには、やや意外な感があった。
それでも、お二人の方の言葉につられて、改めてネットでイシグロ作品についてのコメントを読み、以前放映されたテレビ番組の特集を見るうちに、半可通のそしりを受けるのを承知で、彼について一言述べてみたくなった。

さて、カズオ・イシグロの作品が、「信頼できない語り手」(Unreliable Narrator)――語り手自身が自分の人生や自分を取り囲む世界についてかならずしも真実を語っていない――という手法を用いた例として、よく取り上げられていることを初めて知った。
「『日の名残り』などで、自分の人生や価値観を危うくするような過去の記憶から逃げている等、記憶を操作していたり記憶があいまいだったりする一人称の語り手を登場させ、最後には語り手が記憶と事実のずれに直面せざるを得なくなるような物語を多く書いている(wikipediaによる)」という。
さらに、この「信頼できない語り手」の他の例として、芥川龍之介の『地獄変』を挙げる「サバ通信」というブログまで見つかった。
そこで少し『地獄変』に目を移してみると、その語り手は堀川の大殿様に仕える者であるが、堀川の大殿様が絵師の良秀に娘の焼殺に立ち会わせたときのことを、次のように述べている。

大殿様が車を御焼きになった事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろいろな批判を致すものもおったようでございます。まず第一に何故大殿様が良秀の娘を御焼き殺しなすったか、――これは、かなわぬ恋の恨みからなすったのだと云う噂が、一番多うございました。が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲らす御心算(おつもり)だったのに相違ございません。現に私は、大殿様が御口ずからそう仰有(おつしや)るのを伺った事さえございます。

たしかに「大殿様の思召し」をそのまま信じる語り手の言葉は、筆者(芥川)の考えを代弁しているとは言いがたいだろう。そして、この一節が、『日の名残り』の執事スティーブンスの

今日、ダーリントン卿についていろいろなことが言われております。卿の行動の動機について、愚にもつかない憶測がしきりに――あまりにもしきりに――飛び交っております。(中略)後年、卿の歩まれた道がどのように曲がりくねったものであったにせよ、卿のあらゆる行動の根幹に「この世に正義を」見たいという真摯な願いがあったことを、私は一度も疑ったことはありません。

という述懐と酷似していると「サバ通信」は指摘しているのだ。
果たして『地獄変』の影響があったかどうかはともあれ、「信頼できない語り手」というレッテルについて、イシグロ自身はどう考えているのか、インタビューで次のように答えている。

私は、自分自身が現実的だと感じるかたち、つまり、たいていの人が、自分の体験について語るとき普通にやっているように語り手を描いているだけです。というのは、人生で重要な時期を振り返って説明を求められたとしたら、誰でも「信頼できなく」なりがちです。それが人間の性というものです。人は、自分自身に対しても「信頼できない」ものです。というか、ことに自分に対してそうではないでしょうか。私は「信頼できない語り手」を文芸的なテクニックだとは思っていません。(文責 渡辺由佳里 在米エッセイスト)


ここに至って、私もまた、自分自身に対して「信頼できない」人間であるという自覚において、イシグロの考え方にようやく共感することができた。(2に続く)


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